貢がせて、ハニー!

わこ

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155.ウェルカムスイーツⅡ

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 夕食まで時間があったため旅館内を散歩することにした。卓球台がありそうな宿ではなかったが落ち着いたラウンジならばあった。

 玄関から少し行ったところに設けてあるそのスペースからは見事な中庭が見渡せる。冬越し中の庭木は自然の中で葉を落とした樹木とは異なりほとんどが青いまま。地面には白砕石が敷き詰められていて、濃い緑色の瑞々しい苔が澄み切った空気を思わせていた。
 またしてもリッチな気分。気分というか、紛うことなきハイパー贅沢。

「コーヒーでも頼むか?」
「あ、いえ。大丈夫」

 ドリンク以外に軽食やスイーツも宿泊客は自由に利用できるらしいが、もうちょっとでゴハンなのでここはいったん我慢して、庭園を一等良く見通せそうなど真ん中の椅子に二人で腰かけた。
 貸し切りとまではいかないけれどもほとんど独り占めに近い。時折見かけるお客さんの中に騒がしい人は一人もいないからゆったりとした静けさが広がっていた。

「思ってたより人少ないんですね」
「時期的に観光客はそう多くねえだろうからな」
「弾みで奇声上げたらかなり目立ちそう」
「やるなよ。俺は他人のふりするぞ」

 冷たい。修学旅行生御一行がギャンギャン喚きながら泊まる宿とは思った通り趣が異なるようだ。

 浅めに控えめにお座りしながら息をつく。向こうの通路からは年配のご夫婦らしき男女が上品に歩いてくるのが見えた。
 優しげでおしとやかそうなご婦人と、紳士っぽい感じのロマンスグレー。少なくとも弾みで奇声を上げるタイプのご夫婦ではないだろう。
 後ろをチラリと振り返ってみれば、ラウンジの奥の方にも気品漂うご夫婦が一組。部屋でダラダラ怠けながらピーナッツを投げ食いするような方々ではなさそうに思う。

「…………」

 見たところ格式張った旅館ではない。俺達庶民にもきっと優しい。半年前に公式サイトを確認しながら瀬名さんはそう言っていた気がするのだが、おかしいな。周りを見ていたら不安になってきた。大丈夫かな俺。場違いじゃねえかな。
 くつろぎの宿にかえってそわそわしぱなしになっている俺の横では、瀬名さんがちょっと待っていろと言いながら腰を上げてどこかに行ってしまった。待ってくれ。どこに行くんだ。一人にしないで。その姿をここから目で追いかける。

 カウンター内に何やら声をかけると瀬名さんはすぐにまた戻ってきた。そしてそこから数分後、俺たちの元へとやって来たのはトレーを持ったお姉さん。

「お待たせいたしました」
「あ……どうも」
「ごゆっくりおくつろぎくださいませ」

 俺の目の前でテーブルに置かれたのは白いソーサーとカップだった。ゆらゆらと湯気が立っている。中身の色と香りからしてミルクココア。

「飲んどけ」
「……どうも」

 そわそわしているのもしっかりバレていた。せっかくのお心遣いは即座に受け入れることにする。
 甘くてぬくい味にホッと一息。隣からは瀬名さんの手が伸びてきて、この頭の上にポンと乗っかった。

「叫び声さえ上げなけりゃいいんだから緊張すんな」
「別に緊張とかしてませんけど」
「ほう……?」
「…………」
「次は離れのお籠りプランな」
「あと十五分もすりゃ俺だってちゃんと慣れますよ」

 ガキ扱いされたので見栄を張り返したら上から目線で笑われた。腹立つ。

 離れだったら誰にも気兼ねしねえで自由にのびのび過ごせるぞ。三日間は庭だって俺たちのものだ。
 旅館選びの最中に瀬名さんはそうとも言っていたのだが、その真意が今分かった。





 ここの宿は庭園も見どころの一つのようで、館内を歩き回りつつもそこかしこから植木が視界に入ってくる。
 旅館はホテルより地味なイメージがあったけれどもとんでもない。どこから見ても景色が綺麗で、通りがかったレストランを入り口から覗けば広々としている。明日の朝食への期待が募った。朝ゴハンはみんな大好きビュッフェだ。

 部屋に戻る途中で立ち寄った売店は結果として冷かしただけになってしまった。最終日にちゃんと買うので許してほしい。
 部屋に置いてあった薄皮饅頭も目立つところに売っていて、あのウマいお茶はあるのだろうかと探していたら瀬名さんが聞いてくれた。そして売っていた。帰りにカモられよう。

 夜の部屋食は十八時半で頼んであるから、それまでの時間は温泉に挑む。日が落ちてくるとテラスの四隅では橙のライトが自動でつくようだ。パッとほのかに灯った瞬間を視界の隅でふっと捉えた。

 瀬名さんを露天に誘い、その前に二人で籠ったのはテラスとつながっているシックな内風呂。リビング横に設けられたこのスペースは見晴らしがいい、というか全面ガラス張りになっている。
 足を伸ばせる大きなバスタブも清潔に整えられたシャワーススペースも、隣接する洗面所とリビングから隠すすべもなく丸見えだ。バスルームに温かい湿気が立ち込めればすぐ、ガラスはくもって見えなくなるのが不幸中の幸いというか。

「あなたは本当にガラス張りがお好きですね」

 閉ざされた空間で声が反響する。透明の壁をキュッと手でこすった。
 湯気の向こうの誰もいないリビングは、ほんの数秒間のうちに白くくもって影しか見えなくなっていく。

「プライバシーってなんだろう」
「言葉に棘があるように聞こえるのは俺の気のせいか」
「そう聞こえる心当たりがあるんですか」
「言っておくがこの手の旅館の内風呂の作りなんて大体どこもこんなもんだぞ」

 そんなことないだろ。
 瀬名さんがリビングにいる時に一人で内風呂に入るのはよそう。一緒に入った方がまだ恥ずかしくない。くもって見えなくてもなんか嫌だ。

 ここでは洗面所のバスケットに入っているアメニティグッズまで抜かりない。シャンプーをワシャワシャさせれば浴室内がふわりといい匂いで満たされる。
 シャンプー類と同じように小さいボトルに入ったボディソープを瀬名さんがトロッと手のひらに出し、背中を洗いっこすると見せかけて執拗にベタベタされた。疲れた。

 ようやく露天風呂に繰り出したころには体もずいぶん温まっている。底冷えするほどの寒さは感じない。男二人でお湯に浸かって、贅沢なヒノキ風呂でたっぷりと足を伸ばした。
 冬の空は高く空気は冷たいが温かいお湯に浸かれば極楽が圧倒的に勝る。溜め息の出るような居心地だった。瀬名さんと露天風呂。変な気分でもある。

 時々意味もなくお湯の中からポシャンと手を出してしずくを落とした。目のやり場に若干困ったのは最初の五分くらいのもので、後ろにゆったり体を預けているうちに世間話をする余裕も出てくる。
 夕方の仄暗さからすっかり暗くなるまでの時間を、ちょろちょろかけ流される音を聞きながら二人で並んで静かに過ごした。

 いつでも好きなタイミングで好きなだけ入れる事は客室露天の良さの一つだろう。
 一気に貪欲に浸り続けてのぼせるのもアホだから、森の小鳥たちがすっかり鳴き止んだ頃に俺たちも風呂から上がった。

 着替えとして部屋に備え付けてあるのは濃紺の浴衣だ。薄くはないがサラリとした生地と、それと同系色の長い帯。
 それらをひとまず手にしてみたものの着慣れていないとまあ難しい。俺が帯をあっちにこっちへと悪戦苦闘している横では、着慣れているっぽい瀬名さんがさっさと身支度を済ませていた。

「……早いですね」
「お前は大変そうだな」
「…………」

 旅館スタイルの完全無欠な色男に仕上がったこの大人。それとない皮肉を寄越してくると同時にこの胸元にそっと手を伸ばし、どっちが上だか少々自信のなかった襟を右前にサッと整えていく。そのまま長ったらしい帯を巻くのもテキパキと手伝ってくれた。
 数分後。

「よし。いいぞ」

 軽く浮かせていた両腕を下ろした。自分の腰のあたりを見下ろす。見えないから手で触ってみる。
 おそらくは貝の口とか言われるあれになっているのだろう。もう一度胸元を確認。少しのたわみもなくピシッとしたまま。

「おーすげえ。ちゃんとしてる」
「脱がせるためにはまず着せなきゃならねえ」
「ばかくそ」

 台無しだ。真顔で何言ってんだ。見かけは和風美人になっても瀬名さんは所詮瀬名さんだった。
 リビングの椅子にドサッと腰かけ、左手で何気なく触れた右腕。心なしかモッチリしているというか。いつもよりもサラッとしているような。

「なんかちょっと肌スベスベしてるような気がしません?」
「するかもな」

 三十代にも効果は抜群のようだ。前の椅子に腰かけた瀬名さんに問いかければうなずいて返される。
 右の手のひらで自分の左腕をスベっとまたこすらせた。同期の化学オタクの奴がもしもこの場にいたとするなら、弱アルカリがどうのこうのと長い話が始まっただろう。

「温泉スゲエ。吸いつくような肌ってやつだ」
「温泉の効能に頼らなくてもお前は元々肌触りがいい。毎日吸いつきたくなってたまんねえからこっちはいつも大変だ」
「バカクソ」

 バチクソ馬鹿クソばか野郎な男によるとここは美肌の湯として人気らしい。露天風呂の効果でツルツルになったのかはよく分からないが温泉は気に入った。
 疲れなんて感じもしないどころか爆上がりなテンションを抑える方に苦労する。こらえきれずにツインベッドの片方にバフッとダイブしてみたり、落ち着けよお子様と言われながら美味いお茶を淹れてもらったりしながら、広い部屋でのびのび寛いでいるとお待ちかねのゴハンがやって来た。

 始終愛想のいい仲居さんが丁寧に部屋を後にするのを見届ける。和室のテーブルに並べられた豪華な料理をキラキラと眺めた。

「マグロだ!」
「ああ」
「デカいエビ!」
「おう」
「天ぷら!」
「そうだな」
「なんか鍋みたいなやつ!」
「お前今日ずっと見たものそのまんま叫んでるけど大丈夫か」

 元々怪しかった語彙力は楽しいせいで完全に飛んでいる。名称不明な一人用のすき焼き鍋みたいなやつの下では、固形燃料がゆらゆら揺れていた。



 贅沢な夕食をしっかり平らげ、食ったら体温が上がったので二人でテラスに出てきて涼み、真冬にそんなことをしていたら今度はさすがに寒くなってきたためもう一回露天風呂に浸かることにした。脱がされる前に自分で脱いでやる。

 同じようにスルッと浴衣を脱いでいく、年上の恋人の所作がどうにも。
 動作に合わせて首の筋が美しく線を際立たせ、形の整った鎖骨は目立つ。しっかり引き締まった肩に上腕に、鍛えられた綺麗な腹筋。男っぽい腰骨。全部が全部艶っぽい。自然と湧き立つそんな感情が、口から飛び出ないように封じ込めた。

 神様の贈り物かよ。なんなんだこの三十三歳は。女性誌の表紙をヌードで飾っても全くもって不思議じゃない。万が一にでも飾りやがったら俺が全部買い占める。

「……これで口さえ開かなけりゃな」
「あ?」
「いえ、なんでもないです」

 とんでもないイケメンなだけにとてつもなく残念な男だ。


 昼間ははっきり目に飛び込んできた木々も今は姿がよく分からない。テラスの明かりによって輪郭がぼんやり分かるような気のする濃い緑色は、本当に見えているのか、それとも脳による補完か。
 ちょろちょろ出ているお湯は当然ながらずっと適温。ほっとする。ゆったりもする。全身が浮いているかのようなこの感覚。
 柵側にふよふよ近づいて広い空を見上げれば、やけに明るい月が見える。瀬名さんも俺の隣で同じところを見上げた。地上がしっとりと暗いから、上空の明度を感じられる。

「……あの月……」
「ああ」

 実家で過ごした年末年始に見上げた空もこんな明るさだった。
 あの時は三日月ではなかった。それに俺は一人だった。けれども今は、瀬名さんがいる。

「クロワッサンみたいでうまそう。とんがってるとこ絶対サクサクしてる」
「素直に綺麗ですねって言えよ今日くらいは」

 脱がせるために浴衣を着せるような男にとやかく言われたくはない。
 瀬名恭吾に比べればまだ俺の方が風流人だろう。絶好のシチュエーションで見るとただの月も絶品に思えちゃうマジック。ほそっこい二日月ではなく上弦手前の三日月って感じだから完全にクロワッサンだ。クレセントロールよりもふっくらしていてウマそう。

「風呂出たらとっておきの黒糖饅頭を食います」
「俺の分のウェルカムスイーツな」
「明日の朝は何食えるだろう」
「和洋中そろってるだろうから好きなもん取ってこい」
「エビチリとカレーは絶対に食います」
「そうか。多分ある」
「チョコファウンテンあるかな」
「それはちょっとなんとも言えない」
「そっか……」
「なかったら近いうち別の店連れてく」
「やった」
「なあ、少しはメシ以外の話しねえか?」
「メシ以外?……え。え? メシ以外……えっと………………ヒノキが……」
「分かった。悪かった。メシの話しよう」

 絶対つまんない話になるからその前に瀬名さんが折れた。
 風呂の材質について語り合っても俺たちの間では弾まない。同期の建築マニアの奴がもしもこの場にいたとするなら、ヒノキの見栄えやら性能やらについて熱く語り出したと思うが。
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