貢がせて、ハニー!

わこ

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194.エディブルフラワーⅢ

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「ミトコンドリア・イブ」
「ブラックバーンの振り子」
「コアセルベート液滴」
「え? それアウトじゃない?」
「セーフだろ」
「それでオタクを釣れると思いますか」
「釣れる。コアセルベートだけだと弱いが液滴って付けた途端に一部のオタクは確実にザワつく」
「そういうもんですかね」
「そういうもんだ」
「まあいいや、じゃあセーフってことにしてあげます」
「ありがとよ」

 オタクがザワザワしそうな言葉しりとり。
 勝負は一回戦を終え今は二周目。美しい草花に囲まれて歩きながらも、激戦の真っただ中にある。

「えぇっと、次は……」
「き」
「き? んー……キサントプロテイン反応」
「それは微妙、」
「じゃないです」
「仕方ねえな。ウィルソンの桐箱」

 いかにオタクをザワつかせられるかが鍵となる。これは男と男の真剣勝負だ。
 俺はすでに一回負けている。敗因はいくつか考えられる。数学者がみんな大好きなリーマン予想は取り合うようにしてかなり最初の方に出てきた。早々と瀬名さんに取られた。一個前の俺のターンで最後の言葉をリにしたのが悔やまれる。
 確実にオタクをザワッとさせるワードだけならば結構思いつく。ディオファントスの墓とエラトステネスの篩を俺は隠し持っていたけど、デで終わる言葉とエで終わる言葉がなかなかやって来なくて不発に終わった。

 うまくいかない。意外と難しい。こんなところで瀬名恭吾に負けてたまるか。次こそは絶対に勝つ。

「こ……こー……こー、こー……こー、うーん?……こ、こ、こ、こっ光線のマリュス則!」
「クォークの閉じ込め」
「あ? め?……め、めー、あー……メアリーの部屋」
「ヤルコフスキー効果」
「か……またかよ。俺の時これでもう六回くらいカが来てるんですけど」
「無理なら降参してもいい」
「いいえ、まさか。…………カスケード粒子」
「シャルルの法則」
「えぇー……あぁ……あ、あった。あれだ。飛行機の翼のやつ。えっと、あれ……クッタ……ジュコーフスキー? の、定理……で合ってる?」
「合ってる」

 合ってた。

「リュードベリ定数」
「う……ウも多いな。あなた定数とか関数とか言いすぎなんですよ。絶対ウで攻めてきてんじゃん」
「何気にお前も多いぞ。さっき何個か前にアッカーマン関数とアイゼンシュタイン整数って言われたの覚えてる」
「そうだっけ?……てかあんたアでも攻めてきてたのか」
「まんまと引っかかってアーベル群とかアルティン環とか言いそうになったのをどうにか途中で堪えてた」
「あー……はは。まあいいや」
「どっちもほぼお手付きだったがいいってことにしてやる。ウだ」
「う……うー……えーっと……ウイルスキャリア」
「それはさすがに微妙じゃねえか」
「いけます。オタクの守備範囲の広さナメちゃいけませんよ」
「そうかよ。じゃあセーフでいい」

 ウイルスキャリアと聞いてザワザワする人なら保菌者と聞いても間違いなくザワザワする。

「アインシュタイン=ローゼンの橋」
「囚人のジレンマ」
「マズローの欲求五段階説」
「ツァイガルニック効果」
「カリギュラ効果」
「か。かぁ? えぇぇ、また? か? やっぱカでも攻めてきてるし」
「お前も言ってる。やたらとなんちゃら効果に逃げてる」
「……分かりましたよ。えっと……あ、カクテルパーティー効果! この後はなんとか効果って言うの禁止にしよう」
「くっそテメエ卑怯だぞとでも言うと思ったかバカめ。隠れマルコフモデル」
「…………」

 クソ。クッソ。なんて大人げない。勝ち誇った顔がこれまたムカつく。

 オタクがザワザワしそうな言葉しりとりで上から目線になってフフンと見てくる大人げないこの大人。腹立つ。
 る。る。何がある。る。カ以上に思い浮かばない。早くしないとオタクの力量までムカつくほどのイケメンに負ける。

「降参か」
「しません」
「往生際の悪いガキだ」
「今度は勝つもん。えー、るーえっと、あー、るー……るーるー……」
「諦めろ。そろそろやめよう」
「待ってもうちょっと。なんか思いつきそう。ここまで出かかってる」
「じゃああと五秒な。ごーよんさんにー」
「ズリぃよ待って待ってッ、さっきも俺が負けたのに!」
「どうせまた元気良く負けを叫ぶんだろ」
「うるせえ……ッ」

 さっきはアポロニウスの円と元気良く叫んで負けた。

「お前にオタクはまだ早い。負けを認めれば楽になれるぞ」
「クッソ……クソ!」

 この直後、パッと頭に浮かんだルベーグ積分を元気良く叫んで負けた。





***





 この見事な庭園を前にしながら、大体の時間をトカゲ議論とオタク議論に費やした。
 それだとさすがにもったいないので、ちゃんと花も観賞しに行く。



 庭園の最奥まで進んでいくと、自然の中にある花畑みたいな色とりどりの空間がブワッと開けた。
 心地いい風がそよいでいるから、草花もサラサラと揺れる。けれどその中で一輪だけどこか他とは違った揺れ方をしていた。

 気まぐれに覗きに行ったその花。ピンク色のふんわりした花びらの中では、何かがモソモソ動いていた。

「ミツバチが労働してます」
「日曜までご苦労なことだ」

 中の方まで体を突っ込んでいた熱心な働きバチが、ズポッと花びらの上に出てきた。
 頭のてっぺんからケツの先まで全身ビッシリ花粉まみれだ。いくら女王の命令とは言えそこまで真っ黄色にならなくても。

 そこでふよっと飛び立ったそいつ。なんだか真っ直ぐ飛べていない。懸命に巣を目指しつつも安定せずにフラフラしている。それに遅い。すごく重そう。小さい体にそんだけ花粉くっつけていりゃ仕方がない。
 どうか鳥に食われませんように。瀬名さんも温かくそいつを見ていた。小さなミツバチの進行方向を二人でしばしその場から見守る。

「あいつまだ新米ですかね」
「次回の採集ではもっと上手くなってる」

 そう願うばかりだ。今はとりあえず敵に遭遇することなく無事に巣まで帰れるといい。
 スプーン一杯分のはちみつを食うときは今度からもっと敬意を払おう。

 もしかするとこの近くにミツバチの家があるのかもしれない。歩いているとまた小さな一匹がふよふよ飛んでいるのを見かけた。
 外で見かけるトンボとか蝶々なら特に怖がらない瀬名さんも、お仕事中のミツバチさんをのほほんと見守っている。

「瀬名さんハチは平気ですよね」
「小さいミツバチ一匹くらいなら」
「大きいスズメバチに集団で来られるのは誰だって嫌ですよ」

 もはや命の危機だ。そんな場面に遭遇したら人間に勝ち目はない。

「前に同期の生物オタクが言ってたんですけど、ミツバチはおしりの針を人間相手に一回使うとそこで死んじゃうんだって。針がかぎ状になってるから腹ごとちぎれるらしいです」
「小さいやつは攻撃も命がけなんだな。スズメバチは?」
「何度でもガンガン刺せます」
「生き物なんてどうせ不公平にできてる」
「でもミツバチの針は抜けずに刺さったまま内臓ごと残ってるから下手に取り除こうとすると毒液がかえって注入されるとかって」
「どっちにしろ恐ろしいから野生動物は刺激しないようにしよう」

 頂点みてえなツラして威張っているけど、俺達はきっと地球上で最も生きるのに向いてない種族だ。

 ここはヒラヒラ飛び交う蝶にも蜜を求めて働くハチにも好まれそうな温かい庭。過酷な環境では生き続けられない脆弱な人間にも優しくできている。
 瀬名さんは元々家に出る系でなければ虫を見ても騒がない人だが、小さな生き物がわんさかしていそうなこの場所も平然と優雅に歩いている。今もまた俺達の目の前を、名前の分からないちびっこい羽虫がゆったりと横切っていった。

 隣を見る。やっぱり平気そうだ。
 ここにいる小さい奴らが吸い寄せられていくのはゴミ箱ではなく綺麗な花の咲いた野原だから不快指数が低いのだろうか。でなければもしや自分のテリトリーに入ってきさえしなければいいのか。

「瀬名さん」
「ああ」
「マルハナバチ可愛くない?」
「まるはな……なんだよ急に」
「可愛いと思うかなって」
「モフッとしてる奴だろ。あれは確かにちょっと可愛い」
「家に入ってきても?」
「あ? 家? 来ねえだろ、マルハナバチは」

 なんか分かってきたかもしれない。今こそ瀬名恭吾の生態を究明するチャンス。

「他に可愛いと思える虫なんています?」
「俺はお前のダチとは違って虫マニアとかではない」
「強いて言うなら」
「強いられたくない」
「この世に一匹だけ虫が残るとするなら」
「あぁ? あー……昔テレビか何かで見た奴には感激した。モフモフしててメスだけ可愛いとか言う。アブの仲間だったか……?」
「トラツリアブ?」
「分かんねえけどそんなような名前だったと思う。つーかなんでお前は知ってんだ」
「俺も前にネットで見ました。あの辺が好きならきっとおカイコ様も好きですね」
「……なんでそう思った」

 ダメだった。十五秒で究明失敗。家に入ってくるかどうかじゃないし不衛生かどうかでもなさそう。
 思いっきりドン引きした顔で見てくる。

「人間として感謝すべきなのは分かるが好きじゃねえよ。イモムシじゃねえか」
「そのイモムシが成虫になるとめちゃめちゃ可愛いんです」
「…………」
「本当ですって。あとで俺のお気に入り動画見せます」

 白くて小さくて見た目はとても儚い生き物は本当に生き様も儚い。
 しかし瀬名さんは疑いの眼差しを向けてくる。可愛いってあとで絶対言わせてやろう。

「お前んちもしかして養蚕もやってるのか?」
「ウチがやってるのは家庭菜園だけです。ご近所に養蚕農家はありましたけど」
「今は?」
「もうとっくに廃業してます。どこもそういうのは少なくなってますから。何年か前までは年寄りのじいちゃんばあちゃんがどうにか頑張ってたんですけどね。そこの息子夫婦の代になってとうとう断念したみたいです」
「その夫婦に子供はいねえのか?」
「娘さんが一人。でも随分前に東京出ちゃってますし」
「世知辛い話だな」
「そういうもんですよ」

 その時また一匹のミツバチがふよふよと飛んできた。黄色い花に突っ込んでいく。
 こいつらにとってはあの花もこの花も大切な食料源になる。花たちにとったらあの虫もこの虫も花粉をあちこちに運んでくれる優秀なパートナーだ。

 人の手で作られた庭の中でも自然はうまくできている。
 さっきの新米ミツバチとは違ってこいつはベテランなのだろう。効率よくクルクル動いて花粉を上手に集めていた。

「いいですね。なんか春って感じ」
「夏が過ぎて秋が来ればミツバチがせっせと集めたハチミツの人間による搾取がはじまる」
「やめてそういうの」

 養蜂家さんとミツバチさんたちはちゃんとうまくやっている。
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