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9. 一緒に晩飯どうですか。
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バイトから帰って夕飯を作っていたら瀬名さんがやって来た。お決まりの押し問答を経てもらい受けたのは箱に入ったケーキ。
夕食の準備が整うまでにはもう少々かかる。渡されたばかりの白い箱と見つめ合い、モヤモヤしながら冷蔵庫の中にしまい込んだ。
そこからしばらく経ってもこのモヤモヤは消えない。今日はいつもよりも作る夕食の量を少し増やした。
なぜか。間違えたんじゃない。そこには明確な理由があった。
再開した料理の手を止め、一旦コンロの火も切った。そして部屋を出る。隣の三○二号室へ向かうために。数秒の迷いを振り払ったのち、瀬名さん宅のインターフォンを押した。
少ししてガチャリと開かれたドア。扉一枚分の距離を保って瀬名さんから見下ろされる。この立ち位置は初めてだ。
「さっきはどうも」
「ああ。どうかしたか」
不思議そうに俺を見ていた。つい先ほど別れたこの人は、すでにスーツのジャケットを脱いでシャツ一枚。
ネクタイも締めていない。着替えの途中だったようでシャツのボタンも上から三つ目まで開いている。若干たじろぐ。平日の瀬名さんはとにかくきっちりしているイメージしかないから新鮮だ。
「……食事、どうかと思って。一緒に」
「あ?」
「食事です」
さっきまで不思議そうにしていたこの人の顔は一瞬でぽかんと呆けた。奇妙な物でも見るような目で俺を凝視してくる。
「良ければですけど……あと少しでメシ作り終わるんで」
「…………」
「ウチ、来ませんか?」
「…………行く」
飄々としている人でも本気で驚く事はあるらしい。
***
人に出しても恥ずかしくはないと思う。本当にちょっとしたものだけど。夏野菜とキノコを使った炒め物だとか、鮭のムニエルだとか。ムニエルがなんなのかよく知らないが。
誰でも作れる簡単な夕食のメニューをダイニングテーブルの上に並べつつ、未だにやや呆け気味な瀬名さんの様子を窺った。
ガン見だ。テーブルの上を。
「……これは想定していなかった」
「俺の作った晩メシじゃ不満ですか」
「まさか」
「ならいいじゃないですか」
最後に水の入ったグラスを差し出してから瀬名さんの前で椅子を引いた。この人も驚いているだろうが俺だって自分のやっている事に驚いている。瀬名さんがウチのダイニングにいる。なんてことだ。とても奇妙だ。
「どうぞ。冷めないうちに」
俺が勧めれば瀬名さんは一度こっちを見て、いただきますと丁寧に断りを入れた。箸を持ったこの人の手が皿の上へと伸ばされる。
気付かれないようにさり気なく見守った。動作が丁寧な人は食い方も丁寧だ。俺が作った物をこの人が食っていると言うのはやはり違和感しかなくて、それでも目の前で飯を食われればどうしたって感想が気になる。
「うまい」
「……どうも」
シンプルな褒め言葉。残念な事に非常に嬉しい。
瀬名さんが顔を上げ、そこでバチッと視線が絡まった。咄嗟に逸らせない。その目元に険はなく、そっと静かに和らいでいく。
「嫁にしたい。すぐにでも」
「フォークで刺しますよ」
「分かった。黙って食う」
余計なひと言さえ出てこなければ普通にいい人だと思うのに。
結局その後も瀬名さんが黙る事はなく、二人で料理を食べ進めながら合間には言葉を挟んだ。いつもベランダで話しているような事から、いつもはあまり話さない事まで。
野暮ったい感じが全然ないから都会生まれかと思っていたが、瀬名さんの出身はここではないそうだ。ウチほどではないようだがおそらくはそこそこの田舎。
実家がある場所は台地になっているらしく、東に少々行った所の坂道を下ると一面に田畑が広がっている。そういう地域だったと瀬名さんは言った。
「農家やってたりします?」
「いや。家庭菜園レベルの畑なら庭にあるが」
「ああウチもです、それ。たまに野菜とか送ってきません?」
「地元を出たばかりの頃はな。この年になれば今度はこっちが送る側だ」
「野菜を?」
「なんでだよ。金をだ」
へえっと、思わず漏れた。いつもふざけた事ばかり言うけど中身はちゃんと真面目な大人だ。
「孝行ですね」
「そんなことはない。ガキの頃には散々世話ばかりかけてきた」
「盗んだバイクで走りだすんですか」
「そこまでじゃねえ。古いなお前」
話の中には自然と笑い声が混じる。ごくごく自然に。今もまた瀬名さんが笑ったから、俺もそれにつられていた。
「兄弟とかは?」
「妹が一人。そっちは」
「いません。俺一人です」
うちには他に白いアヒルがいるだけだ。
「周りは兄弟いる奴らが多かったんですよ。だから昔は羨ましかったです」
「現実を知らねえからそんな事が言えるんだ。いたらいたでうるせえだけだぞ」
ちょっと苦々しいような顔。そういう顔もできるのか。
兄貴がこれなら妹さんもさぞかし美人だろう。そう思いつつ、瀬名さんの所作を視界に入れた。綺麗に食べ進めるその仕草に目を止める。
綺麗だと思う。すごく。高校時代に地元の飲食店でバイトをしていた時には、いい年こいてそこら中に食べ散らかすおっさんどもが多かった。今のバイト先でもそうだ。だけどこの人はそいつらとは違う。音を立てず、丁寧で、なんて言うか、見ていたくなる。
瀬名さんと一緒に夕飯を食ってる。顔を突き合わせ、話しながら笑ってる。
部屋に招いた時には少なからずあったはずの緊張感はいつの間にか消えていた。前からずっとこうだったみたいに、俺達は言葉を交わした。
***
綺麗に食べてもらった皿をテーブルの上から片付け、食後には紅茶を淹れた。ティーカップなんて洒落た物がウチにはないから、代りのマグカップに赤茶色の液体を注いだ。
不揃いなカップのうちの大きい方を瀬名さんに渡す。それからこの人が買ってきてくれたケーキを冷蔵庫の中から出して、箱の中身を上から覗けばいつものように美味そうな光景が。折角だから二人で食おうと誘った。瀬名さんは静かにうなずいた。
俺はショートケーキ。この人はレアチーズ。甘い物も食えるらしい。それでも甘すぎる物は苦手だそう。
ただのお隣さんでしかなかったはずの人の事を、一つずつ知っていく。
「今さら言うのもなんだが良かったのか」
「はい?」
ショートケーキの上に乗っているデカいイチゴにフォークを突き刺したその時、瀬名さんは俺に向かって唐突に問いかけてきた。
瀬名さんが手に持っていたマグカップはテーブルに置かれる。その目は探るように俺を見ていた。
「下心があるとまで白状した男を部屋に上げちまって」
「ああ……いえ、別に……」
合わさった視線は離れない。イチゴをぱくりと口の中に運ぶのに合わせてそこから逃れた。
程よい甘みと微かな酸味。それを噛みしめながら考える。
下心のある男を招いた。なぜそんな男を部屋に上げたか。導き出した結論は、そっくりそのまま口に出す。
「あなたは何もしてこないでしょうし」
「お前のその警戒心のなさはどういう事なんだ。俺に対する信用だと勝手に受けとるぞ」
ふかふかのケーキに銀色のフォークを刺した。酸味のあるイチゴの後にくる生クリームは絶妙に甘い。
けれど甘すぎず、その次にはスポンジの柔らかさに包まれている。この人の視線に晒されながらモグモグと口を動かし、飲み込んでから紅茶を一口分だけ啜った。
「……信用、なんですかね?」
「俺に聞くなよ」
「だって分かんねえし。ああ、でも……」
二人分の食事を作った。帰宅途中に寄ったスーパーで、いつもより多めに食材を買った。夕食に招くかどうかをあれこれと迷ったのは、身の危険があるかないかという考えが念頭にあったからではなくて、むしろそんな危機意識は頭の中のほんの片隅にでさえ存在していなかったと思う。
ただちょっと、気恥ずかしかった。今まで散々断ってきたから。
誘った時にこの人がどんな反応をするかと思うと気がかりで、けれど実際に誘ってみればぽかんと呆けてくれたから、危機感がどうのこうのというよりどちらかと言うと気分が良かった。
「あなたは酷い人じゃないと思う」
「…………」
そのせいだ。たとえ下心があったとしても瀬名さんは酷い事をする人じゃない。その確信が俺にはある。いつも食わせてもらっているからたまには何か返したい。そう思っていたのもあるから、今夜とうとう夕食に招いた。
感じたことを素直に言った俺を瀬名さんはしばらく黙って見ていた。さっきこの人の玄関先で見たような、ぽかんと呆けた顔ほどではない。それでも少し意外そうで、あとはちょっと困ったような。なんとも言えない表情だ。いつもとはちょっとだけ違った顔のまま、瀬名さんは微かな溜め息を一つ。
「……参った。鉄壁のガードじゃねえか。そこまで信用されてるとさすがに裏切れない」
「そこまでって程の信用はきっとしてないですよ」
「はっきり言いやがって。お前も遠慮がなくなってきたな」
「なんか色々慣れたので」
ふっと、いつもはベランダの間仕切り越しに聞いている笑い声を耳にした。俺もそれにつられて笑った。その間にも絶えず感じていたのは、やわらかい眼差しだ。
見ていたくなる。そう思った原因は、この人の食事の所作が綺麗だから。決してそれだけではなかった。
***
ショートケーキとレアチーズケーキをそれぞれ食べ終え、俺はさらにもう一つ。モンブランを皿の上に出したら瀬名さんから微笑ましげな目を向けられた。文句あるかよ。
人にはあれこれ甘い物を贈りつけてくるくせして、この人はレアチーズ一つが甘味の限界だったようだ。だから代わりに砂糖なしの紅茶をもう一杯勧めたら、頼むと静かに言いながら瀬名さんは頷いた。
引き延ばしている。わけではない、きっと。だけどもう少し話したかった。余計な一言は多いくせしてあまりペラペラ自分のことを喋ってはくれなくて、それでも俺が聞いた事には包み隠さず答えを返した。
勤め先は駅の近くらしい。大きなビルだ。場所を聞いて俺も大体どの辺りかが分かった。
会社は海外に本社を置く医療機器メーカーだそうで、その本社があるのはドイツ。だから時たま向こうにも行く。次に出張があった時には何が欲しいかとさり気なく問われ、何もいらないと即座に答えた。
だったら今度は特大でモコモコの可愛いクマを連れて帰るぞ。そう言ってかけられた謎の脅し。冗談か本気かはっきりしない。この人はこれ以上俺の部屋をファンシーにさせてどうするつもりだ。
「クマならすでに一匹いるんでもう結構です」
前にもらった約三十センチのテディベアなら寝室にいる。結局ずっとベッドの上だ。おかげで朝起きた時には真っ先にクマと目が合う。十八の男がする生活にしてはややキツい。
「あいつは毎日俺のベッドを占領してますよ」
「なんだ。ほんとに抱いて寝てんのか」
「抱きません。なんでそうなるんですか」
「ベッドにいるんだろ」
「枕の横です。そこしか置いとく場所がないんで」
テーブルの上だとかえって邪魔だし、かと言ってクローゼットの中にぶち込んでおくのも床の上に転がしておくのもなんだかちょっと可哀想だし。
「仕方ないから一緒に寝てるだけです」
枕の横で壁に凭れさせている。そうやって毎晩クマに見守られながらここ最近は眠りについていた。
仕方なしにやっている事だが瀬名さんはそこで笑った。俺が顔をしかめてもこの人は全然気にしない。
「クマが羨ましい」
「何言ってんです」
「クマの代わりに俺はどうだ」
「心から遠慮します」
自分を売り込んできた瀬名さんを切り捨て、フォークいっぱいにモンブランを掬い取って頬張った。その時もやっぱりこの人は俺を見ている。じっと静かに。見守るみたいに。
食っているところを他人に凝視されるのは心地の良いものではない。普通ならそう。だけど今目の前にいるのは瀬名さん。その柔らかい眼差しは、俺がこの人を見ていたくなると感じる時の内心を、否が応でも思い出させた。
見ていたくなる。理由は知ってる。この人の目がその答えを無言で物語っている。
極力モンブランに集中しつつも、視界の隅では瀬名さんがふと動いたのを捉えた。思わず顔を上げる。この人の右腕がこっちに伸びてくる。
その手が、届いた。口元に。いくらか控えめに親指で触れて、クイッと撫でるように口の端を掠めた。瀬名さんの指先にはモンブランのクリームが。
「あ……」
「ゆっくり食え」
「…………」
最悪。
すぐに視線を逸らそうとしたけど、そこであり得ないものを目にすることに。
「ちょっ……」
ペロッと、舐めた。指先についたクリームを。
滅多に触れてこない人が、何食わぬ顔をしてそれをやった。
「甘いな」
言葉に詰まる。今度こそ逃げるように俯いた。ジワジワと熱くなるこの顔が赤いのは、間違いなくバレている。
「どうした」
「……いちいち恥ずかしい人だなって」
「お前にしかやらねえから安心しろ」
「…………」
余計に恥ずかしくなった。
***
客なんだから片付けなんて気にしなくていい。俺はそう言った。でも瀬名さんは綺麗に片付けていった。
広くはない流しの前に二人で立って、俺が洗って、この人が拭いて。隣同士で交わす言葉が途切れる事はほとんどなく、合間には笑い声が零れる。おかしいくらいに穏やかな時間はそっと静かに流れていった。
「ケーキごちそう様でした」
「いや、こちらこそ。ありがとう。美味かった」
「口に合ったならよかったです」
玄関までこの人を見送りに出て、礼を告げれば礼で返ってきた。褒め言葉のおまけ付きで。
下心があるらしいこの人は俺に何もしてこない。ただこうして長い時間向き合っていれば、その目がずっと優しかった事には気付かないわけにいかなかった。
俺は玄関の内側。瀬名さんはすでに外側。瀬名さんが押さえている扉が外から閉じられてしまう前に、頭にはポスッと大きな手が乗った。
間仕切りはもどかしかった。顔を見たいと、少しずつ思うようになっていった。
この人がいつもどうやって俺の方へと目を向けていたのか、今夜それを思い知った。
「じゃあな。おやすみ」
「……おやすみなさい」
ふわりと撫でるようにして離れていった。閉ざされてしまった重い扉を、その後しばらくぼんやり見ていた。
隣のドアの開閉音はいつも通り常識的に小さい。それを最後まで聞き終えてから、ようやく俺もそこから動いた。
瀬名さんと食事をした。デザートまで一緒に食った。
あの人との夕食は、不覚にも。楽しかった。
夕食の準備が整うまでにはもう少々かかる。渡されたばかりの白い箱と見つめ合い、モヤモヤしながら冷蔵庫の中にしまい込んだ。
そこからしばらく経ってもこのモヤモヤは消えない。今日はいつもよりも作る夕食の量を少し増やした。
なぜか。間違えたんじゃない。そこには明確な理由があった。
再開した料理の手を止め、一旦コンロの火も切った。そして部屋を出る。隣の三○二号室へ向かうために。数秒の迷いを振り払ったのち、瀬名さん宅のインターフォンを押した。
少ししてガチャリと開かれたドア。扉一枚分の距離を保って瀬名さんから見下ろされる。この立ち位置は初めてだ。
「さっきはどうも」
「ああ。どうかしたか」
不思議そうに俺を見ていた。つい先ほど別れたこの人は、すでにスーツのジャケットを脱いでシャツ一枚。
ネクタイも締めていない。着替えの途中だったようでシャツのボタンも上から三つ目まで開いている。若干たじろぐ。平日の瀬名さんはとにかくきっちりしているイメージしかないから新鮮だ。
「……食事、どうかと思って。一緒に」
「あ?」
「食事です」
さっきまで不思議そうにしていたこの人の顔は一瞬でぽかんと呆けた。奇妙な物でも見るような目で俺を凝視してくる。
「良ければですけど……あと少しでメシ作り終わるんで」
「…………」
「ウチ、来ませんか?」
「…………行く」
飄々としている人でも本気で驚く事はあるらしい。
***
人に出しても恥ずかしくはないと思う。本当にちょっとしたものだけど。夏野菜とキノコを使った炒め物だとか、鮭のムニエルだとか。ムニエルがなんなのかよく知らないが。
誰でも作れる簡単な夕食のメニューをダイニングテーブルの上に並べつつ、未だにやや呆け気味な瀬名さんの様子を窺った。
ガン見だ。テーブルの上を。
「……これは想定していなかった」
「俺の作った晩メシじゃ不満ですか」
「まさか」
「ならいいじゃないですか」
最後に水の入ったグラスを差し出してから瀬名さんの前で椅子を引いた。この人も驚いているだろうが俺だって自分のやっている事に驚いている。瀬名さんがウチのダイニングにいる。なんてことだ。とても奇妙だ。
「どうぞ。冷めないうちに」
俺が勧めれば瀬名さんは一度こっちを見て、いただきますと丁寧に断りを入れた。箸を持ったこの人の手が皿の上へと伸ばされる。
気付かれないようにさり気なく見守った。動作が丁寧な人は食い方も丁寧だ。俺が作った物をこの人が食っていると言うのはやはり違和感しかなくて、それでも目の前で飯を食われればどうしたって感想が気になる。
「うまい」
「……どうも」
シンプルな褒め言葉。残念な事に非常に嬉しい。
瀬名さんが顔を上げ、そこでバチッと視線が絡まった。咄嗟に逸らせない。その目元に険はなく、そっと静かに和らいでいく。
「嫁にしたい。すぐにでも」
「フォークで刺しますよ」
「分かった。黙って食う」
余計なひと言さえ出てこなければ普通にいい人だと思うのに。
結局その後も瀬名さんが黙る事はなく、二人で料理を食べ進めながら合間には言葉を挟んだ。いつもベランダで話しているような事から、いつもはあまり話さない事まで。
野暮ったい感じが全然ないから都会生まれかと思っていたが、瀬名さんの出身はここではないそうだ。ウチほどではないようだがおそらくはそこそこの田舎。
実家がある場所は台地になっているらしく、東に少々行った所の坂道を下ると一面に田畑が広がっている。そういう地域だったと瀬名さんは言った。
「農家やってたりします?」
「いや。家庭菜園レベルの畑なら庭にあるが」
「ああウチもです、それ。たまに野菜とか送ってきません?」
「地元を出たばかりの頃はな。この年になれば今度はこっちが送る側だ」
「野菜を?」
「なんでだよ。金をだ」
へえっと、思わず漏れた。いつもふざけた事ばかり言うけど中身はちゃんと真面目な大人だ。
「孝行ですね」
「そんなことはない。ガキの頃には散々世話ばかりかけてきた」
「盗んだバイクで走りだすんですか」
「そこまでじゃねえ。古いなお前」
話の中には自然と笑い声が混じる。ごくごく自然に。今もまた瀬名さんが笑ったから、俺もそれにつられていた。
「兄弟とかは?」
「妹が一人。そっちは」
「いません。俺一人です」
うちには他に白いアヒルがいるだけだ。
「周りは兄弟いる奴らが多かったんですよ。だから昔は羨ましかったです」
「現実を知らねえからそんな事が言えるんだ。いたらいたでうるせえだけだぞ」
ちょっと苦々しいような顔。そういう顔もできるのか。
兄貴がこれなら妹さんもさぞかし美人だろう。そう思いつつ、瀬名さんの所作を視界に入れた。綺麗に食べ進めるその仕草に目を止める。
綺麗だと思う。すごく。高校時代に地元の飲食店でバイトをしていた時には、いい年こいてそこら中に食べ散らかすおっさんどもが多かった。今のバイト先でもそうだ。だけどこの人はそいつらとは違う。音を立てず、丁寧で、なんて言うか、見ていたくなる。
瀬名さんと一緒に夕飯を食ってる。顔を突き合わせ、話しながら笑ってる。
部屋に招いた時には少なからずあったはずの緊張感はいつの間にか消えていた。前からずっとこうだったみたいに、俺達は言葉を交わした。
***
綺麗に食べてもらった皿をテーブルの上から片付け、食後には紅茶を淹れた。ティーカップなんて洒落た物がウチにはないから、代りのマグカップに赤茶色の液体を注いだ。
不揃いなカップのうちの大きい方を瀬名さんに渡す。それからこの人が買ってきてくれたケーキを冷蔵庫の中から出して、箱の中身を上から覗けばいつものように美味そうな光景が。折角だから二人で食おうと誘った。瀬名さんは静かにうなずいた。
俺はショートケーキ。この人はレアチーズ。甘い物も食えるらしい。それでも甘すぎる物は苦手だそう。
ただのお隣さんでしかなかったはずの人の事を、一つずつ知っていく。
「今さら言うのもなんだが良かったのか」
「はい?」
ショートケーキの上に乗っているデカいイチゴにフォークを突き刺したその時、瀬名さんは俺に向かって唐突に問いかけてきた。
瀬名さんが手に持っていたマグカップはテーブルに置かれる。その目は探るように俺を見ていた。
「下心があるとまで白状した男を部屋に上げちまって」
「ああ……いえ、別に……」
合わさった視線は離れない。イチゴをぱくりと口の中に運ぶのに合わせてそこから逃れた。
程よい甘みと微かな酸味。それを噛みしめながら考える。
下心のある男を招いた。なぜそんな男を部屋に上げたか。導き出した結論は、そっくりそのまま口に出す。
「あなたは何もしてこないでしょうし」
「お前のその警戒心のなさはどういう事なんだ。俺に対する信用だと勝手に受けとるぞ」
ふかふかのケーキに銀色のフォークを刺した。酸味のあるイチゴの後にくる生クリームは絶妙に甘い。
けれど甘すぎず、その次にはスポンジの柔らかさに包まれている。この人の視線に晒されながらモグモグと口を動かし、飲み込んでから紅茶を一口分だけ啜った。
「……信用、なんですかね?」
「俺に聞くなよ」
「だって分かんねえし。ああ、でも……」
二人分の食事を作った。帰宅途中に寄ったスーパーで、いつもより多めに食材を買った。夕食に招くかどうかをあれこれと迷ったのは、身の危険があるかないかという考えが念頭にあったからではなくて、むしろそんな危機意識は頭の中のほんの片隅にでさえ存在していなかったと思う。
ただちょっと、気恥ずかしかった。今まで散々断ってきたから。
誘った時にこの人がどんな反応をするかと思うと気がかりで、けれど実際に誘ってみればぽかんと呆けてくれたから、危機感がどうのこうのというよりどちらかと言うと気分が良かった。
「あなたは酷い人じゃないと思う」
「…………」
そのせいだ。たとえ下心があったとしても瀬名さんは酷い事をする人じゃない。その確信が俺にはある。いつも食わせてもらっているからたまには何か返したい。そう思っていたのもあるから、今夜とうとう夕食に招いた。
感じたことを素直に言った俺を瀬名さんはしばらく黙って見ていた。さっきこの人の玄関先で見たような、ぽかんと呆けた顔ほどではない。それでも少し意外そうで、あとはちょっと困ったような。なんとも言えない表情だ。いつもとはちょっとだけ違った顔のまま、瀬名さんは微かな溜め息を一つ。
「……参った。鉄壁のガードじゃねえか。そこまで信用されてるとさすがに裏切れない」
「そこまでって程の信用はきっとしてないですよ」
「はっきり言いやがって。お前も遠慮がなくなってきたな」
「なんか色々慣れたので」
ふっと、いつもはベランダの間仕切り越しに聞いている笑い声を耳にした。俺もそれにつられて笑った。その間にも絶えず感じていたのは、やわらかい眼差しだ。
見ていたくなる。そう思った原因は、この人の食事の所作が綺麗だから。決してそれだけではなかった。
***
ショートケーキとレアチーズケーキをそれぞれ食べ終え、俺はさらにもう一つ。モンブランを皿の上に出したら瀬名さんから微笑ましげな目を向けられた。文句あるかよ。
人にはあれこれ甘い物を贈りつけてくるくせして、この人はレアチーズ一つが甘味の限界だったようだ。だから代わりに砂糖なしの紅茶をもう一杯勧めたら、頼むと静かに言いながら瀬名さんは頷いた。
引き延ばしている。わけではない、きっと。だけどもう少し話したかった。余計な一言は多いくせしてあまりペラペラ自分のことを喋ってはくれなくて、それでも俺が聞いた事には包み隠さず答えを返した。
勤め先は駅の近くらしい。大きなビルだ。場所を聞いて俺も大体どの辺りかが分かった。
会社は海外に本社を置く医療機器メーカーだそうで、その本社があるのはドイツ。だから時たま向こうにも行く。次に出張があった時には何が欲しいかとさり気なく問われ、何もいらないと即座に答えた。
だったら今度は特大でモコモコの可愛いクマを連れて帰るぞ。そう言ってかけられた謎の脅し。冗談か本気かはっきりしない。この人はこれ以上俺の部屋をファンシーにさせてどうするつもりだ。
「クマならすでに一匹いるんでもう結構です」
前にもらった約三十センチのテディベアなら寝室にいる。結局ずっとベッドの上だ。おかげで朝起きた時には真っ先にクマと目が合う。十八の男がする生活にしてはややキツい。
「あいつは毎日俺のベッドを占領してますよ」
「なんだ。ほんとに抱いて寝てんのか」
「抱きません。なんでそうなるんですか」
「ベッドにいるんだろ」
「枕の横です。そこしか置いとく場所がないんで」
テーブルの上だとかえって邪魔だし、かと言ってクローゼットの中にぶち込んでおくのも床の上に転がしておくのもなんだかちょっと可哀想だし。
「仕方ないから一緒に寝てるだけです」
枕の横で壁に凭れさせている。そうやって毎晩クマに見守られながらここ最近は眠りについていた。
仕方なしにやっている事だが瀬名さんはそこで笑った。俺が顔をしかめてもこの人は全然気にしない。
「クマが羨ましい」
「何言ってんです」
「クマの代わりに俺はどうだ」
「心から遠慮します」
自分を売り込んできた瀬名さんを切り捨て、フォークいっぱいにモンブランを掬い取って頬張った。その時もやっぱりこの人は俺を見ている。じっと静かに。見守るみたいに。
食っているところを他人に凝視されるのは心地の良いものではない。普通ならそう。だけど今目の前にいるのは瀬名さん。その柔らかい眼差しは、俺がこの人を見ていたくなると感じる時の内心を、否が応でも思い出させた。
見ていたくなる。理由は知ってる。この人の目がその答えを無言で物語っている。
極力モンブランに集中しつつも、視界の隅では瀬名さんがふと動いたのを捉えた。思わず顔を上げる。この人の右腕がこっちに伸びてくる。
その手が、届いた。口元に。いくらか控えめに親指で触れて、クイッと撫でるように口の端を掠めた。瀬名さんの指先にはモンブランのクリームが。
「あ……」
「ゆっくり食え」
「…………」
最悪。
すぐに視線を逸らそうとしたけど、そこであり得ないものを目にすることに。
「ちょっ……」
ペロッと、舐めた。指先についたクリームを。
滅多に触れてこない人が、何食わぬ顔をしてそれをやった。
「甘いな」
言葉に詰まる。今度こそ逃げるように俯いた。ジワジワと熱くなるこの顔が赤いのは、間違いなくバレている。
「どうした」
「……いちいち恥ずかしい人だなって」
「お前にしかやらねえから安心しろ」
「…………」
余計に恥ずかしくなった。
***
客なんだから片付けなんて気にしなくていい。俺はそう言った。でも瀬名さんは綺麗に片付けていった。
広くはない流しの前に二人で立って、俺が洗って、この人が拭いて。隣同士で交わす言葉が途切れる事はほとんどなく、合間には笑い声が零れる。おかしいくらいに穏やかな時間はそっと静かに流れていった。
「ケーキごちそう様でした」
「いや、こちらこそ。ありがとう。美味かった」
「口に合ったならよかったです」
玄関までこの人を見送りに出て、礼を告げれば礼で返ってきた。褒め言葉のおまけ付きで。
下心があるらしいこの人は俺に何もしてこない。ただこうして長い時間向き合っていれば、その目がずっと優しかった事には気付かないわけにいかなかった。
俺は玄関の内側。瀬名さんはすでに外側。瀬名さんが押さえている扉が外から閉じられてしまう前に、頭にはポスッと大きな手が乗った。
間仕切りはもどかしかった。顔を見たいと、少しずつ思うようになっていった。
この人がいつもどうやって俺の方へと目を向けていたのか、今夜それを思い知った。
「じゃあな。おやすみ」
「……おやすみなさい」
ふわりと撫でるようにして離れていった。閉ざされてしまった重い扉を、その後しばらくぼんやり見ていた。
隣のドアの開閉音はいつも通り常識的に小さい。それを最後まで聞き終えてから、ようやく俺もそこから動いた。
瀬名さんと食事をした。デザートまで一緒に食った。
あの人との夕食は、不覚にも。楽しかった。
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最後まで読んでいただけると嬉しいです。
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