貢がせて、ハニー!

わこ

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98.彼の電話が鳴りました。

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「うるせえ。もう切るぞ、しつこくかけてくんな。……あ? だから遥希は今寝てる」

 いいえ普通に起きています。

「大学とバイトで疲れてんだよ」

 そうでもない。晩メシいっぱい食べて元気。

「行かねえっての。遥希も俺もそこまで暇じゃない」

 俺は言うほど忙しくないけど。

「……あぁ? ふざけんなよ、あんな家に一人で行かせられるか。どうせ質問攻めにして困らせるだけだろ」

 俺だけ来させろって話かな。

「まあ、そりゃ……キキココにはな。会いたがってる。けどとにかく今は無理だ。またそのうち二人で行く。……いや、だから寝てんだよ」

 いいえ俺は起きていますよ。


 スマホ片手に顔をしかめたままさらに少々話してから鬱陶しそうに切られた通話。瀬名さんは投げ落とす勢いでボフッとベッドにスマホを放った。
 隣で深々とこぼされた溜め息。ほんの数分でこの疲れ方。グレープフルーツが乗った白い皿を瀬名さんの方にそっと寄せた。

「グレープフルーツ食います?」
「食う……」

 瀬名さんのスマホに瀬名さんのお父さんから着信が入ったのはさっきだ。
 一回目はしれっとシカトしていた。すると俺のスマホが鳴った。表示を見れば瀬名さんのお父さんで、もちろんすぐに出ようとしたもののガシッとこの人が俺の手を止めた。強制的に居ないふりをさせられ、そのあと再び瀬名さんのスマホが鳴り響き、それでとうとう観念したのだろう。心底面倒くさそうな顔をして実の親からの電話に応じていた。

 なんやかんやと言い合っているのは隣で座り込んでいる俺にも分かった。瀬名さんのおみやげのデカいグレープフルーツがお店みたいに美しく剥けたのでそれをモグモグ食いながら、気怠そうにベッドにもたれかかってイライラした声をスマホの向こうに届ける瀬名さんを見守っていた。

 柑橘類の強い匂いにふんわりと誘われる。一つ飲み込むともう一つ欲しくなりローテーブルの上に繰り返し手が伸びる。
 二又フォークを手放すことなく一人でパクパクしていたせいで皿の上にこんもりしていた薄黄色はずいぶんと減ってしまったが瀬名さんの分はちゃんと残っている。その一つをこの人もモグッと食った。

「……酸っぱさが染みる」
「これかなり甘い方だと思いますけど。ダディと話すのそんな疲れる?」
「ちょっと待て。なんだダディって」
「ダディって呼んでって言われたので」
「呼ばなくていい。絶対にやめろ。マユちゃんさんとか聞かされるだけで十分だ。つーかそんなしょっちゅう電話してんのか」
「十日にいっぺんくらい?」
「ここまで仲良くなるとは……」

 瑞々しいグレープフルーツをまた一つ頬張った。酸味と甘みの加減が最高。黄色の厚い皮を削いで薄皮を綺麗にはがして果汁をほぼ無駄にすることなく果肉を見事剥き出しにさせるまでの労力を惜しまなかった甲斐がある。
 細っこい二又のフォークをもう一度プスッと果肉に突き刺した。それを瀬名さんの口元に持っていけばこの人もおとなしくパクリと。面倒くさがらずにちゃんと剥いてよかった。

「……恋人の親と喋ってて楽しいか」
「楽しいですよ。最初は緊張しましたけど。今じゃうちの親と話すより瀬名さんのご両親との方が断然喋ってます。母さんからはたまに連絡きますけど親父とは家出てから本当に一回も話してないんで」
「うちの親父とは仲良くなっといて自分の親父さんとは仲悪いのか?」
「別に仲悪いって訳では……ただちょっと何考えてるか分かんないんですよ。無口だし」

 うちの親父を一言で表現するとするならこうだ。寡黙。これだけでおおよそを語れる。

「親父さんは何やってる人なんだ?」
「教師です。高校教師」
「ああ……そうなのか。そうか、教師……。あ、だからお前家庭教師やってんのか」
「いえそれは関係ないです」

 ブラックバイトに捕まらないように細心の注意を払った結果だ。

「昔から真面目一辺倒って言うか、仕事でいつも帰り遅くて家にいても飲まないし喋んないし」
「厳しいのか?」
「いやぁ、それもなんつーか……怒鳴られた記憶は確実にないです。ていうか大声出す人じゃないです。なんかやらかしても静かに叱られて終わりって感じで。むしろ俺に興味なさそう」
「そんなことねえだろ。一人っ子じゃ余計に」
「いやぁ……」

 仲が悪い訳ではない。決して嫌いなわけでもない。ただどうすればいいのかが分からないだけだ。
 何不自由なく暮らしてこられたのは間違いなく親父のおかげであって、現在は進学も一人暮らしも全部自由にさせてくれている。不満なんて感じようもないが、しかしどうすればいいかは分からない。じっくり話した事などないから親父が何を考えているのか俺にはまったく知りようもない。

「高校受験とか大学受験とか親には言うじゃないですか、希望進路とかそういうの。教師やってるしやっぱその辺はさすがに気になるかなって思ってたんですけど、好きにしなさいとしか言われないんですよ。どんな相談してもそれしか返ってこない。学校の面談に来るのも母さんでしたし」
「それだけ信用されてるって事だろ。現にお前は毎日学業に励んでるわけだしな」
「んー……進学しないで就職しますって俺が急に言い出したとしても好きにしなさいって言ったんじゃねえかな」
「信用度百パーじゃねえか」
「うーん……」

 これが信用なのかどうかさえも俺には分からない。
 家にいないことが多かった。家にいても仕事部屋にこもっていた。俺もまだまだチビだった頃には親父に構ってもらいたくて、そばをチョロチョロしていたけれどそのたびに母さんが止めに入った。
 お父さんはお仕事中でしょ。窘められ、仕事の邪魔をしないよう静かにしていることを覚え、けれどそれだとつまらないから外に出て駆けずり回っていると相手をしに来てくれるのがじいちゃんだった。ガーくんもいた。遊び場もたくさんあった。

 けれど親父と遊んだ記憶はない。釣り仲間は師匠たるじいちゃん。うちにはグローブも野球ボールもない。キャッチボール以外で遊んでくれる相手ならいたし、一人遊びも嫌いじゃなかった。
 邪魔をしてはいけないらしいから次第に距離をはかるようになり、それで今だ。親父と何を喋ったらいいかすら分からない息子が出来上がった。

「……俺と親父は瀬名さんとダディみたいな関係には一生なれないと思います」
「ダディって言うのやめろ」
「ガキの頃からずっとそうです。母さんの誕生日は覚えてるけど親父の誕生日は自信ないし。母の日は分かるけど父の日は分かんない」
「男親ってのはそういうもんだろ」
「そういうもんかな……」
「俺の知ってる限りでは」

 チビッ子時代を振り返ってみても、何か困ったことがあった時に呼ぶのは親父じゃなくて母さんだった。やらかして真っ先に謝りにいくのも親父じゃなくて母さんだった。
 そうだな。男親ってそういうものだ。子供はだいたいお母さんを呼ぶ。

 だが瀬名さんのお父さんはうちと違ってフランクなお人柄。父親から息子に電話がかかってくるという現象が起こることも今はじめて知った。

「瀬名さんとこは昔から仲よし?」
「俺と親父が仲いいように見えたか」
「ええ。すごく」
「……見解の相違はともかく、今の状態になったのは働くようになってからだ。俺も学生の頃まではお前とそう変わらなかった」

 瀬名家ですらそうなるのか。ならば仕方がないような気もしてくる。どこのお宅でも父と息子はこんなものなのかもしれない。
 二又のフォークを瀬名さんも自分で手にした。プスッと刺されたグレープフルーツはそれだけでも爽やかな香りが広がる。

「会社に勤めて初めて帰省するってなった時にな、おふくろに言われたんだよ。酒持ってくる気ならウイスキーにしとけって」
「酒持っていくつもりだったんですか?」
「いいや全く。菓子折りかなんか買ってこうかと思ってた」

 定番で無難なやつ。俺が今後社会人になって帰省するとなった時にも同じようなお土産を選定するだろう。

「親父の酒の好みなんて知らなかった。手土産の候補に酒を入れたとしても多分適当にビールか焼酎でも選んでただろうな。だからまあ、あの時あの助言に従ったのは正解だった」
「喜ばれたんだ?」
「かなり。正直こっちが驚いた。それで一緒に酒飲むことになって……それからだ。それより前までは今よりももっとぎこちないとこの方が多かったと思う」

 あいつはいつも付き合いが悪い。瀬名さんのお父さんがそう言っていた。今もなかなかに素っ気ないが昔は今以上だったのだろうか。

「俺と親父が飲んでる時、ルルとキキがずっとそばにいたんだよ」
「見張られてたの?」
「かもな」
「二匹は安心したでしょうね」
「親父とサシで飲めるってとこをルルにもちゃんと見せてやれた」

 男と女の違いというのはこういうところにそれとなく現れる。瀬名さんのお母さんは気づいた。二匹の女の子たちも気づいた。そのおかげで瀬名さんはお父さんと飲めるようになった。
 父親との接し方は簡単じゃない。あれだけフランクなお父さんを持つ瀬名さんだってそうだったのだから、これはきっと俺達だけに限られた話ではないはずだ。世の中の、少なくともこの国の傾向として、親父との関係って本当に難しい。

「ガーくんは間に入ってくれそうにないしな……」
「お前から電話でもかけてみたらどうだ?」
「え……親父に?」
「ああ」
「…………無理です」
「その気持ちも分からなくはねえが」

 挨拶くらいしか思いつかないから五秒後にはお互い無言だろう。それはもう悲惨な大事故だ。実家にいた頃も母さんが同じ部屋にいてようやく会話が成り立つくらいだった。

「うちの親父よりまだダディの方がこっちから電話掛けやすいと思います」
「だからダディってのはよせ。マユちゃんさんより薄気味悪い」
「じゃあゆーちゃんさんって呼ばねえと」
「ああ?」
「正確にはダディかゆーちゃんかユースケくんって呼んでねって言われたんです。マユちゃんだけズルいから僕もって」
「いい年して何やってんだあの親は」
「ユースケくんさんの方がいいかな?」
「どれもやめろ」
「ってあなたは言うだろうって言ってました」
「あのクソ親父」

 瀬名家の親子はこんなに仲良しだ。

「放っといてくれるくらいの方が息子としてはありがたいだろ。うちの親父なんかあの感じだぞ。どうせさっきもおふくろいなくて暇すぎてかけてきたに違いねえ」
「マユちゃんさんいないの?」
「女子会に行ってるらしい。月一で開催してる」
「楽しそう」
「楽しみすぎだ」

 マユちゃんさんが若々しくて可愛らしいのはそこら辺が秘訣かな。

 二人でパクパクしていたからグレープフルーツも残り一つとなった。最後の一つを瀬名さんが俺に譲ったその時、再びブーブー言ったこの人のスマホ。鳴り響いたそれに手を伸ばし、瀬名さんはディスプレイに目を落とした。

「…………」

 サッと、顔が死んだのを見た。

「……すまん」
「いえいえ。どうぞ」

 最後の一つをモグモグしている俺の横で通話に応じたこの人。第一声はこの上なく、か細い。

「……はい。……はい。お久しぶりです。……いえ、とんでもない。はい。ええ……え? ああ、いえ。うちには……」

 なるほど。この感じは陽子さんだな。電話越しにもかかわらず低姿勢。
 自分のお父さんと自分の元上司とでその態度はえらい違いだ。

「いえ。……いえ、本当に。来てません。はい。もし来たとしても即刻追い返します。……ええ。……はい? いえいえ、まさか」

 二条さんが逃亡中なのだろう。また夫婦喧嘩でもなさっている模様。
 お茶の入ったマグカップをのほほんと両手で持ったまま瀬名さんの挙動を眺めた。

「はい。分かりました。……ええ。……はい。……了解です。……はい。お疲れさまです」

 ほんの数分で通話は終了。力なくベッドに放られたスマホ。
 匿っていると疑われた男は表情も硬いままだ。瀬名さんのマグカップを隣へとそっと寄せてやる。

「お茶飲みます?」
「飲む……」

 一気に三歳くらい老けた。

「陽子さんですよね?」
「ああ。またいつものだ」
「二条さんはどちらに?」
「俺が知るか。とんだとばっちりだよ」

 これ以上は電話を受け付けたくないのだろう。思い出したように素早くスマホを取って電源をパッと落としていた。
 私用のスマホを眠らせたところで仕事用のスマホは生きているが、二条さんからのヘルプを遮断したいだけっぽいから本人的にはこれが最善。しかし相手は二条さん。

「そろそろここ来るんじゃないですか?」
「……コンビニスイーツ食いたくねえか」
「いいえ。出かけずにゆっくりしてたいです」
「たまには俺に協力しろよ」
「俺は中立を好みます」

 今日一番の疲れた顔をされた。
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