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94.花を買いにくる男
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「お、ハルじゃん。愛してるよ」
「ハルー。愛してるー!」
「愛してるぜーハルーっ」
「なあハル、愛してるんだってな。俺も愛してるよ」
「あたしもー。愛してるよハル」
「あ、ハルだ。おーいッ。ハルーっ! 愛してる!」
「アイ・ラブ・ハル!!! アイ・ラブ・ハル!!!」
「ハル! ジュテーム!」
「ティ・アモっ。はるッ。ティ・アモ!!」
「ウォーアイニー、イャォシー」
「………………」
大学でダチと擦れ違うたびにことごとく同じことばっかり言われる。これ見よがしの他言語もムカつく。ティアモってどこだよイタリア辺りか。遥希をわざわざ中国語で発音してみるのもやめろ。
隣でニコニコしている浩太は、ポンッと俺の肩に手を置いた。
「休み明け早々人気者だねハルくん」
「くたばれこのクズ」
バコッと浩太の尻めがけて叩きつけてやったトートバッグ。中身はさほど入っていなくて重量もないから間抜けな音がした。今日が大学後期日程の初日だったことに感謝しろ。
浩太は依然としてニコニコニコニコと。その笑顔が気に障ってもう一発尻にバコッとやった。合宿中にも色んな奴らから嫌がらせじみた電話を受けていたのに、大学に来てまでまだこんなにも。
「ふざけんなよお前。どんだけ言いふらした」
「できる限り」
「吊るすぞテメエ」
自分のうっかりが非常に悔やまれる。どうしてあの時電話の発信者をちゃんと確認しなかったんだ。どうしてこいつはよりにもよってあのタイミングでかけてきたのか。
いくら考えてももう遅い。完全な黒歴史になった。
浩太のクソ野郎はダチ連中にできる限り言い回った。浩太のクソ野郎は俺の知り合いの中で最も交友関係の広い奴だ。浩太のゴミクソ野郎のおかげで俺は朝から恥さらしもいいところ。
「なんで俺がこんな……」
「まあまあまあ、みんな嬉しいんだって。ハルにも人並みにそういう感情はあったんだと思うと感慨深いって言うか」
「お前ら俺をなんだと思ってんだ」
「クール系?」
「バカにしてんのか」
「愛してるんだよ」
腹っ立つ。
「そんなことより合宿終わったあと彼女さんとちゃんとイチャイチャした?」
悪意十割の不意打ちでしかない聞き方。悪意十割と分かりつつも前に進んでいた足は止まりかけた。
チラリと目をやれば反対にのぞき込んでくる。それとなくソロッとそらした視線。
「……してない」
「ほうほう、なるほど。二秒の間っていうのがまた生々しいね」
「してねえからな」
「はいはいはい。なるほどなるほど」
今度こそ渾身の力を込めて、浩太の尻をバゴッとぶっ叩いた。
***
大学で一日中さらし者になっていたせいで普段の五倍くらいは疲れた。
融通の良さと距離的なメリットだけでバイト先として選んだ花屋だがこうなってみるととても有りがたい。色とりどりの花たちに囲まれブスッとした気分も多少は晴れる。
鉢植えや大き目のプランターも日中は外に出してある。それを店内に運び込んでいるとやってきたのはサラリーマン風の男性。見慣れたスーツ姿に顔を上げ、プランターからも両手を離して姿勢をいったん元に戻した。
「いらっしゃいませ」
「どうも。こんにちは」
にっこりと挨拶してくれるこの人はここの花屋の常連さんだ。平日の会社帰りに来ているようで、俺がシフトに入っている時間帯とこの人の来店時間はしばしば重なる。
初めて来てくれた時もそうだった。夏休みが始まる前のころ、夜に差し掛かる少々手前の時間にこの人はやってきた。
最初はただ店の前にいた。一度は通り過ぎ、けれどまた戻ってきて、ガラス越しに店内をチラチラ見ていたのに気が付いた。
ちょっと花を眺めたくなってフラッと立ち寄ったというだけのお客様未満な相手である場合、こちらから入店を促す真似をするとそそくさ逃げてしまうパターンが多い。興味があり、なおかつ購入の意欲が少なからずあるものの、花屋という場に馴染みがないため入るのを躊躇してしまっている見込みお客様である場合、どうぞと少々声をかけるだけでお買い上げに繋がることが多い。この花屋の店長の持論だ。
この男性はどちらだろうか。ただちょっと通りがかっただけの人ならわざわざ戻ってこないような気もする。外観からして女性好みで可愛らしい雰囲気の花屋だから男一人では入りにくいのかもしれない。
花屋バイト初心者だった俺も同じような気分を初日に味わったから、数秒程度迷った結果それとなく声をかけてみた。鉢植えを中に入れるふりをしながら、よかったら中でご覧になってくださいと。
「奥にもいろいろありますよ」
「あ……は、はい……」
話しかけたその男性はオドオドした様子の人だった。自信がなさそうな、ちょっとモジモジとして、強気なリーマンを見慣れている身としてはそれが少し新鮮に思えた。
どうやらこの人はお客様未満ではなく見込みお客様だったようだ。心なしか縮こまりながらも逃げていくことなく中に入ってくれた。
ぎこちない雰囲気ながらも店の中の花を一種類ずつ丁寧に見ていくその人に、さらに声をかけたのは単なる営業目的じゃない。気に入る花をひとつでも、見つけてくれたら嬉しいなって。
「プレゼントですか?」
「あ……はい。そうです……」
タカとかフクロウを気にするネズミみたいにあちこちずっとキョロキョロしている。少なくとも花に詳しそうな様子ではない。俺も初心者で詳しくはないけど、店長とスタッフさんがお客さんに対してやっていることならここで見てきた。
ちょうどその人の視線の先にあった、透明なケースをカラカラと開いた。手で示したのは黄色のガーベラ。ついほんの一時間くらい前に店長がお客さんにオススメしていた。
「こちらはいかがですか?」
「え……」
「ガーベラです。当店でも人気でして。花束もお作り出来ますが、一本からでも大丈夫ですよ」
「ぁ……あ、の……では……これを、すみません……一本だけ」
その人は申し訳なさそうに小声で言った。年上だけどどうにも可愛くて、思わずニコっと返していた。
一輪だけの花の購入にこういう反応をするお客さんも初来店だと特に多い。けれどもそんなことはない。
一本だろうと二本だろうと美しいものは美しく、花を贈るときに大切なのはその本数でも豪勢さでもない。心を込めた一輪のプレゼントだ。その一輪をここで選んでもらえるのは嬉しいと店長が常々言っている。気張りすぎず、それでいて気持ちは伝わり、贈られる相手だって嬉しいはずだと。
「お包みしますね。リボンのお色選んでいただけますか?」
「あ、はい……」
カウンターに案内する間もこのお客さんはひたすら畏まっていた。最初から最後までとことん腰が低い。そしてどことなく気が弱そう。それがこの人に初めて接客した、あの日に俺が受けた印象だった。
しかしだ。もしや本当にただ見ていただけで花を買う予定なんかなかったのでは。
ハタと気づいたのはその夜で、うっかり押し売ってしまったかもしれないと思ったが罪悪感は三日後に消えた。
腰の低いサラリーマンらしきその人はまた来てくれた。二回目も入店を躊躇していたから、声を掛けたら気恥ずかしそうに笑った。
あれから二ヵ月くらい過ぎても腰が低いのは変わらない。しかし今ではゆったりした笑顔をしばしば見せてくれるようになった。
温和で真面目そうで優しそうな人だ。彼女さんも幸せな人だろう。気合いの入った花束となると困惑する人も割かし多いが、一本巻きは受け取る側も気軽で贈り物としてまさに最適。
「いつもので?」
「はい。お願いします」
黄色のガーベラを一本。リボンの色はクリーム。この常連さんの注文内容は最初のあの時からずっとこれ。
足しげく花屋に通う客には女性陣もすぐ興味を持ちだした。この人の薬指に指輪の存在がないことには店長がいち早く気付き、ならば花を贈る相手は彼女さんに違いないと。大盛り上がりしていた女子トークには俺も強制参加させられた。人の恋愛事情を想像しながらはしゃげるここの花屋はとにかく平和だ。
ピッと結んだクリーム色のリボン。ガーベラの黄色とも良く馴染む。
色合いがふんわりとしていて花びらの形もかわいいそれを、お客さんにそっと差し出した。
「お待たせいたしました」
「どうも。ありがとうございます」
表情を緩めながら、ちょっとだけ気恥ずかしそうに、それ以上にとても大事そうに一本のガーベラを受け取ってくれる。最初からずっとこの雰囲気だった。丁寧で優しい。口調は静か。飲食店の店員さんに横柄な態度を取っちゃうタイプの何サマ野郎とはまったくの真逆。
常に低姿勢で物腰柔らかなこのお客さんは花屋内でも密かな人気で、この人が来た時はなんとなく流れで俺が対応するようになってしまったが、嬉しそうに黄色のガーベラを受け取ってくれるのを店の皆はコソコソ見守る。当店は本日も平和です。
「いつもありがとうございます」
「とんでもない。こちらこそ」
俺が頭を下げればそれ以上にぺこりと腰を折ってくる。丁寧なお客さんを店の外まで見送った。
残暑の頃の、日が沈みきるよりほんの少し前の時間帯。一輪の花を持った夕方のサラリーマンの、後ろ姿をほっこりと眺めた。
「そのお客さんが来てくれるとなんっか癒されるんですよ。花屋のみんなからも大人気ですし」
「……そうか」
「彼女さんどんな人なんだろう。毎回一途にガーベラだから気に入ってくれたのかな。切り花もあれなら本望でしょうね」
「…………」
花屋のシフトに入った日恒例。瀬名恭吾のスペシャルハンドマッサージ中。丁寧に揉み込まれながら今日の出来事を話して聞かせた。
クイッと、親指の付け根を擦られた。力の加減が絶妙に気持ちいい。瀬名さんの技術はどんどん上達していた。プロにも挑めるんじゃねえかってくらいに日々腕を磨いている。
「なあ」
「うん?」
「……いくつだ」
「はい?」
「その客。年は」
「年? いや、知る訳ないじゃないですか。名前だって知らないのに」
「だいたいでいい。見た感じ」
「えぇ……二十代……うーん……三十前後くらい?」
「…………」
グッと手の平の中心を押された。痛い。今のはなんかちょっと痛い。
入れすぎた力に気が付いたのか、指先の加減を弱めてこの人は俺の手をくちゅっと握った。そして言った。
「花屋のバイトは今すぐ辞めろ」
「は?」
「お前のストライクゾーンだろその男」
思わずパチパチと三回まばたき。何をおっしゃっているのだろうかこの人。
「……俺のストライクゾーンに野郎が存在したことはありません」
「どの口がほざいてんだ」
「この口が申し上げてますよ」
「三十前後の男なんかゾーンどころかど真ん中じゃねえか」
「ほんと何度も言ってますけど俺は別にオジサン趣味とかじゃないですってば」
「危険だ……」
「聞けよ」
人の話を聞くのは上手いはずなのに妙なスイッチが入るとこうなる。
「俺と社会人男性の組み合わせで心配することなんて何もないでしょ」
「お前は自分を分かってない。明日防犯ブザー買ってきてやる」
「なんで」
「周りのリーマンはとりあえずみんなオオカミだと思っとくくらいでちょうどいい。お前の顔とお前の尻は最高に男の目を引くからな」
「あなたを通報したくなってきました」
「そのうえちょっと菓子さえやればいくらでもホイホイついてくる」
「自分の恋人をそんな貶します?」
「危険だ……」
「だから危険じゃねえって。なんだってそんな発想になっちゃうんですか」
「お前が俺と付き合ってるからだよ」
「オジサンだから付き合ってるわけじゃねえよ」
断じてお菓子に釣られたわけでもオジサンだから選んだわけでもない。というよりそもそも瀬名さんにはオジサン感がほぼほぼない。オッサンとかジジイとかたまに投げつけるけど実際にはお兄さんが正解だろう。しょうもないセクハラ発言を除けば、見た目も中身もやることもなすこともほとんどにおいて若者カテゴリーだ。
健康なお兄さんは握力も強いのでマッサージはやはりいささか痛い。いつもより確実に力が入っている。これはこれでまあ気持ちいいが、普段の瀬名さんがどれだけ丁重に俺を扱っているかが分かる。
「また俺を疑ってるんですか?」
「疑ってない。心配してる」
「つまり疑ってるんですね」
「疑ってはいない」
「疑ってんじゃん」
「疑ってない。お前が心配で泣きそうなだけだ」
「うざ」
「ウザいとはなんだ」
泣いてるリーマンとか勘弁してくれよ。
「心配性なあなたに念のためお知らせしておきますが俺はそんなフワフワした男じゃありませんよ」
「わざわざお知らせいただきどうも。俺を放置してまで同郷のショウくんとメシ食いには行くけどな」
「ねちっこいなぁ」
「ねちっこいとか言うな」
「めんどくせえな」
「めんどくさいもやめろ」
だってこんなにも面倒くさい。
「変なところで繊細なんだから」
「俺のガラスハートをナメんな」
「それ威張って言うことですか」
フイッとそっぽを向かれた。どこのお子様か。
ネチネチしていてもマッサージはちゃんとやってくれる。普段よりはやや強いもののしっかりと丁寧に揉み込まれていった。
ガラスハートでめんどくさくても俺への労わりだけは欠かさない。指を一本一本ほぐされた後は、下からこの人の手を緩く握った。
「仮に俺がおじさんシュミでも目移りしてる余裕なんかないですよ」
「そうかよ」
「ええ。俺にはちゃんとあなたがいるんです。相手がオオカミだったとしてもあなた以外には触らせません」
ピタリと、この人の手が止まった。大きなその手とつながっている、自分の手には力を込めた。
お菓子をもらってついてっちゃたのはそれがこの人だったからだ。この顔が好きだし、この人が好きだし、花屋バイトをしてきた学生を気遣ってくれるような人だし。わざわざマッサージの技術まで磨き、こっちが不意打ちでやんわり手を握ればげっ歯類みたいに固まっちゃう大人。
ヌルヌルした手でヌルヌルした手を今度こそクチュッとはっきり握った。些細な物音を逐一捉えて動作を停止させるネズミ的生き物に成り果てた大人の男を、両手でしっかり捕獲したまま脅かさないようにそっとのぞき込む。
寸前まで不貞腐れていた男と無理やり目を合わせてやった。余裕のある大人のくせしてところどころナイーブな瀬名さんは、突如。ガバッと。
「ぅおっ……」
ナイーブな男だが復活も早い。予告なしに抱きつかれて小さく声を上げた時には体がグラっと傾いている。
ばふッと背中から押し倒された。さっきまで泣きそうなんて言ってたの誰だよ。咄嗟にラグに肘をついて体重を支えた俺の上からミシッと抱きついてくるこの男。重い。
「瀬名さん、ちょッ……」
「感動した」
「わかっ……分かったから! 重いってッ、ラグ汚れんだろ……っ」
「どうせこのあとベタベタになる」
「くそばかッ!」
チョロすぎる男というのも場合によっては考えものだ。
「ハルー。愛してるー!」
「愛してるぜーハルーっ」
「なあハル、愛してるんだってな。俺も愛してるよ」
「あたしもー。愛してるよハル」
「あ、ハルだ。おーいッ。ハルーっ! 愛してる!」
「アイ・ラブ・ハル!!! アイ・ラブ・ハル!!!」
「ハル! ジュテーム!」
「ティ・アモっ。はるッ。ティ・アモ!!」
「ウォーアイニー、イャォシー」
「………………」
大学でダチと擦れ違うたびにことごとく同じことばっかり言われる。これ見よがしの他言語もムカつく。ティアモってどこだよイタリア辺りか。遥希をわざわざ中国語で発音してみるのもやめろ。
隣でニコニコしている浩太は、ポンッと俺の肩に手を置いた。
「休み明け早々人気者だねハルくん」
「くたばれこのクズ」
バコッと浩太の尻めがけて叩きつけてやったトートバッグ。中身はさほど入っていなくて重量もないから間抜けな音がした。今日が大学後期日程の初日だったことに感謝しろ。
浩太は依然としてニコニコニコニコと。その笑顔が気に障ってもう一発尻にバコッとやった。合宿中にも色んな奴らから嫌がらせじみた電話を受けていたのに、大学に来てまでまだこんなにも。
「ふざけんなよお前。どんだけ言いふらした」
「できる限り」
「吊るすぞテメエ」
自分のうっかりが非常に悔やまれる。どうしてあの時電話の発信者をちゃんと確認しなかったんだ。どうしてこいつはよりにもよってあのタイミングでかけてきたのか。
いくら考えてももう遅い。完全な黒歴史になった。
浩太のクソ野郎はダチ連中にできる限り言い回った。浩太のクソ野郎は俺の知り合いの中で最も交友関係の広い奴だ。浩太のゴミクソ野郎のおかげで俺は朝から恥さらしもいいところ。
「なんで俺がこんな……」
「まあまあまあ、みんな嬉しいんだって。ハルにも人並みにそういう感情はあったんだと思うと感慨深いって言うか」
「お前ら俺をなんだと思ってんだ」
「クール系?」
「バカにしてんのか」
「愛してるんだよ」
腹っ立つ。
「そんなことより合宿終わったあと彼女さんとちゃんとイチャイチャした?」
悪意十割の不意打ちでしかない聞き方。悪意十割と分かりつつも前に進んでいた足は止まりかけた。
チラリと目をやれば反対にのぞき込んでくる。それとなくソロッとそらした視線。
「……してない」
「ほうほう、なるほど。二秒の間っていうのがまた生々しいね」
「してねえからな」
「はいはいはい。なるほどなるほど」
今度こそ渾身の力を込めて、浩太の尻をバゴッとぶっ叩いた。
***
大学で一日中さらし者になっていたせいで普段の五倍くらいは疲れた。
融通の良さと距離的なメリットだけでバイト先として選んだ花屋だがこうなってみるととても有りがたい。色とりどりの花たちに囲まれブスッとした気分も多少は晴れる。
鉢植えや大き目のプランターも日中は外に出してある。それを店内に運び込んでいるとやってきたのはサラリーマン風の男性。見慣れたスーツ姿に顔を上げ、プランターからも両手を離して姿勢をいったん元に戻した。
「いらっしゃいませ」
「どうも。こんにちは」
にっこりと挨拶してくれるこの人はここの花屋の常連さんだ。平日の会社帰りに来ているようで、俺がシフトに入っている時間帯とこの人の来店時間はしばしば重なる。
初めて来てくれた時もそうだった。夏休みが始まる前のころ、夜に差し掛かる少々手前の時間にこの人はやってきた。
最初はただ店の前にいた。一度は通り過ぎ、けれどまた戻ってきて、ガラス越しに店内をチラチラ見ていたのに気が付いた。
ちょっと花を眺めたくなってフラッと立ち寄ったというだけのお客様未満な相手である場合、こちらから入店を促す真似をするとそそくさ逃げてしまうパターンが多い。興味があり、なおかつ購入の意欲が少なからずあるものの、花屋という場に馴染みがないため入るのを躊躇してしまっている見込みお客様である場合、どうぞと少々声をかけるだけでお買い上げに繋がることが多い。この花屋の店長の持論だ。
この男性はどちらだろうか。ただちょっと通りがかっただけの人ならわざわざ戻ってこないような気もする。外観からして女性好みで可愛らしい雰囲気の花屋だから男一人では入りにくいのかもしれない。
花屋バイト初心者だった俺も同じような気分を初日に味わったから、数秒程度迷った結果それとなく声をかけてみた。鉢植えを中に入れるふりをしながら、よかったら中でご覧になってくださいと。
「奥にもいろいろありますよ」
「あ……は、はい……」
話しかけたその男性はオドオドした様子の人だった。自信がなさそうな、ちょっとモジモジとして、強気なリーマンを見慣れている身としてはそれが少し新鮮に思えた。
どうやらこの人はお客様未満ではなく見込みお客様だったようだ。心なしか縮こまりながらも逃げていくことなく中に入ってくれた。
ぎこちない雰囲気ながらも店の中の花を一種類ずつ丁寧に見ていくその人に、さらに声をかけたのは単なる営業目的じゃない。気に入る花をひとつでも、見つけてくれたら嬉しいなって。
「プレゼントですか?」
「あ……はい。そうです……」
タカとかフクロウを気にするネズミみたいにあちこちずっとキョロキョロしている。少なくとも花に詳しそうな様子ではない。俺も初心者で詳しくはないけど、店長とスタッフさんがお客さんに対してやっていることならここで見てきた。
ちょうどその人の視線の先にあった、透明なケースをカラカラと開いた。手で示したのは黄色のガーベラ。ついほんの一時間くらい前に店長がお客さんにオススメしていた。
「こちらはいかがですか?」
「え……」
「ガーベラです。当店でも人気でして。花束もお作り出来ますが、一本からでも大丈夫ですよ」
「ぁ……あ、の……では……これを、すみません……一本だけ」
その人は申し訳なさそうに小声で言った。年上だけどどうにも可愛くて、思わずニコっと返していた。
一輪だけの花の購入にこういう反応をするお客さんも初来店だと特に多い。けれどもそんなことはない。
一本だろうと二本だろうと美しいものは美しく、花を贈るときに大切なのはその本数でも豪勢さでもない。心を込めた一輪のプレゼントだ。その一輪をここで選んでもらえるのは嬉しいと店長が常々言っている。気張りすぎず、それでいて気持ちは伝わり、贈られる相手だって嬉しいはずだと。
「お包みしますね。リボンのお色選んでいただけますか?」
「あ、はい……」
カウンターに案内する間もこのお客さんはひたすら畏まっていた。最初から最後までとことん腰が低い。そしてどことなく気が弱そう。それがこの人に初めて接客した、あの日に俺が受けた印象だった。
しかしだ。もしや本当にただ見ていただけで花を買う予定なんかなかったのでは。
ハタと気づいたのはその夜で、うっかり押し売ってしまったかもしれないと思ったが罪悪感は三日後に消えた。
腰の低いサラリーマンらしきその人はまた来てくれた。二回目も入店を躊躇していたから、声を掛けたら気恥ずかしそうに笑った。
あれから二ヵ月くらい過ぎても腰が低いのは変わらない。しかし今ではゆったりした笑顔をしばしば見せてくれるようになった。
温和で真面目そうで優しそうな人だ。彼女さんも幸せな人だろう。気合いの入った花束となると困惑する人も割かし多いが、一本巻きは受け取る側も気軽で贈り物としてまさに最適。
「いつもので?」
「はい。お願いします」
黄色のガーベラを一本。リボンの色はクリーム。この常連さんの注文内容は最初のあの時からずっとこれ。
足しげく花屋に通う客には女性陣もすぐ興味を持ちだした。この人の薬指に指輪の存在がないことには店長がいち早く気付き、ならば花を贈る相手は彼女さんに違いないと。大盛り上がりしていた女子トークには俺も強制参加させられた。人の恋愛事情を想像しながらはしゃげるここの花屋はとにかく平和だ。
ピッと結んだクリーム色のリボン。ガーベラの黄色とも良く馴染む。
色合いがふんわりとしていて花びらの形もかわいいそれを、お客さんにそっと差し出した。
「お待たせいたしました」
「どうも。ありがとうございます」
表情を緩めながら、ちょっとだけ気恥ずかしそうに、それ以上にとても大事そうに一本のガーベラを受け取ってくれる。最初からずっとこの雰囲気だった。丁寧で優しい。口調は静か。飲食店の店員さんに横柄な態度を取っちゃうタイプの何サマ野郎とはまったくの真逆。
常に低姿勢で物腰柔らかなこのお客さんは花屋内でも密かな人気で、この人が来た時はなんとなく流れで俺が対応するようになってしまったが、嬉しそうに黄色のガーベラを受け取ってくれるのを店の皆はコソコソ見守る。当店は本日も平和です。
「いつもありがとうございます」
「とんでもない。こちらこそ」
俺が頭を下げればそれ以上にぺこりと腰を折ってくる。丁寧なお客さんを店の外まで見送った。
残暑の頃の、日が沈みきるよりほんの少し前の時間帯。一輪の花を持った夕方のサラリーマンの、後ろ姿をほっこりと眺めた。
「そのお客さんが来てくれるとなんっか癒されるんですよ。花屋のみんなからも大人気ですし」
「……そうか」
「彼女さんどんな人なんだろう。毎回一途にガーベラだから気に入ってくれたのかな。切り花もあれなら本望でしょうね」
「…………」
花屋のシフトに入った日恒例。瀬名恭吾のスペシャルハンドマッサージ中。丁寧に揉み込まれながら今日の出来事を話して聞かせた。
クイッと、親指の付け根を擦られた。力の加減が絶妙に気持ちいい。瀬名さんの技術はどんどん上達していた。プロにも挑めるんじゃねえかってくらいに日々腕を磨いている。
「なあ」
「うん?」
「……いくつだ」
「はい?」
「その客。年は」
「年? いや、知る訳ないじゃないですか。名前だって知らないのに」
「だいたいでいい。見た感じ」
「えぇ……二十代……うーん……三十前後くらい?」
「…………」
グッと手の平の中心を押された。痛い。今のはなんかちょっと痛い。
入れすぎた力に気が付いたのか、指先の加減を弱めてこの人は俺の手をくちゅっと握った。そして言った。
「花屋のバイトは今すぐ辞めろ」
「は?」
「お前のストライクゾーンだろその男」
思わずパチパチと三回まばたき。何をおっしゃっているのだろうかこの人。
「……俺のストライクゾーンに野郎が存在したことはありません」
「どの口がほざいてんだ」
「この口が申し上げてますよ」
「三十前後の男なんかゾーンどころかど真ん中じゃねえか」
「ほんと何度も言ってますけど俺は別にオジサン趣味とかじゃないですってば」
「危険だ……」
「聞けよ」
人の話を聞くのは上手いはずなのに妙なスイッチが入るとこうなる。
「俺と社会人男性の組み合わせで心配することなんて何もないでしょ」
「お前は自分を分かってない。明日防犯ブザー買ってきてやる」
「なんで」
「周りのリーマンはとりあえずみんなオオカミだと思っとくくらいでちょうどいい。お前の顔とお前の尻は最高に男の目を引くからな」
「あなたを通報したくなってきました」
「そのうえちょっと菓子さえやればいくらでもホイホイついてくる」
「自分の恋人をそんな貶します?」
「危険だ……」
「だから危険じゃねえって。なんだってそんな発想になっちゃうんですか」
「お前が俺と付き合ってるからだよ」
「オジサンだから付き合ってるわけじゃねえよ」
断じてお菓子に釣られたわけでもオジサンだから選んだわけでもない。というよりそもそも瀬名さんにはオジサン感がほぼほぼない。オッサンとかジジイとかたまに投げつけるけど実際にはお兄さんが正解だろう。しょうもないセクハラ発言を除けば、見た目も中身もやることもなすこともほとんどにおいて若者カテゴリーだ。
健康なお兄さんは握力も強いのでマッサージはやはりいささか痛い。いつもより確実に力が入っている。これはこれでまあ気持ちいいが、普段の瀬名さんがどれだけ丁重に俺を扱っているかが分かる。
「また俺を疑ってるんですか?」
「疑ってない。心配してる」
「つまり疑ってるんですね」
「疑ってはいない」
「疑ってんじゃん」
「疑ってない。お前が心配で泣きそうなだけだ」
「うざ」
「ウザいとはなんだ」
泣いてるリーマンとか勘弁してくれよ。
「心配性なあなたに念のためお知らせしておきますが俺はそんなフワフワした男じゃありませんよ」
「わざわざお知らせいただきどうも。俺を放置してまで同郷のショウくんとメシ食いには行くけどな」
「ねちっこいなぁ」
「ねちっこいとか言うな」
「めんどくせえな」
「めんどくさいもやめろ」
だってこんなにも面倒くさい。
「変なところで繊細なんだから」
「俺のガラスハートをナメんな」
「それ威張って言うことですか」
フイッとそっぽを向かれた。どこのお子様か。
ネチネチしていてもマッサージはちゃんとやってくれる。普段よりはやや強いもののしっかりと丁寧に揉み込まれていった。
ガラスハートでめんどくさくても俺への労わりだけは欠かさない。指を一本一本ほぐされた後は、下からこの人の手を緩く握った。
「仮に俺がおじさんシュミでも目移りしてる余裕なんかないですよ」
「そうかよ」
「ええ。俺にはちゃんとあなたがいるんです。相手がオオカミだったとしてもあなた以外には触らせません」
ピタリと、この人の手が止まった。大きなその手とつながっている、自分の手には力を込めた。
お菓子をもらってついてっちゃたのはそれがこの人だったからだ。この顔が好きだし、この人が好きだし、花屋バイトをしてきた学生を気遣ってくれるような人だし。わざわざマッサージの技術まで磨き、こっちが不意打ちでやんわり手を握ればげっ歯類みたいに固まっちゃう大人。
ヌルヌルした手でヌルヌルした手を今度こそクチュッとはっきり握った。些細な物音を逐一捉えて動作を停止させるネズミ的生き物に成り果てた大人の男を、両手でしっかり捕獲したまま脅かさないようにそっとのぞき込む。
寸前まで不貞腐れていた男と無理やり目を合わせてやった。余裕のある大人のくせしてところどころナイーブな瀬名さんは、突如。ガバッと。
「ぅおっ……」
ナイーブな男だが復活も早い。予告なしに抱きつかれて小さく声を上げた時には体がグラっと傾いている。
ばふッと背中から押し倒された。さっきまで泣きそうなんて言ってたの誰だよ。咄嗟にラグに肘をついて体重を支えた俺の上からミシッと抱きついてくるこの男。重い。
「瀬名さん、ちょッ……」
「感動した」
「わかっ……分かったから! 重いってッ、ラグ汚れんだろ……っ」
「どうせこのあとベタベタになる」
「くそばかッ!」
チョロすぎる男というのも場合によっては考えものだ。
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深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。
オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。
オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。
穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。
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