ドラッグジャック

葵田

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6.「これまで生きてきた道」

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 まだ辺りは薄暗い。
 ――カァ
 奴らは夜明けを一早く知らせてくれる。
 カラスよりも一足早く目を覚ましたユキはこっそりと起きて、夕べに調理したフナの残骸を河川へと捨て置いた。
 案の定、カラスどもは喜びながらつついている。こちらも生ごみが片付いて助かった。まさにギブアンドテイクというやつだ。
 小屋ではまだ老人が酔いつぶれたまま眠っている。声もかけずに出ていくのはいつもの事なのを知っているはずなので、そのまま静かにユキは河川敷を後にした。

 そこから歩いて十五分のところに住宅街がある。
 一軒の二階建ての民家の近くに辿り着くと、塀の隙間に隠れるようにして誰かがこちらを覗いていた。
 ユキに気づくと、相手は左右の様子を気にしながら頭を出す。が、今日はゴミの日でもなく、周りにはまだ他に誰もいない。
 それを知らせるよう、

「ユイ」

 堂々とした態度でユキは妹の名を呼んだ。

「どうだ?」
 
 呼ばれて塀から姿を現したユイは、やや痩せていて血色の悪い顔で苦笑いしながら、首を横に振ってみせた。
 状況は聞かずとも想像すれば分かるが、すっかりそれが二人の挨拶の言葉になってしまっていた。

「腹減ってるだろ? コンビニで肉まん買ってきてやったぞ」

 まだアツアツの肉まんをユイの手にポンと渡すと、「あつっ」と小さく声を上げ、両手の上で肉まんを転がしながら顔をほころばした。

「ありがとう」
「冷めるから、今食べろ」

 言われて、肉まんを口に頬張るユイを少し待ち、

「母さんは? 特に変わりないか?」
「……昨日、お酒なくなっちゃって少し暴れて……隠してたの見つけて飲んだら、酔って寝たよ」

 やはり、いつもと変わりはなかった。「そっか」
 手にしていたビニール袋を、肉まんを食べ終わったユイに手渡す。

「パンとかカップ麺、あと酒。一度に与えず、別のところにまた隠しておけよ」
「うん」
「おまえも、ちゃんと食べろよ?」

 痩せ気味な体と目の下にできているクマを見て、ユキは心配する。

「病院へはちゃんと行ったのか? 薬は?」

 途端にユイはうつむくと少し口をつぐんだのち、

「……前の病院がいい……ダメ?」

 下から上目遣いにユキの顔色を窺うように見上げてくる。

「――ダメだ」

 何故かは理由と原因がある。
 ユイもそれを承知しているので、それ以上は何も言えない。

「もう、忘れろ」

 と、切り捨てるよう言うと、有無を言わさぬ態度でユキは背中を向けた。そして数歩、足を前に出してから振り返り、「また、来るからな」と優しく笑った。
 ユイが小さく頷き返して、玄関の中へと入って扉の鍵を閉めるのを見届けてから、再びユキは歩き出した。

   ◇

 ユイはユキとは父親の違う五つ下の妹だ。現在、母親と二人で暮らしている。
 母親は父親と離婚後、あの通りアルコール依存症になってしまっていた。それが原因となり、ユイは心を病んで心療内科へ通院している。今は引きこもり状態で、高校は入学してからほとんど登校していない。
 ――家庭内は完全に崩壊していた。
 全ては、義理の父親による暴力から始まった。
 それまで、ごく普通の幸せな家庭のはずだった。が、その暴力は母親にではなく、血の繋がらない娘であるユキに向けられた。
 少しずつ父親の態度に違和感を覚えていったユキ。また、母親も何となく気づいてはいたはずだったが、わざと見て見ぬふりをしていた。母親が義父のことをとても愛していて、必死に手にした幸せを守ろうとしていたのをユキは知っていた。なので、助けてとは言えなかった。
 しかし、まさか性的虐待にまで及んでいたとは、母親も思わなかったのだろう。その頃には、ユキはもう十五歳で体は大人の女性と変わらないほど成熟していた。それ故か、母親から衝撃による悲しみと怒りと共に、嫉妬にも似た女の醜い感情が向けられたのを、ユキは本能的に感じ取った。
 もう、誰も――助けてくれる人はいない。
 あの夜、逃げ出すように家を飛び出して向かった先が、あの河川敷だった。そして、老人と出会ったのだ。
 月明かり一つない夜だった。
 ユキは豪雨で増水した河川へと身投げをしようとしたところだった。

『どうした? 何がそんなに辛い? お父さんとお母さんはどこじゃ? 助けてくれんのか?』

 老人が声を掛けてきた。
 助けてなどしてやくれない。それどころか逃げ出してきたのだと、うわ言のようにわめき、老人には見向きもせず河川へと飛び込んだ。
 寸でのところでユキの体を抱き止めた老人は、こう言った。

『なら、わしの子にならんか?』

 面白くも何でもない冗談だったが、ユキは壊れたように笑った。頬に涙を流して、泣きながら笑った。
 老人はユキの背中をさすりながら『大丈夫じゃ、大丈夫じゃ』と、何度も言い聞かせた。
 それからだ、月夜のない晩に、あの場所で二人が会うようになったのは。
 その後、家庭は瞬く間に音を立てて崩れていった。母親は徐々にアルコールに溺れて狂っていき、義父は連絡がつかず音信普通となり、どこかへ姿を消し去っていた。当然、婚姻費用などは一切なかった。
 ユキは家を捨てた――義父の好きだった長く艶のある髪の毛もバッサリとハサミで切って――女も捨てた。
 ただ、妹だけは置き去りにしたまま捨てて出て行くことができなかった。こうして時々、食料と光熱費を渡しに様子を見に実家へと来ているのだった。

   ◇

 道行く途中の自販機でミネラルウォーターを買ったユキはリュックの中から薬を取り出す。
 向精神剤に抗うつ剤、抗不安剤。
 それらを無造作に選んでシートから錠剤を押し出すと、今買ったミネラルウォーターで胃の中へ流し込んだ。
 ――薬の転売屋をやりながら、ユキ自身が薬漬けだった。
 ユキの深く侵された傷跡を一時でも忘れさせてくれるのは薬だけだった。薬だけが闇に覆われた心を一瞬だけでも救ってくれる。薬だけが頼りで、薬しか信用できない。そこまでに堕ちていくのには、そう時間はかからなかった。
 最初に薬を手に入れたのは老人からだったが、エスカレートしていくユキを制止しようとした老人の手を振り切ったのはユキの方だ。老人はそれ以上、無理矢理に止めさせようとはしなかった。ユキが転売屋をやりたいと申し出た時も、何も言わず聞きもせず教えてくれた。
 今の生活はこれだけで何とかしのいで生きていっているが、ユキに帰る家はない。
 あの家にはもう二度と帰りたくないし、帰れそうにもなかった。
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