上 下
15 / 247
帝都の大学

勝手知ったる

しおりを挟む
 大学は帝都の端に位置し、そもそもが静かな区画だ。

 大学から続く石畳の道は、街灯はあるもののその間隔はかなり離れていて、門に提げてあるカンテラに、篝火の火を移した明かりを頼りに進む。

 幸いにして、今夜は十六夜の明るさがあり、白い石畳が幾分輝いて見えるし、月影の届くところはじんわりと滲むように輪郭が見て取れる。

 歩いて五分程で森が切れ、川を渡る橋まできて、やっと店らしい店が見えてくる。門からこの橋までが、大学というある種の隔絶された世界と外の緩衝地帯である。

 少し先に広場があり、そこを囲うようにして軒を連ねるのは、文具や本屋といった専門店である。それらは、学生が出歩かなくなる夕食時には閉まってしまうから、キルシェたちが歩く通りは街灯の明かりのみで仄暗い。

 その広場には、学生を意識した品揃えの店に混じり、地上三階建ての借家の建物も並んでいる。

 時折、鼻をかすめる香りは、夕食の香りだろう。窓から漏れ聞こえるのは、団欒を囲む笑い声や、子供の鳴き声、歌声など様々。それらを聞き流しながら広場を抜け、やや太い通りへと踏み入る。

 そこもまだ住宅街であるが、より人の気配が濃く、賑やかで明るかった。このまま行けば、大学から一番近い繁華街に至るはずだ。

 そうして至った繁華街の中心地である広場の景色と気配に、キルシェは口を引き結んだ。

 __こうも雰囲気が変わるなんて……車窓から眺めるのとは、違うのね。

 この時間帯に徒歩で出歩くことは、一度もなかった。

 昼の顔と夜の顔、車窓から違いは見ていたが、満ちる空気に身を晒すとまるで別物。

 街灯に照らされる石畳も、建物も、人々も、全てが蠱惑に見えてくる。窓から見える店__それもただの料理屋だ__を興味に駆られて覗いてみたいが、どうにも憚られる気がして視線のやり場に困り、泳がせてしまう。

 ここでこの程度なのだから、帝都有数の歓楽街などは一体どれほどのものなのか__。

「__大丈夫だ」

 歩みが止まりかけていたキルシェにリュディガーが笑い、手を背中に添えるようにして促した。促しながらも、彼は賑わいを避けるように広場の端を歩いて通り過ぎ、さらに通りに踏み入る。

 繁華街の残り香のような賑わいを宿したその通り。大学から出て三十分は優に経っただろう頃に、リュディガーが足を止めた。

 ここだ、と言って彼が示した店は、主要な通りではないにも関わらず三階建のやや間口の広い建物。窓から見える店内は、確かに飲食店のようだ。

 リュディガーは、カンテラの明かりを吹き消して、扉を引いて開ける。軽やかな入店を告げる鐘が鳴ったと同時に、中の賑わいとほんわりとした温かさが溢れてきて、キルシェに入るよう促した。

 入ってみると、想像よりも奥行きもあって広く、天井とそれを支える中央の広間に並ぶ六本の太い琥珀色の木製の柱が目を引く。

 二階席がぐるり、と漆喰の壁に沿って囲うような吹き抜けの開放感__まるでホールのような構造だった。

 それらを見渡しながら、外套を脱ごうとしたところで、ふと疑問を投げかける。

「あの、受付の方は?」

「そういう仕組はない」

 笑って答えるリュディガーは、向かって左奥のカウンターの店主に視線と手振りでやりとりを短く行い、店主がどうぞ、と手を振ったのを受け、カウンターとは反対の店の奥へと向かう。キルシェもまた彼の後に続き、黒いタイルと、鈍く輝く真鍮の色の小さめのタイルとが、敷き詰められている床を歩く。

 中央の等間隔に並ぶテーブル席の中を抜け、角の壁際の、柱と柱の間に身丈ほどの高さで隣席と間仕切りがされているテーブルに先に至った彼は、椅子の背もたれに手を置いてキルシェに示した。

 キルシェが外套を脱いだところで、いつの間に背後に回り込んでいたのかリュディガーが見計らうように受け取って、壁のフックに掛け、自身も外套を脱いで掛ける。

 そして、一脚椅子を引いてみせるので、キルシェは礼を言い、リュディガーが具合良く動かす椅子に着席した。

「寒くはないか?」

「大丈夫です」

 暖炉は入り口から入って、建物の左右にあるが、そのあたりは残念ながら空いている席がなく、最も遠いこの席はうまい具合に暖気が巡ってきているようだった。おそらく、窓が直ぐ側ないというのもあるのだろう。

「冷えるようだったら、言ってくれ」

 そう言いながら、四角いテーブルの角を挟んだ隣の席に腰を据えるリュディガー。

「ありがとうございます」

 礼を述べながら、テーブルの上に置かれているはずのナプキンを取ろうと手を伸ばしたが、手にその感触がない。疑問に思って視線を落とせば、年季の入ったテーブルは艶めいた表情を見せるだけ。テーブルには二冊の品書きと、小さな花瓶に活けられた花が彩っていて、カトラリーも置かれていない。

 まるでいつもと違う__外食の機会が少なかったキルシェには、外食するというそれだけで新鮮だというのに、ここではさらに勝手が違うからなおのこと新鮮で、何が起こるのだろうか、と心が弾むよう。

 リュディガーはテーブルに置かれていた二冊の品書きのうち、一冊を手にとってちらり、と中身を確認してキルシェに渡す。

「気になるものがあればいいが」

 受け取った品書きを眺めてみるが、見慣れない並びで一瞬困惑する。

 __色々ある。

 ビルネンベルクに伴われて行く料理屋の品書きは、前菜から始まる料理の流れが決まっていて、それが綴ってあるだけだ。前菜、スープ、魚介料理、口休め、肉料理、生野菜、甘味、食後のお茶というのが、大抵の流れ。

 稀に、主菜をいくつかの中から選べたり、品数を減らしたりする自由がある程度。

 手元にある品書きはそうした流れは記されておらず、前菜はもちろん、魚介料理、肉料理、甘味、飲み物まで、複数項に渡り記されている。

「これは……前菜から、都度頼んでいけばいいのですか?」

「いや、大抵は一度に頼む。一度まとめて頼んで、あとから追加は構わないが、都度一品ずつではないな」

「そう……」

 これほど選択肢に自由があると、当惑せざるを得ない。新鮮で興味深く、楽しいのは違いないが。

「そんな難しい顔をさせるつもりはなかったが、適当に見繕おうか?」

「……お願いしても?」

 もちろん、と頷いて、一通り眺めてから、リュディガーはカウンターに手を軽く上げる。すると、カウンター近くで作業をしていた店員が水の入ったボトルとグラスを盆に乗せてやってきて、テーブルにそれらを配する。

 店員と品書きを交互に見ながら、キルシェには呪文のように聞こえる言葉の羅列をよどみなく発し始める。それを一々止めもせず__質問には答えていたが__頷いて応じていく店員はメモさえも取らない。

「キルシェ。飲み物は、とりあえず食後のお茶ぐらいでいいか?」

「__あ、え? あ、はい。それで大丈夫です」

 突然話を振られ、びくり、としながらもどうにか答えれば、リュディガーが少しばかり笑って店員に伝える。

 直後、店員は品書きを受け取って、最後に空のグラスに水を注ぎ、軽く会釈をして下がっていく__そこまで、そう時間はかかっていない。あっという間だった。

 何をどう注文したのか、何品注文したのかキルシェには把握しきれていない。

「__こういう仕組みだ」

「はぁ……」

 なんとも曖昧な返事のキルシェを見て、リュディガーは笑って水を一口飲む。それを見て、キルシェも倣うように水を口に運んだ。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

【完結】消された第二王女は隣国の王妃に熱望される

風子
恋愛
ブルボマーナ国の第二王女アリアンは絶世の美女だった。 しかし側妃の娘だと嫌われて、正妃とその娘の第一王女から虐げられていた。 そんな時、隣国から王太子がやって来た。 王太子ヴィルドルフは、アリアンの美しさに一目惚れをしてしまう。 すぐに婚約を結び、結婚の準備を進める為に帰国したヴィルドルフに、突然の婚約解消の連絡が入る。 アリアンが王宮を追放され、修道院に送られたと知らされた。 そして、新しい婚約者に第一王女のローズが決まったと聞かされるのである。 アリアンを諦めきれないヴィルドルフは、お忍びでアリアンを探しにブルボマーナに乗り込んだ。 そしてある夜、2人は運命の再会を果たすのである。

【電子書籍化進行中】声を失った令嬢は、次期公爵の義理のお兄さまに恋をしました

八重
恋愛
※発売日少し前を目安に作品を引き下げます 修道院で生まれ育ったローゼマリーは、14歳の時火事に巻き込まれる。 その火事の唯一の生き残りとなった彼女は、領主であるヴィルフェルト公爵に拾われ、彼の養子になる。 彼には息子が一人おり、名をラルス・ヴィルフェルトといった。 ラルスは容姿端麗で文武両道の次期公爵として申し分なく、社交界でも評価されていた。 一方、怠惰なシスターが文字を教えなかったため、ローゼマリーは読み書きができなかった。 必死になんとか義理の父や兄に身振り手振りで伝えようとも、なかなか伝わらない。 なぜなら、彼女は火事で声を失ってしまっていたからだ── そして次第に優しく文字を教えてくれたり、面倒を見てくれるラルスに恋をしてしまって……。 これは、義理の家族の役に立ちたくて頑張りながら、言えない「好き」を内に秘める、そんな物語。 ※小説家になろうが先行公開です

踏み台令嬢はへこたれない

三屋城衣智子
恋愛
「婚約破棄してくれ!」  公爵令嬢のメルティアーラは婚約者からの何度目かの申し出を受けていたーー。  春、学院に入学しいつしかついたあだ名は踏み台令嬢。……幸せを運んでいますのに、その名付けはあんまりでは……。  そう思いつつも学院生活を満喫していたら、噂を聞きつけた第三王子がチラチラこっちを見ている。しかもうっかり婚約者になってしまったわ……?!?  これは無自覚に他人の踏み台になって引っ張り上げる主人公が、たまにしょげては踏ん張りながらやっぱり周りを幸せにしたりやっと自分も幸せになったりするかもしれない物語。 「わたくし、甘い砂を吐くのには慣れておりますの」  ーー踏み台令嬢は今日も誰かを幸せにする。  なろうでも投稿しています。

いくら政略結婚だからって、そこまで嫌わなくてもいいんじゃないですか?いい加減、腹が立ってきたんですけど!

夢呼
恋愛
伯爵令嬢のローゼは大好きな婚約者アーサー・レイモンド侯爵令息との結婚式を今か今かと待ち望んでいた。 しかし、結婚式の僅か10日前、その大好きなアーサーから「私から愛されたいという思いがあったら捨ててくれ。それに応えることは出来ない」と告げられる。 ローゼはその言葉にショックを受け、熱を出し寝込んでしまう。数日間うなされ続け、やっと目を覚ました。前世の記憶と共に・・・。 愛されることは無いと分かっていても、覆すことが出来ないのが貴族間の政略結婚。日本で生きたアラサー女子の「私」が八割心を占めているローゼが、この政略結婚に臨むことになる。 いくら政略結婚といえども、親に孫を見せてあげて親孝行をしたいという願いを持つローゼは、何とかアーサーに振り向いてもらおうと頑張るが、鉄壁のアーサーには敵わず。それどころか益々嫌われる始末。 一体私の何が気に入らないんだか。そこまで嫌わなくてもいいんじゃないんですかね!いい加減腹立つわっ! 世界観はゆるいです! カクヨム様にも投稿しております。 ※10万文字を超えたので長編に変更しました。

私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?

水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。 日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。 そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。 一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。 ◇小説家になろうにも掲載中です! ◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています

つかぬことをお伺いいたしますが、私はお飾りの妻ですよね?

恋愛
少しネガティブな天然鈍感辺境伯令嬢と目つきが悪く恋愛に関してはポンコツコミュ障公爵令息のコミュニケーションエラー必至の爆笑(?)すれ違いラブコメ! ランツベルク辺境伯令嬢ローザリンデは優秀な兄弟姉妹に囲まれて少し自信を持てずにいた。そんなローザリンデを夜会でエスコートしたいと申し出たのはオルデンブルク公爵令息ルートヴィヒ。そして複数回のエスコートを経て、ルートヴィヒとの結婚が決まるローザリンデ。しかし、ルートヴィヒには身分違いだが恋仲の女性がいる噂をローザリンデは知っていた。 エーベルシュタイン女男爵であるハイデマリー。彼女こそ、ルートヴィヒの恋人である。しかし上級貴族と下級貴族の結婚は許されていない上、ハイデマリーは既婚者である。 ローザリンデは自分がお飾りの妻だと理解した。その上でルートヴィヒとの結婚を受け入れる。ランツベルク家としても、筆頭公爵家であるオルデンブルク家と繋がりを持てることは有益なのだ。 しかし結婚後、ルートヴィヒの様子が明らかにおかしい。ローザリンデはルートヴィヒからお菓子、花、アクセサリー、更にはドレスまでことあるごとにプレゼントされる。プレゼントの量はどんどん増える。流石にこれはおかしいと思ったローザリンデはある日の夜会で聞いてみる。 「つかぬことをお伺いいたしますが、私はお飾りの妻ですよね?」 するとルートヴィヒからは予想外の返事があった。 小説家になろう、カクヨムにも投稿しています。

傷物令嬢シャルロットは辺境伯様の人質となってスローライフ

悠木真帆
恋愛
侯爵令嬢シャルロット・ラドフォルンは幼いとき王子を庇って右上半身に大やけどを負う。 残ったやけどの痕はシャルロットに暗い影を落とす。 そんなシャルロットにも他国の貴族との婚約が決まり幸せとなるはずだった。 だがーー 月あかりに照らされた婚約者との初めての夜。 やけどの痕を目にした婚約者は顔色を変えて、そのままベッドの上でシャルロットに婚約破棄を申し渡した。 それ以来、屋敷に閉じこもる生活を送っていたシャルロットに父から敵国の人質となることを命じられる。

美しい公爵様の、凄まじい独占欲と溺れるほどの愛

らがまふぃん
恋愛
 こちらは以前投稿いたしました、 美しく残酷な公爵令息様の、一途で不器用な愛 の続編となっております。前作よりマイルドな作品に仕上がっておりますが、内面のダークさが前作よりはあるのではなかろうかと。こちらのみでも楽しめるとは思いますが、わかりづらいかもしれません。よろしかったら前作をお読みいただいた方が、より楽しんでいただけるかと思いますので、お時間の都合のつく方は、是非。時々予告なく残酷な表現が入りますので、苦手な方はお控えください。 *早速のお気に入り登録、しおり、エールをありがとうございます。とても励みになります。前作もお読みくださっている方々にも、多大なる感謝を! ※R5.7/23本編完結いたしました。たくさんの方々に支えられ、ここまで続けることが出来ました。本当にありがとうございます。ばんがいへんを数話投稿いたしますので、引き続きお付き合いくださるとありがたいです。この作品の前作が、お気に入り登録をしてくださった方が、ありがたいことに200を超えておりました。感謝を込めて、前作の方に一話、近日中にお届けいたします。よろしかったらお付き合いください。 ※R5.8/6ばんがいへん終了いたしました。長い間お付き合いくださり、また、たくさんのお気に入り登録、しおり、エールを、本当にありがとうございました。 ※R5.9/3お気に入り登録200になっていました。本当にありがとうございます(泣)。嬉しかったので、一話書いてみました。 ※R5.10/30らがまふぃん活動一周年記念として、一話お届けいたします。 ※R6.1/27美しく残酷な公爵令息様の、一途で不器用な愛(前作) と、こちらの作品の間のお話し 美しく冷酷な公爵令息様の、狂おしい熱情に彩られた愛 始めました。お時間の都合のつく方は、是非ご一読くださると嬉しいです。 *らがまふぃん活動二周年記念として、R6.11/4に一話お届けいたします。少しでも楽しんでいただけますように。

処理中です...