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21.逆鱗。

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「おい、魔女、巡りの魔女! いるか!」


 玄関扉をドンドンと数度荒く叩かれ、リリアンヌは没頭していた手元の作業から意識を引き上げられた。


「魔女、魔女、リリアンヌ!」


 逼迫した大きな声と、そして鼻に付くのは――――――――血の匂い?


「?」
 奥の部屋から顔を覗かせた彼女は、その異変に眉を寄せる。
 ドアの向こうから聞こえる声には覚えがあった。ゼノンに違いない。
 足早に床を踏み鳴らし、玄関へ向かう。
「ゼノン? どうかしたのか?」
 そうして気安く扉を開いて、――――――――絶句した。


「!?」


「あぁ、魔女、いたか! 良かった、早く診てやってくれ」
 扉の向こうには三人の男がいた。
 一人はインキュバスのゼノン。
 もう一人は蜥蜴人のサーラス。見た目は完全に蜥蜴であるが、人語を操り二本足で歩く魔物。
 そうして、そのサーラスに背負われ、ぐたりと力の抜けた肢体を晒すのは。
「どう、した」
 それは、どう見ても彼女の拾い子だった。


 あちこち汚れ破れた服。ぼさぼさの髪に、片方脱げた靴。肩からは赤色が覗いているし、同時に何か妙な気配もしている。サーラスの肩口から覗く顔は青白く、瞳は固く閉じられていた。


 要するに、そこにいたのは怪我を負いボロボロになったサフィールだった。
 診てやってくれというのだから、息はしているのだろう。しているはずだ。


 はあぁぁとリリアンヌは大きく息を吐いた。苛立ちや焦燥を身体の中から追い出すためみたいに。
 動揺を、意思の力で抑え込む。震える暇も恐れる暇もない。助けたければ、何より冷静に迅速に、手足と頭を働かせなければならない。
「…………」
 つま先立ちをして、背負われたサフィールの首筋に手を当てる。平素と同じとはいかないが、指先に脈拍は伝わる。



 生きている。大丈夫だ。生きている。



「悪いが、サフィールを寝台へ」
 大丈夫。
 喉から取り出した声は震えていない。いつも通り、自分は冷静だ。彼女はそう思う。
「一体、何が」
 寝室へ移動しながら問う。答えたのは、ゼノン。
「詳しいことは分からないが、サーラスの住む東の谷の底に、サフィールが飛び込んできたらしい」


 谷底に、飛び込んできた・・・・・・・だと?


「足を滑らせた、ということか?」
「いや、自分の意思だったみたいだ」
「突き落とされた、でもなく?」
「遠目に見ていた低級魔物によると、逃げ切るための行動に見えたらしい。何かに、追われていたようだと」
「――――――――」


 胸の内に怒りの炎が灯る。
 何かに追われていた。何かが、サフィールを害そうとしていた。彼女の、ものを。


「何が森をうろついている」
「手下の魔物に今調べさせてる」


 魔女のものに手を出すとは、いい度胸だ。


 彼女は胸の内で、激しく黒い炎が燃え盛るのを自覚した。
 これほどに強い怒りを覚えたのはいつ以来だろうか。十年ほど前、人間の、それも男の子どもなど純潔の魔女には必要ないだろうから珍しい鉱石と引き換えに寄越せと、失礼千万なことを言い出した同業者と争った時以来か。いや、あの時も“人のものに勝手に価値を付けて、好き勝手言い腐るなんて”と大層腹を立てはしたが、今ほどではなかったと思う。
 だってあの時は、彼女の拾い子が直接傷付けられた訳ではなかったから。


 けれど今、サフィールは怪我を負い苦しんでいる。苦しんでいる。


 この子が、私のものだと理解した上での狼藉か。
 馬鹿なことをする奴らがいたものだ。
 よほど死に急ぎたいらしい。


 いいだろう。それならば、お望み通りに。
 必要なだけの報いを。タダで済むと思うなよ。


 心の内で呪うように言葉を巡らせながら、けれどリリアンヌはサーラスによって寝台に横たえられたサフィールの様子に、隈なく目を走らせた。
「ゼノン」
「んあ?」
「悪いが、手を貸してくれ」
「乗りかかった船だ。付き合うぜ。なぁ、サーラス」
 快く頷いたゼノンに追随するように、サーラスも頷く。この蜥蜴人は人語を操りはするがひどくシャイで、ほとんどのコミュニケーションを頷きと視線でどうにかしようとするクセがある。
「ゼノン、湯を大量に沸かしてくれ。分かっているとは思うが、あまりそこここのものを動かしてくれるな」
「承知してるよ。魔女の住処だ。物の配置一つ、繊細だ」
 そう、色んなものに術式をかけて置いてある。不用意に触ると、痛い目に遭うことになる。
「呪われるのは御免だ」
「大釜と暖炉は大丈夫だ。火を熾すくらいではどうこうならない。裏の井戸も水を汲み上げるのに注意はいらないよ」
「了解」
 部屋を出て行くゼノンを目の端で捉えながら、近くの引き出しから鋏を取り出し、もう一人の男に手渡す。
「サーラス、サフィールの上衣を取り払ってくれ」
 コクリ、頷きが返されたのを確認してからリリアンヌは部屋を出た。
 清潔な布が大量にいる。それからひとまず止血の薬。後は本人を診てからだ。


「大丈夫、死にやしない」


 油断するとすぐに制御下を離れようとする胸の動きを、言葉で無理矢理に抑えつける。


 そうだ、大丈夫だ。あの子には加護がついている。だから、生きている。このまま、生き抜く。
 そもそもあんな深い谷底へ飛び込んでおいて、まだ死んでいないのだ。怪我は負っているようだけれど、それでも全身血塗れとかそういう訳でもない。
「だから、大丈夫」
 必要なものを手に取って、寝室へ戻る。サーラスは既に上衣を取り払ってくれていたので、寝台の上のサフィールは肌を晒していた。
「サフィール、サフィール?」
 声を掛けても、微かな呻き声が漏れる程度。意識はほとんどないようだった。
 出血が見て取れるのは脇腹と肩。脇腹には枝が刺さったままだ。抜くと出血が酷くなるとの判断で、抜かずにおいてくれたらしい。
「腕」
 ボソリと呟かれた声に顔を上げる。サーラスが珍しく自主的に声を発した。
「右腕、多分折れてる」
 肩の傷からそのまま視線を下げる。確かに多少不自然なことになっている。
「……足は、多分、大丈夫だ」
「そうか、有難う」
 胸や左腕、頭など触って確かめてみる。ヒビ程度ならあり得るかもしれないが、大きく傷ついているところはないように思えた。
「右腕で、頭とか、庇ってた」
 枝が突き刺さっているのも右の脇腹だ。頭を庇ったせいで無防備になったらしい。いや、きちんと頭を守ることを考える余裕があったのは、褒めたいところだけれど。
「サフィールが落ちて来た時…………」
「ん?」
「上の方で、何か声が、してた。追われてたっていうのは……多分事実だ」
「――――――――」


 追われていた。
 リリアンヌは、サフィールをそうそうトラブルを起こすような子じゃないと思っている。
 リリアンヌの拾い子であるし、本人に加護もついているという要素もあり、森に住まう者はそもそも彼にそう悪さを働かないけれど、サフィールが割にあちこちの魔物と親しくできているのは、本人の性格・資質によるところも多いのだ。
 そして意思や最低限の礼節通じないものには、近付かないはず。危ないものとは何かを、それこそリリアンヌは彼を拾った当初に散々に教え込んだ。油断するとどうなるのかということを、実践込みで教えたものだ。
 だから、こんなことになるなんて、相当イレギュラーな事態なのだと、リリアンヌはそう思う。


「悪い。声、してたが、落ちて来たのに驚いて、上を確認、できなかった」
「いいよ。助けてくれただけで本当に感謝してる。東の谷から出てくるのが嫌いなお前が、よくここまでサフィールを連れて来てくれたよ」
「サフィールは、その…………親切で、良いヤツだ」
 だから、助けてくれた。本人の仁徳が、こうして本人を助けている。
「リリアンヌ」
 ゼノンが小さな盥を二つ、持って入って来る。
「今大釜の方で沸かしてる途中だが、取り敢えず先に少しだけな」
 片方の方は湯気が立っている。一気に大量に沸かすと時間がかかることを見越して、少量だけ先に沸かしてくれたらしい。
「こっちは水だ」
「助かる」
 受け取った彼女は湯の方に水を少しずつ注いで、適切な温度まで下げてから布を水に浸し、そして硬く絞った。まずは脇腹の方の枝に触れる。
「――――――――」
 チラリと覗いたサフィールの顔は真っ青で、苦しそうだ。気が引けるが、だがそれでもこのままにしておく訳にはいかない。
「っ!」
 覚悟を決めて、リリアンヌは刺さっていた枝を一息に引き抜いた。
「あぐっ! がっ!」
 耳を塞ぎたくなるような咆哮が漏れて、サフィールの身体が寝台の上を跳ねて暴れる。リリアンヌの腕力では荷が重いその反応を、サーラスが手を貸してくれて何とか押さえ込む。
「サフィール、耐えろ。必ずどうにかしてやるから……!」
 とたんにごぽりと溢れ出る赤い液体に思い切り眉を顰めながら、けれど布を宛がい、素早く止血の処置をしていく。
 抜いた枝を見ると、そう深くまでは刺さっていないようだった。内臓は、それほど傷付いていないかもしれない。そのことに少しだけ安堵する。
「うぐぅ、あ゛、い゛――っ!」
 少しでも手早く、けれど荒い動きにはならないように。彼女は注意はするけれど、決して手は止めない。どれだけ痛がり苦しむ声が聞こえても、必要なことだから、躊躇ったりはしない。
 けれどサフィールが声を上げる度に、怒りがどんどんどんどん大きく燃え盛る。許せないという感情が渦巻いて胸を占拠する。
「湯が沸いた。追加で要るか」
「要る。こっちの盥のお湯の温度くらいになるまで、水で割って持って来てくれ」
「分かった」


 冷静さが、必要だ。どんな時でも、感情に全てを飲み込まれてはいけない。
 だから、なけなしの理性で自分を統制する。まずは、この子の命を救わなければならないから。


「肩の方を触る。サーラス、また暴れるかもしれないから、押さえててくれ」
 脇腹の処置を一通り済ませ、手を洗い、清潔な布をまた湿らせて大粒の汗を浮かべる額を拭う。半端に開いた瞳の青が濁っている気がして怖くなる。
 嫌な想像を追い払うように頭を振ってから、リリアンヌは肩口に目を落とした。
 こちらも、何かが刺さったような傷跡だった。傷口自体は、だから小さい。
「…………矢か?」
 出血は、脇腹に比べると少ないように思えた。けれどやはり、違和感は拭えない。ただの傷という感じではなかった。
「――――――――」
 そっと手をかざし、神経を研ぎ澄ませて内側を探る。それが自分の知るどんな気配と近いのか、永くを生きて来た経験から引っ張り起こそうと試みる。


「これは…………」
 そうして彼女は当たりをつける。それが何か、経験から答えを弾き出す。
 知っていた。とてもとても遠い昔に、けれど触れたことがある種類の力。


「魔女?」
 サーラスが不安げに窺って来る。
「追われていたと、言ったな」
「あ、あぁ……」
 それがどんな種類の人間か、リリアンヌには見当がついた。


 サフィールの傷口から漏れ出す気配。その身に流れ、単なる傷以上に本人を蝕んでいる力は。


「――――――――追っていたのは、恐らく神官だ」


 これは、聖具による傷なのだ。だから単純な傷より性質が悪い。そして、聖具を扱う存在なんて種類が限られている。



 神官。
 それはとてもタイムリーな単語でもあった。




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