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36.月の花

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 目を閉じるとあの日の赤い星が見える
 赤く燃える星
 私の罪を暴く、あの赤い星
 あぁきっと私はあの星に灼かれてしまうのだろう
 はやく、はやくしなければ



 聖教会しいては王家が秘匿している、月の乙女という存在。
 星見の一族に産まれた彼女には、あってはならない予感があった。

 星見を通して、この国の吉兆を占う、聖教会の巫女。
 最も重要ともいえる、次代の月の乙女の予兆が夜空に現れたその日、……時を同じくしてその身体に赤子を身ごもっていることに気が付いたのだ。

 巫女である彼女は、本来、男と交わること自体が、許されざる罪だ。恋など知っていい身分ではない。
 一族に生まれたその日から、物心がつく頃には既に、巫女として育てられていた。
 いつか来る月の乙女の再来。その日に向けて、ひたすら魔力を磨き、星見をおこなう日々。
 十七を数えたばかり、見目には未だ幼さの残る彼女は、その若さにも関わらず己の運命を既に諦観していた。
 ここで昼夜なく、魔力の続く限り教会の為に、王家の為に過ごすのだ。

 一族の責を果たす。それだけが彼女の知る、生きる意味だった。


 星の輝く夜、教会によって外界より隔絶された神聖なる星よみの神殿。そこには彼女以外、何人たりとて立ち入ることを許されない。
 そんな神殿にあって、神殿の守りがその日何故か希薄だったことも、夜半に褐色の肌を持つ少年、――竜使いの一族の少年が、竜から振り落とされてそこに降ってきたことも。
 その日降って湧いた出会いは、運命のいたずらにしても出来すぎていた。

 出会った瞬間の、その心の機微を言いあらわせる言葉を彼女は持たなかった。
 その感情を知った途端、その感情が色を持った途端、彼女をとりまく全てが、その形を変えたかのように思えた。
 だが、切なくも甘やかなその感情を知ったことで、崇高なる教会の教義、一族の星見としての義務、孤独な祭壇、その全ては彼女を生贄として成り立っていることに気が付いてしまった。

 そうして心の全ては、彼へと向かう。
 だが、彼女の巫女としての立場はそれを許さない。
 最初で最後と決め、彼を逃がすその前、たった一時愛を交わしただけのはずだった。

 たった一度、それなのに。


 懐胎の兆候が表れ、どうしても隠し切れなくなるその時、とうとう彼女は逃げた。
 今ならまだ、ただの巫女の出奔だと思われるだろう、そう信じて。

 教会が、王家が、月の乙女の秘密を知る女を逃すはずがないことは知っていた。
 だが、彼女の持つ巫女の魔力は大きかった。
 追手から遁走する日々。
 どう足掻いても、守りが厳しい国境を越えて、国内から出ることは叶わない。身重の身体での逃亡生活は過酷を極めた。
 魔物の出る森の中で、野宿をすることもあった。また、彼女の持つその魔力で容貌を変え、宿を求めることもあった。だが執拗に追手の手は伸びる。疲弊しきり、何もかもを諦めてしまおうと思う日もあった。
 それでも、それでも胎の子を産むまでは。
 その姿を見るまでは。

 ――そして、とうとうその日を迎えた。

 その日は、朝から産気の予兆があった。
 打ち捨てられた古びた貴族の別荘。その中に忍び込んで、苦痛に漏れる声をかみ殺してその時を待った。
 彼女は最後の希望を捨てきれずにいた。……違うかもしれない。父親と同じ髪色をしているかもしれない。凡庸な、髪色かもしれない。この子だけでも、市井に紛れて、生きることが出来るかもしれない。

 ――夜半過ぎ、やっとのことで産まれた赤子。その白く光輝く様に、その白銀の髪色に、彼女は深く絶望した。
 そして同時に、ひどく納得してしまった。

 目を閉じると、あの日見たあの赤い星がよみがえる。
 まるで私自身に迫りくるように。全てを灼きつくそうとするように。
……私自身の罪を暴こうとするように。

 やはり、これは、この子は、私の罪への罰なのだ。許されざる罪の報いを受けたのだ。

 己は歴代の巫女のなかでも魔力が強いと言われていた。そして、王族以外には現れることのないという、金の髪色を持っていた。そう、何故か。
 そんな巫女の産んだ、月の乙女。
 自身はそれこそ生まれた時から、伝説の月の乙女の話を聞いていた。この国を守り、発展に導く存在。
 ――そして王家に捧げられるべき供物。
 その身の自由は自分と同じように、いやそれ以上に制限されるだろう。聖教会に見つかれば、生きながらにして、死ぬまでその身を王家に捧げ続けなければならない。

「生きて、いたって……」

 赤子を抱きしめ、部屋というには粗末なそこの、一つだけ小さく灯したあかりを見つめそう呟いた。
 この逃亡も、もう長くは続きはしまい。ここまで逃げおおせられただけでも、奇跡なのだ。
 捕らえられれば、死すら思うままにならないところで、生のなんたるかも知らぬまま、呼吸を重ねるだけのような生を送ることになるだろう。
 そんな生を送るよりも、いっそこの母の手で……。
 ぼんやりとあかりを見つめ、抱きしめるその腕に力がこもる。

 その時、ふと、己を苛んでいた出産の痛みが柔らかなあたたかさを伴って、和らいでいくのを感じた。

 はっとして腕の中の赤子を見ると、先ほどよりもあふれ出るかのような魔力をまとい、白く輝いていた。

「癒しの、力―――?わ、たしに…?」

 そう気が付いた時、その場に崩れ落ちるように、赤子に向かって泣き伏した。
 今まさに、この腕の中の、あたたかなその生を否定した。あきらめようとした。それなのに。

 ――きっと私は教会に囚われなくても、いつかあの赤い星に灼かれるだろう。
 この許されざる罪を裁かれる日が、来る。

 ……だが、その罪に灼かれるのは、私一人でいい。

 彼女は決心した。
 許されない罪を、もう一つ犯す覚悟を。

 持てる魔力の全てを使って、この子を隠そう。……そしてそれはこの逃亡生活の終わりを示す。
 それでも。
 この子が目立たないように、見つからないように、…そして、生きていけるように。

「……あなたを守れなくて、ごめんなさい」

 ――共に生きることができなくて、ごめんなさい。

 赤子を床に横たえると、部屋の隅に無造作に積まれていた石をその胸元におく。
 彼女の手が、眠る赤子の上にかざされた。

 同時に、部屋の中に渦を巻くような光が、魔力がほとばしる。苦痛に眉を歪める彼女の姿は、その赤子を生んだその時よりも、いっそう苦悶に満ちたものだった。
 そうして彼女の手に光が灯ると、その白銀の髪は、みるみるくすんだ茶色に変わっていった。同時に赤子の胸元に置いた石が乳白色の輝きを増す。

 荒い息を吐く彼女の手は微かに震え、憔悴しきったその瞳は光を失い弱々しい。それでも、このままここにはいられない。
 この子を、どこか、どこかへ――。

 寝息を立てる赤子の顔を眺めて思う。
 ――あぁそうだ、まだ私はこの子の名前を呼んでない。
 この子の父親は北の山脈の生まれだと言っていた。男と過ごした時間は少なかった。日にしてもいくらもない。
 でも、それでも、彼女が生まれてから『生きていた』と言えるのは、あの日々だけだったように思う。彼の紡いだ言葉の一つ一つが、彼女の心に血を通わせ、光をともした。

 赤子の頬に口づけた。もう残された時間は少ない。

「あなたの名前はルナリア、厳しい冬の訪れる北の山脈で、春を告げる花よ。
 ……あなたのお父さんが好きだと言っていた花。生きて貴方を守れなくてごめんなさい。どうかどうか、生きて……」

 あふれた涙がこぼれ落ち、ルナリアの頬を濡らした。
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