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第4話 みんななんにも分かってない
みんな分かってない【入籍編】 その3
しおりを挟む「申し訳ありません、私が、私が悪いんです」
はちきれそうな、声。
「私が、飲み込まなかったから、望んだから、だから征哉さんは」
香凛がそう言った瞬間、お袋が気色ばむ。
「征哉さん!?」
鋭い拒絶。
「っ……!」
剣幕に怯みながらも、けれどそれでも香凛は言葉を続けた。
「パパは」
お袋を極力刺激しないように、拒絶を示された呼び方を“パパ”と変えて。
「パパは確かに私の父親でした。間違いありません。そこを逸脱するようなこと、決してしてきませんでした。違うんです。私が悪いんです」
「……香凛」
「私がそれ以上を欲しがったんです。私が、均衡を崩したんです。だからこんなことになったんです」
「香凛」
下げられたままの頭。その顔が、どんな表情を浮かべているのかはっきりとしない。
泣いてはいないか。泣いていずとも、必死に涙を堪えているのではないか。
「でも、でも私が分不相応なものを望むより以前には、決して、決して疚しいことは何もありません。二十歳を超えるまで、パパは私のパパでしかなかった。どんなおかしな空気が流れることもなかったし、だから親子以上の何かが発生したことなんてありませんでした。それは、本当に本当です。パパの名誉にかけて、絶対に、何もありませんでした」
吐き出される言葉は全部が全部、香凛自身に矛先が向いていた。全ての責任は自分にあると、そう語っていた。
香凛が悪いなら、当然オレも悪い。
香凛を拒まなかった。香凛以上に分別を必要とされていたはずなのに、分別よりも互いの感情を優先させた。手を出した。一線を超えた。
そもそも、親だったクセに、そう振る舞ってきたクセに、恋情なんかを抱かせている時点でオレに不手際があったのかもしれない。
子どもは親に恋情なんか抱かない。“パパと結婚する”なんてそれこそ幼い子どもが言うことで、成長すれば愛情の種類はきちんと分類されていく。
オレがきちんと香凛の父親になれていなかったから、香凛に恋情を抱かせてしまったのかもしれない。
とにかく、今のこの状況になった経緯を考えた時に、香凛だけが悪いだなんて、そんなことは絶対にない。絶対に、ない。
「私が、欲張ったんです。どうしてもこの人じゃないとダメだって、私が手を出させたし、私が後戻りできないような関係に持ち込んだんです」
「香凛!」
聞いていられない、と思った。
一体その胸がどれだけ痛みを孕んでいることか。想像するだけでやりきれない。
だが、どれだけ止めても香凛は言葉を続ける。
「でも、どうしても」
香凛が分かってほしいのは、オレ達二人の関係ではない。
本当に想い合っていることを理解してほしいのではない。
況してや、結婚を認めてほしいと思っている訳でもない。
「どうしてもパパがいいんです。他の人では心が動かないんです。望んでいるし、望まれたい。世間体が悪いことは、それが社会的な地位を脅かすかもしれないことは、分かっています。それでも、私の心は、どうしても変わらなくて」
香凛が、分かってほしいのは。
「パパが異常だって訳ではないんです。娘に簡単に手を出した訳じゃないんです。私が、出させたんです」
オレはおかしくないと、考えなしではないと、そのことなのだ。
この期に及んで。
「香凛、もういい」
先日、香凛は会社の人間に標的にされた。卑劣なやり口だった。
あの出来事は、元々香凛が感じていた罪悪感をひどく刺激したのだ。事態は何とか一応の解決を見せたとは言え、されたことがなかったことになった訳ではない。その心には余計な影が差した。
香凛は折に触れて思い出し、引き摺るだろう。
あの一件で、多分香凛が一番堪えたのは“異常”という、その言葉なのだ。
お前の父親は異常だという言葉は、呪いのようにその身に沁みついてしまったのだ。
頭を上げさせようと肩に触れたが、香凛は頑なに動こうとしなかった。そんな香凛に、お袋は言う。
「……征哉は今まで十分、父親としての役割を果たしてきたと思う。それは、皆が認めることよ。ちゃんと、父親だった。私達は、幼いあなたと、その隣りにいる征哉を確かにこの目で見てきた」
口火を切ったのがお袋だったから、全てをお袋に言わせてしまっている。けれど恐らくお袋の発言は、この場の全員の発言と思ってもそれほど差し支えはないだろう。
「征哉があなたの父親になったことに、私達は誰も否定的な意見を言うつもりはない。だってあなた達親子が幸せにやってきたことを、誰より近くで見てきて知っているからよ。でも――――」
親子であるオレと香凛を間近で長く見てきた面々だからこそ、きっと忌避感が強い。それは分かっていた。
「でも、それが男女の関係なんて、娘が、父親に……父親が娘に」
分かっていたが、想像と現実は違う。現実の威力はあまりに強く重い。
「もうそろそろ、いい加減にしてちょうだい……」
力なく吐き出された声は心底疲れていて、だからこそ示される拒絶が本物なのだと重ねて教えられる。
「……自分達が、何を言ってるのかは、分かってるつもりだ」
香凛の肩に手を掛けたまま、今度はオレが口を開く。
「簡単に受け入れてもらえるとは、理解してもらえるとは思っていない」
そうだ、こうなることは想定済みだったはずだ。想像より現実が重く痛いのは当たり前のことで、これで怯んでしまっていては何も始まらない。
「でもこれはオレ達にとって、決してマイナスな選択じゃない。今言われたことを全部全部考えた上で、出した結論なんだ。幸いというか、オレは自分の私生活をほとんど他人に晒さずに過ごしてきた。娘と父親のことを知っている人間はそういない。リスクは、最小限に抑えられると思ってる」
もちろん、調べられれば知られてしまうことは分かっている。先日の一件でよく分かった。
心ないヤツも世の中にはごまんといる。それも分かっている。
それでも。
「少なくとも、不幸になるための選択じゃない」
幸福のための選択なのだ。
「……っ、頭を、冷しなさい」
しばらくの沈黙の後、絞り出すようにお袋はそう言った。
「今まで、二人だけで共有してた事実をこうして示し開いて、身近な人間の反応を見て、自分達の関係がどういうものか、どういう反応を示されるものか分かったでしょう」
そろそろと、力なく香凛が顔を上げる。その顔はひどく強張っていたが、涙の気配は見て取れなかった。そんな香凛の瞳と、お袋の目が合う。
「…………あなたにとって、征哉はあまりに大きい存在だったでしょう。誰より頼り甲斐があって、救いそのものだったのかもしれない。あなたの人生の中で、征哉が占める割合は、きっと私達の想像よりもっと上だと思う」
「――――」
「だからこそ」
お袋は問いかける。
「憧憬や、依存、他の名前を持つものに、無理矢理恋愛の意味を被せているんじゃない? 絶対にそれはないと、言い切れるの? 思い込みなんかじゃないって」
「それは、っ……」
香凛は即座に反応しかけて、だが途中で口を噤んでしまった。
それは言い切る自信がないからではないと、オレには分かっていた。
違うと、思い込みではないと言うことは簡単だ。
だが、目に見える何かで証明はできない。何か数値や形に出るものではない。実感して、納得してもらう他にはない。
けれどこれだけ反対されている今、実感などそう容易くにしてもらえるものではないし、ということは納得など到底してもらえない。
言葉で説明してみせても、その無力さに香凛は気付いている。
「――――僕は別にいいと思いますけどね」
言葉を失った香凛に代わるように、それまでだんまりを貫いていた香凛の叔父が不意にそう言った。
いいと思う?
肯定的な意見が出るとは夢にも思っていなかったので、その反応に驚く。
「香凛は真っ直ぐな子に、立派な社会人に育った。香凛がそんな風に成長できたのは、誰が判じたって征哉さんのおかげでしょう」
彼は落ち着いた声で言う。
「僕らはあの時、皆一様に香凛のことを手元では育てられないと判断しようとした。無理だという理由を並べはしても、それを押して自分達の手で香凛を幸せにしようとはしなかった」
もちろん、それぞれに事情があったし、僕も無理だと言った一人だから、人を責められる立場にはないし、そもそも責めたい訳ではないですよと言い添えられる。
「ただ今日までの長い間、誰より労を払って、誰より香凛を大切にしてきれくれたのは、この場の他の誰でもなく征哉さんでしょう」
思わぬ肯定に、喜びよりも戸惑いが大きかった。
彼は海外在住ということもあって、今まで言葉を交わす機会もなかなかなかった相手だ。深く語り合ったことなど当然ないし、だから彼が自分のことをそんな風に捉えていたとは全く思わなかった。
「正直驚いているし、一体何がどうなればと思ったのも事実です。でも“何がどうなった”のその中身を僕達は知らない。二人が今日この日まで助け合って生きてきた日々を、時折外から眺めていただけだ。手を差し伸べたこともあったかもしれないけど、でもそれは恩を着せるようなことではないし、差し伸べて当然の手だったようにも思う」
それは各々香凛やオレに対する情があったからかもしれないし、仕方がなかったとは言え香凛を施設に預けようとしたその罪悪感が常に胸に残っていたからかもしれない。多分、きっと両方だろう。
「何が言いたいって、つまりそう、あの時香凛を手放そうとした僕達に、彼に全てを負ってもらった僕達に言えることは、あれこれ言う権利はほとんどないってことです」
居住まいを正してから、彼はまっすぐお袋に語りかけた。
「言われることは尤もだ。親なのだから、親族なのだから心配するのも分かります。誤解とリスクが多分に含まれた関係で、いくら今まで周りに親子の関係を伏せていたとは言え、どこから何がどう漏れたり、妬みや嫉みからありもしない噂をされるか分からない」
親としては心配なことが色々とあるだろう。会社や友人などにはほとんど知られていないとは言え、親戚では事情を知っている人もいくらかいる。オレ達の選択が、この場にいる人間に肩身の狭い思いをさせることもあるだろう。
結婚するにあたって一番大切なのは当人同士の気持ちだとは思うが、お互いに持っている背景、家族だってそう簡単にないがしろにできるものではない。だから、辛い。
「でも、それが理解できない、想像できない人間じゃないでしょう、二人とも」
彼の肯定は有り難い。全員に否定的な目をされると思っていたから、そうではないのだと知れてほんの少しそのことに慰められる。
「きっと今日のこの反応だって予想はしていたはずだ。自分達の関係に対する反応が分かっているからこそ、こんな風に強張った様子で結婚の報告を切り出しているんだし、だからこそこの四年、浮かれた様子を見せもせずに自分達の関係を秘めてみせたんでしょう」
だが、彼の肯定だけでは足りない。
「無責任だと思われるかもしれませんが、香凛が沢山の愛情を、もちろん疚しいことのない曇りのない愛情を受け取って育ってきたことがよく分かるから、だからこそもう二人の好きにすればいいんじゃないかって思うんですよね」
この場の他の人間の心を動かすことは、できない。
「この世で一番香凛を慈しめるのは、多分、間違いなく征哉さんですよ」
こんなにも有り難い言葉はない。
今までの子育てを自分の中で否定せずに済む。
それでも。
「二人のことで何か不都合が起きたとしても、その何某かの影響が周辺の僕達にあったとしても、それくらいは跳ね返す度量がこちらに必要だと、そういうことだと思うんですけど。否定をしても、二人の関係が既にとっくに変わってしまっていたことは、もう絶対になかったことにはできないんですから」
それでも、きっとオレの両親の意見は変わらないだろう。
「海外に住んでてお気楽なお前が言うなと、そう思われるでしょうけど」
「…………そうね」
案の定、お袋は彼の締め括りの言葉に頷いた。
「あなたと私達とでは、また立場が違う。私と旦那にとって征哉は大切な子どもだし、血の繋がりは無いとは言え、それでも香凛ちゃんのことは孫だと思ってきたの」
香凛の子育てで一番頼ったのも両親だ。この二人は親子としてのオレ達をずっと間近で見てきた。
「正直、そう簡単におめでとう、結婚したらいいわとは言えない」
そう言ったお袋の顔が、わずかに歪む。
「私だって……私だってこんな風に嫌なことばかり捲し立てたい訳じゃない。でも今日明日で心が整理される問題じゃないのも事実よ。到底認められそうにないというのが、今の正直な気持ちよ」
やがて、お袋は深い溜め息と共に言った。
「…………頭を冷やす必要があると思うわ」
頭を冷やす、必要。
オレが、香凛が、オレ達だけじゃなくこの場の全員が。
「時間と距離が必要だと思う」
「時間と距離……?」
「いつまでも同じ屋根の下にいるから、お互い感覚が麻痺しているんじゃないかしら」
オレ達を見て、お袋は言う。
「一度離れてみるべきよ。自分達がいかに限定された状況で、少ない選択肢で生きてきたのか、それをきっちり実感した方がいいわ。もうずっと、あまりに長い間、あなた達は一緒にいすぎたんじゃない? 一度も離れて暮らしたことがない、常にお互いが隣りにいる状況じゃ、何かを客観視できる状態とも思えない」
冷静になれば、他の選択肢が見えてくるんじゃないかと言いたらしい。
他の人間にも目が向くのではないかと。浮かされた熱も落ち着くと。幻想も解けると。
「お袋、中途半端な気持ちで言ってる訳じゃないんだ。覚悟があるから報告してる。今更精算できる関係じゃない」
離れて暮らしたところで。時間を置いたところで。
ただ徒に年月が過ぎるだけだ。
オレだって、他の可能性は考えた。何度も何度も考えた。自分はともかく、若い香凛にはもっと沢山の選択肢があるだろうと。
社会人になったタイミングなんて、まさに香凛が新しい世界に気付く機会だと思った。もしかしたら、オレ以外という選択肢に気付くかもしれないと。
けれど、香凛は折々に沢山新しいものに触れてきたはずなのに、それでも結局オレを選び続けてくれたのだ。
そしてこの先もきっとそうしてくれるだろうと確信できたらからこそ、結婚を決意した。
今更。今更時間や距離を取ることに、意味など見い出せない。
「分、かりました」
だが、そう考えていたオレの耳に、思いも寄らぬ言葉が飛び込んできた。
びっくりして、隣りのその顔を見遣る。
「おい、香凛?」
何かを決意した顔で、香凛はお袋の言葉に頷いてみせたのだ。
「そうします。…………言われた通りに、します」
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