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第4話 みんななんにも分かってない

みんな分かってない【入籍編】 その5

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「香凛」
 沈黙が重かった。
 香凛は帰りの車の中でも一言も口を開かなかった。
 ぐっと引き結ばれた唇がどんな言葉を押し殺しているのか、想像してもその想像が合っているのかは全く分からなかったし、下手な言葉をかけてしまったらと思うと怯む自分もいた。多分、今はどんな言葉も余計な刺激にしかならない。
 だが、帰宅して玄関扉を閉めたところで限界がきた。
 そもそもお互いずっと黙り続けている訳にもいかない。


「なんで勝手にお袋の言うことを受け入れた」
 こっちは正直納得できていなかったのだ。
「今更別々に暮らすなんて、オレは到底承知できないぞ」
 手放しでおめでとうなんて言ってもらえないだろうと、オレも香凛も分かっていた。だが、実際に受けた否定は重い。親父も最後には“もう一度よくよく考えた方がいいんじゃないのか”とそう言った。
 正直、それなりにショックを受けている自分がいる。
 だが、香凛の受けているショックは自分のもの以上だと思う。今、その心中は揺れに揺れ、収まる気配はないのではないか。そんな状況の香凛を手放せる訳がない。一人にしていいとは思えない。悪い方悪い方へ考えは転がる一方だろう。
「必要なことだと思ったの」
 だが香凛は平坦な声で、きっぱりと返してきた。
「だってこのままじゃ、ただ自分達の主張を叫ぶだけじゃ、絶対に何も変わらない」
 きっぱりと言うが、けれど視線は床にじっと落とされたまま動かない。こちらの目を見ない。
 それを迷いと見るのはオレの勝手な願望か。
「それに、これ以上余計に芳美おばあちゃん達を刺激したくない。受け入れらないんでしょう、そういう関係になってしまった私達を。私達が同じ家で暮らしてるだけで、きっと色んな想像が巡って、それが忌避感を強めることになるんだと思う。でも、別々に暮らせば、少なくとも私達が同じ空間を共有していないことにほんのちょっぴり落ち着けると思う」
 言っていることが分からない訳じゃない。
「押すだけじゃダメだよ。譲歩って言ったら、何か偉そうだけど、相手の言うことにも受け入れる姿勢を見せなきゃ、じゃなきゃ」
 その通りだとも思う。
「一生、否定され続けちゃう」
 だが。
「離れて暮らして、それでも心が変わりませんでしたと言えば、それですんなり認められると思うのか?」
「それは……」
「相手が絶対に認めないと心の底から決めきってしまっていれば、何をしても意味はない。ただ時間が浪費されるだけで、誰も何も手に入れられない」


 時間はいつだって有限だ。
 もちろん、時間を置くことが必要な時だってある。それに、大切にしたいものは沢山ある。
 香凛が大切だ。香凛が望んでくれている間は、その手を離すことはしない。
 だが、当然親のことだって大切だ。大切な家族だ。
 不安にさせたい訳じゃない。心配をかけたい訳じゃない。安心させたい。
 どうでもいいと言える相手ではないのだ。だから心苦しい。


 けれど、知っている。
 全てを手に入れることはできないこと。人生は取捨選択の連続だということ。いつでも百点は取れない。
 時には何かを選び、何かを手放さなくてはならない。


 親のことをどうでもいいと、今ここでそんなことを断言はできない。
 絶縁しても、それでもいいとは思えない。だが。


「別々に暮らせば、その事実に少し拒否反応が治まるかもしれない。だがそれは離れて暮らしているからだ。問題の根本解決でもなんでもない。対処療法だ。一緒になりたいと言ってるオレ達の主張とは逆を行く対応だ。そうやって、いつかお袋たちが根負けしてくれると思うのか?」
「でも。でも、今」
 オレの言葉に香凛の眉がきゅっと寄る。


「他にできることがない」


 独り言のような呟きには力がなく、疲れが濃く滲んでいた。


「香凛……」
 そしてようやくこちらを見た顔が、弱々しく無理に笑みを浮かべる。
「それに確かに言われた通り、私達もうずっと一緒でべったりだったよね。毎日毎日お互いが手の届く距離にいるのが当たり前で、そうじゃない暮らしを知らない。それってやっぱりちょっと特殊な状況だったよね」
 認めて、言われたこと全てをそのまま受け入れようとしているように見えて、腹の底で感情がうねる。
「離れて暮らせば冷静になれると? 冷静になれば、今までが異常だと気付けるかもしれないと?」
 冷静でいなければいなければと、そう思っていたはずなのに、口を突いて出たその語調はどうしても強くなっていた。
「違うよ! 言ったでしょ、それでも変わらないと思うって。今更、気持ちが変わったりしない、そんなこと絶対にない!」
 それに刺激され、抑えが効かなくなったように香凛も感情的に返す。
「離れ離れになったって、そんなことで手放せる気持ちじゃない。いくらでも、納得できるまで私達を試せばいい……!」
 お袋の提案を呑み込もうとする香凛が冷静なのか、自棄になっているのか今一つ判断しきれない。
 余計に刺激するべきでないという言はその通りにも思えるし、何なら反対している自分の方が幼稚な主張をしているのではとすら思う。
 だが、好きなだけ試せばいいのだと、いくらでも受けて立つと、自分の気持ちは変わらないのだからと強く主張する香凛は自棄に、躍起になっているように見える。
「……それで別々の暮らしをいつまで続けるつもりだ。一月二月でどうこうなる問題じゃない」


 半年、一年、二年――――いや、五年、十年経ってもお袋達は反対の意思を貫いているかもしれない。
 どうやったって相手の気持ちが変えられないと気付けば、諦めてここに帰ってくるのか。だがそれは一体いつの話になるのだ。
 年の差があるからこそ、オレ達には、いや、少なくともオレには半年、一年がとても大きく、あまりに惜しいと言うのに。


「じゃあどうしたらいいの」
 ポジティブかネガティブかで言えば、香凛は断然ネガティブなのだ。物事を重く重く重く受け止めて抱え込んで、そしてどこまでも沈んでいく。
「ここで今までと変わらない暮らしをして、相手を説得できると思う?」
「するしかないだろう」
 この間の会社でのトラブルだってそうだ。
 香凛は本当に追い詰められるまで何も口にしなかった。
 あれだって偶然が重なって、たまたま近い人間が話を聞くことができたらこそ、問題が明るみに出たのだ。
 あのまま、ひたすらに隠し続けられていたら、一体どんな最悪の事態になっていたことか。


「私は、一度離れてみるべきだって芳美おばあちゃんの言葉に、一理あると思った。皆が一度冷静な心で現状を振り返れる状況が必要だって。だから、決めたの。同意したの。売り言葉に買い言葉って訳じゃない」


 感情的になってのことではないのかもしれない。
 よくよく考えた上での結論かもしれない。
 だが。


「一人で決めることじゃないだろ、これはオレと香凛、二人の問題だ。オレを蔑ろにしちゃいないか」
 そう、二人で考えて決めることではないのか。
「そもそも一人暮らしなんて、オレは反対だ」
 そうだ、反対なのだ。認めるつもりがない。
 今までだって、機会がなかった訳じゃない。大学進学時、香凛はそれとなく一人暮らしという選択肢を仄めかしてみせた。けれどオレはそれを是としなかった。
「一人暮らしなんて、ダメだ。昨今物騒な世の中なのに。心配でこっちがやってられない」
 理由は、この通りだ。娘であっても、恋人であっても心配の内容は変わらない。
「物騒っていうのはそうかもしれないけど、でも私ももういい大人だよ。頼りなく見えるかもしれないけど、小学生だった、あの頃の自分じゃ何もできなくて途方にくれてた子どもとは違うの」
「香凛はそのつもりかもしれないが」
 確かに香凛は、式場でひっそり大人達の会話に耳を澄ませ、全ての命運を任せなくてはならなかった、あの頃の幼い香凛とはもう違う。違うが。
「オレにとって香凛は娘でもある。それは変えられない。娘を持つ父親としても、一人暮らしなんて認められるか。この間、あんなことがあったばかりなのに」
 世の中にどれだけ恐ろしい事件が溢れ返っていると思っているのだ。
 傍で生活していたって、ふとした隙に不幸はその手を伸ばして来る。成人してるとかそういうことは、安心の指標にはならないのだ。
 先日の一件だって、向こうはこちらの自宅を突き止めていた。それが、どれだけ危険で恐ろしいことか。


「父親でいちゃダメでしょ!」


 だが、何とか引き留めようと出した論法は、余計な煽りになってしまったらしい。


「過去を否定したい訳じゃない。でももう“パパ”じゃダメなんだよ。都合が良い時だけ親子という形を盾にしちゃダメなの」
 それは痛い指摘だった。
 確かに、結婚したいと言いながら都合に合わせて父親の立場を持ち出すのは卑怯だ。腹を括ったと言いながら、実際は括れていない。
 香凛を娘でなく、一人の女性として扱いきらず、どの口が結婚などとほざくのか。


 では。
 偽りなき本音を口にするなら。香凛を行かせたくないのなら。


「~っ、今のお前を、一人にしたくないんだ!」


 絶対に思い詰めてしまうから。
 思い詰めてしまっても、傍にいなければその肩を抱き寄せることも、気休めでしかないにせよ慰めを口にすることも叶わない。何もできない。
 できないまま、香凛が何かとんでもない結論に至ってしまったら。


 オレの言葉に、香凛の顔が盛大に歪んだ。


「でも、ダメなの」


 歪んだが、それでも涙を零すことはしなかった。


「辛いからって、楽な道を取っちゃダメなの」
 気付く。
 香凛の心が頑ななまでに決まっていることに。テコでも考えを変える気はないのだ。
 それはそうかもしれない。香凛は既にお袋の前で同意を示している。啖呵を切ってしまっているのだ。
 本人にしてみれば、今更それを翻せる訳がないのだ。
「……人を不幸にしたい訳じゃない。でも、自分の幸せも捨てられない」


 泣けばいいのに、と思った。
 泣いてしまえばいいのに。
 オレの前で我慢をしてくれるな。


「私は他を選べないよ。でも、だったら、いくらかの痛みや都合の悪い展開も引き受けてみせなきゃいけないと思う」
 一人で全部決めるなよ。自分が諸悪の根源みたいな、そんな顔をするな。
 言いたいことは沢山あったはずだが、どれも実際には音にならなかった。


「他に劇的な方法を提示できないなら、私を止めないで」
 一時的に離れて暮らしても、それが何になる訳でもないと、やはりオレはそう思うが。
「別れるって言ってるんじゃない。考え直したいって言うんじゃない。でも、考えが足りなかったところとか、甘かったところ、だから周りの反応を受け入れられてないとこも沢山あるの。…………やっぱり、冷静になるべきは周りだけじゃなくて、私もだし、征哉さんもなんだよ。だって、全然現実を受け止めてきれてない。少なくとも、私は」
 そう言い切って、それからの香凛の行動は早かった。
 全部一人で決めて、そうしてあっという間に本当に家を出て行ってしまった。


 現実を受け止めきれていないと言った香凛が、一人暮らす部屋で一体どんな風に過ごしているのか、オレは毎日毎日気が気でない。




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