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133.蝶の羽ばたきⅡ
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「ありがとうございましたー」
ピンポンパンポンポンピンパンパン明るく言っているドアを抜ける。ゴミ袋だけが入った買い物袋を引っ提げてコンビニから一人出てきた。
本当はピリ辛明太マヨ味のポテチも気になったけれどやめておいた。瀬名さんに見つかるとこのジャンク野郎って間違いなく言われてしまう。あの大人はポテチにやたら厳しい。
辺りはとっくに真っ暗だ。分かりやすく体感できるほど日が長くなるのはまだ少し先。心もとない街灯があるだけの帰り道を目指して歩いた。
自宅まではほんの数分で、来た時だって何もなかった。手紙はあれから届いていないし、脅迫染みた写真も送り付けてこないし。本当にパタリと、不審なことが一切、不気味なほどすっかりなくなっていた。
気をつけろよ。瀬名さんにはそう言われている。浩太にもずっと心配されている。小宮山と岡崎にも同じように言われた。避難場所が欲しけりゃいつでも来いとも。
だが現実に、何もない。しかし何もないと気付けるのは、俺自身も気にしているからだ。
気にしているから何もないと気付ける。後ろにはいつでもそれとなく注意を向ける癖がついている。だからすぐそこにある足音が、どちらに向かっているか、大方分かる。
「…………」
今も後ろの足音には気付いている。コンビニを出たところからずっとだ。いつだってコンビニを出入りする人は絶え間なくいるだろうから特に不審には思わなかったが、信号のない交差点を通過し、そこでとうとう確信に変えた。
背後にいる。ついてくる。ついてくるというその表現が、正解なのかは分からないが。
俺が疑心暗鬼になっているだけか、単に目指す方向が同じであるだけか。それならばいい。帰省を終えて戻ってきてから今と同じような状況は何度かあって、そのたびに杞憂に終わった。後ろにいるのはただの通行人だった。だから今回もそうかもしれない。でもこれは、杞憂だろうか。
徐々に、少しずつ、指の先から血が引いていく。ほんの少し足がはやくなる。
強張るようなこの感覚を、久々に味わう。これを思い出した。それがどうしても耐え難く、おそるおそる振り返る、その前に。
「あの……」
背後から小さくかけられた声。ビクリと震えそうな肩をごまかし、即座に振り返った。パッと。
「……ぁ……」
その男性の顔に目が行く。一目で分かる。週に一度は、言葉を交わしていた人だ。
「あ、やっぱり……」
その人はニコリと笑みを浮かべた。今年に入ってから会うのは初めてだった。年末に挨拶をして以来。
花屋の客だ。黄色いガーベラを買っていくあの人。昨日は俺もシフトに入っていたが、この人は店に来なかった。
久しぶりに見るその顔を前にして、咄嗟に声は出てこない。体は固まる。目を見張る俺に向け、その人は軽く頭を下げてくる。
「すみません、急に。驚かせてしまって」
「あ……いえ、全然。えっと……」
「今日はちょっとこっちに……あぁ、その……用があって。ご自宅お近いんですか……?」
「…………」
それは、どういう意味の質問だ。手にしているのは小銭入れと小さな買い物バッグだけで、ほとんど手ぶらに近い格好で出てきたから、そんな俺を見てこの人はそう予想をつけただけだろうか。
数ヵ月前までならそう思ったはず。そもそも疑問など抱かない。しかし今はそれができない。頷くとも言えない、あいまいな反応をするだけで精いっぱいだった。
俺のこの態度をどう思ったのか、温和に小さく笑みを見せてくる。それとなく後ろに一歩引いていった。威圧のない距離感を保ち、この人は静かに言う。
「そういえばご挨拶まだでしたよね。あけましておめでとうございます」
「……おめでとう、ございます」
返した挨拶は酷くぎこちない。でもこの人は表情を変えなかった。俺の返事に気を悪くする様子もなく、こちらが何も言わなくたって察したように一歩引いてくれる人だ。いつもの通り穏やかで優しく、けれど、タイミングがあまりにも、ちょうどよすぎやしないだろうか。
用がある。こっちに用があると言った。用って、なんの。そこまで聞けるほど親しくはない。
だから聞けない。聞かないけど、でも、会うだろうか普通。こんなところで。バイト先の店によく来るお客さんと、近所でばったり顔を合わせるなんて。
「……ごめんなさい、俺も……このあと用が……」
「あ、すみません引き止めてしまって。コンビニから出てくるのを見かけて、似ているように思ったのでもしかしてって」
「……そうですか」
そこからずっと、見られていたのか。そのうえたまたま行き先まで同じだった。
いくらか下げていた視線を上げた。パチリと目が合い、サッと逸らした。ほんの少しだけ右足を引く。そこで再び、この人の声を聞かされた。
「あの……大丈夫ですか?」
「…………え……?」
「……もし、僕の勘違いでしたら申し訳なんですけど…」
ドクリと、心臓が跳ねた。
「ッ、すみません」
遮った。咄嗟にだ。聞きたくなかった。最後まで聞かずにこちらから一歩離れた。
「すみません……ごめんなさい」
頭よりも感情が先に立つ。その時にはもう背を向けていた。逃げるようにその場から遠ざかる。
今はバイト中じゃない。今の俺は花屋の店員じゃない。それでも顔なじみの常連客にとるような態度では少なくともなかった。けれどついさっきまでの気の抜けたような心地が、一気に緊張で張り詰めている。
足早に道を進んだ。早歩きでいられたのは最初だけだった。少しずつどんどんペースを上げた。後ろ。分からない。誰かいるような、気がする。
振り返るか。いや、でも。そこにいるのがもしあの人だったら。あの人はどっちに行くと言っていたか。いいや、知らない。聞かなかった。
あの人の目的を俺は知らない。こっちの方向に元々用があったのか、そうではないのか。あの人ではないとしたら、ならば後ろの、この、足音は。
「…………」
聞き間違いではないはずだ。久々に感じる、本物の緊張だった。途中からはほとんど走っていた。
なりふり構わず駆けているから、地面を蹴る音の出どころに判断がつかない。自分の足音が道に響いているのか、それとも後ろに誰かいるのか。振り返るための勇気はない。考えるだけのゆとりがなかった。もうすぐマンションに着く。部屋に入ったらすぐ鍵をかけ、あと一時間もすれば瀬名さんが帰ってくる。
あの人は違う。違ってほしい。そう強く思った。思っているのに、絶対に疑いたくなかった人から逃げるためだけにただ走った。
なんでだろう。なんで俺は逃げているんだ。本当はあの人だと思っていたのか。違う。違うけど、でも、分からない。何も分からないまま今日まで過ごした。向こうからは見えていても、こっちからは見えない。
マンションのすぐ近くに来るとさらにまた足に力が入った。逃げ切れる。それで今日は終わりだ。あの人には会わなかった。そうすれば何もなかったことにできる。鍵をかけよう。一歩も外に出ない。忘れてしまえばいい。あの人は、違う。
もう少し。もうすぐそこ。マンションのすぐ手前の小道を駆け抜ければそこがゴールだ。今日も何もなかった。そう言える。
ところがそこで、視覚が捉えた。右横の小道から、影が。人だ。
「ッ……」
ザザッと、靴裏が地面を擦った。息をつめたその瞬間に、小さく上がった女性の声を聞く。同時にカシャッと何かが落ちたような音を耳が勝手に拾っていた。
パッと咄嗟に目を向けた。暗くても分かる。女の人だ。スーツを着た小柄な女性。驚いたようなその顔を頭が自動で認識し、他方で聴覚はわずか一秒のうちにあらゆる音を取り込んでいた。
手のひらの下の方にはジワリとした熱を感じる。崩した体勢を支えるために、反射的に出ていた右手がコンクリートを擦っていた。その手でそのまま地面を弾き上げ、慌てて立ち上がり、バッと後ろを振り返った。
誰もいない。本当にそうか。分からない。だって今までも知らないうちに、俺の近くにいた。潜んでいた。
「すみませっ、すみません……ごめんなさ、ッ……」
「あ、ねえ待っ…」
「ッ……」
呼び止める女性の声を遮り、詫びもそこそこに駆け出している。
目の前のマンションに駆け込んだ。すがる思いで必死に階段を駆け上った。
ピンポンパンポンポンピンパンパン明るく言っているドアを抜ける。ゴミ袋だけが入った買い物袋を引っ提げてコンビニから一人出てきた。
本当はピリ辛明太マヨ味のポテチも気になったけれどやめておいた。瀬名さんに見つかるとこのジャンク野郎って間違いなく言われてしまう。あの大人はポテチにやたら厳しい。
辺りはとっくに真っ暗だ。分かりやすく体感できるほど日が長くなるのはまだ少し先。心もとない街灯があるだけの帰り道を目指して歩いた。
自宅まではほんの数分で、来た時だって何もなかった。手紙はあれから届いていないし、脅迫染みた写真も送り付けてこないし。本当にパタリと、不審なことが一切、不気味なほどすっかりなくなっていた。
気をつけろよ。瀬名さんにはそう言われている。浩太にもずっと心配されている。小宮山と岡崎にも同じように言われた。避難場所が欲しけりゃいつでも来いとも。
だが現実に、何もない。しかし何もないと気付けるのは、俺自身も気にしているからだ。
気にしているから何もないと気付ける。後ろにはいつでもそれとなく注意を向ける癖がついている。だからすぐそこにある足音が、どちらに向かっているか、大方分かる。
「…………」
今も後ろの足音には気付いている。コンビニを出たところからずっとだ。いつだってコンビニを出入りする人は絶え間なくいるだろうから特に不審には思わなかったが、信号のない交差点を通過し、そこでとうとう確信に変えた。
背後にいる。ついてくる。ついてくるというその表現が、正解なのかは分からないが。
俺が疑心暗鬼になっているだけか、単に目指す方向が同じであるだけか。それならばいい。帰省を終えて戻ってきてから今と同じような状況は何度かあって、そのたびに杞憂に終わった。後ろにいるのはただの通行人だった。だから今回もそうかもしれない。でもこれは、杞憂だろうか。
徐々に、少しずつ、指の先から血が引いていく。ほんの少し足がはやくなる。
強張るようなこの感覚を、久々に味わう。これを思い出した。それがどうしても耐え難く、おそるおそる振り返る、その前に。
「あの……」
背後から小さくかけられた声。ビクリと震えそうな肩をごまかし、即座に振り返った。パッと。
「……ぁ……」
その男性の顔に目が行く。一目で分かる。週に一度は、言葉を交わしていた人だ。
「あ、やっぱり……」
その人はニコリと笑みを浮かべた。今年に入ってから会うのは初めてだった。年末に挨拶をして以来。
花屋の客だ。黄色いガーベラを買っていくあの人。昨日は俺もシフトに入っていたが、この人は店に来なかった。
久しぶりに見るその顔を前にして、咄嗟に声は出てこない。体は固まる。目を見張る俺に向け、その人は軽く頭を下げてくる。
「すみません、急に。驚かせてしまって」
「あ……いえ、全然。えっと……」
「今日はちょっとこっちに……あぁ、その……用があって。ご自宅お近いんですか……?」
「…………」
それは、どういう意味の質問だ。手にしているのは小銭入れと小さな買い物バッグだけで、ほとんど手ぶらに近い格好で出てきたから、そんな俺を見てこの人はそう予想をつけただけだろうか。
数ヵ月前までならそう思ったはず。そもそも疑問など抱かない。しかし今はそれができない。頷くとも言えない、あいまいな反応をするだけで精いっぱいだった。
俺のこの態度をどう思ったのか、温和に小さく笑みを見せてくる。それとなく後ろに一歩引いていった。威圧のない距離感を保ち、この人は静かに言う。
「そういえばご挨拶まだでしたよね。あけましておめでとうございます」
「……おめでとう、ございます」
返した挨拶は酷くぎこちない。でもこの人は表情を変えなかった。俺の返事に気を悪くする様子もなく、こちらが何も言わなくたって察したように一歩引いてくれる人だ。いつもの通り穏やかで優しく、けれど、タイミングがあまりにも、ちょうどよすぎやしないだろうか。
用がある。こっちに用があると言った。用って、なんの。そこまで聞けるほど親しくはない。
だから聞けない。聞かないけど、でも、会うだろうか普通。こんなところで。バイト先の店によく来るお客さんと、近所でばったり顔を合わせるなんて。
「……ごめんなさい、俺も……このあと用が……」
「あ、すみません引き止めてしまって。コンビニから出てくるのを見かけて、似ているように思ったのでもしかしてって」
「……そうですか」
そこからずっと、見られていたのか。そのうえたまたま行き先まで同じだった。
いくらか下げていた視線を上げた。パチリと目が合い、サッと逸らした。ほんの少しだけ右足を引く。そこで再び、この人の声を聞かされた。
「あの……大丈夫ですか?」
「…………え……?」
「……もし、僕の勘違いでしたら申し訳なんですけど…」
ドクリと、心臓が跳ねた。
「ッ、すみません」
遮った。咄嗟にだ。聞きたくなかった。最後まで聞かずにこちらから一歩離れた。
「すみません……ごめんなさい」
頭よりも感情が先に立つ。その時にはもう背を向けていた。逃げるようにその場から遠ざかる。
今はバイト中じゃない。今の俺は花屋の店員じゃない。それでも顔なじみの常連客にとるような態度では少なくともなかった。けれどついさっきまでの気の抜けたような心地が、一気に緊張で張り詰めている。
足早に道を進んだ。早歩きでいられたのは最初だけだった。少しずつどんどんペースを上げた。後ろ。分からない。誰かいるような、気がする。
振り返るか。いや、でも。そこにいるのがもしあの人だったら。あの人はどっちに行くと言っていたか。いいや、知らない。聞かなかった。
あの人の目的を俺は知らない。こっちの方向に元々用があったのか、そうではないのか。あの人ではないとしたら、ならば後ろの、この、足音は。
「…………」
聞き間違いではないはずだ。久々に感じる、本物の緊張だった。途中からはほとんど走っていた。
なりふり構わず駆けているから、地面を蹴る音の出どころに判断がつかない。自分の足音が道に響いているのか、それとも後ろに誰かいるのか。振り返るための勇気はない。考えるだけのゆとりがなかった。もうすぐマンションに着く。部屋に入ったらすぐ鍵をかけ、あと一時間もすれば瀬名さんが帰ってくる。
あの人は違う。違ってほしい。そう強く思った。思っているのに、絶対に疑いたくなかった人から逃げるためだけにただ走った。
なんでだろう。なんで俺は逃げているんだ。本当はあの人だと思っていたのか。違う。違うけど、でも、分からない。何も分からないまま今日まで過ごした。向こうからは見えていても、こっちからは見えない。
マンションのすぐ近くに来るとさらにまた足に力が入った。逃げ切れる。それで今日は終わりだ。あの人には会わなかった。そうすれば何もなかったことにできる。鍵をかけよう。一歩も外に出ない。忘れてしまえばいい。あの人は、違う。
もう少し。もうすぐそこ。マンションのすぐ手前の小道を駆け抜ければそこがゴールだ。今日も何もなかった。そう言える。
ところがそこで、視覚が捉えた。右横の小道から、影が。人だ。
「ッ……」
ザザッと、靴裏が地面を擦った。息をつめたその瞬間に、小さく上がった女性の声を聞く。同時にカシャッと何かが落ちたような音を耳が勝手に拾っていた。
パッと咄嗟に目を向けた。暗くても分かる。女の人だ。スーツを着た小柄な女性。驚いたようなその顔を頭が自動で認識し、他方で聴覚はわずか一秒のうちにあらゆる音を取り込んでいた。
手のひらの下の方にはジワリとした熱を感じる。崩した体勢を支えるために、反射的に出ていた右手がコンクリートを擦っていた。その手でそのまま地面を弾き上げ、慌てて立ち上がり、バッと後ろを振り返った。
誰もいない。本当にそうか。分からない。だって今までも知らないうちに、俺の近くにいた。潜んでいた。
「すみませっ、すみません……ごめんなさ、ッ……」
「あ、ねえ待っ…」
「ッ……」
呼び止める女性の声を遮り、詫びもそこそこに駆け出している。
目の前のマンションに駆け込んだ。すがる思いで必死に階段を駆け上った。
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