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22.一見、穏やかな

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「どうだろ、味濃いかな……」


 豆皿に少しだけ取った食材を口に入れる。
 自分には丁度いいかなと思うが、レオンの舌には合わないかもしれない。
 それに作り置きのつもりで多めに作ったので、これからもっと味が染みる。そうすると濃いのかもしれない。


「口に合わなかったら意味ないもん、悩む……」
 莉緒はお鍋の中の肉じゃがを見遣りながら頭を抱えた。


 肉じゃが。
 夕食の準備を進めている莉緒だが、今夜のメニューは和食中心だった。
 肉じゃが、ほうれん草のおひたし、出し巻き玉子に味噌汁等々。
 白米は炊飯器がないので鍋で炊いている。普段しない炊き方なので不安ではあったが、先ほど確認したら見た感じではいい具合に炊けていて莉緒はホッと胸を撫で下ろした。


「本当にいけるのかなぁ」
 和食が食べたい、日本の家庭料理が良いとリクエストして来たのはレオンだ。
 先日、食事に行こうと彼が連れて行ってくれた先は和食レストランだった。たまに聞くなんちゃって和食が出て来る可能性を少し考えていた莉緒だったが、実際は本格的な料理の数々が出てきた。
 上品で、そしてやはり慣れ親しんだホッとする味だった。
 こちらに来てからも美味しいものは沢山口にしたが、久しぶりの白米の甘み、味噌の味、お刺身に、かつおだしは格別に舌に染みた。
 たまには慣れ親しんだ味が食べたいのではないかと、和食の店へ連れて行ってくれたレオン。そんな彼自身も和食は好きで、そのお店にも何度も通っているのだと言っていた。


“日本の食材、近くのスーパーでも色々と売ってるよ。僕は使いこなせないから、いつも眺めるだけで終わるけど”


 レオンの住まいから一番近いスーパー。
 そこを案内してもらうと、日本の食材が確かに豊富にあった。というか、広い店内は日本食材に限らず他にも色んな国の食材が豊富に取り揃えられていた。
 中華、東南アジア、恐らく中東辺りのものと思われる食材。その気になれば何でも作れてしまいそうなラインナップで。


“リオ、せっかくだからトーフとかライスとか買って行こう。リオだってたまには思い立った時にすぐに慣れたものを口にできた方がいいんじゃない? あと、僕も興味があるから、リオの家庭の味? を食べてみたい”


 レオンから何かねだられることがあまりない莉緒は、自分の平凡な腕前は心配になりつつも、そう言われれば思わず反射で頷いてしまっていた。
 白米、味噌、醤油、みりん、うどん、わさび、豆腐――――沢山の材料を買い込んで、そうして自分の腕前に不安を覚えつつも夕飯づくりに勤しんでいる。


 と言うのも。


「半ば、予想通りではあるんだけど……」
 そう詳しくない莉緒だって知っている。


 ロンドンの物価が、住居費がどれだけ高いのか。
 あの若さで別宅を持っていて、ロンドンでしかも金融関係の仕事に就いているのだ。どう考えても彼はエリートだ。分かっていた。


「ううん、予想以上かも」
 ここだよ、と連れて来られた彼の住居は高級フラットで、月の家賃がいくらするのか、恐ろしくて莉緒はいっそ知りたくないとさえ思う。
 必要ないからもう少し手狭でもいいんだけどという彼の家は、確かに一人で暮らすには部屋数も多く、リビングもキッチンも広々としており、そもそもの造りが重厚で高級感に溢れている。
「とんでもなく勝ち組というやつに違いなくて」
 そういう立地であるので、近所のスーパーというのもいわゆる高級スーパーである。品揃えも豊富で、ワールドワイドに食材が揃っているのも頷ける。
「レオンの舌、どう考えてもものすごく肥えてるよね」


 だから一層莉緒は心配になるのだ。
 莉緒には美味しく感じられても、レオンには一般庶民の味は合わないのではないか。もっと複雑かつ繊細な味のものを作るべきではないかと。


「といっても作れないし、素人がお店の味に太刀打ちできる訳がないんだけど……」
 大丈夫だ、と思いたい。あの別宅でレオン自身が作っていた料理は、一般家庭の味と呼べるものだった。莉緒が作ったものも、彼はいつも完食してくれる。
「でも」
 くるり、キッチンからリビングを振り返る。
 天上の高いゆったりとした空間。余計なものはなく、少し生活感に欠けたところがある、モデルルームみたいに整えられた家。
「身分が、違う……」


 自分が今ここにいることを不思議に思う。莉緒自身とは釣り合わない生活。
 レオンのことは大好きで、彼自身はとても優しく、隔たりなく付き合える人ではあるけれど、こうして客観的に見ると釣り合っていないとそう思ってしまう自分がいた。


「それにそもそも、私は旅行者で」


 何より、それが一番心に引っかかっているのだ。
 レオンの方が触れて来ないから、莉緒も口には出せずにいる。


 けれど莉緒はこの国の人間ではない。いられる期間は限られている。


 莉緒とレオンは今、恋人と呼べる関係にあるだろう。けれどそこに長期的な未来を感じられずにいる。
 この国にいられる期限がきたら自分達はどうなるだろう、と莉緒は何度目になるか分からない想像をする。


「期間限定の、恋人……」
 莉緒にはレオンがちゃんと自分を好いてくれていると言う実感がある。莉緒自身だってそうだ。けれど、そういう考えがどうしても過る。
「遠距離恋愛……?」
 それも想像してみるが、経験がないので何とも言えなかった。
 遠距離恋愛を成就させる人もいる。けれど、それにはお互いの強い心が必要だろう。
それが自分達にあるだろうか。
 それにもし成就するのだとしたら、どちらかの生活が相手の方に移ることになる。仕事を持ってバリバリに働いているレオンがその立場を手放すなんてことは、莉緒には考えられなかった。
 ということは、もしそんな可能性があるのならば、必然莉緒が生活、仕事、全ての基盤を移すことになるのだろう。
「でも、外国でずっと暮らすとか」
 さすがにそこまで大きな決断を、すぐには下せない。自分の見知った場所、常識、習慣、文化に囲まれて暮らすことで得られる安心感は計り知れない。そういうものを手放そうと思ったら、莉緒には相当時間が必要な気がする。


 と、そこまで考えて、莉緒は自分の行きすぎた妄想にハッと気づいた。


「……一人で先走りすぎ」


 プロポーズされた訳でもないのに、ほんの少しの付き合いでそんなことまで考えるなんて自惚れすぎだ。
 恥ずかしくなって、火照った顔をパタパタと仰いでいると、玄関のノブががちゃりと回る音がした。


「ただいま」
 莉緒が迎えに出る前に、レオンの顔がもう覗く。
 莉緒の姿を見止めると、その顔は柔和に変化した。
 毎度毎度、彼はこうして出先から戻って莉緒の姿を確認する度に、本当に嬉しそうな顔をする。
 そういう顔をされてしまうと、莉緒の方も堪らなくなってしまう。幸せな気持ちが問答無用で伝播してくるのだ。
「あれ、リオ? 顔赤いよ、熱でもある?」
 それはもしかしなくても先ほどまでの妄想の影響だ。
「え! い、いや、大丈夫だよ。さっきまで火使ってたからかな、そうかも」
「だったらいいけど」
 取り繕った莉緒の頬を少し心配そうにひと撫でしてから、すんとレオンは鼻をひくつかせた。
「晩御飯作ってくれてありがとう。今日のメニューを聞いても?」
「えっと、肉じゃがとか」
 こういうところが好きだ、と莉緒は思う。
 莉緒の方が圧倒的にお世話になっているけれど、莉緒のしたことの一つ一つをレオンは大切に扱う。
「和食!」
「リクエスト頂いたので」
「すごく楽しみ、有難う」
 当たり前という風に扱わず、こまめに感謝の気持ちを伝えてくれる。
 こそばゆく感じるけれど、それがとても嬉しい。
 こちらに来て少しずつ莉緒の調子も上向いてきていたが、それにレオンの存在が大きく関わっていることは間違いなかった。


 べこべこだった莉緒の自尊心を、彼が丁寧に掬い上げてくれている。
 自力ではそう簡単に回復できないところを、彼が補ってくれているのだ。


「もう少ししたらできるよ。レオン、シャワー浴びて来たら?」
「することない?」
「大丈夫」
「じゃあさっと済ませて来る」
 わざわざ頬に軽くキスを落としてから、レオンは部屋を後にした。


 隙あらばかまされるキスには大分慣れた。けれど、される度に心がそわっと浮き立つのは何度されても同じ。
 それに仕事帰りの彼の格好は休暇中とは違いスーツ姿で、それが莉緒の心を更にくすぐる。
 彼の身体にしっかり沿うように作られたきっとオーダーメイドのスーツは、本当に彼をカッコよく魅せる。
 ただでさえ元々魅力的なのに、それが何倍にもなってしまう。
 きっと、会社でもそれはそれはモテているのだろうなと思う。


 朝、ちょっと眠そうにしながらネクタイを結んでと甘えて来るレオンも、家を出る時にはビシッと背広を羽織るレオンも、帰って来たから少し気だるげに首元を緩めるレオンも、許されるのなら全て写真に収めたいと莉緒は思っている。
 まだ言い出せずにいるけれど、近いうちにきっと我慢できなくなってねだってしまうだろう。時間の問題だ。


 そして心配していた和食だったが、レオンは美味しい美味しいと上機嫌で全て平らげてくれた。
 莉緒はと言うと、軽く拭いただけの濡れた髪をしたレオンのただならぬ色気に、あまり食事の味を覚えていない。
 艶やかな金の髪が室内灯に照らされて煌めく。掻き上げられた髪がいつもと違う印象を与え、そればかりに気を取られていた。


 食後、乾かさないと風邪引くよと言えば、
「じゃあ莉緒が乾かして?」
 とにこにこ顔でドライヤーを渡された。
「熱くない?」
「うん、リオの手、気持ちいい」
 という訳で、先ほどから莉緒は金の髪を自分の手で梳きながらドライヤーをかけている。
 ソファに座った莉緒の前で、レオンがラグの上に腰を降ろす。莉緒に完全に頭を預けて気持ち良さそうに目を閉じていた。
 彼は莉緒を甘やかすのがとても上手だが、実は甘えるのもなかなかに上手い。


「さらさらで、やわらかい」
 指を通る髪の心地にうっとりする。
 うらやましいなぁとも思うが、こうして好きなだけ触らせてもらえるので十分だとも思う。
「リオの髪も柔らかくて気持ちいいよ」
 後で乾かしてあげると言われて、口の端が自然と上がった。
 こうしてレオンの髪を乾かすことは珍しくないが、当然その逆もあるのだ。
 人に髪を触ってもらうと、どうしてあんなにうっとりしてしまうのだろう。
 まだ触れられていないのに、想像しただけで莉緒は軽く癒されてしまい目を細めた。


「リオ」
 温風から冷風に切り替えて、熱を払ってからブラシで流れを整える。
 ドライヤーのスイッチを切ると、有難うの代わりのように膝に小さく口付けられた。
「っ」
 くすぐったいけれど、それだけではない。肌が期待にそわりと粟立つ。
 莉緒の反応を窺いながら、ちゅっちゅっと繰り返される行為。ふくらはぎに触れた手が、そっと肌を滑る。
「ん……」
 レオンのキスは少しずつ場所を変え、太腿の方へと上がって来る。莉緒はショートパンツ姿なので、脚を持ち上げられれば無防備に肌は晒された。
「あっ」
 すべやかな肌を強めに吸い上げられるチリっとした痛みに、跡が残ることを教えられる。
「……レオン」
 確実に甘い空気がそこには流れていた。


 二人の熱を灯した視線が交わったその瞬間。


 ピリリリリリ!


 まるで見咎めたように電子音が鳴り響き、空気を壊した。
 莉緒は一瞬ビクリと震えたが、すぐにそれがローテーブルの上にあったレオンのスマホへの着信だと気付く。
  一方のレオンの方は、莉緒と違ってその着信に全く取り合わなかった。
「え、ちょ」
 構わずに、莉緒の脚に唇を寄せる。
 そのうちにコール音は途切れてしまった。いいのかな、と莉緒が思っていると、すぐにまた着信が来る。
「……レオン」
 きっと同じ相手だ。出なくても続けざまに掛けてくるということは、どう考えても急ぎの用事。
「ねぇ、レオン」
 二度目の着信は長かった。十コールを超えてもまだ続く。
 絶対に出た方がいい。
「んっ、鳴ってるよ、出た方がいいよ」
 名残惜しいのは同じだが、莉緒はレオンの手から逃れ自分の足をソファの上に引っ張り上げた。こちらを見上げる彼の顔には拗ねた様子があった。珍しい表情。
 そうして渋々鳴りやまないスマホを振り返ったと思ったら、更に眉間にシワを刻んだ。
 出たくないと全身で示しながらも、重い腰を上げる。
「仕事関係だ」
「こんな時間に……」
「やになるよね」
 ごめんねと言いながら、電話を取る。


「何かあったか」


 でもどれだけ嫌そうにしていても、電話を取れば彼はもうビジネスマンだった。
 いつものあの柔和な様子とは違う顔。その様子に莉緒はハッとする。


「え? それはもう任せただろう、資料も一通り渡して調整を頼んだ。 先方が? 今日中に? 何をまた……」


 莉緒の知らないレオン。
 彼はそれでも一瞬だけ優しい顔をして、莉緒の頭をさらりと撫でた。それから書斎の方へと移動していく。


「…………」
 胸がドキリと鳴る。
 それはでも、ときめきではなくて。そうではなくて。
「……なんか、大変そうだった。電話一本で済まなさそう」
 ドライヤーのコンセントを抜いてコードをまとめる。
 ブラシなど一式を入れているボックスに仕舞いながら、莉緒は一人きりになったリビングをぐるりと見回した。


 レオンの傍は居心地が良い。許されていると、価値を認められていると感じる。
 けれど。


「私は……」


 結局、しばらく待ったがレオンが書斎から出て来る気配はなかった。
 コーヒーでも淹れてみた方がいいのか、でも邪魔になるかもと思えばそれもできず、莉緒は自分もシャワーを浴びることにした。
 上がってきてもまだレオンの仕事は区切りがついていないようで、自分で手早く髪を乾かしてから寝室に向かう。


 寝室には二人で寝てもまだ十分な広さの残るベッドがある。
 ロンドンに来てからは、この大きなベッドを二人で使っていた。ゲストルームはあり、莉緒の荷物はそこに置かせてもらっていたが、その部屋のベッドを使ったことは一度もない。
 一人で寝るには、あまりに広すぎる。自分も随分贅沢になったなぁと思いながら、莉緒は以前レオンに贈って貰った抱き枕を腕に抱いて、布団の中に潜り込んだ。


 瞳を閉じるが眠気はまだやって来そうになかった。腕に抱き込まれたウサギは、過剰な力に変形していたが健気にそれを受け止める。
 時折感じるこの焦燥感の正体を、そう、莉緒は本当はもう知っている。


「……私、無職で、そう、ニートなんだ」



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