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137.ボクシングと階段と猫
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「つーかスタンガンとかさあ、犯罪者が持ったらほぼ百パー悪いことに使うに決まってる武器を誰でも買えちゃう現状ってどうなの」
やや怒りのこもった感想は浩太。
「身近でこんなことが起きるとはな。ハルはもういっそ常日頃からガラ悪い格好しとけばいいと思う」
そんな意見は小宮山。
「俺の服貸す?」
嬉しくない親切は岡崎だ。
散々世話になったダチにも結果くらい報告するのは当然だろうが、こっちから話を切り出すまでもなく俺の顔を見るなり三人が三人ともどうしたんだと詰め寄ってきた。
強い打撃を加えられた腕や腹は服で隠せる。何度も殴られなかった顔は、頬と口角が青紫の痣になっているくらいだ。触ったり動かしたりすれば痛いし水なんていちいちピリピリしみるが、特に気にせず出てきてしまったもののせめてマスクはしてくるべきだった。
現代は俺らが生まれる前みたいにヤンキー映画がとんでもないヒットをかっ飛ばすような時代でもない。顔面に青あざ作って道歩いてる野郎なんてほとんど絶滅危惧種だろう。
その後も色んな奴らとすれ違うたびにケンカしたのかとか転んだのかとか顔を覗き込まれるもんだから、とうとう観念して一限目が終わった後に使い捨てマスクを買ってきた。
そうしてマスク生活を開始させてから約二時間。昼休みになり四人で集まったタイミングで話題はまたそこに戻った。
マスクをしていればそれはそれで風邪ひいたのかとか具合悪いのかとか似たようなことを皆に聞かれるが、食事のために素顔をさらせば目の合った奴らがわらわら寄ってくる。その度に俺以外の三人は適当な嘘を即座に思いつき、
「ハルくんボクシングに目覚めたんだよー」
と浩太が言ったり、
「寝ぼけて階段踏み外したんだって」
と小宮山が言ったり、
「近所のノラ猫とサンマをめぐって熾烈な戦いを繰り広げたらしい」
などと岡崎が真顔で言ったりしていた。
しょうもねえ三パターンの回答のみで全員がなぜか納得していた。その事実には俺が納得しかねた。
「俺ウソつきの才能ありすぎて自分が怖い。ボクサーなら顔のアザもむしろ勲章になると思わねえ?」
「猫と争うよりはマシだけどウソの巧さで言うなら俺だろ。階段から落ちたってのが一番現実的」
「えー何言ってんのお前ら、ネコが一番あり得そうじゃん。ハルは意外と小さい生き物相手に本気出すタイプだって」
浩太と小宮山に向かって断言した岡崎をジロッと睨んだ。
ところが岡崎のふざけた解説を聞くなり俺の顔を眺めてきた他二名は、声をそろえて確かにと呟きながら妙に納得したようにうなずいた。その事実には俺が納得しかねた。
大きく咀嚼すると顔面が痛いので地味な動作で安いかけそばをモグモグしてどうにかやり過ごす。
ふんだりけったりだ。単に貶されたんじゃない。よく分からない貶され方をされた。そして安いかけそばが味気ないからっといって七味をガシャガシャ振りかけるんじゃなかった。口の中が地味に痛い。
「けどまあとにかく一段落ついたわけだし、また五人でメシでも行こうか?」
俺が七味唐辛子に悪戦苦闘している目の前で浩太が呑気に言った。首をかしげたのは俺ではなくて、俺の隣で七味唐辛子をかけまくった牛丼を食っている岡崎。
「五人? 四人じゃなくて?」
「どしたよ浩太。お前見えちゃいけない人見えちゃってんの?」
小宮山も岡崎に続いた。視える人疑惑が浮上した浩太はそんなまさかとヘラヘラしている。
「ちげーって、瀬名さんだよ瀬名さん。ハルのお兄ちゃんの」
「お兄ちゃんて言うな」
「ハル間に挟んどけばそんな怖くないっつーかむしろスゲエいい人だから。俺もあんなお隣さん欲しい」
スルーされたうえに瀬名恭吾の株がいつの間にか爆上がりしている。
「そういや浩太またあのお隣さんにメシ奢ってもらったとか言ってたよな」
「中華だっけ?」
しかも小宮山と岡崎にもしっかりこの前の件が伝わっていた。あの時瀬名さんが選んだ店は男子大学生二匹の胃袋を満足させるのに十分でありなおかつ最高に美味かった。浩太だけズリイよな、などと言って二人は顔を見合わせている。
なんだこの流れ。なんだその目は。お前らにまでタカらせねえからな。浩太だけでも手に余ったのに、三人の言動に注意しながら同時に瀬名さんも黙らせておくなんていくらなんでも難易度高すぎる。
瀬名さんにだけは知られたくなかった消し去っておきたい恥ずかしい過去はすでに一個根こそぎバレている。盛大にバラしてくれやがった張本人は、自分が何をしたかも知らずにヘラヘラしたままさらに言った。
「ハルくん聞いといてよ瀬名さんに。次いつ暇ですかーって」
「ふざけんな、暇なんかあるわけねえだろ。社会人を気軽に呼び出そうとしてんじゃねえ」
「メシくらい気軽に行けねえでどうするよ。俺らと瀬名さんはハルを保護する会のメンバーだぞ」
「変な会作るな」
俺はイリオモテヤマネコか。
「ハルとはよくメシ行ってるって本人が言ってたじゃん」
「隣だからついでに連れてってくれてんだよ。とにかくダメ」
「隣人のハルくんのトモダチ枠ってことで」
「厚かましいんだよお前。ダメなもんはダメだ。あの人ほんとに今忙しい」
「そうやってハルくんはなんでもダメダメって。お母さんか」
「なんでだよ」
浩太のお母さんは浩太が実家を出るまでだいぶ苦労したに違いない。
お母さんにダメダメ言わせるような男と瀬名さんをこれ以上仲良くさせたくない。仲良くされると俺が疲弊させられる。そこに小宮山と岡崎まで加わったら確実に俺が詰む。絶対に良くない。それだけは回避したい。
「瀬名さんにタカらなくてもお前らには俺がなんか奢ってやる」
仕方なく表明すれば、三人がキョトンとした顔で見てくる。失礼な。
「……ドケチのハルくんが珍しい」
「倹約家なんだよ、悪いか」
一番失礼な浩太が直球できたからこっちも気にせずシレッとかませる。
「一階の自販機のコーヒー牛乳な」
「えー、また?」
「みんなあれ好きだろ」
「そう思ってんのお前だけだよ。てか俺の誕生日にくれたのもイチゴ牛乳だったじゃん」
「だから今度はコーヒー牛乳にしてやる」
「牛乳って表示すらできないジュースからは離れようよ」
浩太の横で呆れ笑いを浮かべた小宮山も補足するみたいに言った。
「ハルは誕プレくれるのはいいけど誰でも平等に一階の自販機連れてくんだよな。俺の時にはコーヒーもイチゴも売り切れてるからって適当にその横のバナナ押してたよ」
「浩太と小宮山はまだいいよ。俺なんかちょうど歯医者予約してた日で奥歯ちょっと痛いって言っちゃったからほうじ茶だったもん。すげえ味気なかった」
こいつらのハピバは安くて助かる。パックに入った牛乳もどきシリーズはなぜか本館一階の自販機にしか置いていないから行くのがちょっと面倒ではあるが。岡崎は本館に辿り着く前にちゃんと言っておいてくれれば購買で歯にいいガムでも買ってやったのに。
誕生日にはイチゴ牛乳で済んだ。けれど今は浩太が食い下がった。あの中華店がよほど気に入ったのだろう。
食品表示の制限によって牛乳と言えずに苦肉の策でオレとかラテとか書いてあるような謎のパック飲料じゃ許してはくれず、目当ての社会人を呼び出そうとしてくる。
「コーヒー牛乳いらないから瀬名さん連れてきてよ」
「ダメ」
「じゃあ俺が呼ぶ。あの時もらった名刺まだ持ってるもん」
「絶対ダメ」
「今度からハルのことお母さんって呼んでやるからな」
「やめろ」
すごく嫌だ。
「瀬名さんを巻き込もうとすんな」
「コーヒー牛乳より瀬名さんの奢りがいい」
「分かったよ仕方ねえな。なんかメシ奢ればいいんだろ」
「どケチのハルくんじゃたかが知れてるし」
「うるせえ。ガタガタ言ってねえで大人しく受け取れ」
箸をパシッとトレーの上に置いた。水をひと口。やっぱりしみる。
「……俺だって元々お前らには礼くらいするつもりだった」
「え?」
失礼な浩太は無礼にも聞き返してくる。小宮山と岡崎もまたもやキョトンとした。こいつらどこまで失礼なんだ。
俺にだってお礼のスピリットはある。むしろこれは村社会に身を置いてきた田舎者だからこそのDNAだ。お礼の文化は骨の髄どころか遺伝子レベルで刻み込まれている。
本来ならきちんと表明するものだが俺の場合は自分のモヤモヤを払拭できればそれでいい。伝わろうと伝わらなかろうとそんなのは知ったことか。それとない流れでそれとないことをして目的だけ果たせればそれでよかった。
なのにこの野郎どもときたら。空気を読まねえ三人からは、できる限り視線を逸らした。
「…………感謝は、してる……ありがとう……」
吐き捨てるようにつぶやいた。昼時の学食は腹ペコの学生たちでいつもガヤガヤ賑わっている。今日もまた状況は変わらないはずだが、このテーブルだけシンと静まりかえった。
俺たちの周りにだけ突如として訪れた静寂。数秒の沈黙も耐えきれず、チラリと上げたこの視線。
見事に誰とも目が合わない。真ん前にいる浩太でさえ微妙に斜め横を向いていた。
急激に気まずくなった中でやむを得ずとでもいうように、最初に沈黙を破ったのは小宮山。
「……あのなぁ……基本ツンなお前が急にそういうこと言いだすとこっちが恥ずかしいんだよヤメロよバカかよ」
感謝の気持ちをダチ三人に述べたらうち一人からゲンナリと怒られた。
「ハルのその感じ本当に良くないと思う……」
嫌そうに短く呟いた岡崎は千切りキャベツを口に詰め込んだ。
ちょっと動かすたびにズキズキ疼いていた顔面の痛覚が今は死んでいる。
これは俺のせいだろうか。こいつらを見る限り俺が悪いっぽい。浩太なんか未だに沈黙を守っているから、代わりに小宮山がこの空気をぶった切るように声を大きくさせた。
「あーもういいや終わりだ終わり、やめよう。四人で焼肉割り勘な」
「けっきょくかー」
決定事項が言い立てられて、岡崎も千切りキャベツをムシャムシャ食いながらヤル気なく間延びした答えを。その二人に合わせるかのように、テーブルの上のどこかを見ながらもぞっと手を動かした浩太。
それとなくするつもりだったお礼は、割り勘で焼肉の予定に変わった。俺のかけそばの横の小皿には箸の先端が近づいてくる。申し訳程度に乗っかっている、色も厚さもめちゃくちゃ薄めのさくら大根らしき漬物を浩太が静かにかっさらっていった。
「俺はハムちゃんという癒しも与えたからたくあんもらう」
「……もらってから言うなよ」
浩太がポリポリ噛み砕いたのはたくあんというよりさくら大根的な物だが、堂々と顔を上げにくい状況でこれ以上は言えるはずもなく。
お前らなんでみんなして顔赤いの。てかハルはその顔どしたの。
すぐ後にテーブルの横を通りがかった同期から不思議そうに問いかけられるまで、俺たちはお互いから微妙に目を逸らし続けた。
やや怒りのこもった感想は浩太。
「身近でこんなことが起きるとはな。ハルはもういっそ常日頃からガラ悪い格好しとけばいいと思う」
そんな意見は小宮山。
「俺の服貸す?」
嬉しくない親切は岡崎だ。
散々世話になったダチにも結果くらい報告するのは当然だろうが、こっちから話を切り出すまでもなく俺の顔を見るなり三人が三人ともどうしたんだと詰め寄ってきた。
強い打撃を加えられた腕や腹は服で隠せる。何度も殴られなかった顔は、頬と口角が青紫の痣になっているくらいだ。触ったり動かしたりすれば痛いし水なんていちいちピリピリしみるが、特に気にせず出てきてしまったもののせめてマスクはしてくるべきだった。
現代は俺らが生まれる前みたいにヤンキー映画がとんでもないヒットをかっ飛ばすような時代でもない。顔面に青あざ作って道歩いてる野郎なんてほとんど絶滅危惧種だろう。
その後も色んな奴らとすれ違うたびにケンカしたのかとか転んだのかとか顔を覗き込まれるもんだから、とうとう観念して一限目が終わった後に使い捨てマスクを買ってきた。
そうしてマスク生活を開始させてから約二時間。昼休みになり四人で集まったタイミングで話題はまたそこに戻った。
マスクをしていればそれはそれで風邪ひいたのかとか具合悪いのかとか似たようなことを皆に聞かれるが、食事のために素顔をさらせば目の合った奴らがわらわら寄ってくる。その度に俺以外の三人は適当な嘘を即座に思いつき、
「ハルくんボクシングに目覚めたんだよー」
と浩太が言ったり、
「寝ぼけて階段踏み外したんだって」
と小宮山が言ったり、
「近所のノラ猫とサンマをめぐって熾烈な戦いを繰り広げたらしい」
などと岡崎が真顔で言ったりしていた。
しょうもねえ三パターンの回答のみで全員がなぜか納得していた。その事実には俺が納得しかねた。
「俺ウソつきの才能ありすぎて自分が怖い。ボクサーなら顔のアザもむしろ勲章になると思わねえ?」
「猫と争うよりはマシだけどウソの巧さで言うなら俺だろ。階段から落ちたってのが一番現実的」
「えー何言ってんのお前ら、ネコが一番あり得そうじゃん。ハルは意外と小さい生き物相手に本気出すタイプだって」
浩太と小宮山に向かって断言した岡崎をジロッと睨んだ。
ところが岡崎のふざけた解説を聞くなり俺の顔を眺めてきた他二名は、声をそろえて確かにと呟きながら妙に納得したようにうなずいた。その事実には俺が納得しかねた。
大きく咀嚼すると顔面が痛いので地味な動作で安いかけそばをモグモグしてどうにかやり過ごす。
ふんだりけったりだ。単に貶されたんじゃない。よく分からない貶され方をされた。そして安いかけそばが味気ないからっといって七味をガシャガシャ振りかけるんじゃなかった。口の中が地味に痛い。
「けどまあとにかく一段落ついたわけだし、また五人でメシでも行こうか?」
俺が七味唐辛子に悪戦苦闘している目の前で浩太が呑気に言った。首をかしげたのは俺ではなくて、俺の隣で七味唐辛子をかけまくった牛丼を食っている岡崎。
「五人? 四人じゃなくて?」
「どしたよ浩太。お前見えちゃいけない人見えちゃってんの?」
小宮山も岡崎に続いた。視える人疑惑が浮上した浩太はそんなまさかとヘラヘラしている。
「ちげーって、瀬名さんだよ瀬名さん。ハルのお兄ちゃんの」
「お兄ちゃんて言うな」
「ハル間に挟んどけばそんな怖くないっつーかむしろスゲエいい人だから。俺もあんなお隣さん欲しい」
スルーされたうえに瀬名恭吾の株がいつの間にか爆上がりしている。
「そういや浩太またあのお隣さんにメシ奢ってもらったとか言ってたよな」
「中華だっけ?」
しかも小宮山と岡崎にもしっかりこの前の件が伝わっていた。あの時瀬名さんが選んだ店は男子大学生二匹の胃袋を満足させるのに十分でありなおかつ最高に美味かった。浩太だけズリイよな、などと言って二人は顔を見合わせている。
なんだこの流れ。なんだその目は。お前らにまでタカらせねえからな。浩太だけでも手に余ったのに、三人の言動に注意しながら同時に瀬名さんも黙らせておくなんていくらなんでも難易度高すぎる。
瀬名さんにだけは知られたくなかった消し去っておきたい恥ずかしい過去はすでに一個根こそぎバレている。盛大にバラしてくれやがった張本人は、自分が何をしたかも知らずにヘラヘラしたままさらに言った。
「ハルくん聞いといてよ瀬名さんに。次いつ暇ですかーって」
「ふざけんな、暇なんかあるわけねえだろ。社会人を気軽に呼び出そうとしてんじゃねえ」
「メシくらい気軽に行けねえでどうするよ。俺らと瀬名さんはハルを保護する会のメンバーだぞ」
「変な会作るな」
俺はイリオモテヤマネコか。
「ハルとはよくメシ行ってるって本人が言ってたじゃん」
「隣だからついでに連れてってくれてんだよ。とにかくダメ」
「隣人のハルくんのトモダチ枠ってことで」
「厚かましいんだよお前。ダメなもんはダメだ。あの人ほんとに今忙しい」
「そうやってハルくんはなんでもダメダメって。お母さんか」
「なんでだよ」
浩太のお母さんは浩太が実家を出るまでだいぶ苦労したに違いない。
お母さんにダメダメ言わせるような男と瀬名さんをこれ以上仲良くさせたくない。仲良くされると俺が疲弊させられる。そこに小宮山と岡崎まで加わったら確実に俺が詰む。絶対に良くない。それだけは回避したい。
「瀬名さんにタカらなくてもお前らには俺がなんか奢ってやる」
仕方なく表明すれば、三人がキョトンとした顔で見てくる。失礼な。
「……ドケチのハルくんが珍しい」
「倹約家なんだよ、悪いか」
一番失礼な浩太が直球できたからこっちも気にせずシレッとかませる。
「一階の自販機のコーヒー牛乳な」
「えー、また?」
「みんなあれ好きだろ」
「そう思ってんのお前だけだよ。てか俺の誕生日にくれたのもイチゴ牛乳だったじゃん」
「だから今度はコーヒー牛乳にしてやる」
「牛乳って表示すらできないジュースからは離れようよ」
浩太の横で呆れ笑いを浮かべた小宮山も補足するみたいに言った。
「ハルは誕プレくれるのはいいけど誰でも平等に一階の自販機連れてくんだよな。俺の時にはコーヒーもイチゴも売り切れてるからって適当にその横のバナナ押してたよ」
「浩太と小宮山はまだいいよ。俺なんかちょうど歯医者予約してた日で奥歯ちょっと痛いって言っちゃったからほうじ茶だったもん。すげえ味気なかった」
こいつらのハピバは安くて助かる。パックに入った牛乳もどきシリーズはなぜか本館一階の自販機にしか置いていないから行くのがちょっと面倒ではあるが。岡崎は本館に辿り着く前にちゃんと言っておいてくれれば購買で歯にいいガムでも買ってやったのに。
誕生日にはイチゴ牛乳で済んだ。けれど今は浩太が食い下がった。あの中華店がよほど気に入ったのだろう。
食品表示の制限によって牛乳と言えずに苦肉の策でオレとかラテとか書いてあるような謎のパック飲料じゃ許してはくれず、目当ての社会人を呼び出そうとしてくる。
「コーヒー牛乳いらないから瀬名さん連れてきてよ」
「ダメ」
「じゃあ俺が呼ぶ。あの時もらった名刺まだ持ってるもん」
「絶対ダメ」
「今度からハルのことお母さんって呼んでやるからな」
「やめろ」
すごく嫌だ。
「瀬名さんを巻き込もうとすんな」
「コーヒー牛乳より瀬名さんの奢りがいい」
「分かったよ仕方ねえな。なんかメシ奢ればいいんだろ」
「どケチのハルくんじゃたかが知れてるし」
「うるせえ。ガタガタ言ってねえで大人しく受け取れ」
箸をパシッとトレーの上に置いた。水をひと口。やっぱりしみる。
「……俺だって元々お前らには礼くらいするつもりだった」
「え?」
失礼な浩太は無礼にも聞き返してくる。小宮山と岡崎もまたもやキョトンとした。こいつらどこまで失礼なんだ。
俺にだってお礼のスピリットはある。むしろこれは村社会に身を置いてきた田舎者だからこそのDNAだ。お礼の文化は骨の髄どころか遺伝子レベルで刻み込まれている。
本来ならきちんと表明するものだが俺の場合は自分のモヤモヤを払拭できればそれでいい。伝わろうと伝わらなかろうとそんなのは知ったことか。それとない流れでそれとないことをして目的だけ果たせればそれでよかった。
なのにこの野郎どもときたら。空気を読まねえ三人からは、できる限り視線を逸らした。
「…………感謝は、してる……ありがとう……」
吐き捨てるようにつぶやいた。昼時の学食は腹ペコの学生たちでいつもガヤガヤ賑わっている。今日もまた状況は変わらないはずだが、このテーブルだけシンと静まりかえった。
俺たちの周りにだけ突如として訪れた静寂。数秒の沈黙も耐えきれず、チラリと上げたこの視線。
見事に誰とも目が合わない。真ん前にいる浩太でさえ微妙に斜め横を向いていた。
急激に気まずくなった中でやむを得ずとでもいうように、最初に沈黙を破ったのは小宮山。
「……あのなぁ……基本ツンなお前が急にそういうこと言いだすとこっちが恥ずかしいんだよヤメロよバカかよ」
感謝の気持ちをダチ三人に述べたらうち一人からゲンナリと怒られた。
「ハルのその感じ本当に良くないと思う……」
嫌そうに短く呟いた岡崎は千切りキャベツを口に詰め込んだ。
ちょっと動かすたびにズキズキ疼いていた顔面の痛覚が今は死んでいる。
これは俺のせいだろうか。こいつらを見る限り俺が悪いっぽい。浩太なんか未だに沈黙を守っているから、代わりに小宮山がこの空気をぶった切るように声を大きくさせた。
「あーもういいや終わりだ終わり、やめよう。四人で焼肉割り勘な」
「けっきょくかー」
決定事項が言い立てられて、岡崎も千切りキャベツをムシャムシャ食いながらヤル気なく間延びした答えを。その二人に合わせるかのように、テーブルの上のどこかを見ながらもぞっと手を動かした浩太。
それとなくするつもりだったお礼は、割り勘で焼肉の予定に変わった。俺のかけそばの横の小皿には箸の先端が近づいてくる。申し訳程度に乗っかっている、色も厚さもめちゃくちゃ薄めのさくら大根らしき漬物を浩太が静かにかっさらっていった。
「俺はハムちゃんという癒しも与えたからたくあんもらう」
「……もらってから言うなよ」
浩太がポリポリ噛み砕いたのはたくあんというよりさくら大根的な物だが、堂々と顔を上げにくい状況でこれ以上は言えるはずもなく。
お前らなんでみんなして顔赤いの。てかハルはその顔どしたの。
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