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35 朝一の憂鬱

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予想外の木野さんの気迫に呑まれた翌朝。

私は鬱々とした気分で会社のメインエントランスに足を踏み入れた。

思いのほか真剣だった相手を甘く見ていた自分に対する嫌悪感。

その相手に常に目標として見られるプレッシャー。

さらに彼女と良也の微妙な関係に片足どころかほぼ両足が巻き込まれている自分。

同時に渦中の人である課長と自分との曖昧な距離。

事態は予想を遥かに超えて重くなり、私にどっしりとのし掛かってきている。

ああ、どうしたものか。

色々な方向に飛び散るまとまらない考えに意識が散漫状態。

そんなときに、最も聞きたくない声。

「よっ、おはよう陸」

「……杉浦」

普段だったら無視するところだったが、昨日の今日で木野さんのことがチラつく頭では非難の言葉の一つも浴びせたくなった。

ただ私が何を言うより先に、良也が性懲りもなく私の神経を逆撫でする。

「やっぱり、朝一でお前の顔見ると頑張ろうって気分になるわ。陸も前はエントランスで朝会うと凄く嬉しい顔してたよな。ほら、思い出してみろよ。やっぱりあの頃みたいに――」

「馬鹿なこと言わないで!!」

昨日木野さんを前にして出なかった言葉が滑るように出てきた。

行き場のないモヤモヤを発散するが如く、思った以上に大きな声が出た。

しまったと思った時にはエントランスにいた社員が何事かと何人も振り返るのがわかった。

「何だよ、朝っぱらからいつもに増して機嫌悪いな」

私の声に多少は驚きつつもいつものペースを崩さない良也。

増々私の機嫌は急降下するが、もう同じミスは犯さない。

「あんたが馬鹿なこと言うからよ。さっさとどっか行って」

声を極力抑え、先へと進む歩調を速める。

「どうせ行く階は一緒だろ」

気軽な様子でそのまま横についてくる良也。

イライラする。

そんな感情が隠せないと自覚したときだった。

「あっ、糸くずついてるぞ」

「!!」

横から伸びてきた手が私の襟元に触れる。

それだけのことだった。

だけれど、張り詰めていた私の神経はそれを敏感に、そして悪い方に察知した。

「何すんだよ!」

気がついたときには反射的にその腕を勢いよく払い除けていた。恐らく痛みを伴った良也は腕をもう片方の手で押さえつつ怒った声を張り上げた。再び周囲の視線が集まる。

「ご、ごめん」

さすがに不味いと思い謝罪を入れるが、良也の怒りは治まらなかった。

「こっちは親切でゴミを取ってやろうとしただけなのに、なんだよその態度! それにこっちが明るく声掛けてやってるのに明らかに悪し様にして、何様だよ!」

「だからごめんって」

後半部分については自業自得だと反論したくなったが、そんなことを言っている場合ではない。

興奮した良也は周囲の目を全く気にせず私に向かって来る。

「そもそも陸の態度が気に食わない! こっちは話をしようとしてるだけなのに汚いもんを見るような扱いしてきて、営業一課だからって自分の方が偉いとでも思ってるのかよ!」

「そんなこと誰も言ってないでしょっ」

「言ってるようなもんだろ! 皆が営業一課だの榊課長だのなんだのってはやし立てて。陸も三年目にして等々エリートのお高いプライドでも身に着けたのかよ! 昔のお前はもっと――」

「いい加減にして!」

抑え込もうとしていた怒りの方が振り切って、私自身も再び大声を上げて良也を制する。

何で私が朝っぱらからこんな目に遭わなくてはならないのか。

昨日から散々だ。

私を巻き込まないでくれ。

冷静ではない感情が頭を駆け抜けていたときだった――。

「そこ、何をしている」

どこまでも冷静で、だけど底冷えするような声。

声を張り上げているわけでもないのに、その声は広いエントランス中に響いた。その上に先ほどまで好奇心の方が強かったであろう周囲の空気も一緒に凍り付かせる。

まだ、その姿は視界に入らない。

けれども、それが誰の声なのかなどという事は顔を見なくても分かってしまった。

いろんなことが恐ろしくてその場から1ミリたりとも体が動かせない。

同時に興奮して上がった体温はこれでもかというほど冷えていき、冗談抜きで震えそうだった。

「……榊課長」

私ほど課長の怖さを知らない良也は背を丸めながらも、声の方へと向き直る。

私にはそれが出来なかった。

「仕事が始まる前だっていうのに、公衆の面前で騒ぎ立てて恥ずかしくないのか」

叱られたから返事をするべきだ。けれども、一番見られたくない人に見られたという感情が何よりも先に立ち、いつの間にか俯いていた顔を上げる事すら出来ない。

対して良也はまだ興奮が収まらないのか噛みつくように声を張る。

「失礼しました。以後気を付けます。でも、榊課長には関係ないの話なんで」

敵意をむき出しにした遠慮のない物言い。

相手が相手なので声が若干引きつっているものの、一課の社員だったら絶対に有り得ない強気な態度。

周囲の視線が状況に凍り付きながらもこちらの様子を窺っているのを肌で感じた。

どうしよう。

唇を噛みしめて回転しない頭で自分が何をするべきか考える。

でも、考えがまとまる前に終止符は課長によって打たれた。

「確かに二人の間のいざこざと俺は関係ない。だが、見苦しいことに変わりはないし、社の風紀を乱す行為であることは間違いない」

――関係ない。

その言葉に地面に縫い付けられていた視線を上げた。

そして見えたのは眉を顰めて私”を見下ろしている課長だった。

「一社会人として恥ずかしい真似をお前がするな」

「――も、申し訳ありませんでした」

無意識に唇から漏れたのは仕事で言い慣れた謝罪の言葉。

良也ではなく私が咎められている。

自分の部下が公衆の面前で情けない真似をするな、と。

そう分かっていてその通りだと思っているのに、頭を下げる事が出来なかった。

課長が私達を注意したということは、少なからず二人の間のやり取りを聞いていたという事だ。

自分がイライラしていたことは認める。

けれども、馬鹿な事をしつこく何度も繰り返す良也の方に否があるのではないのか。

そもそも課長は社員旅行での私たちのやり取りを知っている訳で、私と良也の今の状況を少なからず認識しているはずで……。

なのに、私が怒られる?

いや、それはいい。課長は直属の部下である私が問題を起こせば叱るのが仕事でもあるのだ。

でも、

――関係ないの?

私が黙りこくって見上げていると、課長はさらに何か言おうとして口を開きかけた。

――いやだ。もう、聞きたくない。

「おっお騒がせして申し訳ありませんでした! 頭を冷やすために階段で上がります! ではっ」

「川瀬?」

失礼がないように、申し訳程度に頭を下げて直ぐに背中を向ける。名前を呼ばれたが、振り返れる精神状態では到底なく、私は逃げるように階段を目指した。

「あっ、陸っ、待てよ!」

性懲りも無く、私に逃げるなとでも言うように良也の声がしたが、振り向かないし脚も止めない。

加えて背後で「お前はまだ行くな」と課長が良也を制止する声が聞こえてきた。

これ幸いと私は人目のない階段に逃げ出した。

この時の私は自分が居なくなった後の課長と良也のやり取りを気にする余裕などどこにもなく、ただただ心の中で膨れ上がった負の感情を押し留めることに注力することしか出来なかった。

階段を登る足取りは朝一だというのに異様なほど重かった。
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