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109.破壊者Ⅰ
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瀬名さんは頭がおかしい。まともな状態のときの方が貴重だ。けれども外では働く大人で、いろんなことを頑張りすぎている。
だから家でこういうことになる。
「みんなが寄ってたかって俺をイジメる」
「なに子供みたいなこと言ってんですか」
「どう考えても不可能なことを当たり前みてえにやれと言われる。無理難題を一つ乗り越えた所でどうせまたクソみてえな要求を次々出してくるくせに。あいつらは俺達に死ねってのか。俺に部下を殺せってのか」
「お茶飲んで」
「ん」
「落ち着いた?」
「絶望してる」
「明日は?」
「休める。呼び出しかからなければ」
「今日もこんなに頑張りましたもんね。明日はゆっくりしましょうね。スマホの電源なんか切ってやりましょう」
「お前と俺しかいない世界に行きたい」
こうなった。疲れたとは言わない男が爆発したらこういうことになった。小出しで疲れたと言われる方がこれに比べればまだ扱いやすい。
夕べの帰宅は深夜前であり今夜もまた同じくらいで、とにもかくにも酷い顔だった。玄関まで出迎えたところ力なくその場で抱きつかれ、無言のまま靴を脱ぐ気力もないようでその手からガゴッと落っこちた鞄。
たぶん下の階に響いただろうけど、縋るように抱きついてくる大人の方が遥かに心配だった。
瀬名さんの今のこの状況は、おそらくは去年の今頃の状況とさほど変りないのだろう。
だが去年はこんなことを言わなかった。帰ってくるなりギュウギュウに抱きしめられることはあっても、こうも泣きそうに弱った姿をあからさまに見せてはくれなかった。
それを今は俺に見せている。俺に抱きつき、慰めを求めてる。
そんな状態を見せつけられれば、玄関でついつい大人の男の頭を撫でてしまったのもやむを得ない。
駄々っ子みたいなおじさんに靴を脱がせ、鞄も部屋に一緒に持ってきて、ベッドの前に座らせたあたりからポツリポツリと弱音が零れはじめた。
ちょいちょいお茶を飲ませて落ち着かせているが徐々に悪化している気もする。出したのは温めた麦茶であって酒は一滴も飲ませていない。けれども背中や肩や膝とかを時折ポンポンすればするほど、瀬名さんはどんよりメソメソしていく。
「このクソ上司がって絶対に思われてる……」
「思われてませんから大丈夫。陽子さんのお墨付きもあります」
「罠か……」
「罠じゃなくて」
「時間がいくらあっても足りねえ……無能すぎて嫌になる……俺はどうせダメな野郎だ」
「ダメなことなんか一個もないですよ。あなたは毎日頑張ってます」
むぎゅっと横から抱きついてきた。重症だな。できることならここに陽子さんを呼びたい。
元部下を励ましてもらうために元上司で現人妻の方をお呼び立てする訳にもいかないので、仕方なく俺が瀬名さんを抱っこしてその背中をぽふぽふ撫でた。
「今夜はもう休みます?」
「シャワー浴びてくる……」
「わかりました。いってらっしゃい」
「……遥希も行こう」
「大人なんだから一人で行って」
風呂ならもうとっくに済ませた。ところがノロっと顔を上げた瀬名さんは、絶望的な目で俺を見ている。
「……俺はもうダメだ」
「…………」
このオッサンは。
「…………今日だけですよ」
数秒の間を置いてからしぶしぶ答えたその直後、あれだけメソメソしていた男は元気よく俺を風呂場に連れ込んだ。
***
ゲンキンな部分が見え隠れもするが基本的には疲れ果てている。呼び出しは結局かかって土曜の午前中が三時間ほど潰れた。それでも週明けの瀬名さんは、先週末のどん底な瀬名さんとはほとんど違う人物になっていた。
泣きそうな顔でウジウジ言いまくっていたのがウソのようにキリッと着込まれたスーツ。上から下まで完全無欠な大人の男に立ち戻り、にゃんこの弁当箱を持っていつも通り出社した。
とにかく忙しい。まさしく忙殺と言える状況だろう。そして俺はそれを知っている。
社会人の恋人が仕事で毎日いっぱいいっぱいなのであれば、俺の務めは忙しい大人の邪魔にならないようにすること。それくらいしかできることはない。それだってよく知っている。
「…………」
十二分に理解しているつもりではあるが、つい、声を上げそうになる。
まただ。また来た。この手紙。一体いつまで、こんなこと。
封筒の中身を手に持ったまま数十秒の間立ち尽くしていた。一行だけの文章が印刷された紙が一枚。それに今日はもう一つ。写真も。
俺が写っている。マンションの前だ。そこに俺が入っていくところ。
いつだ。いつ撮った。こんなのを知らない。どこから撮った。どこに、潜んでいた。
恐怖というものにも種類があるが、この感情は初めてだった。仄暗いような、ハラハラとして、気味の悪さがこびりつく。
白い紙を元のように折ってから封筒の中に戻した。写真の中の自分の横顔をザワザワと見下ろす。はっきり俺だと分かるそれを破り捨てたいのをどうにか堪え、白い紙と同じように封筒の中にじっとりと戻した。
宛名のみ記載された白い洋型封筒。中身の紙もこの封筒も、どちらとも印刷した文字。封筒の中の印字は一行。愛してる。だった。最初の何通かは。
会いたいよ。いつも見てるよ。待っていてね。そばにいるよ。日に日に距離を詰めてくるようなそれに、募る不安は徐々に大きくなっていった。
写真まで同封されていた今日は、これで毎日一緒だね。
そう書いてあった。持っているんだ。これを送り付けてきた奴もこの写真をまだ持っていて、写真の中の俺を見ている。それが嫌でも分かってしまって、ギリッと、奥歯を噛んでいた。
一通目は浩太だと思い込んでいたからイラッとしながら破って捨てた。そのあとに届いた二通目も、不審には思いつつもただ破って捨てていた。クソキモい。どこのどいつだ。少々の悪態を心の中でつける程度の余裕はあった。
しかし三通目にもなるとさすがにおかしいと思えてくる。だんだんと危うそうな気配がしてきた。それで四通目が来て、五通目まで来れば、いよいよはっきり感じるようになったのは身の危険。事態の深刻さに気付いた。
マンションの入り口の集合ポスト。エントランスに入るとまずはその中を確認し、そこに郵便物があれば全てを取って自分の部屋に置いてくる。
それが俺の習慣だった。習慣で手にしてきた物の中に変な手紙が交じるようになった。
三通目まではゴミ箱に捨てたが今は全て取ってある。これが単なるイタズラであるのか確証はいまだに持てずにいるから、本当に何か、もしも現実に、起こってしまったときのために。
「ウチのポストに遥希宛ての手紙が交じってた」
「え?」
翌日の二十三時少し前。帰宅してきた瀬名さんは、俺にその手紙を差し出した。
見覚えしかないいつもの手紙だ。受け取ったのは白い洋型封筒。なんでこれが、この人の所に。
「…………」
「隣だからな。部屋番書き間違えたんだろ」
「すみません……」
「大丈夫か。差出人書いてねえようだが」
「あ……ええ、はい。あとで見てみます」
見下ろしたその中央には、横書きで住所とマンション名。それに続くのは俺の部屋ではなく、その隣である三〇二の部屋番号。そして封筒の左上には、消印がある。当然のことだが、この手紙に限っては当然とは決して言いきれない。
ここ最近は切手の貼っていない封筒が時々投函されていた。それでも俺の名前と住所だけは欠かさずに記載してある。消印だけが無いそれを最初に見た日は、一瞬で背筋が凍りついた。
自分で入れている。それを察した。犯人はマンションの中にまでやって来て、うちのポストに手紙を落としている。
湧きおこる不安を昨日まで抱きつつ、そして今日だ。通常郵便物であれば宛先さえきちんと書かれていれば手紙は届く。記載された住所の通りに。
マンションのポストにネームプレートは入れてあるが、配達担当の郵便屋さんは書かれてある部屋番号に従ったようだ。ここの部屋。瀬名さんの部屋に届いた。こんなことはもちろん初めてだ。切手の貼ってある手紙はあえて、適当にポケットに突っ込んだ。
消印と合わせ、到着した日付は全て記録に残してある。記録する度に恐怖が重なる。なぜならほとんどもう、毎日来ている。俺の部屋で束になっている封筒とその中身の紙切れを見たら、瀬名さんはどんな反応をするか。
決まっている。この人の反応は一つ。ただでさえ忙しい時期に余計な負担はかけたくない。
「……本当に平気か?」
「え?」
「疲れてないか、お前。最近」
ネクタイをシュルッと緩めながら顔はこっちに向けてくる。その目を見てくっと、胸に重くつかえたような感覚が起こり、それを押し殺して首を左右に振った。
疲れているのは瀬名さんだ。余裕なんてないくらいのはずなのに俺のことは見ていてくれる。そんな人を煩わせる真似なんて、まさか。
「大丈夫ですよ。それよりも風呂入っちゃってください。給湯ついてますから」
できるはずがない。変に気を揉ませたくない。実際このまま何もない可能性もあるだろう。不審な手紙なんて見せたら不必要に心配させるだけだ。
すでにいささか気がかりそうな顔をしている人に笑って返した。風呂に行くのを見送り、浴室のドアが閉まる音を聞き届けてから数秒。ポケットの中のそれを手に取った。
顔が強張っている自覚はある。一度きつく、引き結んだ唇。
「っ……」
ゾッとした。かつてないほど総毛立つ。だって。
『そこにいたんだね』
その一文が。
「…………」
何もない。なんでもない。そう思い込むにも限界がある。
間違えたわけでもタイプミスでもないのだろう。わざとだ。俺の部屋の隣であるここの、部屋番号を書いたのは。
恐る恐る窓を見る。大丈夫。ちゃんと分ってる。俺の部屋も瀬名さんの部屋も、カーテンはいつも帰宅してからすぐに閉めている。今日もそうだ。
分かっていても薄気味悪い恐怖感がジリジリとくすぶる。ゆっくりと窓に近づき、カーテンを隔てて鍵の位置に手を伸ばした。
施錠もしてある。これも分かってる。戸締りには気をつけろと、心配性で過保護なあの人が普段から言っているから。
部屋の中の状況まで外から覗き込めるはずはない。しかし見られている。確信した。
こいつは俺がどこにいるのか知っている。間違いではなくわざとやった。故意にこの部屋の番号を書いた。分かっているということを、俺に分からせるために。
警察。それが頭をよぎるが、今日までに何度も同じことを思った。
相手が何者なのか分かりもしない。思い当たる節の一つさえない。見当もつかない犯人を、誰が捕まえてくれると言うのか。
だから家でこういうことになる。
「みんなが寄ってたかって俺をイジメる」
「なに子供みたいなこと言ってんですか」
「どう考えても不可能なことを当たり前みてえにやれと言われる。無理難題を一つ乗り越えた所でどうせまたクソみてえな要求を次々出してくるくせに。あいつらは俺達に死ねってのか。俺に部下を殺せってのか」
「お茶飲んで」
「ん」
「落ち着いた?」
「絶望してる」
「明日は?」
「休める。呼び出しかからなければ」
「今日もこんなに頑張りましたもんね。明日はゆっくりしましょうね。スマホの電源なんか切ってやりましょう」
「お前と俺しかいない世界に行きたい」
こうなった。疲れたとは言わない男が爆発したらこういうことになった。小出しで疲れたと言われる方がこれに比べればまだ扱いやすい。
夕べの帰宅は深夜前であり今夜もまた同じくらいで、とにもかくにも酷い顔だった。玄関まで出迎えたところ力なくその場で抱きつかれ、無言のまま靴を脱ぐ気力もないようでその手からガゴッと落っこちた鞄。
たぶん下の階に響いただろうけど、縋るように抱きついてくる大人の方が遥かに心配だった。
瀬名さんの今のこの状況は、おそらくは去年の今頃の状況とさほど変りないのだろう。
だが去年はこんなことを言わなかった。帰ってくるなりギュウギュウに抱きしめられることはあっても、こうも泣きそうに弱った姿をあからさまに見せてはくれなかった。
それを今は俺に見せている。俺に抱きつき、慰めを求めてる。
そんな状態を見せつけられれば、玄関でついつい大人の男の頭を撫でてしまったのもやむを得ない。
駄々っ子みたいなおじさんに靴を脱がせ、鞄も部屋に一緒に持ってきて、ベッドの前に座らせたあたりからポツリポツリと弱音が零れはじめた。
ちょいちょいお茶を飲ませて落ち着かせているが徐々に悪化している気もする。出したのは温めた麦茶であって酒は一滴も飲ませていない。けれども背中や肩や膝とかを時折ポンポンすればするほど、瀬名さんはどんよりメソメソしていく。
「このクソ上司がって絶対に思われてる……」
「思われてませんから大丈夫。陽子さんのお墨付きもあります」
「罠か……」
「罠じゃなくて」
「時間がいくらあっても足りねえ……無能すぎて嫌になる……俺はどうせダメな野郎だ」
「ダメなことなんか一個もないですよ。あなたは毎日頑張ってます」
むぎゅっと横から抱きついてきた。重症だな。できることならここに陽子さんを呼びたい。
元部下を励ましてもらうために元上司で現人妻の方をお呼び立てする訳にもいかないので、仕方なく俺が瀬名さんを抱っこしてその背中をぽふぽふ撫でた。
「今夜はもう休みます?」
「シャワー浴びてくる……」
「わかりました。いってらっしゃい」
「……遥希も行こう」
「大人なんだから一人で行って」
風呂ならもうとっくに済ませた。ところがノロっと顔を上げた瀬名さんは、絶望的な目で俺を見ている。
「……俺はもうダメだ」
「…………」
このオッサンは。
「…………今日だけですよ」
数秒の間を置いてからしぶしぶ答えたその直後、あれだけメソメソしていた男は元気よく俺を風呂場に連れ込んだ。
***
ゲンキンな部分が見え隠れもするが基本的には疲れ果てている。呼び出しは結局かかって土曜の午前中が三時間ほど潰れた。それでも週明けの瀬名さんは、先週末のどん底な瀬名さんとはほとんど違う人物になっていた。
泣きそうな顔でウジウジ言いまくっていたのがウソのようにキリッと着込まれたスーツ。上から下まで完全無欠な大人の男に立ち戻り、にゃんこの弁当箱を持っていつも通り出社した。
とにかく忙しい。まさしく忙殺と言える状況だろう。そして俺はそれを知っている。
社会人の恋人が仕事で毎日いっぱいいっぱいなのであれば、俺の務めは忙しい大人の邪魔にならないようにすること。それくらいしかできることはない。それだってよく知っている。
「…………」
十二分に理解しているつもりではあるが、つい、声を上げそうになる。
まただ。また来た。この手紙。一体いつまで、こんなこと。
封筒の中身を手に持ったまま数十秒の間立ち尽くしていた。一行だけの文章が印刷された紙が一枚。それに今日はもう一つ。写真も。
俺が写っている。マンションの前だ。そこに俺が入っていくところ。
いつだ。いつ撮った。こんなのを知らない。どこから撮った。どこに、潜んでいた。
恐怖というものにも種類があるが、この感情は初めてだった。仄暗いような、ハラハラとして、気味の悪さがこびりつく。
白い紙を元のように折ってから封筒の中に戻した。写真の中の自分の横顔をザワザワと見下ろす。はっきり俺だと分かるそれを破り捨てたいのをどうにか堪え、白い紙と同じように封筒の中にじっとりと戻した。
宛名のみ記載された白い洋型封筒。中身の紙もこの封筒も、どちらとも印刷した文字。封筒の中の印字は一行。愛してる。だった。最初の何通かは。
会いたいよ。いつも見てるよ。待っていてね。そばにいるよ。日に日に距離を詰めてくるようなそれに、募る不安は徐々に大きくなっていった。
写真まで同封されていた今日は、これで毎日一緒だね。
そう書いてあった。持っているんだ。これを送り付けてきた奴もこの写真をまだ持っていて、写真の中の俺を見ている。それが嫌でも分かってしまって、ギリッと、奥歯を噛んでいた。
一通目は浩太だと思い込んでいたからイラッとしながら破って捨てた。そのあとに届いた二通目も、不審には思いつつもただ破って捨てていた。クソキモい。どこのどいつだ。少々の悪態を心の中でつける程度の余裕はあった。
しかし三通目にもなるとさすがにおかしいと思えてくる。だんだんと危うそうな気配がしてきた。それで四通目が来て、五通目まで来れば、いよいよはっきり感じるようになったのは身の危険。事態の深刻さに気付いた。
マンションの入り口の集合ポスト。エントランスに入るとまずはその中を確認し、そこに郵便物があれば全てを取って自分の部屋に置いてくる。
それが俺の習慣だった。習慣で手にしてきた物の中に変な手紙が交じるようになった。
三通目まではゴミ箱に捨てたが今は全て取ってある。これが単なるイタズラであるのか確証はいまだに持てずにいるから、本当に何か、もしも現実に、起こってしまったときのために。
「ウチのポストに遥希宛ての手紙が交じってた」
「え?」
翌日の二十三時少し前。帰宅してきた瀬名さんは、俺にその手紙を差し出した。
見覚えしかないいつもの手紙だ。受け取ったのは白い洋型封筒。なんでこれが、この人の所に。
「…………」
「隣だからな。部屋番書き間違えたんだろ」
「すみません……」
「大丈夫か。差出人書いてねえようだが」
「あ……ええ、はい。あとで見てみます」
見下ろしたその中央には、横書きで住所とマンション名。それに続くのは俺の部屋ではなく、その隣である三〇二の部屋番号。そして封筒の左上には、消印がある。当然のことだが、この手紙に限っては当然とは決して言いきれない。
ここ最近は切手の貼っていない封筒が時々投函されていた。それでも俺の名前と住所だけは欠かさずに記載してある。消印だけが無いそれを最初に見た日は、一瞬で背筋が凍りついた。
自分で入れている。それを察した。犯人はマンションの中にまでやって来て、うちのポストに手紙を落としている。
湧きおこる不安を昨日まで抱きつつ、そして今日だ。通常郵便物であれば宛先さえきちんと書かれていれば手紙は届く。記載された住所の通りに。
マンションのポストにネームプレートは入れてあるが、配達担当の郵便屋さんは書かれてある部屋番号に従ったようだ。ここの部屋。瀬名さんの部屋に届いた。こんなことはもちろん初めてだ。切手の貼ってある手紙はあえて、適当にポケットに突っ込んだ。
消印と合わせ、到着した日付は全て記録に残してある。記録する度に恐怖が重なる。なぜならほとんどもう、毎日来ている。俺の部屋で束になっている封筒とその中身の紙切れを見たら、瀬名さんはどんな反応をするか。
決まっている。この人の反応は一つ。ただでさえ忙しい時期に余計な負担はかけたくない。
「……本当に平気か?」
「え?」
「疲れてないか、お前。最近」
ネクタイをシュルッと緩めながら顔はこっちに向けてくる。その目を見てくっと、胸に重くつかえたような感覚が起こり、それを押し殺して首を左右に振った。
疲れているのは瀬名さんだ。余裕なんてないくらいのはずなのに俺のことは見ていてくれる。そんな人を煩わせる真似なんて、まさか。
「大丈夫ですよ。それよりも風呂入っちゃってください。給湯ついてますから」
できるはずがない。変に気を揉ませたくない。実際このまま何もない可能性もあるだろう。不審な手紙なんて見せたら不必要に心配させるだけだ。
すでにいささか気がかりそうな顔をしている人に笑って返した。風呂に行くのを見送り、浴室のドアが閉まる音を聞き届けてから数秒。ポケットの中のそれを手に取った。
顔が強張っている自覚はある。一度きつく、引き結んだ唇。
「っ……」
ゾッとした。かつてないほど総毛立つ。だって。
『そこにいたんだね』
その一文が。
「…………」
何もない。なんでもない。そう思い込むにも限界がある。
間違えたわけでもタイプミスでもないのだろう。わざとだ。俺の部屋の隣であるここの、部屋番号を書いたのは。
恐る恐る窓を見る。大丈夫。ちゃんと分ってる。俺の部屋も瀬名さんの部屋も、カーテンはいつも帰宅してからすぐに閉めている。今日もそうだ。
分かっていても薄気味悪い恐怖感がジリジリとくすぶる。ゆっくりと窓に近づき、カーテンを隔てて鍵の位置に手を伸ばした。
施錠もしてある。これも分かってる。戸締りには気をつけろと、心配性で過保護なあの人が普段から言っているから。
部屋の中の状況まで外から覗き込めるはずはない。しかし見られている。確信した。
こいつは俺がどこにいるのか知っている。間違いではなくわざとやった。故意にこの部屋の番号を書いた。分かっているということを、俺に分からせるために。
警察。それが頭をよぎるが、今日までに何度も同じことを思った。
相手が何者なのか分かりもしない。思い当たる節の一つさえない。見当もつかない犯人を、誰が捕まえてくれると言うのか。
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