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第1話 パパはなんにも分かってない

分かってない その9

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「こんばんはー」
 戸を引いて暖簾を潜ると、見上みかみさんはちょっと意外そうな顔をした。それもそのはず、今まで私はここに一人で来たことなんてなかったから。
「香凛ちゃん一人?」
「はい」
 お店はそれほど混んではいなかった。半分近くの席が埋まっていると言ったところ。
「バイト帰りなんですよ。お腹空いちゃって、家まで我慢できそうになかったし、それに倉科のだし巻き玉子がどうしても食べたくなって~」
 言ったら、条件反射で口の中にじゅわっと唾液が広がった。倉科のだし巻き玉子は優しい味がして、すごく美味しい。


 美味しいものを食べたらきっと元気が出る。


 見上さんは奥の半個室とまではいかないけど、衝立で仕切られた席に通してくれた。


「生中お願いします」
「それからだし巻き玉子ね」
「はい。後は~」
 二三品注文して、ホッと息を吐く。
 小料理屋って女子の身では一人では入り辛いと思ってて、よくお邪魔してるとは言え今日倉科に入るのもちょっと躊躇ったけど、程よい人の声と気配、そしてどこか気安い空気は今の自分にちょうど良かった。
 ここなら変な人に絡まれたりもしないし、安心して食事ができる。


「はい、生中」
「どうもです」
 そんなに好きな味じゃないんだけど、暑い夏の日だから冷えたビールもいつもより飲みやすい。
 一品料理を口に運びつつちびちびやってたら、しばらくしてカウンターの向こうから見上さんが声をかけてきた。
「香凛ちゃん、五条さんとケンカでもした?」
「どうしてですか?」
 ドキッとしたけど、ポーカーフェイスでそれを受け流す。
「んー、何かちょっと落ち込んでる感じするよ。気のせいかな」
 まぁこうして私が一人で来ること自体イレギュラーなことだから、ともすればパパとの不仲を疑われてもおかしくはない。
 へらっと笑って返しておく。
「いやー、今日ちょっとバイト先でやらかしちゃったんですよね、それで凹んでます」
 嘘じゃない。
 今日は会計ミスをしてしまった。滅多にやらないミスで、初心者じゃあるまいしと嫌気が差した。お客様にそれほど迷惑がかからなったのだけが幸いだ。
「なるほどね。まぁケンカではないなら安心だよ。やけ酒しに来たのかと思った」
「はは、やけ酒」
 したい気分ではあるけれど。事態はただのケンカより深刻だけど。
「香凛ちゃんと五条さん、仲良しだもんねぇ」
 見上さんが人好きのする笑顔を見せる。


 料理が美味しいのはもちろんだけど、この人当たりの良さも倉科にお客さんが付いてる理由の一つだと思う。
 見上さんは人と距離を取るのが上手い。話しかけて欲しくなさそうな人には不必要に声をかけないし、逆に話がしたそうな人とは言葉を交わすけど、どこかのお客さんとだけべったり話し込むようなこともしない。
 多分、見上さんは人の心を読み取るのが上手い。絶妙な匙加減を熟知している感じ。


「二人見てるとほっこりするよ。また今度五条さんと来てね」
 そう言ってから、盛り付けの終わったお皿を入り口近くのお客さんのところへ運んでいく。



"香凛ちゃんと五条さん、仲良しだもんねぇ"



 またビールを口に運びながら、見上さんの言葉を頭の中で反芻する。


 多分、この年頃の普通の娘としては、私はパパにべったりが過ぎてたと思う。
 それは時に第三者からは気持ち悪く見えたかもしれない。客観的に自分のことを見たらファザコン一歩手前みたいなところはあるって自覚してる。


 でも、仲良くする以外の術を私は持っていなかったのだ。
 私とパパの間に積み重ねられるのは、両者を繋いでおけるのは、そういう気持ちのやり取りだけだと。


 だから子ども扱いしかされないことに不満を抱きながらも、それを陰で利用していた。恋人になれなくても、そういう特別になれなくても、どうしようもなく情が湧いてしまって、パパが私を切れなくなってしまえばいいって。



 私は、矛盾している。



「香凛ちゃん、まだ帰らなくて大丈夫? 門限あるでしょ」
 再び声をかけられて、時計を見ればもう十一時を過ぎていた。
「長居しちゃってごめんなさい」
「閉店までまだあるからウチは構わないけど」
 でも単価も低いことだし、正直いいお客さんではない。見上さんはそんなことを窺わせる雰囲気はもちろん出さないけど、申し訳ないという気持ちになった。
「心配するよ、五条さんに連絡入れておいたら?」
「…………そうします。ちょっと、失礼しますね」
 言われて、スマホを片手に店の外に出る。


 今夜も熱帯夜だ。じわじわと追い詰めるみたいなねっとりとした暑さが肌に迫る。
 スマホ片手に出てみたけれど、電話はしなかった。
 手の中の端末はここに来る前に電源を落としたまま。だから沈黙を続けている。
 二三分、時間を潰してから店内に戻る。


「連絡ついた?」
 戻ったら、間髪入れずそう訊かれた。見上さんも大概心配性だな。
「気を付けて帰って来いって」
「迎えに来るかと思った」
「向こうも今日は飲み会なんです」
 嘘が次から次へとすらすら出てくる。自分の口が自分のものじゃないみたいだ。
「っていうか、私もう成人してるんですよ。迎えに来るのがデフォっておかしくないですか。過保護ですよ」
 やってらんないといった感じで言うと、見上さんは苦笑した。
「そうだね、実際五条さんは過保護だと思うよ。でも、甘やかしてるって言うんじゃなくて、まさに"過保護"が適当な感じ。危ないことに晒したくないんだなって」
「…………甘やかしてるとは違う?」
「別物だよ。目隠しをして危ないことそのものを認識させないんじゃなくて、危ないことは危ないって伝えた上でリスクを減らそうとしてるんじゃないかな」
 確かに、パパは親バカなところはあるけど、バカ親ではない。常識と非常識の境は当然知っている。
「それでなくとも女の子は男より犯罪リスクが高いし、まぁそう珍しいほどでもないよ」
「ですかねぇ……」


 見上さんはただのよく行く小料理屋さんの店主さんなだけなので、もちろん私達の事情なんて知らない。
 でも全くと言っていいほど"母親"の存在が匂わないので、離婚したか死別したかしたのだと思ってるっぽい。父一人娘一人じゃ、そりゃ過保護にもなるわ、とその目はいつも語っている。



 結局、それから更に三十分くらいうだうだと時間を潰してから、私は倉科を後にした。




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