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第3話 2人はやっぱり分かってない
2人は分かってない【香凛社会人編】 その5
しおりを挟むお風呂から上がると、リビングの隅に置かれたPC用の小さなデスクに征哉さんはいた。
「まだ寝ないの?」
せっかく早めに帰って来れたんだから、明日もあるんだしもう休んでしまえばいいのに。
「ちょっと調べものだ」
「ふーん」
そう思ったけれど、暇潰しのネットサーフィンではないらしい、もしかすると仕事絡みなのかも。
時計を見遣ると十時半過ぎ。早くはないけど、とても遅いと言うほどでもない。
「…………」
どうしようかな、とその背中を見て思う。
先に寝室に入ろうという気分にはならなかった。
せっかく同じ時間に一緒にいられるのに。
邪魔しちゃ悪いけど、近くにいたい。
少し考えてから、自室から買ったままにしていた小説を引っ張り出してきた。ソファに陣取って、ページを捲りながらも時折その背中を眺める。
平日この時間、二人が同じ部屋にいるなんて本当に久しぶりのことだから、本当は少しくらいちょっかいをかけにいきたい。でも分別のある彼女のフリもしたいので、盗み見だけで我慢する。
追いつきたくて、釣り合いたくて。
未だに私の中にはそんな気持ちが常在している。
学生の頃は、その身分だけでどうしよもなく自分が子どもっぽく思えてならなかった。
でも実はそれは社会人になっても変わらなくて、自分にまだまだ慣れないこと、分からないことが山ほどあることに愕然とした。いつになったらちゃんと自分は大人だって、そう胸を張って言えるようになるのだろう。
実年齢と自己認識はどんどん乖離していくばかり。
皆、こんなものなのだろうか。
私には征哉さんがとっても大人に見える。
彼が私にとって救世主のような人だったという点を差し引いても、しっかりとした大人に見える。それは最近の話でなく、ずっとずっと昔、最初の頃からの話だ。
もう二三年経てば、彼が私を引き取ると決断した年に、私もなる。
想像がつかない。自分がそんなことを決断できるような、しっかり自立した人間になっているとは、到底思えない。
だから私は最近、改めて自分の父親代わりだったこの人のことを、とてもとても尊敬している。
どれだけの覚悟が、必要だったんだろう。
どれだけの勇気が、必要だったんだろう。
きっと自信があった訳ではないのだ。不安に思うことの方が多かったはずだ。
それでも、決断してくれた。私を、その手で育てていくことを。
「まだ寝ないのか」
不意に、征哉さんが振り返る。たまにしか掛けないメガネ。そのレンズの向こうの瞳と、私の瞳がばちりと合う。
やばい、盗み見してたのバレたかも。
内心慌てながらも、外面は澄まして答える。
「自分だって」
「一通り済んだらすぐ寝るよ」
特別フェチって訳じゃないけれど、実はメガネをかけたバージョンの征哉さんもすごく好きだ。普段と一味印象が違って、ついついきゅんときてしまう。
「私も、もうちょっとだけ。今面白くなってきたとこだから」
「それ、やめ時が分からなくなるやつだろ」
そしてメガネバージョンの時に苦笑されるといつにも増して魅力的に見えてしまうので、ほどほどにして頂きたい。
「あんまり夜更かしするなよ」
「はーい」
“倦怠期だったの。マンネリしてたの”
何故か明日香の言葉が不意に思い出される。
私と征哉さんの関係が大きく変わってから、三年と半年はもう過ぎた。
親子として過ごしてきた時間と比べたらまだまだだけど、恋人としてはそこそこの時間になってきたと思う。
私は今も相変わらず征哉さんのことが好きで好きで仕方がなくて、もちろん最初の頃よりは落ち着いてはきたものの、未だにときめく瞬間はある。この人の恋人になれたというその奇跡に、とにかく感謝が尽きない。
でも、向こうはどうだろう。
私はいつも自分のことで精いっぱいで、そこまで頭が回っていなかった。
この関係に慣れや落ち着きはある。でも、時間の経過と共に雑に扱われることが増えたかというとそんなことはなく、今も昔も私は大事にされてる。
喧嘩もたまにするけど、取り返しのつかないほど大きなものをした記憶はとんとない。
忙しくても、連絡はくれる。顔を合わせる暇がなくても、机の上にお土産が乗っていたりする。
心配することは、多分ない。多分。
でもなぁ、と改めて思う。
学生の頃、自分の子どもっぽさが嫌だった。それは社会人になっても解消されなかった。
それでも、自分のできることからと思って、コツコツ積み上げて来たつもりだ。
“パパ”と呼んでいたその呼び方を変え、ナチュラルメイクを心がけ、可愛いものより大人っぽい服装を選ぶ。隣に並んでも、極力不自然さが感じられないように。
我儘は言わない。甘え過ぎないようにする。
寂しいとか、そんなのもっての外。仕事が忙しいのは、一緒に暮らしてる私が一番分かってる。困らせたくない。
甘えるんじゃなくて、向こうが求めて来た時に甘えられたい。そういう気持ちが大事。
理解のある、恋人になりたい。
そういう風に思ってきたし、行動してきたつもりだ。
「…………でも」
真正面から自分の気持ちに向き合うと、寂しいという気持ちが少しある。
もっと構ってほしい。たまにはもうちょっとスキンシップがあってもいいと思う。
油断すると、そういう私の思う“大人の女性”とは正反対の、甘えたな部分が出てきてしまう。
最後にそういうことをしたのって、いつだったっけ。少なくともすぐ思い出せる感じじゃない。
キスしたい。してほしい。いやハグだけでもいい。ハグしてもらえたら、ものすごく充電できる気がする。充電、したい。
背中を見つめながら、内心ムラムラしてきた自分に気が付いた。
やだ、こんなのちょっと欲求不満みたいだ。いや、実際そうなのだけど。
したいの、私だけだろうか。向こうはそういう風には思ってない? それは慣れ? 飽き?
そういう気にならないのだとしたら、それは私に魅力が足りてないとか、そういう話だろうか。
いや、魅力というか努力?
社会人になってから気付いたことが、もう一つ。
それは、意外に独身の人っているってことだ。
良いとか悪いとかの話ではない。そんなのは個人の自由だ。どんな選択肢だって、アリなのだ。
私が気付いたのは、つまり、征哉さんと近い年齢でもフリーって人はそれなりにいて、もう少し年齢を下げれば更に沢山いて、要するにそれって合法的なお付き合いが可能な人が沢山いるってことだ。ライバルが生まれる可能性があるってことだ。
浮気を疑ってる訳じゃないんだけど、不安は過る。頭の中で勝手に、落ち着きのある綺麗な女性が征哉さんの横に並んでいる想像をしてしまう。
駄目駄目、根拠のない不安を自分から生み出しちゃ駄目だ。
頭の中から悪い妄想を追い出そうとする。
「…………大丈夫」
小声でそっと呟いて、自分に言い聞かせる。
不安があるなら、それを払う努力をするべきだ。だから来週、頑張るって決めたのだ。
プランは決まった。選んでもらった。プランB、そう、プランBを結構するのだ。
プランBの内容に想いを馳せて、ちょっと不安になる。失敗したら大惨事、いやいや、ここは度胸の見せどころ、当たって砕けろの精神で――――なんてぐるぐる考えていたら、いつの間にか寝落ちしていたらしい。アラームの音で目を覚ましたら、ベッドの上だった。
全く気が付かなかったけれど、運んでくれたらしい。
疲れてるだろうに悪いことをしたと思ったけれど、それと同じくらい嬉しかった。
きっと私が起きないようにそぉっとそぉっと大事に運んでくれたのだと思うと、口の端が緩むのは止められなかった。
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