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7. 隣人は赤の他人Ⅰ
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瀬名さんが来なくなった。一週間前の夜から突然、ぱたりと。
貢ぎ物を持ってやってくることがない。ベランダに出ても瀬名さんはそこにいない。それ以前に部屋に帰っているのかどうかさえも分からない。隣の部屋からは人の気配を微か程度にも感じなかった。
瀬名さんと朝の時間帯に出くわすことは良くある。玄関の前や、階段を下りた辺りやなんかで。軽い挨拶を交わした後は曲がり角まで並んで歩く。日常的によくあることだ。けれどここ一週間はそうやって擦れ違う事すらなくなっていた。
ただでさえ静かな隣室から本格的に物音が消えた。どこかへ出かけているようだ。仕事だろうか。あの人がなんの仕事をしているか俺は知らない。けれども会社員のようだから、出張に行く事もあるだろうし。
どこに行ったのだか。家を空けるようなことは何も言っていなかったはず。しかし何も知らされていない事についつい不満を覚えたところで、あの人が自分のスケジュールを俺に知らせておくべき理由はそもそもないのだと思い出した。
赤の他人だ。知っているのは名前だけ。住んでいる部屋が隣同士という間柄でしかない。
毎晩物を貢いでくるのはあの人が勝手にやっている事だ。俺はそれを仕方なしに受け取っているだけのこと。二人で食事をしたいと言うあの人のささやかな願いだって、叶えたことは一度もない。
電話番号も知らない。メールも知らない。メッセージアプリのアカウントだって、やっぱり知らない。今どうしているのだろうかと気がかりに思ってみても、本人に近況を尋ねるための連絡先を俺は知らない。
その程度だった。そんなもんだ。俺とあの人には所詮、何一つとして繋がりがない。
***
「え……ハルお前、その時計……」
「あ?」
「うっそ……買ったの?」
「は?……ああ」
一時限目の講義室。そこで顔を合わせた浩太に開口一番問いかけられて、首をかしげて返す前にその視線の方向に気づいた。
腕だ。左の手首。俺にしては珍しく腕時計なんて物をつけてきた。浩太の目はそこに釘付け。どうとも言えない気まずさを感じる。
「……違う。もらった」
「え?」
「もらったんだよ。自分じゃこんなの買わない」
正しくは、買えない、だ。決して安くはない物で、本来ならば俺の手には届かない。
箱に入れたままにしておいた時計を、今日になってようやく外に出した。あの時計だ。瀬名さんが寄越してきたやつ。なんとかってブランドの、限定モデルだとか言うあれ。
家を出てくる前に箱から出した。男なら時計くらいつけとくもんだと、あの人が前にそう言っていた。それで俺はこれ以外に持っている時計がなかった。だからこれをつけてきた。
見てくれは至ってシンプル。シルバーのアナログ型だ。気取ってもいなければ堅苦しくもない。
これはあの人が俺のために選んで買ってきた時計だが、そんな品をもらったと言っても納得してくれない奴がここに一名。浩太は怪訝そうに眉をひそめて俺と時計とを交互に見ていた。
「もらったって、誰に?」
「……知り合いに」
「なにその知り合い。お前の人脈謎すぎるんだけど。これ超イイやつじゃん、誰がこんなのくれんの?」
「いや……」
身につける物にこだわりのない俺がこの腕時計の詳細を知っていた理由。それこそ浩太だ。商品が紹介されているウェブページを俺に見せてきた奴はこいつだった。
欲しい欲しいと人の隣で騒いでいただけあって簡単には解放してくれない。やっぱりつけてくるんじゃなかった。あの人が急にいなくなるからこんな事に。
そう思い、頬がピクリと。時計を箱から出した事と瀬名さんが来なくなった事とは別になんの関係もない。自分で自分に言い訳し、やけくそのように吐き出した。
「……お隣さん」
「は?」
「お隣さんにもらった。この時計」
「……お隣さん?」
きょとんと聞き返されて頷く。鬱陶しいほど見つめてくる浩太の視線がチクチク痛い。
「お隣さんって……この前の差し入れくれた人?」
「そう」
「……お隣さん、女?」
「男だけど」
「若いの?」
「さあ、知らない。三十前後くらいかな」
どうにもこうにも年齢不詳だ。落ち着いた大人ではあるが二十代くらいに見えなくもない。あの人は本当に何もかもが俺の理解からは遠いが、今ここで最も混乱しているのはどうやら浩太のようだった。
「どういう関係……?」
その質問の答えを一番知りたがっているのは俺だ。頼むからそっとしておいてくれ。訝るような視線を向けられて今にも逃げ出したくなってくる。
「……なにが」
「何がじゃねえよ。おかしいだろ。なんで隣に住んでる男がそんなモンくれるんだっての」
はぐらかそうとしたら一層追い込まれた。浩太は見るからに納得していない表情だ。
「お隣さんが大人のお姉さんとかならまだわかるよ? ハルは女の人に好かれるだろうし」
「はぁ?」
「お前のそういう狙ってないところが逆にイヤミなんだよ」
なんだコイツ。
「でもお隣さん男なんだろ。しかもおっさん? どういう事? お前はとうとう男までたぶらかし始めたのか」
「人聞き悪いこと言うな。なんだとうとうって」
「時計めっちゃ羨ましい」
「最初からそれだけ言えよ」
「つーか俺が欲しがってるの知ってて堂々とつけてくるってどういうこと?」
それはゴメン。
物欲しげなこいつの目から左腕を遠ざける。浩太もぶつくさ言いながらドサッと投げやりに腰を下ろした。欲しがっている奴が横にいる場所につけてくるべき物ではなかった。
「ズリぃよなあ。世の中で得する奴ってのは大概決まってるもんなんだよ。女にも男にもおモテになるハルくんは幸せそうでイイですねー」
「イヤミなのお前だろ。モテたことなんかないし」
「あーあったく、ほんっとにお前はこれだから」
「ああ?」
不満しか感じさせないその物言い。意味が分からず浩太を見返すとわざとらしい溜め息をつきやがった。
俺は極端に人好きされる方ではないし、他人よりも得をしているつもりだって全くない。瀬名さんのコレはなんかいろいろ例外だ。けれど浩太は突っかかってくる。
「あのねハルくん。俺がどうして絶対に断られると知っていながらお前をしつこく合コンに誘い続けてるか分かる?」
「分かんねえよ。断られるって知ってたんなら誘うなよ」
「お前は俺の苦しい立場を知らないからそういう事が言えるんだ」
何が苦しい立場だ。
「ミキって子、知ってる?」
「は? ミキ?」
「分かんねえか。だよなお前、他人に興味なさそうだもんな」
講義の開始時間が迫るにつれて周りも次第にガヤガヤしてくる。少しずつ席が埋まっていく中、後ろ寄りの席にいる俺達の声は物音に紛れていった。
「ミキは俺と同じ高校だったんだけどさ」
「ああそう」
「ちょっと待ってよ、もう少し関心持て。てかハルもあいつと話したことあるからな」
「知らないけど」
「せめて掠める程度には知っててほしかった……」
浩太が頭を抱えたその時、前の席に姿勢のいい男子学生が腰を下ろした。つられるように前を向く。そしてそのまま、視線を止めた。
ピンとまっすぐ伸びた背中に、清潔感のある黒い髪。頭によぎる。ちょっと似ていた。後ろ姿が、あの人に。
だが見ていられたのはほんの数秒。隣の友人らしき人物と何かを話している目の前のその人は、ふと、顔を横に向けた。
途端に、さめた。ぼやけた頭を軽く振る。その男子学生にはなんの非もないのだけれど、それくらい分かっているけど、ジメッとした八つ当たり気味な感情がじわじわと込み上げてくる。
だって横顔、全然似てない。
「ハルくん聞いてる?」
「ん? ああ」
「一応言っとくけどミキもここの大学の子だぞ。四月にやった飲み会にも来てたからな。お前が先輩に囲まれて飲まされる前にさ、熱心に話しかけてきた女がいただろ」
「……あ?」
「あーもー」
あの飲み会に誰がいたのかは良く分からない。知った顔もちらほらいたが、ほとんど知らない人達だった。
近くに座っていた誰かと適当に言葉を交わした記憶はある。その時の相手が誰でなんの話をしたのかについてはほとんどと言っていいほど覚えていない。ミキちゃんだかっていう子のことも、さっぱり印象に残っていなかった。
「学部も一緒。かぶってる講義も結構多い。俺らが学食にいると時々さり気なく近くのテーブルに座る子いるじゃん。ちょっとくらいは見覚えあるだろ。顔面偏差値はかなり高いよ」
「へえ」
「くっそ無関心な!」
憤慨したように吐き捨てられたが覚えていないものは仕方がない。しかし浩太は諦めず、今度はスマホをこっちに向けて明るい画面を見せてきた。そこに映し出されているのは一枚の写真。集団の中にいる一人の女を指さしながらこっちにスマホを押し付けてくる。
「こいつ。この真ん中のがミキ。見覚えない?」
「……ないな」
「嘘だろ? あれだけ分かりやすくアピールされてんのに? これ本人に言ったら間違いなく号泣されるんだけど」
そう言って俺の前でなぜかこいつが項垂れた。スマホを返すと力なく受け取ってジャケットのポケットに突っ込んでいる。
笑顔で写真に写っていた女子は確かに可愛い子だと思う。長い髪をゆるく巻いた、今どきの可愛い女の子。浩太はその子と親しいのだろう。たかだか女一人のためによくもそこまでコロコロコロコロと忙しなく表情を変えられる。
「……ミキはさあ」
「なんだよ」
「お前と仲良くなりたいんだって」
「なんで」
分からないから聞いただけなのに思いっきり睨まれた。うるせえ奴だとは思っていたけどここまでおかしな男だったか。
「百歩譲って無関心はまだ許すよ。でも同じ男としてその反応は理解ができねえ。好きだからだろ」
「は?」
「あいつはお前のことが好きなの。なんで俺にここまで言わせるんだよ」
「…………」
思わず黙った。そのまましばし考えた。名前さえ知らなかった女に好かれる理由がどこにある。
「……話したこともないのに」
「だからあるってばこの前の飲み会でッ。お前だって愛想良さ気にあいつと喋ってただろ!」
「そうだっけ?」
「なんなのハルくん」
「あの時はとにかく早く帰りたいって事しか頭になかった」
「ホントなんなの」
覚えていないものは覚えていない。ここまでサッパリ記憶に残っていないのだから、よっぽど興味のない話を聞かされていたのだろう。
「もうこの際だから言っちゃうけど、合コンセッティングしろってずっとミキから頼まれてるんだよ。で、その度に俺はお前をなんとか連れ出そうとしてたワケ。分かった?」
「良く分かった。いい迷惑だ」
「冷たすぎるだろ」
知ったことか。
「ハルくん、今フリーでしょ?」
「そうだけど」
「付き合う気ない? こいつと」
「ない」
鐘が鳴るまであと少し。浩太の口を止めるためにも早いところ鳴ってほしい。
「……もうちょっと考えようよ」
「ムリなもんはムリ。だいたい用があるなら直接俺に言えばいいだろ。浩太を間に挟む意味が分かんねえ」
「そう来る? 相手は女だぞ。お前にはデリカシーってもんがないのか」
「は?」
「うっわぁ、マジか。ヒクわ」
勝手に引け。相手が女だからと言ってそれがなんだ。
「お前のその外見は詐欺だ。見るからに女子の気持ち心得てるってツラしてるくせに」
「してない」
「爽やかなイケメン気取りやがって」
「気取ってない」
人のことをそんなふうに思っていたのかコイツは。
浩太はなおも諦めず、今度はいくらか控えめな態度で問いかけてきた。
「……一回だけでもいいからミキと飯行ってみない?」
「行かない」
「強情っ!」
そこでようやく鐘が鳴った。
貢ぎ物を持ってやってくることがない。ベランダに出ても瀬名さんはそこにいない。それ以前に部屋に帰っているのかどうかさえも分からない。隣の部屋からは人の気配を微か程度にも感じなかった。
瀬名さんと朝の時間帯に出くわすことは良くある。玄関の前や、階段を下りた辺りやなんかで。軽い挨拶を交わした後は曲がり角まで並んで歩く。日常的によくあることだ。けれどここ一週間はそうやって擦れ違う事すらなくなっていた。
ただでさえ静かな隣室から本格的に物音が消えた。どこかへ出かけているようだ。仕事だろうか。あの人がなんの仕事をしているか俺は知らない。けれども会社員のようだから、出張に行く事もあるだろうし。
どこに行ったのだか。家を空けるようなことは何も言っていなかったはず。しかし何も知らされていない事についつい不満を覚えたところで、あの人が自分のスケジュールを俺に知らせておくべき理由はそもそもないのだと思い出した。
赤の他人だ。知っているのは名前だけ。住んでいる部屋が隣同士という間柄でしかない。
毎晩物を貢いでくるのはあの人が勝手にやっている事だ。俺はそれを仕方なしに受け取っているだけのこと。二人で食事をしたいと言うあの人のささやかな願いだって、叶えたことは一度もない。
電話番号も知らない。メールも知らない。メッセージアプリのアカウントだって、やっぱり知らない。今どうしているのだろうかと気がかりに思ってみても、本人に近況を尋ねるための連絡先を俺は知らない。
その程度だった。そんなもんだ。俺とあの人には所詮、何一つとして繋がりがない。
***
「え……ハルお前、その時計……」
「あ?」
「うっそ……買ったの?」
「は?……ああ」
一時限目の講義室。そこで顔を合わせた浩太に開口一番問いかけられて、首をかしげて返す前にその視線の方向に気づいた。
腕だ。左の手首。俺にしては珍しく腕時計なんて物をつけてきた。浩太の目はそこに釘付け。どうとも言えない気まずさを感じる。
「……違う。もらった」
「え?」
「もらったんだよ。自分じゃこんなの買わない」
正しくは、買えない、だ。決して安くはない物で、本来ならば俺の手には届かない。
箱に入れたままにしておいた時計を、今日になってようやく外に出した。あの時計だ。瀬名さんが寄越してきたやつ。なんとかってブランドの、限定モデルだとか言うあれ。
家を出てくる前に箱から出した。男なら時計くらいつけとくもんだと、あの人が前にそう言っていた。それで俺はこれ以外に持っている時計がなかった。だからこれをつけてきた。
見てくれは至ってシンプル。シルバーのアナログ型だ。気取ってもいなければ堅苦しくもない。
これはあの人が俺のために選んで買ってきた時計だが、そんな品をもらったと言っても納得してくれない奴がここに一名。浩太は怪訝そうに眉をひそめて俺と時計とを交互に見ていた。
「もらったって、誰に?」
「……知り合いに」
「なにその知り合い。お前の人脈謎すぎるんだけど。これ超イイやつじゃん、誰がこんなのくれんの?」
「いや……」
身につける物にこだわりのない俺がこの腕時計の詳細を知っていた理由。それこそ浩太だ。商品が紹介されているウェブページを俺に見せてきた奴はこいつだった。
欲しい欲しいと人の隣で騒いでいただけあって簡単には解放してくれない。やっぱりつけてくるんじゃなかった。あの人が急にいなくなるからこんな事に。
そう思い、頬がピクリと。時計を箱から出した事と瀬名さんが来なくなった事とは別になんの関係もない。自分で自分に言い訳し、やけくそのように吐き出した。
「……お隣さん」
「は?」
「お隣さんにもらった。この時計」
「……お隣さん?」
きょとんと聞き返されて頷く。鬱陶しいほど見つめてくる浩太の視線がチクチク痛い。
「お隣さんって……この前の差し入れくれた人?」
「そう」
「……お隣さん、女?」
「男だけど」
「若いの?」
「さあ、知らない。三十前後くらいかな」
どうにもこうにも年齢不詳だ。落ち着いた大人ではあるが二十代くらいに見えなくもない。あの人は本当に何もかもが俺の理解からは遠いが、今ここで最も混乱しているのはどうやら浩太のようだった。
「どういう関係……?」
その質問の答えを一番知りたがっているのは俺だ。頼むからそっとしておいてくれ。訝るような視線を向けられて今にも逃げ出したくなってくる。
「……なにが」
「何がじゃねえよ。おかしいだろ。なんで隣に住んでる男がそんなモンくれるんだっての」
はぐらかそうとしたら一層追い込まれた。浩太は見るからに納得していない表情だ。
「お隣さんが大人のお姉さんとかならまだわかるよ? ハルは女の人に好かれるだろうし」
「はぁ?」
「お前のそういう狙ってないところが逆にイヤミなんだよ」
なんだコイツ。
「でもお隣さん男なんだろ。しかもおっさん? どういう事? お前はとうとう男までたぶらかし始めたのか」
「人聞き悪いこと言うな。なんだとうとうって」
「時計めっちゃ羨ましい」
「最初からそれだけ言えよ」
「つーか俺が欲しがってるの知ってて堂々とつけてくるってどういうこと?」
それはゴメン。
物欲しげなこいつの目から左腕を遠ざける。浩太もぶつくさ言いながらドサッと投げやりに腰を下ろした。欲しがっている奴が横にいる場所につけてくるべき物ではなかった。
「ズリぃよなあ。世の中で得する奴ってのは大概決まってるもんなんだよ。女にも男にもおモテになるハルくんは幸せそうでイイですねー」
「イヤミなのお前だろ。モテたことなんかないし」
「あーあったく、ほんっとにお前はこれだから」
「ああ?」
不満しか感じさせないその物言い。意味が分からず浩太を見返すとわざとらしい溜め息をつきやがった。
俺は極端に人好きされる方ではないし、他人よりも得をしているつもりだって全くない。瀬名さんのコレはなんかいろいろ例外だ。けれど浩太は突っかかってくる。
「あのねハルくん。俺がどうして絶対に断られると知っていながらお前をしつこく合コンに誘い続けてるか分かる?」
「分かんねえよ。断られるって知ってたんなら誘うなよ」
「お前は俺の苦しい立場を知らないからそういう事が言えるんだ」
何が苦しい立場だ。
「ミキって子、知ってる?」
「は? ミキ?」
「分かんねえか。だよなお前、他人に興味なさそうだもんな」
講義の開始時間が迫るにつれて周りも次第にガヤガヤしてくる。少しずつ席が埋まっていく中、後ろ寄りの席にいる俺達の声は物音に紛れていった。
「ミキは俺と同じ高校だったんだけどさ」
「ああそう」
「ちょっと待ってよ、もう少し関心持て。てかハルもあいつと話したことあるからな」
「知らないけど」
「せめて掠める程度には知っててほしかった……」
浩太が頭を抱えたその時、前の席に姿勢のいい男子学生が腰を下ろした。つられるように前を向く。そしてそのまま、視線を止めた。
ピンとまっすぐ伸びた背中に、清潔感のある黒い髪。頭によぎる。ちょっと似ていた。後ろ姿が、あの人に。
だが見ていられたのはほんの数秒。隣の友人らしき人物と何かを話している目の前のその人は、ふと、顔を横に向けた。
途端に、さめた。ぼやけた頭を軽く振る。その男子学生にはなんの非もないのだけれど、それくらい分かっているけど、ジメッとした八つ当たり気味な感情がじわじわと込み上げてくる。
だって横顔、全然似てない。
「ハルくん聞いてる?」
「ん? ああ」
「一応言っとくけどミキもここの大学の子だぞ。四月にやった飲み会にも来てたからな。お前が先輩に囲まれて飲まされる前にさ、熱心に話しかけてきた女がいただろ」
「……あ?」
「あーもー」
あの飲み会に誰がいたのかは良く分からない。知った顔もちらほらいたが、ほとんど知らない人達だった。
近くに座っていた誰かと適当に言葉を交わした記憶はある。その時の相手が誰でなんの話をしたのかについてはほとんどと言っていいほど覚えていない。ミキちゃんだかっていう子のことも、さっぱり印象に残っていなかった。
「学部も一緒。かぶってる講義も結構多い。俺らが学食にいると時々さり気なく近くのテーブルに座る子いるじゃん。ちょっとくらいは見覚えあるだろ。顔面偏差値はかなり高いよ」
「へえ」
「くっそ無関心な!」
憤慨したように吐き捨てられたが覚えていないものは仕方がない。しかし浩太は諦めず、今度はスマホをこっちに向けて明るい画面を見せてきた。そこに映し出されているのは一枚の写真。集団の中にいる一人の女を指さしながらこっちにスマホを押し付けてくる。
「こいつ。この真ん中のがミキ。見覚えない?」
「……ないな」
「嘘だろ? あれだけ分かりやすくアピールされてんのに? これ本人に言ったら間違いなく号泣されるんだけど」
そう言って俺の前でなぜかこいつが項垂れた。スマホを返すと力なく受け取ってジャケットのポケットに突っ込んでいる。
笑顔で写真に写っていた女子は確かに可愛い子だと思う。長い髪をゆるく巻いた、今どきの可愛い女の子。浩太はその子と親しいのだろう。たかだか女一人のためによくもそこまでコロコロコロコロと忙しなく表情を変えられる。
「……ミキはさあ」
「なんだよ」
「お前と仲良くなりたいんだって」
「なんで」
分からないから聞いただけなのに思いっきり睨まれた。うるせえ奴だとは思っていたけどここまでおかしな男だったか。
「百歩譲って無関心はまだ許すよ。でも同じ男としてその反応は理解ができねえ。好きだからだろ」
「は?」
「あいつはお前のことが好きなの。なんで俺にここまで言わせるんだよ」
「…………」
思わず黙った。そのまましばし考えた。名前さえ知らなかった女に好かれる理由がどこにある。
「……話したこともないのに」
「だからあるってばこの前の飲み会でッ。お前だって愛想良さ気にあいつと喋ってただろ!」
「そうだっけ?」
「なんなのハルくん」
「あの時はとにかく早く帰りたいって事しか頭になかった」
「ホントなんなの」
覚えていないものは覚えていない。ここまでサッパリ記憶に残っていないのだから、よっぽど興味のない話を聞かされていたのだろう。
「もうこの際だから言っちゃうけど、合コンセッティングしろってずっとミキから頼まれてるんだよ。で、その度に俺はお前をなんとか連れ出そうとしてたワケ。分かった?」
「良く分かった。いい迷惑だ」
「冷たすぎるだろ」
知ったことか。
「ハルくん、今フリーでしょ?」
「そうだけど」
「付き合う気ない? こいつと」
「ない」
鐘が鳴るまであと少し。浩太の口を止めるためにも早いところ鳴ってほしい。
「……もうちょっと考えようよ」
「ムリなもんはムリ。だいたい用があるなら直接俺に言えばいいだろ。浩太を間に挟む意味が分かんねえ」
「そう来る? 相手は女だぞ。お前にはデリカシーってもんがないのか」
「は?」
「うっわぁ、マジか。ヒクわ」
勝手に引け。相手が女だからと言ってそれがなんだ。
「お前のその外見は詐欺だ。見るからに女子の気持ち心得てるってツラしてるくせに」
「してない」
「爽やかなイケメン気取りやがって」
「気取ってない」
人のことをそんなふうに思っていたのかコイツは。
浩太はなおも諦めず、今度はいくらか控えめな態度で問いかけてきた。
「……一回だけでもいいからミキと飯行ってみない?」
「行かない」
「強情っ!」
そこでようやく鐘が鳴った。
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