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第3話 2人はやっぱり分かってない

2人は分かってない【香凛社会人編】 その22

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 医務室に着いたら、先輩の予想通りベッドに放り込まれた。


“帰るにしても、もう少し顔色をマシにしてから。これじゃ途中で倒れる”


 保健師さんにもそう言われて、私はようやく自分の状態を自覚した。自覚した途端に、虚脱感が襲って来た。


 怖かったのだと、恐ろしくて堪らなかったのだと、改めてきちんと認識すると、思い出したみたいに手足は震えた。
 幸い“貧血”ということで押し通せ、様子を怪しく思われることはなかった。


 自力で帰れるだろうと判断されたのは二時間後ぐらいで、私はのろのろと皆より少し早めに帰路に着くことになった。ちなみに荷物は隣の席の先輩が持って来てくれて、課長の許可も下りてるから大丈夫だよと教えてくれた。



 会社の外へ一歩出ても、全く気は休まらなかった。


「だって、何も、解決してない」


 ただただ逃げ出してきただけだ。目の前の難から逃れて来ただけなのだ。
 心配してくれた先輩にも何も話せない。でも自力でできることも限られている。捨身を覚悟して出るところに出る手もあるけれど、その場合本当の意味で捨身を覚悟しなくてはならないのは私ではなく、征哉さんだ。
 一人で決められることではない。けれど、あなたを脅しの材料にされているなんて、本人に言えるはずがない。
 あんな、酷い言い草を。



「香凛ちゃん?」



 頭の中がぐちゃぐちゃだった。
 家に帰るべきだし、体調的にもそうするのがいいことは分かっていたけど、帰れないと咄嗟に思った。そんな折にふと名前を呼びかけられて、私は声がした方に顔を向けた。


「――――深雪みゆきさん」


 雑踏の中見い出せたのは、征哉さんの大親友・広平君の最愛の奥さんだった。
 深雪さんは私と顔を合わせた瞬間、驚いたような顔をした。
「香凛ちゃん、具合悪いの?」
 急いで駆け寄って来て、開口一番そう言われる。やはりまだ顔色がおかしいらしい。
「風邪? 熱ある? 大丈夫?」
 深雪さんはパッと自分と私の額に手を当てたけれど、比べればすぐに熱がないことは分かっただろう。むしろ冷たいくらいかもしれない。
「病気じゃないんで、大丈夫です」
「でもこの時間、もしかして早退なんじゃ?」
 相手に不審に思われないように微笑を意識しながらやんわりと言ってみるけれど、深雪さんはなおも心配を募らせていた。
「香凛ちゃん、本当に風邪とか、そういうのじゃないの?」
「じゃないですよ」
 再度確認されて、同じように否定してみせる。


 けれど。


「じゃあ、何があったの」
 深雪さんは、そこで単純に納得しなかった。しないで、更に一歩踏み込んで来た。
「普通の人はそんな顔色で歩いてないよ。会社で何かあった?」
 自分を幼い頃から見知っている相手だけに、見透かされている気がしてしまう。
 美雪さんは、いつでも困った時に助けてくれるお姉さんだった。"パパ"に相談できないようなことは、深雪さんが頼りだった。
 別に血縁でも何でもない旦那の友人の養い子に、彼女はびっくりするくらい親身になってくれたものだ。


「なにも」


 私は、深雪さんに弱い。


「な、いです」


 違う、深雪さんを前にすると、私の弱いところが出てきてしまう。深雪さんは他人かもしれないけれど、私の懐の内にいる人で、彼女に対する甘えみたいなものがどこかにあるから。


「香凛ちゃん」
「ないです。そんなに心配、しないで」


「香凛ちゃん、大丈夫」
 深雪さんは私と目を合わせて、力強く言ってみせた。


 大丈夫だと。


「話しても、大丈夫」



 話しても、大丈夫だと。










 深雪さんに連れられて、大通りを歩いた。数分立たない内に、一軒の喫茶店へと足を踏み入れていた。


 入ったことのない喫茶店だった。
 でも席が所謂ボックスタイプになっていて、区切られている感じが何となくプライバシーが守られているような気にさせてくれる。店内は込み合っていて人の声に満ちていた。BGMで流れているのはジャズらしい。
「奥のお席にどうぞ」
 勧められて、示された席に着く。美雪さんがメニューを開いて見せてくれたけれど、私の目はその上を滑るばかりだった。
「ご注文はお決まりですか?」
 だから店員さんがお冷を持って来てそう訊いた時、
「深雪さんと同じものを」
 としか私には言えなかった。
「じゃあミルクティーを。ホットとアイス、一つずつ」
「かしこまりました」
 そうして運ばれて来たミルクティーのホットは、当然のように私の前に置かれた。どうやら彼女にも私には温かい飲み物が必要なように見えているらしい。
 他人の対応で、自分がどれほど悪い顔色をしているのか認識する。


 そうして、お互いに運ばれ来たものに口をつける。


「深雪さん、航生こうき君と仄香ほのかちゃんは」
 何か言わなければと色々考えて口を突いて出たのは、藤方家の二人の子のことだった。
 そう言えば、深雪さんが平日のこの時間に一人で街にいるなんて珍しいことのように思う。
「今日は母親が来てて、見てくれるって言うから頼んじゃった」
 だから気にしなくて良いよ、と彼女は続けた。


 私は、何か言わなければと必死に言葉を探す。


「……………………深雪、さん」
「うん」
 彼女は一切こちらを急かさなかった。ゆっくりゆっくりミルクティーを飲みながら、根気強く待ち続けてくれた。


「実は、会社で」
 そう切り出すまでに、一体どれほどの時間を要したのだろう。
 長い時間だというのは私の体感の問題ではなく、実際のことだっただろう。じっと見つめていた深雪さんの手元のグラスの氷は、すっかり溶けていたのだから。


「それで、貧血ってことで、さっき、早退する運びに、なって」
 話し始めるまでも長かったけれど、話終わるまでも長かったと思う。要領を得ていたかも定かではない。けれど話終わってから思い切って顔を上げたら、そこには唖然とした顔の深雪さんがいた。


「あの、ややこしいこと、話して、ごめんなさい」
 言ったら、深雪さんは唖然としていた表情を見る見る変化させて、今度は怒りいっぱいになった。
「だからでしょ!」
 テーブルの上で握っていた拳を、上からぎゅっと包まれる。
「ややこしいことだから、一人じゃなくて共有しなくちゃ解決できないよ」
 戸惑いのない、真っ直ぐ通る声。
「あぁ、今日、香凛ちゃんに会えて良かった。このタイミングで、会えて良かった」
 心の底からそう思っていることが伝わる様子で深雪さんは言った。


 そうか、と今更ながらに思った。
 私が今回の件を何とか話せる相手は、よく考えて見れば深雪さん以外にはあり得ないのだ。
 私と征哉さんの関係を知っていて、同じ女性で、今までも頼ることを許してくれてきたこの人に話せなかったら、私は他の誰にも絶対に話せない。


「誰にも言えなかったんだよね、言える訳ないよね、だって最低の脅しをかけられて」


 それでも深雪さんと直接、パパではなく自分の恋人としての扱いで征哉さんのことを話すのは初めてだった。


 深雪さんも私と征哉ゆきやさんの関係を知っていることは知っていた。
 広平君から話してもいいかって言われて、私はそれを承諾した。
 でも深雪さんからこそっと“話は聞いてるから、何か困ったことがあったらいつでも言ってね”と言われたきり、私も向こうも話題に上げることはなかった。
 私の場合は、深雪さんが心の奥底ではこちらの関係を好意的には受け止めてはいないかもしれないと、それが怖くて今まで避けていた節がある。



「わ、私のせいで、征哉さんの立場を、脅かすようなことに、なって」


 でも結局、こうして頼ってしまっている。


「香凛ちゃん、それ、よくない考え方だよ。何でこの状況で“私のせい”なんて言葉が出てくるの?」
「だって、私が迂闊に目を付けられたから、こんな、ことに。征哉さんは何にも関係ないのに」
「違うよ。香凛ちゃんにだってそもそも関係ないよ。誰のせいって、どう考えてもその高山って男でしょ。勝手に向こうが目を付けてきたんだよ」


 それはそうだけれど。


「そいつが悪いんだよ。誰が見ても明白じゃない。香凛ちゃんのどこが悪いの? 相手のしてること考えたら、ただの犯罪だよ。最低野郎だよ。言い訳の余地なんてないし、そいつが然るべき処罰を受けなきゃいけない人間だよ」


 香凛ちゃんが悪い訳じゃない、ともう一度深雪さんはゆっくりと繰り返した。




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