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32.あの夏
しおりを挟む頭がぐらんぐらん揺れている気がする。
落ち着かなくて、不安で、怖い。そう、怖い。
それでも大丈夫、冷静にと必死に自分に言い聞かせ一心不乱に手足を動かしていたら、いつの間にかロンドンの中心部に戻って来たようだった。頭はろくに働いていなくても、身体は勝手に動いてくれていたらしい。
「よく、分かんない……」
行き交う車、バス、人の群れ。話し声、クラクション、陽気な音楽。
全てがただのうるさい雑音で、情報として耳に入って来ない。目に移した情報は右から左へと流れて行くばかりで何も咀嚼できない。
「でも二人いた」
何かきっかけが、と思っていた。湖水地方のあの屋敷を見に行きたいとも。
それが写真越しという形ではあったが叶って。
所縁のある場所を見れば何か思い出すかもという莉緒の考えは、当たっていたらしい。
「兄弟じゃないかもしれないけど、あのお屋敷に、二人いた」
頭の中を駆け巡るいくつもの光景。
とにかく今すぐ状況を整理したくて、莉緒はふらふらと目に付いた手頃なパブに足を踏み入れる。
どうかなと思ったが、カウンターの隅に案内され、とりあえずと何も考えずにエールとナッツを注文して、しばしこの空間にいる権利を得る。
ほどなく渡されたジョッキが大きすぎて、ハーフパイントで頼めば良かったと一瞬後悔したが、すぐに些細なことだと頭の外へ流れて行った。
「多分、どの記憶も間違いじゃなくて、でも」
莉緒はそれをどれも“レオン”のものとして記憶している。
もう一人の方の存在を、レオンを主体に統合してしまっているのだ。
莉緒にあげようとバラを手折ってしまったのはレオン。
屋敷の中でかくれんぼをしたのもレオン。
けれどいつも庭の奥の木陰でスケッチをしていたのは彼。
あれを描いてこれを描いてとせがんで応えてくれたのは彼。
こっそり持ち寄ったお菓子を二人でつまんで、花の名前を教えてもらって、秘密のとっておきの場所があるんだ、リオにだけ特別に教えてあげるねと言われて。
「っ……」
そこまで記憶を辿って、気分が悪くなる。
特別な場所とは何だっただろう。それを自分は見たのだろうか。何も思い当たるものがない。
“明日も待ち合わせ。二時になったら来て”
“あそこに四阿があるから、そこでね”
“奥の森の方まで案内するから”
“楽しみだね、リオ”
楽しみだった。そう、とても楽しみにしていた。でも。
「でも、なんなの?」
不快感を洗い流すように、エールを煽る。芳醇な香りと苦みが喉を流れ落ちて行ったが、莉緒のもやもやは相変わらずそのままだった。
「いつも隠れるみたいに会ってた。お屋敷で会ったこと、多分ほとんどない。レオンと一緒にいるところも、見たことないかもしれない」
似た相貌をして、同じような上等の服を着て、あの敷地内に彼はいたけれど。
彼は、いつでも一人だった。まるで息をひそめるように。
「!」
上着のポケットから電子音が上がる。
スマホを取り出せば、そこにはレオン・ゼーゲルの名が表示されていた。
「…………」
出る気は起きず、そのまま放置する。けれど鳴り止んだと思った次の瞬間に、また着信が始まる。何度も何度も。
合間にメッセージの受信も始まるが、それを見ても莉緒の手は動かなかった。
「熱中症……」
あの夏、莉緒は熱中症で倒れたのだと言う。
両親もそれには覚えがあった。ゼーゲル家のお屋敷で倒れたのだと、監督不行き届きだったとしきりに謝られたのだと。
でも、見ていない。
そう、両親は見ていない。莉緒が熱中症で倒れたその現場に居合わせていない。
君を騙していたんだよ、とレオンは言った。
でも、何のために?
騙したのはそれだけ? 名前を騙ってでも隠したかったものは何?
「熱中症じゃ、ない……?」
莉緒の中でどんどんと疑念が広がって行く。
やけに喉が渇いて、どんどんとエールを流し込む。多いと思ったのに、お代わりがいるのではないかと思うくらい、飲んでも飲んでもまだ喉が足りないと訴える。
「待ち合わせ場所に、行ったの」
脳裏に浮かぶ景色。
頭の中で警鐘が鳴っているが、自動再生されるそれを止めることはできない。
莉緒が先に待ち合わせ場所に着いたのだ。
四阿で待っていた。
けれど彼はなかなか姿を現さず、どうしたのかと思いながら暇を持て余していた。
「待ってたら、奥の木立で物音がして」
彼が来たのかと思った。
莉緒はそっと木立の中に分け入って行く。
茂る木々で影のできたそこは、夏の盛りだというのに少しひんやりしていた。
ゆっくり歩を進めると、何か話し声が聞こえてくる。
「そこにいるって思ったの」
だから莉緒はそちらを目指して歩を進め、けれど直前で気付いた。
彼ではない。違う人だ。そもそも誰かと話しているけれど、誰と? こんな森の中で。彼はいつでも一人で庭をスケッチしているだけなのに。
おかしい。そう思った時には、もうかなり近くまで迫ってしまっていた。
草を、枝を踏みしめる音が鳴り響く。
木立の間にいたのは、彼よりもうんと大人の男性で。
「知らない、大人……」
何かをしていた。具体的な内容は思い出せない。ただ、自分はこの場に居合わせるべきではなかったのだと、それは直感していた。
こちらを振り返った大人達の視線が、あまりに迫力に満ちていたので。そこに、加害性を感じ取ったので。
それで――――
「うそ、まってなにこれ」
ジョッキを握る手が震えた。いつの間にか動機が止まらない。
店内を満たすジャズも、客の話し声も、グラスがぶつかり合う軽やかな音も、何もかもまともに耳に入ってこない。
自分の脈動の音だけが鼓膜に響く。
怖い顔の大人達。踵を返して必死にその場を逃げ出した。けれど数メートルも進まないうちに肩を掴まれ、担ぎ上げられてしまう。
「なんで、あんなこと……」
声を上げようとしたら口を塞がれた。手足をバタつかせても大した抵抗にならない。
恐怖でパニックになって、逃げたくて堪らなくて。
みぞおちに受けた衝撃、ぼやけた意識、次に気が付いた時には自分の意思では身動きが取れなくなっていた。
「縄で、縛られて」
口は塞がれていた。目隠しはされなかったけれど、視界は暗かった。暗くて、狭くて。
声も出せない。出せたとしても、騒げば何をされるか分からない。そもそも、自分が閉じ込められている場所がどこかさえ。
「違う……そうだ、あれ、知らない人じゃない」
こそこそと何かやりとりをしていた人間のうち、一人は見覚えがあった。
ゼーゲル家で働く使用人の一人だった。その男に、莉緒は危害を加えられたのだ。
それで、閉じ込められて、どうしようもなくて、助けも呼べなくて――――
「それで……?」
記憶はそこでぷつんと途切れていた。
それ以上はどれだけ捻っても何も出てきてくれない。
ただ、こうして今ここにいるということは、莉緒は最終的には無事だったのだろう。
殺されるかもと恐怖した覚えはあるが、実際は生き延びている。
「でも、熱中症は嘘」
もしかしたらあの空間で最終的に熱中症を引き起こしたのかもしれない。けれど、莉緒自身や両親にそこに至るまでの経緯は説明されていない。
そんなことがあったのなら、そもそも今回の湖水地方への休息を両親自ら勧めてくるなんてことはあり得なかっただろう。
「――――」
相変わらずレオンからの着信は止まない。異常なほどの連絡が続いている。
莉緒の背筋がゾッと冷えた。
彼はきっと妹から聞いただろう。莉緒の体調が悪くなったこと。何故、どのような状況でと問われれば、ソフィアはきっと訊かれた通りに答える。
あの案内された小部屋には、アルバムが広げっぱなしで。そうでなくとも、どのアルバムを見たのか告げられれば、莉緒が何かに気付いたかもしれないとレオンは考えるだろう。
秘匿された、あの夏の何某かの事件。
「何か、都合の悪いことがあったってこと……」
莉緒がもしレオンにとって、ゼーゲル家にとって都合の悪い真実を思い出してしまったのだとしたら。
それを向こうが勘付いたのだとしたら。
「!」
今度こそ、本当に怖くなる。
反射的にレオンの連絡先をブロックしそうになって、けれどそれは短絡的だと思い留まる。
ひとまず休む間もなさそうなスマホの電源を落として、莉緒はジョッキに残ったわずかなエールを飲み干した。
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