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44 仕事に集中出来そうで出来ない時間

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一課に戻ると鍵を借りたときとほぼ同じ状況のまま何人かの社員がパソコンと睨み合っていた。

課長も集中しているようで、入って来た私に対して顔を上げることすらしなかった。

さすがは鬼課長。

あんなことがあった後なのに全く動じた様子もなく淡々と仕事をしていらっしゃる。

呆れる反面、それでこそ課長だと安心している自分もいた。

みんなの仕事の邪魔にならないように静かに自分のデスクに戻って仕事を再会する。

はじめのうちは調子よく作業が出来ていたのだが、不意に課長の姿が目に入れてしまったのが失敗だった。つい、映像資料室でのやり取りを思い浮かべて、課長の発言の一つをはっきりと思い出してしまった。



四角関係の矢印は全部私に向いていた――ってことは、

課長は今でも私のことを――――



そう考えると体が瞬間湯沸かし器のごとく熱くなった。

駄目だ駄目だ、今は仕事に集中しなきゃっ。

私は余計な考えを振り払うために、両方の頬を掌でパチンと叩いて邪念を振り払った。




それから1時間ほど経過して良也が一課に顔を出した。

「……ちょっといいか」

バツが悪そうに首の後ろを掻く良也に素直に従って廊下に出た。

そこには木野さんも待っていて、二人並んで私の前に立った。

「とりあえず、お前らの事抜きにしてもう少しの間ちゃんと向き合ってみることにした」

二つの鍵を差し出した良也の目は気まずそうに逸らされたままだったけれど、木野さんの方は泣き腫らしたのが丸わかりの腫れぼったいも目元をしつつ、どこかすっきりした表情をしている。

下手に掛ける言葉が思い浮かばなかったので、私は「そっか」とだけ返して鍵を受け取った。

様々な事情からすれ違っていた二人だけど、きっとこれからの時間で本当の気持ちをしっかり確認してくれるだろう。

結果がどうなるかは分からない。

今回の経験で一癖も二癖もある二人だとわかってしまったし。

それでも二人にとって今までよりかは幾分かマシな未来が待っているだろう。

そんな事をしんみりと考えていると、今度はやたらと大げさな身振りで腰に両手を添えた良也がこれ見よがしな溜息を吐いてきた。

「ていうか、俺が馬鹿だった。ちょっと、いや、かなり意地になってた。考えてみればあんな完璧な癖におっかない相手を敵に回して俺がどうこう出来るはずもなかった」

敵とはどういう事だと思いつつ、突然先ほどまで控えめだった声のボリュームが上がったことを私は訝しむ。そして次に続いた台詞で心境が一変させられる。

「お前の課長マジで怖え。特にエントランスで叱られた時がヤバかった。陸が居なくなった後
、あの人俺に何て凄んだと思う? 『二人の間のいざこざにとって俺は第三者だが、川瀬が迷惑に思っているなら話は別だ。これ以上アイツに余計なちょっかいを出すな。これは上司としての忠告だけじゃないからな』って。小声ではあったけど、迫力がヤクザ並だった……。まぁ、俺はその忠告がかっこよ過ぎて、逆に焦って意地になっちゃったんだけど。でもって、普段は眼中にないってくらいこっちの存在を無視するくせに、一瞬でも目が合うと仕事中でも鬼の如く睨まれたり、氷のような目で蔑むように見下されたり。おまけにここのところずっと外回りばっかで会社に居ないわ、帰ってきてもデスクに齧り付いてるわであの人とあんまり絡んでなかっただろ? 榊課長、由香里に仕事の前後の時間を取られるし、日に日に俺に対する怒りのオーラが増していってマジで殺されるかと思った」

「えっ?」

「私も繰り返しになりますが、本当にすみませんでした。営業部に配属されて以降意地になって、川瀬先輩と榊課長の接点がなくなるように意識して仕事の話を聞きに行ってた部分もあるんです……。そんな中でも榊課長は川瀬先輩のこと凄く気にしてました。ふとした時にどこ見てるのかなぁと思うと川瀬さんの事見てる事多かったし、私に笑いかけてくれる時は殆ど川瀬さんが関わった話題の時でしたし。あと、この前偶然残業時に三人になったとき。川瀬先輩が帰った後、課長の機嫌を取ろうと思って明るく話しかけたんですけど、何を言っても上の空って感じで。あれは、明らかに川瀬先輩の事考えてたと思います」

「えっ……」

良也とのエントランスでのことも木野さんと三人だけになった残業時のことも、どちらも私にとって痛い出来事だった。

打ちのめされた気持ちになって一人で随分落ち込んだ。

でも、課長はあれらの時、私の事を気にしてくれていた?

「散々邪魔して悪かった。……俺も改めて色々とごめん。とにかくヤバいくらい恐かったから、俺はもうあの人の視界に入らないように大人しく過ごす。じゃ」

「本当にいろいろ申し訳ありませんでした! では」

「えっ、ちょっと待っ――」

私が何を言うより先に言いたいことだけ言って、立ち去ってしまった二人。

廊下に一人残された私は告げられた事実を頭で反芻する。

私はまた瞬間湯沸かし器になった。それまで何を言われてもからかわれていると流していたのに、今はそれが出来ない。馬鹿みたいに真に受けてしまう。

でもって、どうしようもないくらい嬉しい。

素直にそう思える自分がくすぐったい。

やばい、口がニヤけるっ。

私はその場で顔を覆って、少しばかりジタバタと脚を動かす。熱くなった体温をどうにか下げようと、無駄に廊下を歩き回る。偶々、一課から出てきた先輩社員に見咎められてやっと正気を取り戻した時には、握りしめていた二つの鍵へ完全に掌と同じ温度になっていた。
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