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132.蝶の羽ばたきⅠ
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年明け前と年明け後とで瀬名さんの仕事状況はずいぶん変わる。
ここのところはだいぶ落ち着いてきたのだろう。帰宅してきた瀬名さんから、差し出されたのは厚みのない小箱。
「なんです?」
「献上物」
献上物。それは朝廷とか皇帝とかなんか偉い人に捧げるやつだ。
「……残念ながら俺はあなたの主君になった覚えはありません」
「残念がる必要はねえよ。一生仕えるとここに誓う」
「いいえ、結構です」
「まあそう言わず」
「間に合ってるんで大丈夫です」
騎士気取りの下心満載おじさんに一生仕えられなんてしたら体がいくつあっても足りない。
忠誠心はいらないがプレゼントは気になるのでリボンの巻かれた小箱を受け取り、中を開けてみればキーケースだった。
カッコイイ。丈夫そうなのに重くはない。黒っぽい外観も美しい。手触りもいいし、光沢もあるし。つまりこれはおそらくあれだ。
牛だの羊だのの動物たちの恨みが大層こもっているだろう、本革。
「……高そう」
「たまにはもっと色気のある反応のひとつでもできねえのか」
「嬉しいダーリン」
「そうかよハニー」
色気のないレシーブを淡々と打たれた。
ダーリン役の瀬名さんがクローゼット前へ移動するのに合わせて俺も一緒にくっついていく。シュルッと片手でネクタイをほどくのをそれとなく見届けた。
レシーブに色気はなくても所作はいちいち色っぽい。なんでだろうな。艶っぽいんだよな。その他大勢の三十代オッサン層とこの人は何が違うのだろうか。
映像にして出品でもすればなかなかの値が付きそうなお着替えシーンを無防備にさらしながら、瀬名さんは無駄に整ったその顔をこちらにふっと向けてきた。
「いま持ってんのは何か思い入れでもあんのか?」
「へ?」
「キーケース」
「あ? ああ。ああ、はい。いいえ」
「どっちだ」
「別に何もないです」
「なら明日からはそっち使え。今のはいい加減ボロボロだろ」
「かろうじて形状保ってるって感じですかね。これはなんか高そうだしもったいないのでしまっときます」
「使えっての」
などというやり取りをしていたまさに翌日。今日、いま、突如手の中で。
小さく途切れたような感覚が、プツッと。
「あ……」
手を開いて見下ろした。ボロボロの古びた相棒だ。自宅の玄関前で鍵を取り出そうとした瞬間、俺のキーケースが寿命を迎えた。
なんてタイムリーな。新しいプレゼントを昨日もらって今日こうなるのか。
まさかお稲荷さんがとうとう瀬名恭吾の呪いに手を貸し始めたのだろうか。五百五円などという微妙な賽銭を投げて寄越してくるような男をシカトすると後々面倒くさそうだとでも思われたのかもしれない、きっとそうだ。
開け放したエル字ファスナーの、隙間から零れてそれは落ちていった。足元でガチャリと、やや重みのある金属音。廊下の硬い床に投げ出された飾りっ気のない鍵と、金具。
落っこちたのは俺の部屋の鍵だった。鍵を引っ提げていた錆びた金具が、無残にも呆気なく取れていた。フェイクレザーの安っぽいケースの、内側が一ヵ所、ペロッと剥がれている。
金具と一緒に落っこちた鍵をここからじっと見下ろした。そして手に取り、開錠して部屋に入った。
落っことしたのがこの場所だったのは幸いだろう。これはもういよいよ替えどきだ。外側は薄汚れているし内側なんかはボロボロで、金属が長い間擦れ続けてできてしまった黒ずみはきっともう消えない。
瀬名さんがくれた新しいキーケースは引き出しに入れてある。俺のこれはずいぶん前から使っているまあまあ古い物。
付けてあるのは自宅の鍵と大学のロッカーの鍵と、それから瀬名さんの部屋の鍵。実家のカギも一応持ってはいるけど普段は引き出しにぶっ込んである。
瀬名さんに夕べもらったキーケースは、こんな安物とは違ってちゃんとカッコイイ逸品だ。すぐにでも移し替えたって良かったけれど、沢山の牛たちに恨まれているだろう本革を汚すのはどうにも気が引けた。
もったいないというのは本当で、丈夫な革製品も繰り返し金属が擦れていれば内側がどんどん黒ずんでいく。
せっかく貰ったなら使うべきだがせっかく貰ったのに汚すのはなんかちょっと。庶民が庶民的なことを思って箱にしまっておいたそれが、昨日の今日でさっそく役に立つ。
金具ごと取れてしまった鍵は、クマ雄の視線の先にあるローテーブルの上にカチャリと置いた。このキーケースが俺のために頑張ってくれたのは約八年。オモチャみたいなチープな品にしては長持ちした方だろう。
特に思い入れはないと言ったが、これを買ったのは小六の修学旅行だ。なぜか自分用のおみやげにした。家族へのお土産の饅頭だとかよくある夜光のキーホルダーとか、目移りしながら選んでいたところとある一角で視線が止まった。
当時の俺には大人っぽくて格好よく見えたのかもしれない。グレーのシンプルなキーケースを手に取り、吸い込まれるようにレジへと向かった。
邪魔なだけの木刀に比べればはるかに使い道はあっただろう。だがなんでこれをわざわざよりにもよって、修学旅行という思い出の場で買ったのかは自分でも分からない。
小六の男のやる事なんていつの時代もだいたい意味不明だ。だからこれは気に入って使っていたというより、つい買っちゃったから仕方なしに持っていた。
ちなみにウチはいつも誰かしらが家にいて玄関も夜くらいしか施錠しないので、田舎でも稀にいる現代的なカギっ子のクラスメイトとは異なりキーケースは本当にただ持っているだけだった。
そんな八年間の相棒をチェンジするため、引き出しをカコッと開けた。真新しい箱の中から取り出した重厚感のあるキーケース。
まずは古いキーケースから一つ二つ鍵を付け替えていった。
外れてしまった自宅の鍵も引っかけ、そうしたらクマ雄を連れてすぐ隣へ行く。そのつもりでいたのだが、自分ちの鍵に手を伸ばそうとしたところでふと目に入ってしまったゴミ袋。
「…………」
どうすっかな。まあまあ溜まっている。この部屋をこの状態にしたのは昨日の夜だった。
夕べ瀬名さんが風呂に行った時キーケースをここに持ってきて、引き出しを開けたら奥の方からいつのだかサッパリ分からないような薄っぺらいレシートが一枚出てきた。ついでにもうちょっと引き出してみれば微妙な感じにごちゃついている。
ついでのついででいらない物をポイポイと片付けはじめ、一度やり始めると今度は止まらなくなって最終的には四十五リットルのゴミ袋まで持ち出してきた。
いらないもの処分祭りだ。いらないものの中にこれまで瀬名さんに貢がれたプレゼントは一個も入らないのだから悲しくなるほどの重症だと思う。今思えばクマ雄を捨てなかった時点で俺の運命は決まった気がする。
なんで今ってときに突然掃除をしたくなるのは人間のサガってやつで、寝室を片している最中にキッチンもやりたくなってきた。
処分した物のほとんどは、スーパーに置いてあるレシピカードとかかさばるだけの袋類とか。そのうち使うと思ってとっておいたけど結局使わないのが常だ。
一方で瀬名さんにもらった物のうちこれまでに捨てた物と言ったら、お菓子の包みとか箱くらいだろうか。
あの人からのプレゼントはいつも菓子箱でさえ可愛いからなんとも捨てづらくて困る。そのせいで万年筆の箱は取ってある。キーケースの箱も同じ運命だろうな。
フワフワ考えつつも手だけは動かした。瀬名さんが風呂から上がって俺の捜索を始めてしまう前にガツガツ捨て続けることしばらく。
現在俺の目の前にあるのが、夕べのそんな努力の結果だ。見下ろす先には半透明のゴミ袋がボンボンと二つ。
明日は燃えるごみの日だ。このマンションでは分別ルールと指定場所と指定時間さえ守れば前日夜からゴミ出し可。明日でも構わないと言えば構わないものの、ただでさえ眠い朝っぱらからデカいゴミ袋ばっかり抱えて部屋を出ていくのも疲れる。
そういうわけで無言のまま迷うことおよそ三秒。
面倒を引き受けるのは明日の俺でなく今の俺であることにした。袋を二つ抱えながら新しくなったキーケースを握りしめ、ついでのついでのさらについででパパッと瀬名さんの部屋にも入り、数日分のゴミをちゃちゃっと放り込んだ袋も一緒に持ち出す。
ウチのゴミ袋二つ分と、今週分のゴミが溜まった袋を持ってガサゴソ部屋を出る。
ここは人んちな訳であるから当然ながら施錠もしっかり。そのくせ先ほどウチの玄関は不精して閉めずに出てきてしまったが、今度こそ施錠するためキーケースから鍵を探り、しかしハタとそこで思い出す。
ああ、しまった。中身がない。まだ付け替える前だった。ウチの鍵はクマ雄が見守っている。安物のローテーブルの上だ。
「…………」
まあ、いっか。一階におりるだけだし。人んちのカギならいちいち閉めるが、俺の部屋に金目の物なんてないし。
二度目のささやかな不精を決めてゴミ袋を持ち外に出る。ガサガサ言わせながらエレベーターに乗りガサガサ言わせながらエレベーターを降り、ガサガサ言わせながらゴミ捨て場にかけてある四桁のダイヤル錠を回して、ガサガサ言わせながら頑丈な鉄扉をキィィッと開きゴミ袋を奥に置いた。
完了。すっきりした。俺はエラい。明日の俺ではなく現在の俺に始末させて正解だ。朝だと渋滞するエレベーターは使えないからこれを階段でやる羽目になる。ささやかに地獄だ。
さて。今度こそウチの鍵を新しいキーケースに付け替えよう。クマ雄も一人で寂しいだろうから早いとこウソ子の隣に戻してやらねば。
瀬名さんがここまでの俺の行動を見ていたとしら、まあ怒られたな。十中八九顔をしかめただろう。ほんの数分だと思って不用心なことしてんじゃねえ。そう言われるに決まってる。
これまでの俺であれば心配しすぎだと笑い飛ばして瀬名さんの懸念材料を増やしたはずだ。けれど今はもう違う。どれだけ平凡な人間だろうと、おかしな出来事に巻き込まれることはある。
戻りがてら一人反省会を実施。今のはいくらなんでも確かに不用心だったかもしれない。
玄関の戸全開がデフォの田舎とは違う。ここは都内のマンションだ。鍵をかけずに出かける人間など全くいないかほとんどゼロだろう。最近はサッパリ何も起こらなくなっているため、少々気が抜けている。
エントランスでカメラを見上げ、内心で気を引き締め直した。
人のいないエレベーターで三階に戻り、最奥の部屋のドアをもう一度ゆっくり開ける。キイィィッと、ゴミ捨て場以上にホラーっぽい音を聞き、パチリとつけた、玄関の電気。
パッと明るくなったそこで止まった。いったん中の様子をうかがう。
シンと静まり返った廊下に開け放ったままのダイニングのドア。三和土を見下ろせば見慣れた安いサンダルがある。ちょっと出たいときとかに使う用の一組だ。
もう一度奥に目をやった。静かなだけでおかしなことはない。
なんの変哲もないこんな部屋にヤモリは果たして本当にいるのか。怨念なんて本当にあるのか。血まみれの女が夢に出てくる気配は一向にないし、鉄骨も上から落っこちてこないし、心霊現象らしきものには一度たりとも遭遇していないから結局いないような気もするし。
ヤモリと名付けたお化けはともかく、実家では鍵なんかあってないような物だった。それくらい防犯意識も低かった。戸締りを本格的に気にするようになったのは最近のこと。使おうと思い浮かぶことすらなかったドアチェーンも今ではかけるようになった。
初めてチェーンを引っかけた日のことは今でも忘れない。忘れたくても忘れられない残念な思い出になっている。
問題なくロックできた鍵が、まさか外せなくなるなんて。
金具が錆びていたとかチェーンがねじれていたとか物理的な話じゃない。シンプルに外し方が分からなかった。
自分がドアチェーンを外せないことに気づいたのは瀬名さんが帰ってくる直前。風呂を沸かし終えたところだった。そうだ、チェーンを外しておかないと。
思い出して玄関にパタパタかけていき、ロックするときは下におろしたチェーンを上にガチャッとスライドさせた。が、なぜか外れない。はて。再チャレンジ。やっぱり外れない。
もう一度同じようにやっても外れないから、何かがおかしいと思い始めた。そこから何度かやってみても外れなくていよいよ焦りだしてきた。そうこうしているうちに仕事を終えて帰ってきてしまった瀬名さん。繁忙期に突入してきた頃であり、疲れもたまっていただろう時期だ。
チェーンの長さ分だけドアを開けながら、お帰りなさいとひとまずは言った。瀬名さんは不思議そうにしながらも玄関の外側でただいまと答えた。
絶望した心地でドアの隙間越しに、チェーン外れねえっすと白状した。瀬名さんは呆然とした様子で、ウソだろ、と呟いていた。
その輪っかは上に向けろとか出っ張ってるボタンみたいなとこを押せとか、不幸にも自宅から締め出されたまま外し方を俺にレクチャーする瀬名さん。懇切丁寧な説明を聞きながら銀色と再格闘してみる俺。
それであっけなく外れた瞬間の安堵感と言ったらなかった。鍵屋を呼びつける事態になる前にチェーンロックはなんとかできたが、とんでもなくマヌケなハプニングだ。
一番の被害者は瀬名さんだ。マジあり得ねえコイツって目で見られたが、本当にあり得ないので謝罪の言葉もございませんだった。
そんなこんなで嫌いになりそうだったチェーンの扱いにもすっかり慣れた。そんなことがあってもなお、チェーンをかけようと思う出来事がここしばらく続いていた。それが最近になってパタリと途絶えた。
今もまた室内に異常はない。そりゃそうだ。ゴミを捨てに行くだけだと思って気を抜くのが良くないのは防犯の観点からもその通りであるが、実際に何かが起きるのは稀だ。
ここはヤモリ一匹の気配すらない安全な部屋の中。多少の緊張感を持っていた反動で一気に安堵し、そしてホッとしたついでにまたしてもハタと思い出す。
そうだ。ゴミ袋のストックがもうないんだった。
なんで今っていうタイミングでこういうのを思い出すのも人間には良くあることだ。昨日のお掃除でゴミ袋を切らし、今日の帰りに買ってこようと思っていたくせにすっかり忘れていた。
瀬名さんの部屋のゴミ袋もさっきの一袋でちょうど切れた。急ぐ必要はないものの明日になるとまた忘れそう。いいや俺なら間違いなく忘れる。こういうのは思い出した時に手に入れるのが一番だから、仕方ねえ。コンビニ行くか。
クマ雄とウソ子をいつまでも引き離したままにしておくのも申し訳ないけれど、鞄の中からひとまず習慣で取りだしたスマホ。
小さい折り畳み買い物袋と手のひらサイズの小銭入れも掴む。鞄の横に脱ぎ捨てておいたモスグリーンのジャンパーも羽織った。軽いけど厚手であったかい。
外に出て玄関を施錠する前にもう一度チラリと室内を窺う。開け放ったままのダイニングのドア。異常なし。ヤモリなし。寝室にはクマ雄セキュリティまでついてる。
昨日の夜から及んでいる、ついでのついでのついでのついでだ。ゴミ袋だけ買ってこよう。
ここのところはだいぶ落ち着いてきたのだろう。帰宅してきた瀬名さんから、差し出されたのは厚みのない小箱。
「なんです?」
「献上物」
献上物。それは朝廷とか皇帝とかなんか偉い人に捧げるやつだ。
「……残念ながら俺はあなたの主君になった覚えはありません」
「残念がる必要はねえよ。一生仕えるとここに誓う」
「いいえ、結構です」
「まあそう言わず」
「間に合ってるんで大丈夫です」
騎士気取りの下心満載おじさんに一生仕えられなんてしたら体がいくつあっても足りない。
忠誠心はいらないがプレゼントは気になるのでリボンの巻かれた小箱を受け取り、中を開けてみればキーケースだった。
カッコイイ。丈夫そうなのに重くはない。黒っぽい外観も美しい。手触りもいいし、光沢もあるし。つまりこれはおそらくあれだ。
牛だの羊だのの動物たちの恨みが大層こもっているだろう、本革。
「……高そう」
「たまにはもっと色気のある反応のひとつでもできねえのか」
「嬉しいダーリン」
「そうかよハニー」
色気のないレシーブを淡々と打たれた。
ダーリン役の瀬名さんがクローゼット前へ移動するのに合わせて俺も一緒にくっついていく。シュルッと片手でネクタイをほどくのをそれとなく見届けた。
レシーブに色気はなくても所作はいちいち色っぽい。なんでだろうな。艶っぽいんだよな。その他大勢の三十代オッサン層とこの人は何が違うのだろうか。
映像にして出品でもすればなかなかの値が付きそうなお着替えシーンを無防備にさらしながら、瀬名さんは無駄に整ったその顔をこちらにふっと向けてきた。
「いま持ってんのは何か思い入れでもあんのか?」
「へ?」
「キーケース」
「あ? ああ。ああ、はい。いいえ」
「どっちだ」
「別に何もないです」
「なら明日からはそっち使え。今のはいい加減ボロボロだろ」
「かろうじて形状保ってるって感じですかね。これはなんか高そうだしもったいないのでしまっときます」
「使えっての」
などというやり取りをしていたまさに翌日。今日、いま、突如手の中で。
小さく途切れたような感覚が、プツッと。
「あ……」
手を開いて見下ろした。ボロボロの古びた相棒だ。自宅の玄関前で鍵を取り出そうとした瞬間、俺のキーケースが寿命を迎えた。
なんてタイムリーな。新しいプレゼントを昨日もらって今日こうなるのか。
まさかお稲荷さんがとうとう瀬名恭吾の呪いに手を貸し始めたのだろうか。五百五円などという微妙な賽銭を投げて寄越してくるような男をシカトすると後々面倒くさそうだとでも思われたのかもしれない、きっとそうだ。
開け放したエル字ファスナーの、隙間から零れてそれは落ちていった。足元でガチャリと、やや重みのある金属音。廊下の硬い床に投げ出された飾りっ気のない鍵と、金具。
落っこちたのは俺の部屋の鍵だった。鍵を引っ提げていた錆びた金具が、無残にも呆気なく取れていた。フェイクレザーの安っぽいケースの、内側が一ヵ所、ペロッと剥がれている。
金具と一緒に落っこちた鍵をここからじっと見下ろした。そして手に取り、開錠して部屋に入った。
落っことしたのがこの場所だったのは幸いだろう。これはもういよいよ替えどきだ。外側は薄汚れているし内側なんかはボロボロで、金属が長い間擦れ続けてできてしまった黒ずみはきっともう消えない。
瀬名さんがくれた新しいキーケースは引き出しに入れてある。俺のこれはずいぶん前から使っているまあまあ古い物。
付けてあるのは自宅の鍵と大学のロッカーの鍵と、それから瀬名さんの部屋の鍵。実家のカギも一応持ってはいるけど普段は引き出しにぶっ込んである。
瀬名さんに夕べもらったキーケースは、こんな安物とは違ってちゃんとカッコイイ逸品だ。すぐにでも移し替えたって良かったけれど、沢山の牛たちに恨まれているだろう本革を汚すのはどうにも気が引けた。
もったいないというのは本当で、丈夫な革製品も繰り返し金属が擦れていれば内側がどんどん黒ずんでいく。
せっかく貰ったなら使うべきだがせっかく貰ったのに汚すのはなんかちょっと。庶民が庶民的なことを思って箱にしまっておいたそれが、昨日の今日でさっそく役に立つ。
金具ごと取れてしまった鍵は、クマ雄の視線の先にあるローテーブルの上にカチャリと置いた。このキーケースが俺のために頑張ってくれたのは約八年。オモチャみたいなチープな品にしては長持ちした方だろう。
特に思い入れはないと言ったが、これを買ったのは小六の修学旅行だ。なぜか自分用のおみやげにした。家族へのお土産の饅頭だとかよくある夜光のキーホルダーとか、目移りしながら選んでいたところとある一角で視線が止まった。
当時の俺には大人っぽくて格好よく見えたのかもしれない。グレーのシンプルなキーケースを手に取り、吸い込まれるようにレジへと向かった。
邪魔なだけの木刀に比べればはるかに使い道はあっただろう。だがなんでこれをわざわざよりにもよって、修学旅行という思い出の場で買ったのかは自分でも分からない。
小六の男のやる事なんていつの時代もだいたい意味不明だ。だからこれは気に入って使っていたというより、つい買っちゃったから仕方なしに持っていた。
ちなみにウチはいつも誰かしらが家にいて玄関も夜くらいしか施錠しないので、田舎でも稀にいる現代的なカギっ子のクラスメイトとは異なりキーケースは本当にただ持っているだけだった。
そんな八年間の相棒をチェンジするため、引き出しをカコッと開けた。真新しい箱の中から取り出した重厚感のあるキーケース。
まずは古いキーケースから一つ二つ鍵を付け替えていった。
外れてしまった自宅の鍵も引っかけ、そうしたらクマ雄を連れてすぐ隣へ行く。そのつもりでいたのだが、自分ちの鍵に手を伸ばそうとしたところでふと目に入ってしまったゴミ袋。
「…………」
どうすっかな。まあまあ溜まっている。この部屋をこの状態にしたのは昨日の夜だった。
夕べ瀬名さんが風呂に行った時キーケースをここに持ってきて、引き出しを開けたら奥の方からいつのだかサッパリ分からないような薄っぺらいレシートが一枚出てきた。ついでにもうちょっと引き出してみれば微妙な感じにごちゃついている。
ついでのついででいらない物をポイポイと片付けはじめ、一度やり始めると今度は止まらなくなって最終的には四十五リットルのゴミ袋まで持ち出してきた。
いらないもの処分祭りだ。いらないものの中にこれまで瀬名さんに貢がれたプレゼントは一個も入らないのだから悲しくなるほどの重症だと思う。今思えばクマ雄を捨てなかった時点で俺の運命は決まった気がする。
なんで今ってときに突然掃除をしたくなるのは人間のサガってやつで、寝室を片している最中にキッチンもやりたくなってきた。
処分した物のほとんどは、スーパーに置いてあるレシピカードとかかさばるだけの袋類とか。そのうち使うと思ってとっておいたけど結局使わないのが常だ。
一方で瀬名さんにもらった物のうちこれまでに捨てた物と言ったら、お菓子の包みとか箱くらいだろうか。
あの人からのプレゼントはいつも菓子箱でさえ可愛いからなんとも捨てづらくて困る。そのせいで万年筆の箱は取ってある。キーケースの箱も同じ運命だろうな。
フワフワ考えつつも手だけは動かした。瀬名さんが風呂から上がって俺の捜索を始めてしまう前にガツガツ捨て続けることしばらく。
現在俺の目の前にあるのが、夕べのそんな努力の結果だ。見下ろす先には半透明のゴミ袋がボンボンと二つ。
明日は燃えるごみの日だ。このマンションでは分別ルールと指定場所と指定時間さえ守れば前日夜からゴミ出し可。明日でも構わないと言えば構わないものの、ただでさえ眠い朝っぱらからデカいゴミ袋ばっかり抱えて部屋を出ていくのも疲れる。
そういうわけで無言のまま迷うことおよそ三秒。
面倒を引き受けるのは明日の俺でなく今の俺であることにした。袋を二つ抱えながら新しくなったキーケースを握りしめ、ついでのついでのさらについででパパッと瀬名さんの部屋にも入り、数日分のゴミをちゃちゃっと放り込んだ袋も一緒に持ち出す。
ウチのゴミ袋二つ分と、今週分のゴミが溜まった袋を持ってガサゴソ部屋を出る。
ここは人んちな訳であるから当然ながら施錠もしっかり。そのくせ先ほどウチの玄関は不精して閉めずに出てきてしまったが、今度こそ施錠するためキーケースから鍵を探り、しかしハタとそこで思い出す。
ああ、しまった。中身がない。まだ付け替える前だった。ウチの鍵はクマ雄が見守っている。安物のローテーブルの上だ。
「…………」
まあ、いっか。一階におりるだけだし。人んちのカギならいちいち閉めるが、俺の部屋に金目の物なんてないし。
二度目のささやかな不精を決めてゴミ袋を持ち外に出る。ガサガサ言わせながらエレベーターに乗りガサガサ言わせながらエレベーターを降り、ガサガサ言わせながらゴミ捨て場にかけてある四桁のダイヤル錠を回して、ガサガサ言わせながら頑丈な鉄扉をキィィッと開きゴミ袋を奥に置いた。
完了。すっきりした。俺はエラい。明日の俺ではなく現在の俺に始末させて正解だ。朝だと渋滞するエレベーターは使えないからこれを階段でやる羽目になる。ささやかに地獄だ。
さて。今度こそウチの鍵を新しいキーケースに付け替えよう。クマ雄も一人で寂しいだろうから早いとこウソ子の隣に戻してやらねば。
瀬名さんがここまでの俺の行動を見ていたとしら、まあ怒られたな。十中八九顔をしかめただろう。ほんの数分だと思って不用心なことしてんじゃねえ。そう言われるに決まってる。
これまでの俺であれば心配しすぎだと笑い飛ばして瀬名さんの懸念材料を増やしたはずだ。けれど今はもう違う。どれだけ平凡な人間だろうと、おかしな出来事に巻き込まれることはある。
戻りがてら一人反省会を実施。今のはいくらなんでも確かに不用心だったかもしれない。
玄関の戸全開がデフォの田舎とは違う。ここは都内のマンションだ。鍵をかけずに出かける人間など全くいないかほとんどゼロだろう。最近はサッパリ何も起こらなくなっているため、少々気が抜けている。
エントランスでカメラを見上げ、内心で気を引き締め直した。
人のいないエレベーターで三階に戻り、最奥の部屋のドアをもう一度ゆっくり開ける。キイィィッと、ゴミ捨て場以上にホラーっぽい音を聞き、パチリとつけた、玄関の電気。
パッと明るくなったそこで止まった。いったん中の様子をうかがう。
シンと静まり返った廊下に開け放ったままのダイニングのドア。三和土を見下ろせば見慣れた安いサンダルがある。ちょっと出たいときとかに使う用の一組だ。
もう一度奥に目をやった。静かなだけでおかしなことはない。
なんの変哲もないこんな部屋にヤモリは果たして本当にいるのか。怨念なんて本当にあるのか。血まみれの女が夢に出てくる気配は一向にないし、鉄骨も上から落っこちてこないし、心霊現象らしきものには一度たりとも遭遇していないから結局いないような気もするし。
ヤモリと名付けたお化けはともかく、実家では鍵なんかあってないような物だった。それくらい防犯意識も低かった。戸締りを本格的に気にするようになったのは最近のこと。使おうと思い浮かぶことすらなかったドアチェーンも今ではかけるようになった。
初めてチェーンを引っかけた日のことは今でも忘れない。忘れたくても忘れられない残念な思い出になっている。
問題なくロックできた鍵が、まさか外せなくなるなんて。
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自分がドアチェーンを外せないことに気づいたのは瀬名さんが帰ってくる直前。風呂を沸かし終えたところだった。そうだ、チェーンを外しておかないと。
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もう一度同じようにやっても外れないから、何かがおかしいと思い始めた。そこから何度かやってみても外れなくていよいよ焦りだしてきた。そうこうしているうちに仕事を終えて帰ってきてしまった瀬名さん。繁忙期に突入してきた頃であり、疲れもたまっていただろう時期だ。
チェーンの長さ分だけドアを開けながら、お帰りなさいとひとまずは言った。瀬名さんは不思議そうにしながらも玄関の外側でただいまと答えた。
絶望した心地でドアの隙間越しに、チェーン外れねえっすと白状した。瀬名さんは呆然とした様子で、ウソだろ、と呟いていた。
その輪っかは上に向けろとか出っ張ってるボタンみたいなとこを押せとか、不幸にも自宅から締め出されたまま外し方を俺にレクチャーする瀬名さん。懇切丁寧な説明を聞きながら銀色と再格闘してみる俺。
それであっけなく外れた瞬間の安堵感と言ったらなかった。鍵屋を呼びつける事態になる前にチェーンロックはなんとかできたが、とんでもなくマヌケなハプニングだ。
一番の被害者は瀬名さんだ。マジあり得ねえコイツって目で見られたが、本当にあり得ないので謝罪の言葉もございませんだった。
そんなこんなで嫌いになりそうだったチェーンの扱いにもすっかり慣れた。そんなことがあってもなお、チェーンをかけようと思う出来事がここしばらく続いていた。それが最近になってパタリと途絶えた。
今もまた室内に異常はない。そりゃそうだ。ゴミを捨てに行くだけだと思って気を抜くのが良くないのは防犯の観点からもその通りであるが、実際に何かが起きるのは稀だ。
ここはヤモリ一匹の気配すらない安全な部屋の中。多少の緊張感を持っていた反動で一気に安堵し、そしてホッとしたついでにまたしてもハタと思い出す。
そうだ。ゴミ袋のストックがもうないんだった。
なんで今っていうタイミングでこういうのを思い出すのも人間には良くあることだ。昨日のお掃除でゴミ袋を切らし、今日の帰りに買ってこようと思っていたくせにすっかり忘れていた。
瀬名さんの部屋のゴミ袋もさっきの一袋でちょうど切れた。急ぐ必要はないものの明日になるとまた忘れそう。いいや俺なら間違いなく忘れる。こういうのは思い出した時に手に入れるのが一番だから、仕方ねえ。コンビニ行くか。
クマ雄とウソ子をいつまでも引き離したままにしておくのも申し訳ないけれど、鞄の中からひとまず習慣で取りだしたスマホ。
小さい折り畳み買い物袋と手のひらサイズの小銭入れも掴む。鞄の横に脱ぎ捨てておいたモスグリーンのジャンパーも羽織った。軽いけど厚手であったかい。
外に出て玄関を施錠する前にもう一度チラリと室内を窺う。開け放ったままのダイニングのドア。異常なし。ヤモリなし。寝室にはクマ雄セキュリティまでついてる。
昨日の夜から及んでいる、ついでのついでのついでのついでだ。ゴミ袋だけ買ってこよう。
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