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1 最悪な休日と最悪な平日
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陸は他の女みたいに媚びないのが良いよな。
お前の明るくて元気な姿見てるとこっちも元気になる。
俺も陸みたいに仕事頑張るよ。
――好きだ。
そう何度も言ってもらった1年間。昨日まで、いや、ついさっきまでその言葉を信じていた。
「お前といると疲れるんだ…。俺達合わないと思う」
桜が淡いピンクの花を落とし新緑が世間に新たな彩を与え始めた土曜の朝。良也に呼び出しを受けて私が出向いたのは会社近くのカフェだった。
仕事が異様に忙しく、1ヵ月近く2人きりで会ってなかった。だから良也から何がなんでも会いたいと電話がきたとき、かなり熱烈なデートのお誘いだと心が弾んだ。
そして間抜けにも軽い足取りで入店し、待っていたのは完全に予想外な展開。
何故か私は一組の男女を前に、女にしてはデカい図体をできる限り小さくして座っている。男は言わずもがな恋人の良也だ。そして女の方――。
見るからに私と正反対の可愛らしい女の子。少し明るめのブラウンの髪はくるんとカールしていて、くりくりした大きな目に、小さめの鼻と、ピンクのグロスが似合うバランスのとれた唇。
170センチ以上という長身に無造作ショートヘア、久々のデートだというのに会社に立ち寄る用事があるからといっておしゃれのおの字もないスーツのパンツスタイルでのこのこやって来た私とは似ても似つかない。
木野由香里さんというらしい。私は知らなかったけど、同じ会社の総務部で働いている1つ下の後輩。
そして『新しい彼女』だと、良也の口から紹介された。
「急に言われても納得できないっ」
なんの色気も、ないありきたりな引き止め文句しか出てこなかった。
目の前に突き付けられた光景は否定しようもない自分の不利を表している。
けれども「はいそうですか」などと簡単に割り切ることはできない。
私と良也は上手くいっていた、はずだ。
たしかに仕事が恐ろしいほど忙しく、会う暇を作ることがなかなか出来なかったという事実はある。それでも何とか一日に一回はメールを送っていたし、良也だって私が忙しいのは付き合う前から知っていた。1ヶ月前にデートしたときは何の違和感もなく普通にカップルだった。
信じられない。分からない。冗談やめてよ。
私は食い下がるしかなかった。
けど、ただ慌てて連ねることしかできない台詞が自分には良也を引き止める武器がないことにじわりじわりと気がつかせてくる。
焦る私の心情をよそに、先ほどまで人形のように大人しくしていた木野さんがゆっくりと良也の腕に自分の腕を絡ませ、甘ったるい視線を向けてきた。
「川瀬先輩は仕事もできるし、人に甘えたりしないタイプだから一人でも大丈夫なんでしょうけど、私も杉浦さんも一人じゃダメなんです」
「私だって一人で大丈夫なわけじゃ――」
「でも、少なくとも1ヵ月間会えなくてもへっちゃらですよね。私なら寂しくなって夜中でもなんでも会いに行っちゃう」
だから川瀬先輩は充分強いです。
私達はお互いを必要としているけど、川瀬先輩には杉浦さん――良也さんはそこまで必要じゃないように思えます。
言い切られて言葉を失った。
言いくるめられた訳じゃない。けれど自分がわからなくなった。
私は良也がいたから辛い仕事も頑張れた。疲れたときに優しくしてもらうのが嬉しくて、会うたびに甘えていた。でも、事実忙しさを理由にデートが1ヵ月に1回でもそれ以下でも問題なかった。それしか会わないのに関係が保てることを誇りに思っていたくらいだ。
それではいけなかったのだろうか。
良也は絡みついている腕を引き剥がそうともせずに、私に向かって言い捨てた。
「そういうことだから。俺はお前と別れる」
怒りを生み出す余裕すらなく、ただただ唖然とするしかなかった。
もう何も言い返せない。
言ってやりたいことなんて山のようにあった。納得なんて全くしてない。別れたくなんてない。まだ一緒にいたい。
けれども私の唇は引き結ばれたまま動こうとせず、良也と木野さんが立ち去るまで一人椅子の上で凍り付いていた。
金縛りが解けると土曜日だというのに会社に向かった。昨日最後に資料室を使った際に鍵をポケットに入れたまま持って帰ってしまったのだ。基本的に土曜は休みなのだが、我が営業一課は年中忙しく、休日出勤者が多い。よって鍵がないと周りに迷惑がかかる。残っていた仕事もする予定だった。
会社に来る気分などではもちろんなかった。けれど、今朝から頭にあった鍵を返すという作業を終わらせないと、次のことが何も考えられない気がして、足が自然と動いた。
人気のない正面エントランスから真っ直ぐエレベーターに向かう。私の勤める営業一課は3階。一課から三課まである営業がすべて3階に並んでいて、エレベーターを出てすぐが三課、その隣が二課、一番奥が一課。そしてそこから廊下を曲がった先に資料室がある。私が持っているのは第一資料室の鍵。最奥の部屋だった。
エレベーターから降り、廊下を進む。ボックスに鍵を戻せば私の仕事は終了だ。
営業一課の扉の前に立つ。中から人の気配がした。
途端ドアを開けたくなくなった。
私は扉から離れて奥へと進む。
第一資料室。たどり着いた扉の向こうは暗く、人の気配はない。
持ち帰ってしまった鍵を使って中に入る。
ブラインドのかかった窓が1つあるだけの薄暗い部屋。独特のインクや紙の匂い。
爽やかさの欠片もないその部屋はすんなり私を受け入れてくれた。
後ろ手にドアを閉め、ガチャリと鍵を掛け自分一人の空間つくる。
唇をキツく結んで資料室の更に奥へ進む。書棚の間を縫って向かった最奥にはもう一つの扉。滅多に使われない映像資料が保管されている部屋だ。
ドアノブに手をかけてゆっくりと回す。けれども途中でガチリと止まってしまう。鍵が掛かっていた。
ここから奥に進むための鍵は持っていない。
なるべく奥へ。なるべく遠くへ。
けれども、目の前のドアはそれ以上私を進ませてはくれない。
「なんだかすっごい、中途半端…」
その場で床にへたり込んだ。
中途半端な場所。でもそこは自分にお似合いな気がした。自分を捨てた男をすっぱり諦めることが出来ず、かといって自分に留めておくことも出来ず、ただただ茫然として言葉を失い、心を停止させてしまった自分。
ドクン。
心臓の鼓動がひとつ。
私の体内から耳に届いく。
瞬間せき止められていた感情が濁流の如く流れ出る。
「好きなのに――」
こんなにもまだ想っているのに。
別れたくなんてないのに。
漏れ出た声は嗚咽に変わり、溢れ出した感情は涙になった。
止まらない。
強くなんかない。私はこんなに脆いのだ。
入社3年目、春の日。私は人生ではじめての失恋をした。
開かぬドアの向こうに悲しみをこれでもかというくらい投げ込んだ。
――――そのドアの向こうで、それを聞いている人物が存在することには一切気が付かずに。
最悪の休日が終わって、最悪の平日が始まる。
あの日資料室で枯れるまで泣いた。それでも週末の内に、憂鬱な気分を払拭することなんてできなかった。
全然立ち直れていない。
それでも時間は私の気持ちなんてお構いなしし流れていき、仕事をするときが来たぞと現実を突きつけてくる。
出社時間を早め、同社で働く良也と木野さんと出くわさないようにと細心の注意を払いながら出勤。
2人の顔なんて見れたもんじゃない。
総務の木野さんとは会う可能性は低いが、良也は営業三課だ。同じ階で働いていれば嫌でも遭遇する可能性は高い。
私はエレベーターから降りた瞬間、脇目も振らずに営業一課に駆け込んだ。
デスクに着いてしまえばとりあえずは一安心。仕事に集中すればどうにかやり過ごせる。
そう思っていた、のに――。
外回りの仕事を午前中に終わらせ、会社に戻るとタイミング悪く昼休み。
昼食は早めに外で済ましてきたので、帰ってきたその足でトイレに立ち寄った。
個室に入ると、その後に2人の社員が入ってくる気配。
トイレを利用する様子はないので、恐らくメイク直しに来たのだろう。
「ねえ、今朝の杉浦くんと総務の木野さん見た?」
思わぬ台詞に全身が硬直した。
「見た見た。総務の子が珍しく三課に顔出したと思ったら、イチャイチャ私事ばっかり話して」
どうやら話しをしているのは良也の所属する営業三課の女性社員らしい。
「就業前とはいえ、あれはマナー違反よね」
「それに…」
一人が声を少し潜めた。
というか、潜めるくらいならこんな所で堂々と噂話をするのはやめて欲しい。
「杉浦くんって、一課の川瀬さんと付き合ってたじゃない」
「そうなのよね…」
2人の女性社員は何故か私が後ろにいるなどとは露程思っていないようで、明け透けに話を進めていく。
「でもあの様子じゃ絶対別れたわね。でもって即乗り換え」
「うわ~」
いいえ、『乗り換え』以前に『二股』でした。
仕事に集中することで何とか考えないようにしていたことが、一気に脳内を占領する。
聞きたくない話を中断させるために思い切って飛び出そうかと思案したのだけれど、迷っている内に女性社員の会話は畳まれた。
「私あのカップルは結構長続きすると思ってたんだけどなぁ」
「そう? 一課って無駄に忙しいじゃない。あれだけ多忙だとデートもろくに出来ないって噂だよ。相当忍耐力ある男じゃないとあの課の女子となんて付き合えないわよ、きっと」
「たしかに~」
グサリ。
心臓を一突き。
2人の女性社員が完全に出て行き静まり返ったところで、ゆっくりと個室を出る。
鏡を見ると情けない顔。
午前中に保っていたものが崩壊して、精神的な疲れが全部表に出てしまっている。
大きな溜息をついた。
その後も最悪だった。
昼休み終了間近に一課に戻った私はドアを開けた瞬間思わず立ち止まる。
習慣になった外回り後の軽い挨拶を誰にともなくすると、室内にいる社員の視線が不自然なほど一斉に私に集まったからだ。
そしてその視線は私と目が合いそうになると逸らされる。
室内には明らかに淀んだ空気。
嫌な予感しかしない。
その場でずっと突っ立っている訳にもいかず、自分のデスクに脚を向けるが、その途中「どうしよう。俺どうやって川瀬さんに声を掛けたら良いのかわからない」と数少ない後輩社員が小さく呟いたのを、しっかり耳にキャッチした。
最悪。
出勤初日から失恋ダダ漏れ。
案の定、いつもは気さくに話しかけてくるデスクのご近所さん達も腫れ物を触るかのようなよそよそしい態度。
余計に落ち込む。
我が社は社内恋愛に特に規制をかけてない。結婚・出産にも協力的なシステムがあるので隠して付き合う必要がないのだ。よって社内カップルが多く、自然と会社公認となる。
加えてゴシップ好きが多いため噂の広がりが異様に早い。
様々な情報があっという間に広がる。
だからある程度のことは覚悟していた。けれども一室丸ごと同情の視線を向けられるこの状況は有り得ない。
私を中心に淀んだ空気が漂う営業一課。
居たたまれなさすぎる。
ため息を禁じ得ない状況に辟易した。
しかし、昼休み終了時刻になると同時に室内に響いた声が澱んだ空気を変えた。
「昼休みは終わったぞ。さっさと自分の仕事に集中しろ」
鶴の一声とはこういうことをいうのだろう。
声を張ったのは我らが営業一課の長、榊恭介課長。
2年前29歳という若さで課長という役職に就いた我が社期待の星。
もとい、課内をビシバシ統括する鬼課長。
室内にいた社員全員で「はい!」と大きく返事をして一斉に仕事に取りかかる。
営業一課はかなり体育会系の風潮がある。
時間厳守、上下関係に厳しく、実力重視。
営業は三課まであるが、一課は完全に異質であると同時に断トツで成績が良い。
実は一課の女性社員は私だけ。
理由は簡単。
他の女性社員が一課の厳しさについていけないからだ。
男性社員ですら、悲鳴を上げんばかりに辞めていくこともある。
そういう私はバレーボールで中・高・大学まで完全に体育会系の部活に所属していたせいか、なんとか一課の環境に馴染んでいる。根性には自信があるのだ。
入社から一課に配属されて今年で3年目。
厳しい環境に耐える同僚は男性ばかりだけど気は良く合う。
唯一の女性社員であるだけあって結構可愛がってもらっている。普段ならとても有難く嬉しいことなのだけれど、それがまさかこんな時に仇となって出てくるとは思わなかった。
気の使いすぎ。
男性社員の失恋のときなんかは、皆が笑い飛ばして気晴らしにお酒を飲んでお終いというパターンだったはずなのに。
けれど私は一応女だ。女子社員が失恋したときのマニュアルは天下の一課にも存在しない。
昼休み中にどこかからか仕入れてきた情報が一気に室内に蔓延して何とも気まずい空気を作り上げてしまったのだろう。
その空気を一変させて、全員を仕事に集中させた課長には本当に凄いと思うと同時に心の底から感謝だ。
しかし、良い感じに皆は仕事モードになったが、私自身はそうはいかなかった。
身体が覚えているようで指はとりあえずパソコンのキーを叩くが、合間合間に嫌な事が頭を過ぎり小さな溜息を繰り返す。
トイレでの会話と皆の視線のせいで、嫌でも頭の中に過る負の感情。
考えすぎると枯れるまで出したはずの涙がまた零れそうになるから直ぐに仕事に集中しようと努力する。が、また溜息が漏れる。
すると徐々に一度は仕事に集中した周りが自分を気にかけている気配が増していく。
今日は偶々すごく慌ただしい日ではなかったけど、忙しい時にこんな状態では自分も周りの皆もやっていけないだろう。
そう思った矢先。
「川瀬」
名前を呼ばれて声の方に視線を移す。声の主は課長のようだ。
何の用件だろう。
席を立って課長のもとへ向かう。
デスクの前に立つと課長はいつもの厳しい目つきで私を見上げた。
「川瀬はしばらく仕事内容に余裕があったな」
心の中で首を捻った。
仕事に余裕があるかどうかと言うとはっきり言ってない。
ただ、先週までかなりハードな仕事状況だったからから、それと比べると少し余裕はある。
どう答えたものかと逡巡したが、課長の前で弱音は厳禁だ。
「先週までの仕事が一段落してので、多少余裕はありますが――」
「そうか」
私が言い終るかどうかというタイミングで課長は頷くと、書類の束を私の前にバサリと置いた。
「なら、これはお前に任せる」
「えっ」
見ると、それはとある企業に関する営業企画書。
「任せると言いますと?」
嫌な予感が最大になって私は頬を引きつらせた。
課長は腕を組んで椅子にもたれかかる。
「言葉の通りだ。今、課の中でお前が一番余裕がありそうだからな。頼んだぞ」
課長は言い終わるともう用はないと言わんばかりに自分の仕事に取りかかる。
私はしばらく呆然としていたが、少しすると現実に引き戻される。
目の前の大量の資料。その分厚さは仕事のハードさに比例する。
この仕事を私が!?
いきなり!?
ていうか、これじゃあ完全に課内で一番忙しくなるの私じゃん!!
心の悲鳴は誰にも届かない。
失恋してからの出勤初日。
失恋の余韻に浸る暇も無くなってしまった。
私はつい先程したばかりの課長への感謝の気持ちを精神世界のどこか遠くに思いっきり投げ飛ばした。
お前の明るくて元気な姿見てるとこっちも元気になる。
俺も陸みたいに仕事頑張るよ。
――好きだ。
そう何度も言ってもらった1年間。昨日まで、いや、ついさっきまでその言葉を信じていた。
「お前といると疲れるんだ…。俺達合わないと思う」
桜が淡いピンクの花を落とし新緑が世間に新たな彩を与え始めた土曜の朝。良也に呼び出しを受けて私が出向いたのは会社近くのカフェだった。
仕事が異様に忙しく、1ヵ月近く2人きりで会ってなかった。だから良也から何がなんでも会いたいと電話がきたとき、かなり熱烈なデートのお誘いだと心が弾んだ。
そして間抜けにも軽い足取りで入店し、待っていたのは完全に予想外な展開。
何故か私は一組の男女を前に、女にしてはデカい図体をできる限り小さくして座っている。男は言わずもがな恋人の良也だ。そして女の方――。
見るからに私と正反対の可愛らしい女の子。少し明るめのブラウンの髪はくるんとカールしていて、くりくりした大きな目に、小さめの鼻と、ピンクのグロスが似合うバランスのとれた唇。
170センチ以上という長身に無造作ショートヘア、久々のデートだというのに会社に立ち寄る用事があるからといっておしゃれのおの字もないスーツのパンツスタイルでのこのこやって来た私とは似ても似つかない。
木野由香里さんというらしい。私は知らなかったけど、同じ会社の総務部で働いている1つ下の後輩。
そして『新しい彼女』だと、良也の口から紹介された。
「急に言われても納得できないっ」
なんの色気も、ないありきたりな引き止め文句しか出てこなかった。
目の前に突き付けられた光景は否定しようもない自分の不利を表している。
けれども「はいそうですか」などと簡単に割り切ることはできない。
私と良也は上手くいっていた、はずだ。
たしかに仕事が恐ろしいほど忙しく、会う暇を作ることがなかなか出来なかったという事実はある。それでも何とか一日に一回はメールを送っていたし、良也だって私が忙しいのは付き合う前から知っていた。1ヶ月前にデートしたときは何の違和感もなく普通にカップルだった。
信じられない。分からない。冗談やめてよ。
私は食い下がるしかなかった。
けど、ただ慌てて連ねることしかできない台詞が自分には良也を引き止める武器がないことにじわりじわりと気がつかせてくる。
焦る私の心情をよそに、先ほどまで人形のように大人しくしていた木野さんがゆっくりと良也の腕に自分の腕を絡ませ、甘ったるい視線を向けてきた。
「川瀬先輩は仕事もできるし、人に甘えたりしないタイプだから一人でも大丈夫なんでしょうけど、私も杉浦さんも一人じゃダメなんです」
「私だって一人で大丈夫なわけじゃ――」
「でも、少なくとも1ヵ月間会えなくてもへっちゃらですよね。私なら寂しくなって夜中でもなんでも会いに行っちゃう」
だから川瀬先輩は充分強いです。
私達はお互いを必要としているけど、川瀬先輩には杉浦さん――良也さんはそこまで必要じゃないように思えます。
言い切られて言葉を失った。
言いくるめられた訳じゃない。けれど自分がわからなくなった。
私は良也がいたから辛い仕事も頑張れた。疲れたときに優しくしてもらうのが嬉しくて、会うたびに甘えていた。でも、事実忙しさを理由にデートが1ヵ月に1回でもそれ以下でも問題なかった。それしか会わないのに関係が保てることを誇りに思っていたくらいだ。
それではいけなかったのだろうか。
良也は絡みついている腕を引き剥がそうともせずに、私に向かって言い捨てた。
「そういうことだから。俺はお前と別れる」
怒りを生み出す余裕すらなく、ただただ唖然とするしかなかった。
もう何も言い返せない。
言ってやりたいことなんて山のようにあった。納得なんて全くしてない。別れたくなんてない。まだ一緒にいたい。
けれども私の唇は引き結ばれたまま動こうとせず、良也と木野さんが立ち去るまで一人椅子の上で凍り付いていた。
金縛りが解けると土曜日だというのに会社に向かった。昨日最後に資料室を使った際に鍵をポケットに入れたまま持って帰ってしまったのだ。基本的に土曜は休みなのだが、我が営業一課は年中忙しく、休日出勤者が多い。よって鍵がないと周りに迷惑がかかる。残っていた仕事もする予定だった。
会社に来る気分などではもちろんなかった。けれど、今朝から頭にあった鍵を返すという作業を終わらせないと、次のことが何も考えられない気がして、足が自然と動いた。
人気のない正面エントランスから真っ直ぐエレベーターに向かう。私の勤める営業一課は3階。一課から三課まである営業がすべて3階に並んでいて、エレベーターを出てすぐが三課、その隣が二課、一番奥が一課。そしてそこから廊下を曲がった先に資料室がある。私が持っているのは第一資料室の鍵。最奥の部屋だった。
エレベーターから降り、廊下を進む。ボックスに鍵を戻せば私の仕事は終了だ。
営業一課の扉の前に立つ。中から人の気配がした。
途端ドアを開けたくなくなった。
私は扉から離れて奥へと進む。
第一資料室。たどり着いた扉の向こうは暗く、人の気配はない。
持ち帰ってしまった鍵を使って中に入る。
ブラインドのかかった窓が1つあるだけの薄暗い部屋。独特のインクや紙の匂い。
爽やかさの欠片もないその部屋はすんなり私を受け入れてくれた。
後ろ手にドアを閉め、ガチャリと鍵を掛け自分一人の空間つくる。
唇をキツく結んで資料室の更に奥へ進む。書棚の間を縫って向かった最奥にはもう一つの扉。滅多に使われない映像資料が保管されている部屋だ。
ドアノブに手をかけてゆっくりと回す。けれども途中でガチリと止まってしまう。鍵が掛かっていた。
ここから奥に進むための鍵は持っていない。
なるべく奥へ。なるべく遠くへ。
けれども、目の前のドアはそれ以上私を進ませてはくれない。
「なんだかすっごい、中途半端…」
その場で床にへたり込んだ。
中途半端な場所。でもそこは自分にお似合いな気がした。自分を捨てた男をすっぱり諦めることが出来ず、かといって自分に留めておくことも出来ず、ただただ茫然として言葉を失い、心を停止させてしまった自分。
ドクン。
心臓の鼓動がひとつ。
私の体内から耳に届いく。
瞬間せき止められていた感情が濁流の如く流れ出る。
「好きなのに――」
こんなにもまだ想っているのに。
別れたくなんてないのに。
漏れ出た声は嗚咽に変わり、溢れ出した感情は涙になった。
止まらない。
強くなんかない。私はこんなに脆いのだ。
入社3年目、春の日。私は人生ではじめての失恋をした。
開かぬドアの向こうに悲しみをこれでもかというくらい投げ込んだ。
――――そのドアの向こうで、それを聞いている人物が存在することには一切気が付かずに。
最悪の休日が終わって、最悪の平日が始まる。
あの日資料室で枯れるまで泣いた。それでも週末の内に、憂鬱な気分を払拭することなんてできなかった。
全然立ち直れていない。
それでも時間は私の気持ちなんてお構いなしし流れていき、仕事をするときが来たぞと現実を突きつけてくる。
出社時間を早め、同社で働く良也と木野さんと出くわさないようにと細心の注意を払いながら出勤。
2人の顔なんて見れたもんじゃない。
総務の木野さんとは会う可能性は低いが、良也は営業三課だ。同じ階で働いていれば嫌でも遭遇する可能性は高い。
私はエレベーターから降りた瞬間、脇目も振らずに営業一課に駆け込んだ。
デスクに着いてしまえばとりあえずは一安心。仕事に集中すればどうにかやり過ごせる。
そう思っていた、のに――。
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昼食は早めに外で済ましてきたので、帰ってきたその足でトイレに立ち寄った。
個室に入ると、その後に2人の社員が入ってくる気配。
トイレを利用する様子はないので、恐らくメイク直しに来たのだろう。
「ねえ、今朝の杉浦くんと総務の木野さん見た?」
思わぬ台詞に全身が硬直した。
「見た見た。総務の子が珍しく三課に顔出したと思ったら、イチャイチャ私事ばっかり話して」
どうやら話しをしているのは良也の所属する営業三課の女性社員らしい。
「就業前とはいえ、あれはマナー違反よね」
「それに…」
一人が声を少し潜めた。
というか、潜めるくらいならこんな所で堂々と噂話をするのはやめて欲しい。
「杉浦くんって、一課の川瀬さんと付き合ってたじゃない」
「そうなのよね…」
2人の女性社員は何故か私が後ろにいるなどとは露程思っていないようで、明け透けに話を進めていく。
「でもあの様子じゃ絶対別れたわね。でもって即乗り換え」
「うわ~」
いいえ、『乗り換え』以前に『二股』でした。
仕事に集中することで何とか考えないようにしていたことが、一気に脳内を占領する。
聞きたくない話を中断させるために思い切って飛び出そうかと思案したのだけれど、迷っている内に女性社員の会話は畳まれた。
「私あのカップルは結構長続きすると思ってたんだけどなぁ」
「そう? 一課って無駄に忙しいじゃない。あれだけ多忙だとデートもろくに出来ないって噂だよ。相当忍耐力ある男じゃないとあの課の女子となんて付き合えないわよ、きっと」
「たしかに~」
グサリ。
心臓を一突き。
2人の女性社員が完全に出て行き静まり返ったところで、ゆっくりと個室を出る。
鏡を見ると情けない顔。
午前中に保っていたものが崩壊して、精神的な疲れが全部表に出てしまっている。
大きな溜息をついた。
その後も最悪だった。
昼休み終了間近に一課に戻った私はドアを開けた瞬間思わず立ち止まる。
習慣になった外回り後の軽い挨拶を誰にともなくすると、室内にいる社員の視線が不自然なほど一斉に私に集まったからだ。
そしてその視線は私と目が合いそうになると逸らされる。
室内には明らかに淀んだ空気。
嫌な予感しかしない。
その場でずっと突っ立っている訳にもいかず、自分のデスクに脚を向けるが、その途中「どうしよう。俺どうやって川瀬さんに声を掛けたら良いのかわからない」と数少ない後輩社員が小さく呟いたのを、しっかり耳にキャッチした。
最悪。
出勤初日から失恋ダダ漏れ。
案の定、いつもは気さくに話しかけてくるデスクのご近所さん達も腫れ物を触るかのようなよそよそしい態度。
余計に落ち込む。
我が社は社内恋愛に特に規制をかけてない。結婚・出産にも協力的なシステムがあるので隠して付き合う必要がないのだ。よって社内カップルが多く、自然と会社公認となる。
加えてゴシップ好きが多いため噂の広がりが異様に早い。
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だからある程度のことは覚悟していた。けれども一室丸ごと同情の視線を向けられるこの状況は有り得ない。
私を中心に淀んだ空気が漂う営業一課。
居たたまれなさすぎる。
ため息を禁じ得ない状況に辟易した。
しかし、昼休み終了時刻になると同時に室内に響いた声が澱んだ空気を変えた。
「昼休みは終わったぞ。さっさと自分の仕事に集中しろ」
鶴の一声とはこういうことをいうのだろう。
声を張ったのは我らが営業一課の長、榊恭介課長。
2年前29歳という若さで課長という役職に就いた我が社期待の星。
もとい、課内をビシバシ統括する鬼課長。
室内にいた社員全員で「はい!」と大きく返事をして一斉に仕事に取りかかる。
営業一課はかなり体育会系の風潮がある。
時間厳守、上下関係に厳しく、実力重視。
営業は三課まであるが、一課は完全に異質であると同時に断トツで成績が良い。
実は一課の女性社員は私だけ。
理由は簡単。
他の女性社員が一課の厳しさについていけないからだ。
男性社員ですら、悲鳴を上げんばかりに辞めていくこともある。
そういう私はバレーボールで中・高・大学まで完全に体育会系の部活に所属していたせいか、なんとか一課の環境に馴染んでいる。根性には自信があるのだ。
入社から一課に配属されて今年で3年目。
厳しい環境に耐える同僚は男性ばかりだけど気は良く合う。
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気の使いすぎ。
男性社員の失恋のときなんかは、皆が笑い飛ばして気晴らしにお酒を飲んでお終いというパターンだったはずなのに。
けれど私は一応女だ。女子社員が失恋したときのマニュアルは天下の一課にも存在しない。
昼休み中にどこかからか仕入れてきた情報が一気に室内に蔓延して何とも気まずい空気を作り上げてしまったのだろう。
その空気を一変させて、全員を仕事に集中させた課長には本当に凄いと思うと同時に心の底から感謝だ。
しかし、良い感じに皆は仕事モードになったが、私自身はそうはいかなかった。
身体が覚えているようで指はとりあえずパソコンのキーを叩くが、合間合間に嫌な事が頭を過ぎり小さな溜息を繰り返す。
トイレでの会話と皆の視線のせいで、嫌でも頭の中に過る負の感情。
考えすぎると枯れるまで出したはずの涙がまた零れそうになるから直ぐに仕事に集中しようと努力する。が、また溜息が漏れる。
すると徐々に一度は仕事に集中した周りが自分を気にかけている気配が増していく。
今日は偶々すごく慌ただしい日ではなかったけど、忙しい時にこんな状態では自分も周りの皆もやっていけないだろう。
そう思った矢先。
「川瀬」
名前を呼ばれて声の方に視線を移す。声の主は課長のようだ。
何の用件だろう。
席を立って課長のもとへ向かう。
デスクの前に立つと課長はいつもの厳しい目つきで私を見上げた。
「川瀬はしばらく仕事内容に余裕があったな」
心の中で首を捻った。
仕事に余裕があるかどうかと言うとはっきり言ってない。
ただ、先週までかなりハードな仕事状況だったからから、それと比べると少し余裕はある。
どう答えたものかと逡巡したが、課長の前で弱音は厳禁だ。
「先週までの仕事が一段落してので、多少余裕はありますが――」
「そうか」
私が言い終るかどうかというタイミングで課長は頷くと、書類の束を私の前にバサリと置いた。
「なら、これはお前に任せる」
「えっ」
見ると、それはとある企業に関する営業企画書。
「任せると言いますと?」
嫌な予感が最大になって私は頬を引きつらせた。
課長は腕を組んで椅子にもたれかかる。
「言葉の通りだ。今、課の中でお前が一番余裕がありそうだからな。頼んだぞ」
課長は言い終わるともう用はないと言わんばかりに自分の仕事に取りかかる。
私はしばらく呆然としていたが、少しすると現実に引き戻される。
目の前の大量の資料。その分厚さは仕事のハードさに比例する。
この仕事を私が!?
いきなり!?
ていうか、これじゃあ完全に課内で一番忙しくなるの私じゃん!!
心の悲鳴は誰にも届かない。
失恋してからの出勤初日。
失恋の余韻に浸る暇も無くなってしまった。
私はつい先程したばかりの課長への感謝の気持ちを精神世界のどこか遠くに思いっきり投げ飛ばした。
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