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第2話 香凛はなんにも分かってない

分かってない【パパ編】 その5

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 電話は、即座にかけた。だが繋がらなかった。
 二回、三回、四回、留守番電話サービスに繋がれるだけで、一向に香凛が出る気配はない。
 出たくないからと無視されているのか、出たくても出られないような状況に追い込まれているのか。


 悪い考えの巡る中、今度はメッセージを入れてみる。


“今、どこにいる”
“誰といる”
“帰りは何時になる”
“早く家に帰って来い”


 しかし一向に既読マークはつかない。


“香凛、返事しろ”
“何かあったのか”
“香凛”


 一方的なメッセージがどんどん連なり溜まっていくだけ。


 時計を確認すると夜の九時半を過ぎたところだった。
 その数字を見つめながら、考え直す。


 まだ、九時半だ。早くはないが特別遅い時間でもない。
 香凛は一応二十歳を過ぎていて、そんなに口酸っぱく咎められるような時間でもない。


 男といるのを目撃したからこんなに慌てているが、本当にその後あの男について行ったかも分からない。危ないことになってるかなんて分からない。全部勝手な憶測だ。
 それなのにこんなに連絡を入れたりして、普通に考えたらオレのやっていることは度が過ぎている。
 それに、そう、香凛は十分自分の行動に責任が取れる。取れなければいけない。
 例え失恋の痛手を癒すのに手っ取り早く新しい恋愛を探していても、それは香凛の自由だし、一つの選択肢だ。必ずしもそれが香凛を損なう訳でもないのだし、横からぎゃあぎゃあ言うべきではない。


 そう、オレはもっと香凛を個人として尊重すべきだ。もうちょっと、信用してもいいんじゃないか。
 ――――――――そうだ、考え過ぎかもしれない。


 冷静さを取り戻しかけた頭が、考えを改める。
 連絡が付かないのだって、地下とか電波の入りが悪いところにいるとか、さっきまでは使ってたけど充電が切れたとか、そういう可能性もある。それに案外もう帰路に着いているかもしれない。
 門限まではまだあるのだ。大騒ぎすることじゃない。悪い方悪い方へ思考を向け過ぎなだけだ。
「…………ひとまず、帰るか」
 もう少し様子を見てもいいだろう。何かを断定するには早過ぎる。
 そう思って、家路を辿った。


 最寄りの駅で降りて、徒歩数分。住み慣れたマンション。
 敷地の入口から部屋のある五階を何ともなしに見上げたが、ここからでは窓に面してないので明かりの有無は分からない。
 一階で待機していたエレベーターに乗り込めば、すんなり玄関まで辿り着いた。
 キーケースから取り出した鍵を差し込めば、素直にドアは開く。

 だが、開けたその先はしんと静まり返り真っ暗だった。


 ――――帰っていないか。


 希望的観測は、やはり希望的なものでしかなく現実にはならない。
 入って電気を点けると、けれど玄関の隅には女物の靴が一足ちょこんと存在していた。
「香凛?」
 案外帰って来ているのか? いや、今日は違う靴を履いてて、単にこっちの靴は出しっぱなしになっているだけか。
 今日はどんな靴を履いてたか。先ほど見かけた姿を思い浮かべてみたが、当然足元に気なんて配っていなかったので、あまり意味はなかった。


 視線をやった廊下も、ダイニングもリビングも暗い。人の気配はない。
 それでも、部屋に籠っているのかもしれない、なんて考えが浮かぶ。


「香凛、いるか?」
 ノックをしてみても返事はなかった。
 少し考えてからそっとドアを開けてみる。
 やはりそこには真っ暗空間が広がっているだけだった。
「………………」
 電気を点けてみる。自分の素っ気ない部屋とは違い、柔らかな色彩の部屋。ベッドで既に丸くなってる可能性はないかと視線を向けてみたが、そこはぺしゃりと均されていて人の気配はなかった。


 安心したくて、もしかしてもしかしてと考えてしまう自分に呆れてしまう。
 ベッドの上のテディベアと目が合えば、知らず知らずの内に溜め息が出ていた。
「オレは何やってんだ……」


 何を、やってきたんだ。
 どうして、こんなことになった。


 あのテディベアは、二人で迎えた初めての誕生日に、オレが香凛に贈ったものだった。よく覚えている。
 女の子の、それも小さい女の子の欲しがるものなんて何にも分からなくて、ネットで検索をかけても情報量が多過ぎて、途方に暮れたのだ。
 分からなくなって、最終的に安易な発想で、ぬいぐるみがいいんじゃないかと結論付けた。ぬいぐるみと言えば、くまだ。あれだ、テディベアだ、と。
 香凛が喜んでくれてホッとしたのを覚えている。
 あの頃はまだ香凛もオレに慣れていなくて、お互いおっかなびっくり探り探り暮らしていた。“パパ”と呼ぶ声も遠慮がちで、いつだって最低限しか呼ばなかった。
 今一つ思ったように心の距離が近付かない中、香凛がプレゼントを喜んでくれた時は嬉しかった。気に入って、毎日ベットで一緒に寝入っている姿には心が和んだ。


 記憶を辿ればそこら中に香凛がいて。


 運動会、参観日、試験前にはテスト勉強を見てやった。
 一緒に行った水族館や旅行。香凛が初めて作ってくれた晩御飯。オレの誕生日のケーキ。
 受験、卒業式、入学式、数え切れない思い出。


 どれもがかけがえのないものだ。
 香凛を引き取る選択がオレから様々な機会を奪うという意見も沢山あったが、でも一緒に暮らす中で得られたものも沢山あった。


 確かに子育ては大変だった。自分の考えの甘さを何度も突き付けられた。上手くいかないことだらけで、時間のやりくりは大変で、自由な時間は確実に減った。それに女の子ということで、思春期の対応には本当に頭を悩ませた。


 でも、それは一側面でしかなかった。大変なだけじゃなかった。
 香凛との生活はオレにとって決してマイナスではなかったのだ。


 そりゃいい年して結婚もしてない、子どももいない、同世代とは全く違う人生だ。
 周りの人間と違う道を選んだことは、時に不安や焦りをもたらした。自分の選択だったが、本当にこれで良かったのかと思う瞬間が一度もなかった訳じゃない。


 でも、これまでの自分を振り返って、不幸だと思ったことはない。何かが特別不足していると思ったことはない。
 結婚という方法で家庭を持つことだけが、幸せの指標じゃないことは実経験から十分分かっていた。
 世の中生涯独身を通す人間だって沢山いる。だからと言って彼ら彼女らが不幸な訳ではない。当たり前だ。
 大多数と同じでいることは安心材料になるかもしれないが、安心と幸福はイコールではないのだ。


 だから、自分の選択を悔いていない。
 香凛を娘として育てて来たことは、オレにとっては幸福なことだった。


「――――――――」
 未だ帰って来ない香凛。連絡は一切ない。それどころかやはりメッセージを確認した形跡もない。
 今頃、どこをほっつき歩いているのか。
 早く帰って来てくれ、と思ってしまう。


 例えこのまま香凛との関係が駄目になっても。
 修復できなくても。


 それでも香凛はオレにとって大切な存在だ。常に健やかで幸福でいて欲しい存在だ。
 心配するし、放っておけない。それがこの十年積み上げて来たものだ。


 無人の部屋を何気なくもう一度見回すと、次は机の上に出ているものに目が留まった。
 小さな丸い缶。花が散らされたその缶には何となく見覚えがあった。
「…………一昨年の、誕生日?」
 相も変わらずオレは年頃の少女が好むものを知らないので、プレゼントは毎年リクエスト制を取っていた。一昨年はフレグランスで人気のとある店の限定セットが欲しいと言われたはずだ、と思い出す。


 あまり何も考えず、それを手に取る。持ち上げると、それは随分軽かった。
 そうだ、もうきっと中身は使い切っているのだろう。


 でも、捨てずに取ってある。


 何故取ってあるのかその理由を考えて、オレがプレゼントしたものだからかという発想が浮かんだが、いやいやと咄嗟に否定していた。
 違う違う、アレだ、綺麗な缶だからだ。何か小物を入れるのに使えるからだ。
 女の子はほら、そう言って色んな物を取っておく。そういうヤツだ。


 けれど視界のあちこちに映る小物の一つ一つに見覚えがあって、随分古いものもあって、大切に取り置かれているそれらにドキリとした。恋人にしてと言った香凛の顔がフラッシュバックした。


 香凛は物持ちがいいのだ、物を大切にする子なんだ、と自分を納得させる。


 部屋に見覚えのある物が溢れてるのなんて当然だ。
 一緒に暮らしてて、家計はオレが支えていて、オレが買ったものがこの部屋に沢山あるのは、至極当然のことなのだ。


 いつまでも勝手に部屋にいるのは悪い、そろそろ出てしまおう。
 そう思って、手にしていた缶を机の上に戻そうとした。


 カサリ――――


 だが、その瞬間、軽々とした缶の中で何かが動く音がした。
「?」
 感じ的に、もちろんクリームが残っているといったものではない。


 何だろうか。


 プライバシーという言葉が一瞬頭を過ったが、反射的に手が動く方が早かった。
「え…………」
 小さな缶を開けたその中には、
「リボン?」
 色とりどりのリボンが数本綺麗に渦を巻いていた。




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