貢がせて、ハニー!

わこ

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182.割れた卵Ⅰ

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「申し訳ありませんでした…………」

 震える。これ以外に何が言えようか。謝罪の言葉にもっとバリエーションとかないのか。こうなったら武士っぽく言えばいいのか。面目次第もござらぬ。ふざけてんだろ。
 どれもだめだ。何をしても許されない。なんて事をしてしまったんだ。


 玄関の前で俺はとうとう完全な金魚になった。パクパクするどころか今にも酸欠で死にそうだった。
 バカみたいに放心している俺の横では、瀬名さんが妹さんに言い放っていた。さっさと帰れ。お前がここにいるとややっこしい。それからもう二度と来るな。
 妹相手にあんまりな物言いだったが、妹さんも負けてはいない。ひとしきりミソクソ言い返してから軽やかに去っていった。俺にニコニコと笑顔を向けて、バイバイと明るく手を振りながら。
 あんなに気さくなすげえ美人を、クソ女って思ってしまった。

 瀬名さんに支えられるようにして部屋に入れられ、それからはもう低姿勢で正座だ。
 間違っても足なんか伸ばせない。こういうとき日本人は正座したくなる。たまに俺の部屋で正座する瀬名さんの気持ちが今になってやっと分かった。

 これのどこが愚かじゃないだ。愚鈍の極みだ。滑稽どころの騒ぎじゃない。超絶クソダサい大馬鹿者だ。とんでもない事をやらかした。

「すみません……あんな……俺、あんな……なんであんなこと……」

 怒りに任せてドアをぶっ叩いた。瀬名さんの胸倉につかみかかった。瀬名さんの妹さんを、睨みつけて威嚇した。
 そして今、頭を抱えている。

「……なんてことを……」
「もう気にするな。とりあえず立つか普通に座るかしたらどうだ。痛いだろ」
「…………ほんとう、に……ごめんなさい」

 ダイニングの固い床の上で正座しているのに全然痛くない。なんかもう痛覚とかがない。死ぬのかな俺。死ぬのかもしれない。

 知らない女に腕を組まれていた。簡単に体に触れさせていた。あのマンションの前でも、さっきの玄関でも、とにかく親密そうに見えた。
 親密なのも当然だった。だって家族なのだから。血の繋がった妹だ。

 魂が抜けそうな俺の代わりに、派手に落とした袋の中身を瀬名さんが選別していく。テーブルの上にガサゴソと、袋の中身は一つずつ出された。

「割れてる卵は捨てとく」
「……はい……すみませ……」
「ほとんどは無事だ。安心しろ。割れたのは二個だけだった。このパックは見た目より優秀だよな。これ発明した人は偉い」
「…………」

 卵のパックが頑丈だという情報ごときじゃ今の俺にはなんの慰めにもならない。ひれ伏したい。このまま土下座しようかな。なんならもう殺してくれないかな。
 食材の片づけを終えると、瀬名さんは買い物バッグを小さく畳んだ。ここまでのこの時間はきっと俺のために与えられた。ちょっと前までとは違った意味で、瀬名さんの目を見られなくなったから。

 だけどとうとう猶予の時間も終わったようだ。瀬名さんが静かにこっちへとやって来る。俺の目の前で腰をかがめ、頬にそっと触れられて、そうやっていくらか上向かされた。
 視線が絡む、その前に。ふっと、唇には柔らかい感触。
 口づけられた。なんで。体温は、分からない。不意打ちで上から食らったキスに、思わず忘れる。まばたきを。
 それでようやく、目がパッチリ合った。

「気分はいい。お前には悪いが」
「…………」
「わざわざ宣言されるまでもねえよ。俺は一生遥希のものだ」

 死んだ。

「…………消えたい」
「消えられちゃ困る」

 小さく笑いながら手を取られ、引っ張り上げられた。椅子にお座りさせられる。ちょこんと浅く腰掛けたところで瀬名さんは俺の前で腰をかがめ、今度は丁寧に右手を取られた。確かめるように眺め下ろしてくる。
 流し台に行ったかと思えば、濡れタオルを持って戻ってきた。そのタオルは俺の右手を包んだ。冷やされる。両手で、優しく労わるように。

「多分これ何日か痛むぞ」
「……ハイ……」
「あとで湿布買ってくる」
「…………すみません」

 居た堪れない。何から何までお手数しかかけていない。キンキンに冷やした濡れタオルで心臓包んで息の根止めてくれ。

「……瀬名さんは平気、ですか……」
「ん?」
「腕、かなり強く……掴んだかと……」

 半分はほぼ正気じゃなかったからはっきりとは覚えていないが、握り潰すような勢いだった自覚はある。でも瀬名さんは平然としている。

「問題ない。今にも殺されそうな目でお前に睨まれてグッときた」
「…………」

 もう嫌だ本当に死にそう。この人の頭もおかしい。

 頭はおかしいけど誠実な恋人にとんでもない事をした。なんて言って謝ったらいいのか。ここ数日の俺はただのメンヘラだった。自分がこんなことになるなんて、まさか。
 冷静になり、あの女性の正体が分かってみれば、相当ヤバい奴になっていたと自覚できる。消えたい。もうやだ。地下深く穴を掘って百二十年くらい埋まっておきたい。

 お詫びの言葉もございませんとは、日本人が時たま使うややっこしい言い回しだけれど、まさにそれだ。日本語は凄い。ありえない事をやらかしてしまった。

 さっきのあれは瀬名さんからしてみれば全く意味不明な状況だったはずだ。自宅前で妹と話していたら帰ってきた俺に急にキレられた。訳が分からない。なんだこいつって話だろう。
 瀬名さんは俺がああなった事情を知らない。あそこまで激昂される覚えだってない。この人は潔白どころか、そもそも最初から何もなかった。
 謝ろうにも謝り切れない。それに、俺は。それ以上に。

「ごめんなさい……」
「もういい。大丈夫だ」
「……違うんです」

 確証などない。そんな事ができる人じゃない。ずっと自分に言い聞かせてきた。
 言い聞かせてきたのに、現実はこれ。

「…………あなたを疑いました」

 これ以上の裏切りがあるか。聞くことができず、そのせいで真相を話す余地さえ与えずに、勝手に疑い、決めつけた。
 この人には俺以外の誰かがいる。その女を、部屋にまで入れたのだと。

「疑ったんです……。本当に……そうだと思った」

 俺は最後の最後で瀬名さんを疑う。それが今日、証明されてしまった。この人には一番見られたくなかった醜いところを自分で見せた。

 視線も顔も徐々に下がっていく。上げられる訳がない。だから濡れたタオルに包まれた右手を見下ろし、痛みはむしろ感じておきたくてグッと強く握りしめた。
 それを瀬名さんがタオルの上から、さっきと同じように包み込んでくる。

「妹が来てると俺が一言伝えておけば済む話だった」

 握りしめるのをやめさせるみたいに、一本ずつ指を解かれた。

「それに俺も前にショウくんの件で同じようなこと聞いたしな。これでようやくお相子だ」
「…………」

 頭にはポンと、大きな手のひらが乗る。その重みはすぐにふわりと離れ、テーブルの向かい側から椅子を移動させてきたこの人。俺の前で腰を下ろして、痛めた右手をもう一度取られた。

「本当はこの前の土曜も朱里と会ってた」
「あ……はい……」
「後悔しかない。優先順位を完全に間違えた」
「そんな……」

 俺を一番にする必要なんてない。第一、社会人にとってそれは簡単じゃない。
 簡単ではないはずなのにいつだって優先されてきたから、いい気になって調子に乗って、疑惑ばかりが膨らんでいった。

「一昨日帰りが遅くなった時もそうだ。……あの時にはもう、晩飯の用意してたよな?」
「……はい」
「すまない……あんな時間になって急に」

 ゆるく首を左右に振った。俺も普段の状態だったら、もう作っちゃったって言って翌日の弁当をミニピザでぎっしりにさせただろう。パエリアも冷凍庫にぶち込んで、次の日の晩ごはんで雑炊的なものになっていたと思う。
 いつもならばそうできた。捨てる事だけは絶対になかった。それをあの日は、なんで捨てたか。

「……あの時、買ってきてくれたケーキ……大きいシティホテルのですよね」
「ああ。知ってるのか?」
「紙袋にホテルの名前が入ってたから、調べたんです……電話くれた時に後ろでその……女の人の声聞こえたから、なんか……」

 あの声が耳に入った瞬間、冷静ではいられなくなった。まともな頭ではなくなっていた。いじけて捨てて、なかった事にして、一人で不貞腐れた。惨めでどうしようもなかった。
 今となってはバカみたいだ。後ろめたさしかないから語尾は徐々に曖昧になったが、それによって瀬名さんは色々と合点がいったのだろう。

「それでか……」
「…………」
「悪かった……あれも朱里だ」
「うん……」
「ちゃんと言うべきだった。嫌な事で悩ませてたな」
「…………」

 悪いのは瀬名さんじゃない。さっきの奇行も、ここ数日の態度も、俺はどうやって謝ったらいい。
 少しくらい俺を責めてもいいはずなのに、この人はそんな事をしない。それどころか俺以上に申し訳なさそう。そういえばここ最近ずっと瀬名さんが浮かべていたのは、これと同じ表情だった。

「あの時はホテルのレストランに行ってた」
「はい……」
「帰ってきたらマンションの真ん前に朱里がいてな、俺の名前で席だけ予約してあるからついて来いって言って聞かねえ。来ねえならこのままウチに突撃すると脅されたから仕方なく付いてって……あぁ……いや、悪い。言い訳だ。これも全部その時話せばよかった」

 これがこの人。俺を責めるはずがない。ちゃんと知っていたはずなのに。
 感情は脳の仕組みだと思っていたけど、現に自分がこうなって初めて、人間の頭と心は別物なのだと思い知る。

「妹さん先週からこっちにいるって、さっき……」
「ああ。休暇でこっち戻って来るってのは俺も聞いてた。戻って来るなり連絡してくるとは思ってなかったが」

 そこで少し、瀬名さんは難しい顔をした。さっきまでとはまた違った様子で。

「……これも先に謝らせてくれ」
「はい……?」
「すまない。おふくろがお前のことをあいつに全部喋った」
「え?」

 思わず聞き返してしまったのは、本当に単なる咄嗟の反応。しかし瀬名さんはさらに気まずげな顔をして、同じ意味のことを言い直した。

「朱里はもう結構前から俺達のことを知ってる」
「あ……そうなんですか」
「黙っとけって言っとくべきだった」
「え、いえ、そんな。瀬名さんのご家族ですし……」

 言いながら気づく。この人にそんな事を思わせてしまったのは俺だ。
 二条さんの件をまだ引きずっているのか。考えてみれば俺は瀬名さんに、いつも酷い事ばっかりしている。

「あの日も朝っぱらから急に電話かけてきたかと思えば、お前に会わせろとうるさくて敵わねえ」
「俺に……?」
「それが土曜だ。あのまま放っといたらそれこそこの部屋に突撃されてた」
「あ……」

 始まりは全部あの朝だった。瀬名さんに電話がかかってきて、どことなく慌てていたようにも見えた。
 そこから少し様子がおかしくなり、それでその後、急用ができたと。俺はそれを勝手に仕事だと思い込んで。

「お前を見せろ見せろとしつこくあいつは……。人の恋人をパンダみてえに言いやがって」
「…………」

 パンダ。

「ホテルのレストランの件もそうだ。電話した相手が遥希だってのはすぐに気づかれた。お前も一緒に連れて来いって後ろで喚いてうるせえのなんの。代われっつってスマホ奪い取ろうとしてくるのを押し退けてたから、声が聞こえたっていうのは多分その時だと思う」
「…………そっか……」

 肩からはどんどん力が抜けていく。そんな程度の事だったんだ。俺がずっと聞けずにいたのは。
 スナネコのいるアニマルパークで、ショウくんが誰なのか聞けずにいた瀬名さんも半日もの間溜め込んだ。こういう感覚だったのか。こういうもんか。聞けないもんだな。

 同じ立場に立ってはじめて分かる。自分の恋人が自分の知らない誰かと一緒にいるのは、面白くない。面白くないなんてもんでは、俺は済まなかった。狭量だと自覚できる程、いてもたってもいられなくなる。
 だから真相が分かれってしまえばこんなにもホッとする。瀬名さんの場合はたまたまそれが俺にとっての昔馴染みで、俺の場合はたまたまそれが瀬名さんの実の妹だった。

「でもなんで妹さんのこと黙って……」
「あんなのと兄妹だなんて遥希には思われたくない」
「え……」

 ここだけは妙にスッパリ断言された。心なしか口調も強くなった。

「……それだけ?」
「死活問題だ。絶対にバレたくなかった」
「そんなに……?」
「俺の奢りと勝手に決めつけて無駄にクソ高いホテルのレストランを勝手に予約するようなクズ女だぞ。食ったら食ったで今度は飲み足りねえとか言ってホテル内のバーに直行だ。一人だと安い居酒屋みてえな店ばっか行くくせしてあいつ」

 こんなに苦々しく誰かについて語る瀬名さんは初めて見たかもしれない。二条さんの料理にケチをつけるときよりも三割増しくらいでさらに不服そうだ。

「あの……」
「ああ」
「……やっぱり妹さんと仲悪い?」
「いや別に。ただ俺はあいつの性格がクソ底辺だと知ってる」
「…………」

 そういうのを仲悪いって言うんじゃないのか。

「あの店は遥希とだって行ったことねえってのに」
「……もしかしてそれでケーキ……?」
「せめてもと思って。今度は一緒に行こうな。カフェも併設されてる」

 そのカフェならホテルの名前を検索した時に見た。キラキラしたスイーツと、それらに似合うオシャレな店の内観が載っていた。
 あんなに綺麗で可愛いケーキだったのに、味なんてサッパリ覚えていない。味も何も分からないままただ口の中に詰め込んでいた。
 お菓子を食うときの俺の反応なんて見慣れている瀬名さんだから、あれも不審だっただろう。

「今回のこと、本当に悪かった」
「あなたは何も……俺が勝手に……」
「いいや。会わせたくねえってのは俺の都合だった。そんなつまらねえ事のせいで、お前にあんな顔をさせた」

 どんな顔に、なっていただろう。酷かっただろうなって、それくらいは想像できるが。

「……ごめんな」

 やんわりと右手を握られた。ドアに叩きつけたこの手にも、やっと血が巡って来たみたいだ。

「痛み酷いか?」
「いえ……大丈夫です」
「氷当てとこう。ちゃんと冷やした方がいい」

 そうやって俺の世話を焼く。その姿をここから見つめた。こんな姿はもう見られなくなるのだと、怯えて眠れない夜も夕べまでで終わったようだ。

 ゴロゴロとポリ袋に入れた氷を瀬名さんが持ってきた。タオルの上から当てられる。そこはすぐにひんやりするけど、指先に触れるこの人の手はあたたかいのが伝わってくる。

「なあそういや、浩太のとこ行ってたんじゃねえのか?」
「あ、はい」
「帰りもっと遅くなるかと思ってた。ハムスターはどうした」
「ハムちゃんは元気でした。……けど、ただなんていうか浩太にちょっと、相談があったというか……」
「相談?」
「…………」

 大学でどんな顔をして会えばいいんだ。本当にあいつの言ったとおりだった。迷子の子犬を届けたわけでも荷物運びを手伝ったわけでもなかったけれど。
 状況の一面以外、それ以外の全部が分かってみれば本当になんていう事もない。今は全てがつながった。しかしこの前はそうじゃなかった。だから俺は、ガキっぽく拗ねた。

「実は……知ってました。先週のこと。土曜日の」

 真相を知ってしまったら間抜けでしかない。だから黙っておく道も選べる。
 しかしここ数日でずいぶんと、心配をかけてしまったのも分かっている。

「……見ちゃったんですよ。たまたま」
「あ……?」
「あなたが女の人と一緒にマンションから出てくるとこ。その……妹さんと」

 腕を組んでいた。妹さんとだ。その時点では妹だなんてまさか思いもしなかった。
 文句のつけどころもないような男女が並んで歩いている光景は、衝撃を受けるほど様になっていた。

「本当はあの日誰も捕まらなくて、一人であの辺フラフラしてたんです……それで……くっついて出てきたから……」

 時間も空気も止まったみたいだった。視線の先の二人しか俺にはもう見えなくなって、それ以外は何も分からなかった。事実が判明した今も、あの瞬間の感覚はよみがえる。
 マンション。女性と二人。くっついて。最後まで言い切れなかったそれらから、瀬名さんは正確に汲み取ったようだ。

「寝つけなくなってた原因はそれか」
「…………」
「……俺がずっと追い詰めてたんだな」

 ふるふると、首を何度も横に振る。
 ほんの少しだけすれ違った。その綻びをここまで無暗に大きくさせたのは俺だけど、瀬名さんはどうしたって俺のせいにだけはしない。

「隠し事なんかするもんじゃねえ……」

 悔いるかのように言って、席を立った。寝室へと。一瞬戸惑うも、氷の入った袋をガサガサ言わせながら俺も一緒に付いていく。

 瀬名さんが引き出から取り出してきたのはファイルだ。それをパラパラと開いて見せられた。
 中身は数枚の紙。載っているのは物件情報。不動産屋でもらえる募集図面が、いくつか。

「今な、部屋を探してる」
「部屋……?」
「お前が見たのもそうだ。内見に行ってた」
「内見……」
「ああ。近くに不動産屋もいた」
「…………」

 いたかな。どうだろう。記憶は曖昧。あそこで真っ先に瀬名さんが目に入って、それと同時に女性の姿を捉えて、それ以外の世界は一瞬で消えたけど、しかし今、よくよく考えてみれば。
 後ろからもう一人、スーツを着た誰かが出てきたような来なかったような。いやまあ、確実に出てきたのだろう。俺の記憶がズタボロなだけで。もう一人出てきたその人こそが、不動産屋さんだったのだろう。

 まともじゃなかった自分を改めて振り返りつつも、促されるままローテーブルの前に並んで腰を下ろした。
 物件情報のうちの一枚。それを取り出し、俺の方にスッと差し出してくる。

「お前が見たのはここだ」

 言われて、見下ろす。最寄り駅。住所。簡単な地図。それらからして確かにおそらく、この辺だったように思う。
 図面の右下のQRコードに瀬名さんがスマホをかざし、続けて見せられた画面に表示されているのは、物件の詳細情報が載ったサイト。そのページ。パッと、目に入る。

 マンションの外観を写した画像。見覚えしかない。これははっきり記憶に残ってる。間違いなくここだ。堅実な成功者達が好みそうなマンションだ。
 入居者募集中のこの物件に、瀬名さんは妹さんと訪れた。

「妹さん、不動産関係の人なんですよね……?」
「ああ」
「……何か仕事の手伝いとか、そういうことですか」
「いいや違う。これは俺の所用だった」

 不動産屋と一緒にマンションの内見に行く。そのための理由なんて、一つだ。

「……引っ越すの?」
「そのつもりでいる」
「…………」

 引っ越すんだ。それは、知らなかった。なんで何も言ってくれなかったんだろう。
 少なくともあと四年はここにいる。俺がここに越してきた時に瀬名さんはそう言っていた。だからなんの疑いもなく、俺が卒業するまではここにいるものだろうと思い込んでいた。ここを出ていくなんて考えたことがなかった。

 瀬名さんがこの部屋からいなくなったら、もうお隣さんではなくなるのか。あの日見たマンションなら、数駅の距離。さほど遠い訳じゃないけど、毎日部屋を行き来するのはさすがにもう難しいだろうか。
 なんでまた急に。思ったけど、言えない。行かないでなんて言えるはずがない。恋人だからって住む場所の強制はできない。しちゃいけない。

 ついさっきもみっともない事をした。俺はみっともない事ばかりだ。
 一緒にいてほしいからって、出ていかないでなんて言ってはいけない。

「……そう、ですか」
「ああ。一緒に暮らそう」

 一瞬の間ができた。すぐにはとても、呑み込めなかった。

「…………え?」
「今も似たようなもんだけどな。ちゃんと二人で同じ部屋に住もう」

 さらに呑み込めない。さっき程じゃないが、口は金魚みたいに一度だけパクッと。

「あの日も本当なら遥希と一緒に見に行くつもりだった」
「あ……」
「そもそもはここで隠したのが間違いだったな。二人で住む部屋見に行こうなんて言ったら拒否されると思って黙ってた」

 瀬名さんが言っていた秘密の行き先。変な場所ではないけれど、予告したら俺が拒否するだろう場所。
 そうか。ここか。ここだったのか。デカいコウモリが大量にビッシリぶら下がっている洞窟でもなければ、拷問器具の博物館でもない。

 閑静なあのエリア。マンションの内見。それは予想できなかった。
 今いるここは単身者向けのマンションではあるが、二人入居も禁止されてはいない。それもあって瀬名さんはしばしば冗談交じりに言っていた。向こうの部屋はさっさと引き払っちまえ。
 だけど本気で一緒に住もうと、言われたことは多分、なかった。

「こういうのはさすがにお前の両親に断り入れてからって考えてた。けど今はちょうどいい機会だと思う。いずれはと思っていたことを前倒したい」
「…………」
「もちろん遥希が嫌じゃなければ」

 嫌なんて、そんな。だけど瀬名さんの想定した通り、内見の前に行き先を明かされていたら俺は拒否したかもしれない。だって。

「……なんで急に……」
「このマンションを見てみろ。防犯意識の欠片もない。申し訳程度の監視カメラが役に立たねえことは身に染みて分かった」

 犯行後の証拠にはなっても犯罪の未然防止としての意味ともなると限定的だ。抑止力になることもあるが、ならなかった一例が俺。
 瀬名さんがそんなところを、気に掛けるということは。

「あの時のことまだ、気にしてますか……」
「あれは気にするべきことだ。教訓は生かすもんだろ」

 スマホも紙面もひとまず置いて、瀬名さんは俺に向き合った。
 こういうときにちゃんと向き合ってくれる。それが瀬名さんだ。こういう人だ。

「一緒に暮らしたい。ダメか?」

 言葉はすぐに出てこない。驚いたの半分、申し訳ないの半分。その二つだけでは決してないから、破裂しそうなほどパンパンに溢れる。

 好きな人からこれを言われて、嬉しくならない奴なんているのか。
 相変わらず言葉は出てきそうにないけど、それでも答えなんて、決まってる。
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