貢がせて、ハニー!

わこ

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77.黄色くてふわふわのアレ

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 溶けたバターのいい匂いがした。室内が明るいのも分かった。目覚ましは鳴っていないが朝が来たのは自然と分かる。
 半分未満ほど覚醒していてもベッドからはまだ出たくない。ポケポケした状態の中でも鼻は匂いをかぎ分けている。
 いい香り。お腹減った。けれどもうちょっと寝ていたいから、スッカラカンの胃をなだめながら体をゴロンと横に倒した。手を伸ばす。シーツの感触。瀬名さんがいない。バターの匂い。
 真っ盛りの夏だが空調は効いているから心地よく穏やかな室内のベッドで、目を閉じたまま若干伸びをし、枕に頬を埋めて落ち着く。隣が空いているので代わりのタオルケットを緩くつかんで握りしめた。清潔なシーツの香りと、食欲を誘うバターの匂いと、いつもは落ち着いて穏やかなはずの、その人の声が。響いた。やかましく。

「遥希、おい起きろ遥希すげえぞようやくだ。ついにやった。起きてくれ。なあ。起きろ。起きろって。おい。聞いてんのか、起きろ」

 キッチンから呼びかけてきたその声が徐々に近づき、肩をゆさゆさゆさゆさと。いまだ布団の下にある体を激しく揺らされて眉間が寄った。

「起きろって。そんな呑気に寝てる場合じゃねえ。すげえことが起きた。なあ遥希。なあって。おい。……はるきっ!」
「……んんん……」

 うるせえなもう。さすがに目を開けた。瀬名さんの顔面のドアップがそこに。
 いくらイケメンでも朝っぱらからやめろ。その顔ならなんでも許されると思うなよ。半分覚醒し残り半分は少々ご機嫌斜めにされつつ、それでもなおユサユサ揺すられ、クワッととりあえず大あくびを一つ。

「おいおいおい寝ぼけてる場合でもねえぞ。起きろ。今すぐ。早く。起きろ」
「……んだよもう、るっせえな」
「朝イチで恋人に言うセリフがそれか」
「朝イチで恋人を揺さぶり起こさねえでください」

 眠い。心地よい目覚めになるはずだった朝が瀬名さんのせいで台無しだ。
 ユサユサ肩を揺すっていた手が次第にバシバシに変わってきたから、これ以上放っておくと本気でぶっ叩かれそうな勢いに迫力負けしてムクリと起きた。

「なんなんすかもう……」
「できた。来い」
「はぁ?」
「オムレツができた」
「…………はあ?」

 人の睡眠を盛大に邪魔しても悪びれるふうもなく、急かされるまま腕を引かれていい匂いのするキッチンへ。
 さっきから香っていたのはやはりバターだ。そして卵が焼ける匂いだ。まろやかな香ばしさの発信源たる調理台の前までドシドシ押され、皿の上に乗っけられた綺麗でふっくらしている黄色を上からちょこんと見下ろした。

「……マジだ。できてる。オムレツの形してる」
「どうだ」
「うん……はい。すごいね」
「だろう?」
「とてもいい出来だと思います」
「俺もそう思う」
「色も綺麗だしいい匂いだし」
「だよな」
「すごくふわふわしてそう」
「実際してる。皿に盛った時なんか特に感動した」

 ようやく炒り卵から進化したオムレツを見せびらかしたいというだけの理由でこの人は俺を叩き起こしたのか。本人は褒められる気満々の顔でズイッとフォークを差し出してくる。

「さあ食え。冷めないうちに食うといい」
「味の想像はつくんですよ。あなたの炒り卵死ぬほど食わされたから」
「オムレツだと一味違う」
「いや味は一緒なんですってば」
「そしてあったかい方が美味い」
「聞いて」
「ふわっふわだぞ。一瞬で溶けるタイプのやつだと思う」
「うん……まあ、はい、じゃあ。いただきます」

 どちらにしても腹は減っている。起き抜けの牛丼でも余裕でいける程度の健康体ではあるから、オムレツ自体は普通に美味そうだしフォーク持ったら一層腹減ってきた。
 わくわくした目に見守られながら調理台の前でオムレツを立ち食い。パクっと口の中に大きく運んだ。
 ふわっとした食感。程よく香ばしい。濃厚な味わいがいっぱいに広がる。目覚めた直後の空っぽの胃にエサを与えるべくゴクリと飲み込む。クリーミー。後味もしっとりまろやか。

「……んまい」
「だよなっ!」

 なんでこのおじさんオムレツできたくらいでこんなに興奮できるんだろう。この人でもデカい声出すことあるんだ。もしかすると初めて聞いたかも。

 女子高生みたいにキャッキャとはしゃいだ顔つきのリーマンに見守られるなか黙々とオムレツを食べる。
 思えば確かにここまで長かった。それはそれは長い道のりだった。材料も分量も焼き上げるタイミングも全てきっちり完璧なはずなのに、一体どうしてああなってしまうのか最後の最後でスクランブルになり、それでも練習は欠かさないので暇そうに見ている隣の俺が炒り卵回収機にならざるを得ず。
 もういっそスクランブルエッグをきわめた方がよろしいのでは。そんな助言でもそろそろしてやろうかと思っていたところの今だ。土曜の朝からせっせとキッチンに立ち、寝ている恋人を叩き起こして、ものっすごく褒められたそうな顔をしている。フリスビー咥えて走って戻って来た大型のワンコがぼんやり浮かんだ。

「……ふわふわしててすげえ美味いです」
「だと思った」
「…………」

 ワンコを褒めたら鼻高々になったが、お世辞ではなく本当に美味しい。見栄えも完璧で文句なしだ。あれだけ何度も練習していたからドヤ顔になりたくなる気持ちもわかる。
 ふわふわで見事なこのオムレツは頑張った男の努力の成果だ。それは認める。でも腑に落ちない。あと五分、ほんの五分だけ、静かに寝かせてくれてさえいれば。夕べ遅くまで挑んだジジ抜きでたったの一度も勝利を譲ってくれなかったのだって水に流せたのに。

「明日の朝もまた作ってやる」
「…………どうも」

 今夜は早く寝て明日は早起きしよう。
 一日も早くオムレツ作りに飽きてくれることをパジャマ着たまま祈った。
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