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41.二人のこれから

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「今、何時でしょうか……」


 莉緒が目を覚ました時、部屋は柔らかな日差しに包まれていた。


「んー、十三時過ぎ?」
「ひえ、朝っぱらから致した上にお昼を過ぎてるだと……」


 背後から巻き付く腕は心地好くて、このまま惰眠を貪りたい誘惑は大きい。身体もさっぱりしていて、莉緒が気を失っている間に軽く拭いてくれたのだろうと予想がついた。
 何から何まで行き届いていて、申し訳ない気がしてくる。
 おまけに男の人が蔑ろにしがちなピロートークだって、彼はちっとも厭わない。


「もう少しごろごろしてようよ。それにさっきちょっと無茶を強いちゃったから、リオだって身体がまだ辛いでしょ」
「う……」
 言われれば確かに腰が重だるかった。正直まだ異物感があると言えばある。


「そう言えば」


 ついさっきまであれほど激しく熱を重ねていたというのに、今触れ合う肌は穏やかな安堵だけを伝えてくる。心地好いなぁとその腕を抱きしめながら、莉緒はふと思い出して口を開いた。


「あのぬいぐるみの抱き枕、どこやっちゃったの」


 ロンドンに移ってからもベッドの上にいつもいた、例の抱き枕が姿を消していた。
 莉緒の荷物だと言ってゼーゲル家に届けられた一式の中にも姿はなく、だからここにまだ残っているのだと、そう思っていたのに。


「もしかして捨てちゃった?」
 そう訊けば、すぐさま否定が返ってきた。
「捨ててないよ」
 クローゼットに入れてある、との答え。
「リオがいないのに、あの抱き枕と一緒にベッドに入るのは辛かったっていうね」
「じゃあ私が帰って来たから、もう出しても大丈夫だよね? エリオットがくれたあの子、抱き心地が良くて気に入ってるの」
 何か抱きしめるものがあればいいのではという彼の見立ては莉緒に合っていて、確かにそうやっていると眠りに入るまでもスムーズな気がするのだ。


「どうして? なくても良くない?」


 だが、何故かここでエリオットに渋られた。


「いやだから、抱き心地良くて気に入ってるから……」
 どうしたのだろうと不思議に思いながら、今し方口にしたばかりの理由を莉緒がもう一度繰り返せば。
「リオには僕がいるのに? そりゃまぁふわふわの抱き心地ではないだろうけど」
「……へ」
 思いも寄らぬ答えが返ってきた。
「……もしかして、抱き枕に嫉妬してるの?」
「リオとの貴重な時間を綿の詰め物に譲る気はないよ」
 そのもしかしてらしい。
「綿の詰め物って……」
 苦笑しながらそのちょっと面白くなさそうにしている顔を覗き込む。けれどその途中で彼が発した“貴重”という言葉がふと莉緒の胸に影を差した。


 二人に残された、貴重な時間。


「…………リオ」
 そっと頬にかかった髪を払われる。直前まで抱き枕に嫉妬していたはずなのに、その眼差しが急に真剣なものになる。
「リオ、」
 彼が何かを言おうとしたその瞬間。


 ぐう、きゅるる――――


と間抜けな音が鳴り響いた。


 あまりの気まずさに、莉緒はすごすごと布団の中へと潜り込む。
「そう言えば朝食も食べてなかったね?」
 軽く笑っているエリオットの声が、引きこもった莉緒の頭の上に落ちてきた。


 仰る通り、朝食も摂っていない。更に言えば昨日の夜もパブでナッツとエールを口にしたくらい。タイミングは最悪だが、お腹が空くのは当然の状態だった。


「リオ、シャワー浴びてきなよ。その間に軽く何か作っておくから。その後、二人でゆっくり話をしよう」
 という訳で勧められるがままにシャワーを浴びて出てくると、その頃にはテーブルの上にクリームパスタが出来上がっていた。
「スパダリすぎる……」
「すぱだり? どういう日本語?」
 あまりの至れる尽くせりぶりに、思わず素で呟いていたらしい。簡単に説明すると、エリオットは苦笑した。
「ソース、ただの出来合いのだけど」
「出来合いのソースは素晴らしき発明ですよ、人類はもっと活用すべき」


 昼食は和やかなものだった。他愛のない話題でずっと会話が続いていく。莉緒のお腹の虫も、もちろんすっかり大人しくなった。
 食後は紅茶のことが多いけれど、今日はペーパードリップで莉緒が淹れた。エリオットの淹れる紅茶ほどではないかもしれないが、コーヒーならば莉緒もなかなか美味しく淹れられるのだ。
 エリオットはミルクだけ。莉緒は砂糖一つ半とミルク。
 互いの好みは、この何ヶ月かでもう十分に知っていた。


「家の中はあったかいけど、外は夜とか冷えるようになってきたよね」
 窓の外を眺める。遮光カーテンの向こうには薄っすら街路樹が見えるけれど、色をすっかり変えた葉は少しずつ散り始めていた。
「もう少ししたら、街もクリスマスシーズンに入る? こっちのクリスマス、ちょっと楽しみにしてるんだよね」
 こちらのクリスマスは日本のクリスマスとはまた違う。習慣も街の様子もきっと。
 それを想像すると楽しみにはなるけれど。


「……クリスマスは、リオはまだこっちにいる?」


 エリオットの方が、そう切り込んできた。


「いるよ」


 莉緒は一つ呼吸を置いてから、微笑んでそう答える。


「年初は?」
「まだいる」


 そう、その頃はきっとまだいる。


「でも、どれだけ長くても一月の中旬には……帰らなきゃ」


 二人の間に横たわっている大きな問題。今までずっと触れずにいて、お互い見ないフリをしていた問題。
 仲が深まれば深まるほど、心の内でその懸念事項は大きくなっていた。けれど口にしたら均衡が崩れてしまいそうで、こうして言えずにいた。
 けれど莉緒はこのままイギリスにい続けることはできない。
 六ヶ月以上の滞在は無理なのだ。定められた期間を過ぎれば帰国しなければならない。でなければ違法だ。こちらで仕事を探すことも許されている身ではない。


 初めから、莉緒は期限付きの存在だった。
 ずっと彼とは一緒にいられない。
 そんなことは分かっていて、けれどお互い承知の上で一線を越えた。


 離れ離れになった時自分達の関係がどうなるのか、どんな覚悟を要求されるのか。
 いつも莉緒の心には不安があった。きっと、エリオットの方にも。


「リオ、僕はリオに中途半端な気持ちで手を出したんじゃないよ。ひと夏の恋とか、そんな火遊びのつもりは全くなかった。本気だったんだ。確かにリオに対して嘘はあったけど、それでもあの日、リオがミセス・ベネットの元から帰って来たら真実を告げる気があった。君を傷つけることになったとしても、それでもリオとのその先がほしかったから」
 莉緒がここにいる間だけの恋ではない。楽しいところだけつまみ食いしようというつもりではない。
「リオ、僕は覚悟できてるよ。遠距離になっても、リオと続けたい」
 エリオットが真剣に自分との交際を考えてくれている。
 それは本当に純粋に嬉しい。
「でも、一生遠距離って訳にもいかないよね。さっき本気だって言ったけど、それは将来的なことも含めて言ってる」
「将来、的」


「結婚まで視野に入れて、お付き合いしたいってこと」
「――――」


 そこまでの言葉を今この場でもらえるなんて思っていなくて、莉緒は目を瞠った。


 結婚。
 今まで仕事ばかりでチラとも頭に過らなかった選択肢。
 したい、したくないで言えばもちろんしたい。ずっとこうやって日常の生活を共にしたい。


「もちろん、リオには断る権利がある」
 けれど彼はそう言った。
「国際結婚ってハードルがあるよね。どちらがどの国で暮らすか、そもそもリオのご両親の許しが得られるか、何より僕と一緒になるってことは君にゼーゲルの名が付くってことだよ。いや、僕はこだわりないから婿入りも一つだと思うけど、何にせよ、ゼーゲル家と縁戚関係になる。極力関わりは断っているとは言え、全くの無関係でいることは難しいと思う。それはリオの心にとても大きな負担をかける行為だ」
「…………」
 確かにその通りで、そんなことないよとは言えない。
 旅行で来るのとその地に根を下ろすのは違う。母国とは違う生活は、不安やストレスとなることもあるだろう。親も友達もすぐそこにはいない環境。
 そもそも仕事はどうするのだ、この先外国で生きていくビジョンがあるのかと言われれば、今の時点では莉緒は答えに窮す。
「……エリオット、私、エリオットのことが好きなの。ずっと一緒にいたいなって思う。だから、結婚まで考えてるって言ってくれたの本当に嬉しい。そうだよね、結婚ならビザの問題も解決するし」
「配偶者ビザがあるからね。婚約者に対して出されるフィアンセビザもあるよ。一年以内に結婚しないとだけど」
 就労ビザを取得する以外にも、結婚を前提にすればここに留まることができる。
「リオが一緒にいたいって思ってくれて嬉しい。それにこの先リオがこの国にいるための方法は、言ったようにいくつかある。けど、リオの人生が結婚だけで全てとは思わないから」


 けれど彼は簡単には言わない。
 自分の元へ、この国へ来てほしいとは言わないのだ。


「リオ、僕はね、人生に関わる大きな決断だから、お互いにそれによる変化を受け入れるべきだろうと思う。僕だって日本のことを知って、言葉を学んで、そっちで転職先を見つけるのも一つだと思う」
「いや、それは……!」
 普通に考えたら、職なしの莉緒の方がずっと身軽だ。彼と莉緒では稼ぎというのがそもそも違うし、今の職は家に頼らず彼が努力を重ねた果てに手に入れたものだ。簡単に手放すべきではないと、それは瞬時に莉緒にだって判断できる。
 だから、自分がもうちょっとだけ勇気を出して、母国とは違う場所で生きることを覚悟すればそれで済む話なのだ。
「エリオット、私、」
「リオ、色々考えたんだけど、でもリオといられることが最優先事項だよ。それに日本まで行けば、家とのつながりも物理的に遠ざけられるし、そう悪い選択肢でもないと思うけど。うん、悪くないな……?」
 本当に乗り気な様子になってきたので莉緒は目を剥いた。
「そんな簡単なことじゃないよ。エリオットは日本語だってほとんどできないし、それこそ文化とか習慣とか! すごく大変だよ、後悔するよ!」
「うん、お互い色々あるよね。今言った大変さは、逆にすれば莉緒にも当てはまる。だからまず、僕とのことは抜きで、リオがこれからどうしようと思ってたか、それを教えてほしい」


「私が、どうしようと思ってたか……」


 柔らかい口調でそう言われて、すぐに答えを出せなくてもきっとそれでいいのだ、と気付く。
 エリオットは急かさないし、莉緒の考えを聞いたらきっと擦り合わせることをしてくれる。
 何もかも急に決めなければならないような気になっていたけれど、そんなことはないのだ。
 ゴールは、自分達で設定することができるのだから。


「……あのね、期日が来たら私、一度日本に戻る。それはもう決定事項だよね。それで戻ったらね、就活がしたいと思ってたの」


 この長い休息期間の中で、莉緒が繰り返し考えてきたこと。
 やっぱりちゃんと働きたいと思っていた。
 今度はブラックではない企業で、もう一度社会人をしたい。安定した生活を自分で築いて、失いかけていた自尊心を取り戻したいとも思う。


「私、再就職して、働きたい。大変だろうけど、自分の力で内定を勝ち取って、そうやって名実ともに復帰したいって思った。今の私に、それはすごく必要なことだと思う」
 言葉にすると、少しずつ整理されていく。
 疲れ果てて、会社を辞めて。それは莉緒にとって挫折でもあって。
 そこから、もう一度自分の足で立ち上がりたいのだ。全てはそこから。
「私の中でもう一回働くっていうのが今一番先にこなしたいことで、きっとそうしたら、次に自分の人生をどうするか、エリオットと具体的にどうしていきたいかっていうのを考えられるターンに入れると思うの」
 日本に戻る。再就職をする。そうしたら今度は胸を張って、彼に心配されることのない自分で会いに行ける。そう思うから。


「一緒にいたいよ、本当だよ」
「知ってるよ」
「でもちょっと覚悟とビジョンが足りてないのも事実。自分にも、まだ自信がない」
「うん」
「こんな私でもいい? その、保留したいみたいなこと言ってるけど」
「保留なんかじゃないよ。物事に順序があるって話じゃないか」


 莉緒の向かいでその顔は穏やかな表情を浮かべていた。
 それを見て、心の底からホッとする。この人となら大丈夫だと、これから先も大丈夫なのだとそう思えた。


「ええっと、遠距離って初めての経験なんだけど、その、宜しくお願いします」
「うん、こちらこそ。それからリオ、有難う」
「?」
「色々あったのに、全部駄目になってもおかしくなかったのに、それでもまだ今ここにリオがいてくれてることに、心から感謝する」


 確かに、色々あったなぁと思う。最初に予定していたのとは全く違うイギリス生活だ。
 休暇のつもりで来たのに、莉緒の心は本当に色んな方向に揺らぎに揺らいだ。


「私も」


 でもそれで良かったのだと、心から思える。
 再会できて良かった。思い出せて良かった。
 過去を思い出す前に、積み重ねた一緒に過ごした日々があったからこそ、真実を知ってもなお彼にこうして心惹かれたのだ。


「すごく悩んで、すごく怖かったと思うけど、それでも私と一緒にいることを諦めないでいてくれて有難う」



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