貢がせて、ハニー!

わこ

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107.ベストパートナーⅡ

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 前期の講義でフランス文学を取ったのはただの気まぐれだったが、人生観とか価値観だとかは多少なりとも広がったと思う。
 セ・ラヴィ、というお決まりのセリフはあらゆる登場人物が口にする。悲壮感や怒りの中でそれを言う主人公もいた。コメディチックに明るく言ってのける主人公の親友もいた。
 ネガティブとポジティブの中間くらいで、どことなく達観した言い回し。フランスに住んだことも行ったこともない俺は理解という範囲でそう捉えた。

 落としどころを求めるべき場面で、人生とはそういうものだと、根本的な解決はできずとも強引にはなりすぎない程度に気分を落ち着け前を向かせる。人が生きるうえでの重要な術だ。
 たとえ自分の身に不幸が降りかかっても、世界は今日も無情なまでになんら滞りなく巡っていく。だから俺たちはメシを食う。生きるために。進むためにだ。

 人生まあ色々あるだろうけどとりあえずお腹が減っているならゴハン食べてきな。ほら遠慮なく。それが二条さんのお店。ラヴィだ。
 堅苦しいマナーなどなく、服装は自由。食べ方も自由。何から食うかも全部自由。

 あそこがもしもタイ焼き屋さんで、しっぽから食う派と頭から食う派による論争が湧き起こったとしても、どっちもいいよねどっちもやってみたらと二条さんがニコニコ言ってすんなり場を鎮めそう。そして陽子さんが横からそれとなくもう一匹のたい焼きをお買い上げさせそう。
 店にも料理にも二条さんの人柄が出ている。それを陽子さんが支えている。人はそういうのを調和と言ったり、あたたかいと言ったりもする。






「瀬名さんが二人のキューピッドだったとは思いませんでした」
「神々しいだろ。崇めろ。敬え」
「俺が崇めても意味ないじゃん」

 友人と上司を引き合わせた男はパクリとスプーンを口に運んだ。愛の神っぽさ皆無のくせして自信満々に崇められようとしている。

 一緒に生きる相手の見つけ方は一つではないのだろう。手順も方法もそこまでの経緯も、周りから見ると不可思議に思えようが当人たちにとってはごくごく自然。
 陽子さんの中ではその選択が当たり前のことだったから、ケンカしたり家から追い出したりしても必ず二条さんを迎えにいく。

「胃袋つかまれるって本当にあるんだな……」
「俺のはお前にガッチリつかまれてる。遥希がいなかったら生きていけない」
「あなたが今食ってるハッシュドビーフは二条さんのお手製ですけど普段より食いつきよく見えますが」
「お前は一回眼科行った方がいい。これは仕方ねえから食ってるだけだ」

 嘘つけよ。美味くて仕方がないんだろ。俺の長所は視力がいいことだ。
 二条さんのところでは帰り際にお土産まで頂いた。タッパーに詰めてくれたそれを温め直して瀬名さんに出したらパクパクと食っている。一見すると重そうな料理だが、口に運ぶと止まらなくなるのは俺もさっき体験してきたばかり。深夜だとしてもペロッと食えそう。

「仕事落ち着いたら今度は一緒においでって陽子さんが言ってました」
「それは罠だ」
「だからなんでそんな捻くれた受け取り方するんですか。ラヴィにだって頑なに行かないし」
「大事な恋人が元上司からイジメられる姿をお前は見たいのか」
「イジメられませんって。陽子さんそんな人じゃないですよ」
「すっかり懐柔されやがって」

 そんなもんはされていない。ご迷惑をおかけしたお詫びにと言って夕食に招いてくれるような人と仲良くなって何が悪い。俺には何も迷惑かかってないのだがデザートまでしっかりよばれてきた。

「そこまで警戒することないのに」
「いくら警戒しといても足りねえ」
「昔は仕事のあと二人で一緒にメシ食い行ってたんでしょう?」
「断ったらイジメられる」
「なんなの」

 こんなデカい男をイジメようと思う人そんなにいないだろ。

 もらったお土産はハッシュドビーフ。それから二条夫妻おすすめのバゲットも持ってきなと言って一本持たされた。さらには陽子さんの手作りチョコトリュフまで。瀬名さんはハッシュドビーフ以上にチョコトリュフに警戒していたので、口に入れるとほろっと溶けていくスイーツはさっきから俺が食っている。
 前にもクッキーをもらったけれど、あれもサクサクで美味しかった。元々お菓子作りに興味はなかったらしい。二条さんが料理するのを見ているうちに似たようなことをやってみたくなったそうだ。

 基本から入り次第にアレンジのコツも覚えて今ではすっかりお菓子作り名人。
 このチョコトリュフは陽子ちゃんじゃなきゃ絶対に作れない。そう言って二条さんは自分の奥さんを自慢していた。

「あの二人ってなんだかんだ息ピッタリですよね」
「ちょうどしっくりくるんだろ。主導権を握る女と尻に敷かれる男の家庭が上手くいくってのは昔から言われてる」

 昔から言われてきたことであって現代でも同じように言われているなら間違っていないことも多い。
 あの店に行くか行かないかによって陽子さんの未来は変わっていただろう。一本だった道に分かれ道を作り、新しく開いた道へと進ませたのがキューピッドたるこの男。

 大通りからほんの少し逸れればあの店に辿り着くけど、それを知らなければ本当にそのまま目の前を通り過ぎてしまう。
 実際に陽子さんは通り過ぎていた。しかしその進行方向を、瀬名さんがちょっとだけ変えさせた。

「……これは俺の考えすぎかもしれませんけど、そうなるって見越して陽子さんとラヴィに行ったんですか?」
「なにが」
「店の立て直し狙ってた?」
「あ? いや、まさか。あの店に入り浸りになるところからすでに予想外だった」

 顔をしかめて全否定された。それで少しほっとした。
 俺はなんでもこの人の思う通りに動かされて今こうなっているから、もしやと一瞬思ったけれどもさすがに本物の神ではなかった。

「泣き言ほざいてた野郎のメシでも食いに行ってやるかと思っただけだ。上司が会社辞めるなんて言い出すことになるとは一ミリも想定してねえ」
「どれくらいで退職決めたんです?」
「三ヵ月と経たず」
「え?」
「引継ぎだなんだと色々あったから実際に辞めたのはもう少し後だけどな」
「……思い切りが良すぎません?」
「度胸がすげえよ。一度やると決めたことなら行動に移すのも早い人だ」
「かっけぇ……」
「男の多い部署だったがあの人は誰よりも男前だった」

 しかも実際に建て直したのだから完全なる武勇伝だ。そういうのが職業の人であるならば相応のお金を取れる成果だ。
 そのうえ陽子さんは安全な戦略会議室から助言を言うだけにとどまらず、戦場に飛び込む戦士がごとく自分を雇えと言い迫り、首を縦に振らせるための計画まで事前に練っていった。

「陽子さんが作ったっていう……えっと、改善計画? その資料って瀬名さんも見たんですか?」
「あとになって隆仁の部屋で見た。仕事しながらあれだけの調査をいつの間にやってたんだか。あんな店に肩入れするよりコンサルにでも転職した方が社会のためではあっただろうな」
「よっぽど気に入ったお店だったんでしょうね」
「それはまあそうなんだろうが、それだけじゃねえよ多分」
「はい?」

 モゴッとまた一つチョコを頬張った。瀬名さんも銀色のスプーンに、やわらかく煮込まれたご馳走を乗せていた。

「店も料理も客入りの状況も条件がすべて同じだったとしてもだ。そこにいたのが隆仁じゃなければ、陽子さんがどういう選択してたかは誰にも分からない」

 思わずピタリと止まったこの口。しかしチョコはじんわりと溶けた。ビターなココアがほのかに効いて、口の中にはふわっと甘みが広がる。

 どれだけ美味い料理が出てきてどれだけお気に入りの店になっても、自分の人生を丸ごと賭けてまでその場所を守ろうと思えるだろうか。俺だったらきっと無理だ。飲食店が立て続けに潰れてきた場所に飲食店を構えようなどと思うことよりそっちの方がよっぽどギャンブル。
 そんなギャンブルを陽子さんはやった。単なるギャンブルにならないように、プロ顔負けの計画を立てて。

 同じ条件が揃っていても、そこにいるのが二条さんじゃなかったら。貸し切り状態の店の中で陽子さんがお喋りを繰り広げることも、原価を聞いてびっくりすることも、それに対してダメ出しすることも、もしかするとなかったのかもしれない。

 なんとなく流れでこうなった。最後に二人はそう言っていた。どうして結婚に至ったのだか、それはよく分からないのだそうだ。いつの間にかそうなっていて、家族になるのが一番自然だった。
 理由とか原因とかなぜとかどうしてとか、人間はしょっちゅう答えを求める。それらを常に明確にしておくことだけが、正解とは限らない。
 説明がつかないことは誰にでも起こる。そういうとき人は、なんとなくと言う。
 なんとなく。どうしてかは分からないけど。どういう訳か、隣を選んでる。

「……そっか」
「ああ」

 ようやくストンと腑に落ちた。陽子さんが惚れたのは料理だけでは決してなかった。
 美味しいのにお店なくなっちゃうんだ、残念。それだけで終わる可能性もあったはずだが陽子さんはそこまでで完結させず、それは行動に結びついた。
 美味しいだけならそうはならない。それを相性と言うのだろうか。もう少々ドラマチックに言うなら、運命などと、呼ぶのだろうか。

「……なんか急に恥ずかしくなってきました」
「なんでお前が恥ずかしがるんだ。恥ずかしのはあの夫婦だぞ」
「や、うん、はい。なんか……」

 チョコをつまむ手が止まった俺とはまったくもって対照的に、瀬名さんは仲良し夫婦おすすめのバゲットをちょうどいいサイズにちぎった。

「自分に思い当たる節でもあったか」

 さらりと聞かれる。視線を上げて、目に入ったその表情。微かに笑みが浮かんでいるのを、はっきりと見てしまった。
 少しぬるくなった紅茶をひと口。口の中のココア風味は消えない。それ以上にふんわり香る、やわらかい甘みが俺の中に残った。

「…………あったかもしれません」
「そうか。そりゃよかった」
「…………」

 確信した。やはりこの男は人外の何かだ。陽子さんの未来が見えたわけじゃなくても、俺のことは全部見えている。
 自分の身に何が降りかかろうと、俺がこの人とどうなろうと、今日も明日も無情なまでに世界は滞りなく巡る。人生とはそういうものだが、ほんの些細な物なり事なりで人の一生は大きく変わる。

 もう一個口に放り込んだチョコは、さっきよりもちょっと甘ったるく感じた。人外だろうとなんであろうとこうなってしまったものは仕方ない。
 どういう訳か、けれどどうしても。隣にいたいといつの間にか、願うようになっている。
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