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1.プロローグ

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「さあ夫殿、まずは抱擁からだ」
「ほ……ほう、よう」

 甘い香が焚かれた薄暗い寝室の中。ベッドの上には、桃色や白の花びらが無数に散りばめられ、夫婦の褥を彩っている。
 そんな艶めいた雰囲気であるはずの室内の中央で、セリスはルーファスに向かって仁王立ちになって手を広げていた。
 その姿はさながら選手を鼓舞する監督のような立ち姿だ。
 相対するルーファスは、その凛々しい腕の中に飛び込むこともできず、挙動不審に視線をさ迷わせている。
 セリスの今夜の夜着は、近衛騎士時代に着ていた簡素な綿のもので、それもまた色気がなく、どう見てもこれから夫婦の甘い交わりが始まるようには見えない。
 漂う緊迫感といったら、これから体術の組手が始まるといったほうが余程しっくりとくる。
 それでもなんとか、にじりにじりとセリスとの間を詰めたルーファスだったが、セリスの腕の射程範囲に入ったところで、堪えきれずに止めていた息を吐いた。

「っ……セ、セリスさん、あの僕には抱擁はまだ……」
「そうか? 私の知識では、抱擁から始めるんだったと思うのだが。抱擁して、口づけるのが手順だったと思う。それならば抱擁はとばして、口づけからするか?」
「く……!!」

 セリスの言葉にルーファスはぶんぶんと首を振って、拒否を示した。
 そんな夫の姿に、セリスが少し眉を下げた。

「……やはり、私とするのは嫌だろうか……」
「え!? いや、あのそんなことは全くないんですけど、あの、少し! 少し待ってください、ちょ、ちょっといまあの、こ、呼吸を整えますから! ちょっとま待って下さいぃ」
「嫌ではない?」
「もちろんです!」

 ルーファスは、勢いよくそう言い放った。
 なんとか見つめたまではいいが、徐々に視線は泳ぎ、拳を握ってはひらき握ってはひらきし、その手の汗を羽織ったローブに擦り付けるように拭う。
 すーはーすーはーと深呼吸を繰り返して、なんとか決心を付けようとする一生懸命な様子に、セリスは思わず笑みがこみ上げた。
 ーー本当にこの夫殿は可愛らしい。
 我が国の魔術をけん引する偉大な魔術師と聞いていたが、今のルーファスからはそういった威厳だとか攻撃的な部分が一切感じられない。
 今の彼はひたすらに主人のことしか目に入らず、その全身を投げうって懸命にこちらに向かってきてくれる、忠犬のようだ。

「夫殿、無理せずとも――」
「いえ! 抱擁いかせていただきます!」

 セリスが出した助け舟をはねつけ、ルーファスがその一歩を踏み出した。
 そしてその踏み出した勢いのまま、体当たりのようにぎゅっとセリスに抱きつく。
 「うっ」「あ! 強くてすみません!」そんなやり取りをしつつも抱擁が成功したことに、ふたり揃ってほっと息を吐いた。
 意外なことに、こうして抱きしめられると、セリスの鼻先はルーファスの首元に埋もれてしまっている。
 ルーファスはいつも猫背で、魔術師のローブにその存在を埋もれさせていた。だから気が付くことはなかったが、ルーファスの背は少しだけセリスよりも大きかったらしい。
 ルーファスがセリスを包む手は震え、カタカタとその肩口からも緊張を伝えている。
 だがそんな事はよそに、初めて感じる夫の匂い、僅かにローブの奥から感じる身体の感触、伝わってくる体温にセリスは感動していた。
 こうして他人に触れたことはなかったけれど、存外不快ではないものだ。
 ――いや、むしろもっと……。
 抱きしめられるままになっていたセリスのほうから、そっとルーファスの背中に手を伸ばすと、今度こそ大きく彼の身体が跳ねあがった。

「セ、セリスさ、……!」
「うん? 存外心地いいものだな」
「はぃ……」
「なあ夫殿、口づけしてみてもいいか?」
「ふぇっ」

 この感じならできそうかな、そう無邪気にルーファスと目線を合わせようとした。正確には顔を上げようとしたその時に、のけぞったルーファスによってセリスの身体は引き離された。

「きょっ……、きょ今日これ以上は無理ですぅううう……」

 フードを目深に被って、ベッドの影に隠れるようにして身を小さく固めてしまった。
 そして顔を両手で覆ってルーファスがしおしおと声を上げた。
 彼が離れた身体が、やけに寒く感じる。
 少しだけ残念に思わないわけではないが、それよりも怖がらせてしまったことへ、罪悪感が湧き上がる。

「悪かった。怖がらせてしまったな、泣かないでくれ」
「ご・ごめんなさい……あの、僕、ど、どうしていいかわからなくて」

 嫌いにならないで……そう掠れた声で訴えながら涙で潤んだ瞳を見ると、心臓がぎゅっとされる感触が走った。
 彼に対して湧き上がるこの気持ちはなんだろう。無茶苦茶に抱きしめたいような、甘い菓子を差し出してやりたいような、酷くしたいような甘やかしたいような胸の内からむず痒い気持ちが湧いてくる。
 身体を近づけ過ぎないように、怯えさせないように距離を置き、ベッドの端でシーツを握りしめているその手に、そっと手を重ねた。

「大丈夫だ、私が性急だったんだ。あなたが嫌がることはしない。それに私も抱擁して口づけたその後、どうするのかあまりよくわかっていないんだ」
「……そう、なんですか……?」
「あぁ。実は私も嫁いだあとに、夫殿から教わろうと思っていた」

 女はなにも知らない方が喜ばれると言った者もいたか。
 セリスの言葉に、ルーファスが握りしめていた拳を、少し緩めたのが伝わってきた。
 こんな抱擁ひとつで身を震わせる彼が、自分に教えられるほど閨事をわかっているとは到底思えない。

「夫殿は他人と触れ合うのは苦手なのだな。私に触れられるのは嫌ではないか? 嫌なら、もうしないと誓うが」
「い、嫌なはずがないんです……! た、ただ今はどうしていいかわからなくて、」
「うん」
「……ごめんなさい」
「大丈夫だ、嫌じゃないなら少しずつやっていこう」

 ぽんとルーファスの頭を撫でた。
 そうしてから、男性にこういったことをするのは適当ではなかったかと思い至り、手を引っ込めるとルーファスが「ごめんなさい」ともう一度重ねた。

「謝らなくていい。気にしてない」
「……こんな……僕で、嫌になりませんか。こんな、く、口づけひとつ、う、うまくできなくて」
「? いまの出来事で嫌いになることなんてあったか? 私は夫殿のことが、より好ましいと思っているところだ」
「へ」
「嫌なことを嫌だというのは当たりまえのことだ。それをちゃんと意思表示してくれて嬉しいし、少なくとも私に嫌われるのを怖いくらいには、私のことを気に入ってくれているんだろう? そうならば、嬉しい」

 きょとんとセリスを見つめていた、ルーファスの頬が徐々に朱に染まっていく。そして頬の涙をぐしとこすり上げた。
 そんな仕草もとても可愛らしく好ましいと思うのだが、それを彼に伝えるのが適当なのかわからない。でも今日のところは、これ以上刺激するのは控えたほうがいいだろう。

「……ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない」

 そうして、お互いに閨事の知識がないということを改めて確認し、これからふたりで勉強してみようということになった。
 本でも探してみようか。王都にはきっと豊富にあるだろうし。
 きっとより良い関係を構築するためのヒントがあるに違いない。
 だが久しぶりにこの可愛い夫殿とのまとまった時間が、これで終わりというのも少しばかり淋しい。

「……、とりあえず何もせずに共寝だけでもしてみようか?」

 そんなセリスの提案は、涙目のルーファスによって断られてしまった。
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