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65.あなただけⅡ
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ジャムが入っていそうな四角い形の厚っこいガラス容器を買ってきた。透明で手のひらに乗っかるサイズだ。蓋もしっかりしていて密閉も可能。それから淡い桃色のリボンと、ラッピングに適した薄黄色のやわらかい不織布も。
ミキちゃんに触発されたのかなんなのか、あの一件から数日して俺もバラを一輪買ってきた。バイト先ではない。別の花屋でだ。その一本だけ、赤いやつを。小さな花屋でわざわざ綺麗にラッピングまでしてもらい、それをマンションに持ち帰り、三階に上ってきたところではたと、急激に我に返った。
友達の女の子の真似をして買ったバラの花を見下ろした。その日は瀬名さんの部屋ではなくて、慌てて自分の部屋に入った。
やっている事が人のパクリなうえにバラの件を瀬名さんは知っている。本数の意味だって知っている人に、一輪の赤いバラなんて渡せない。
ラッピングまでしてもらったバラはゴミ箱にそのまま投げ捨てた。そう出来たらよかったのだろうが、捨ててしまうにはあまりにも綺麗で、とてもか弱い花だということも知っていたからビンを用意した。主帰宅前の隣の部屋にコソコソと忍び込み、取ってきた空きビンに挿したそのバラ。適量の水を入れて繊細な命を守った。その翌日はタッパーを買った。
若干大きめで少々深型。バラの茎は切り落とし、瑞々しさをまだ保っている花をタッパーの中へ丁重に寝かせた。一緒に買ってきたシリカゲルをサラサラと注意深く被せ、このまま二週間程度放置しておけば花びらからは水分が抜けるはず。ドライフラワー用の乾燥材があるという知識はバイト先で得た。
花をただ単に空気に晒して乾かすと色も見栄えもしなびる。けれどもこうして処置を施せば、生花とほとんど同じような色で長い間保存できる。
いま、その結果が分かる。脆いはずの花に手を加えてから今日で約二週間。
大きめのタッパーにたっぷり満たした細かいシリカゲルを両手でかき分けた。中から出てきたバラの真紅。確かに、綺麗な色のまま。
自力で生きている柔らかい花とはもう違う。乾燥させて水分を抜いてしまったから、ほんの少しでも乱暴に触れればすぐにでもバラバラと壊れてしまいそう。
繊細な花びらを一枚一枚、女の子が化粧で使うような小さいブラシで綺麗にしてやる。シリカゲルの粒を慎重に払いのけ、手のひらにバラをちょこんと乗せた。
見つめているのは小さなスズメでもなければ可愛いハムスターでもない。それでもなんだか、愛着がわく。枯れずにこうして生かされてくれた。
身を守るためのトゲがついた茎からは切り離してしまったけれど、綺麗な赤は失われていない。誰の目から見ても立派なバラだ。
せっかく生き長らえた花を一瞬で壊してしまわないように、買ってきたばかりの四角い瓶の底にうやうやしくそっとおさめた。
「遥希?」
「ぁっ……」
それがついさっきまでの出来事。自宅のドアを中からガチャリと開けたところで瀬名さんと出くわした。
ちょうど帰宅してきたところのようだ。隣の部屋の玄関前からこっちを不思議そうに見ている。
「どうした」
「あ……いえ、ちょっと……掃除を」
「そうか。ヤモリは」
「いえ、はい。遭遇してません」
身に覚えのない長い黒髪が床に落ちている怪奇現象も今のところ一度も起きていない。
瀬名さんが帰ってくる頃までにはまだもう少し余裕があると思ってラッピングやら何やら作業を進めて今に至るが油断していた。ここで鉢合わせるのは予定外。自宅のドアをガチャガチャ施錠しながら平静を装って喋る。
「夕飯はロールキャベツですよ」
「一瞬で腹減ってきた。デザートはサクランボな」
「やった」
右手の紙袋をガサっと軽く持ち上げながら瀬名さんが言った。二人でこの人の部屋に入れば、ロールキャベツのいい匂いが廊下まで漂っている。
「今日のはちゃんと味染みてると思います」
「前のもなかなか美味かった。健康的で」
「薄かったって言っていいですよ。あれはただのキャベツでした」
失敗したロールキャベツでも瀬名さんは俺をフォローする。
味音痴疑惑さえ出てきそうな男へのプレゼントは用意できた。本人はすっかり忘れていそうだが、恋人が明日、誕生日を迎える。
***
「できた……」
甘くないケーキを見下ろしながら緊張感とともに呟く。調理用の使い捨て手袋を晴れ晴れした気分で両手から外した。
レアチーズケーキレベルが甘味の限界な人に対して砂糖の塊たるホールケーキをドンと寄越すのは嫌がらせだから、ケーキみたいなちらし寿司を作った。上に乗っけた色のいいサーモンは花っぽい形にしたくてつまみ食いしながら頑張った。我ながらなかなかいい出来だと思う。はじめてにしてはまあまあ悪くない。サーモンはもう少し薄めに切った方がよかったかもしれないが食っちゃえば一緒だ。
十二センチの型で作ったケーキもどきはちょうどいいサイズ感。二人で食べきれる分量だろう。そこまで豪勢な見栄えではないものの、四角い形の白い大皿にはお行儀よくおさまった。
冷蔵庫の中でスタンバっているサラダには生ハムなんてものを入れてみた。滅多に買わないクルトンも買った。瀬名さんが気に入っているドレッシングもその横でばっちり待機している。
コンロの上の鍋の中身は沢山のきのこのクリームスープ。その隣では一から作ったハンバーグもコトコト煮込んだ。なんとチーズ入りだ。絶対に美味い。
フライパンでいい感じに香ばしく焼き上げたスパニッシュオムレツもあとは皿にひっくり返すだけ。前に瀬名さんが買ってきてくれた時からそのうち作ろうとずっと思っていて、せっかくだからやってみたけどこれはどちらかというと俺が食いたかった。間違いなく美味い。すごくいい匂い。
ちらし寿司にハンバーグにでっかいオムレツ。大人の男の誕生日どころか子供の日のお祝いみたいになってしまった。まあいいか。
時計をチラチラ確認しながら、大皿にそれぞれを盛りつけていく。いい頃合いだ。酢飯の上に飾り付ける前につまみ食い用のサーモンで花の形の練習をしていたら案外時間を食ってしまって若干焦ったけど間に合った。
玄関でガチャリと音がしてぴょこっと顔を上げたのは、瀬名さんの席の前と自分の席の前に皿とカトラリーを用意していた時。近くに置いておいた小さなブツをバッと左手に掴みとり、忠犬バリに玄関目指してタタッとその場から駆け出した。
ダイニングの扉を乱雑に開けると瀬名さんが顔を上げた。お疲れ気味だ。最近また忙しそうだ。そんな大人の頭上めがけて勢いよく引いた紐。小さな円錐のクラッカーが、パンッ、と小気味良く音を立てた。
「おめでとうございまぁーすッ!」
「…………あ?」
安っぽいクラッカーから飛び出していったモシャモシャしたゴミみたいなやつがヒラヒラ床へと落ちていく。思ったより派手に散らかった。瀬名さんは目をぱちぱちさせていた。廊下がテープでカラフルになってもきょとんとして俺を見ている。
何が起こったか分からないような顔。明らかに状況を飲み込めていない。自分のことに無頓着な大人には、ちゃんと説明してやらないと。
「瀬名さん今日誕生日ですよ」
「…………」
「おめでとう。あとお帰りなさい」
「…………ああ……ありがとう。ただいま」
辛うじて発したような言葉からはまだいくらか動揺が窺える。
「……忘れてた」
「そうだろうなとは思ってましたけどあなたはすでに三十三歳です。また一歩ジジイに近付きましたね」
「人の誕生日に言うことがそれかよ」
一歳分ジジイになった男から黒い鞄を掠め取り、腕を引っ張ってダイニングに入った。
ハンバーグからは湯気が出ている。テーブルの上を見る瀬名さんの目は心なしか物珍しそう。俺が普段手抜き料理ばっかりしているみたいな反応すんな。
「豪華だな」
「誕生日ですもん」
「これは?」
「ケーキ。酢飯でできてるけど」
テーブルの中央に置いてある皿を指さしながら聞かれて答えた。桜でんぶと錦糸卵と黄緑色のさやえんどうと、小さな星の型抜きでくり抜いたニンジンで飾り付けたてしまったせいで子供の日感に拍車がかかっている。
ちょっとしたパーティー仕様のテーブルの上を一通り眺め、瀬名さんの視線はちらしケーキの真ん中へ。そこにサーモンが乗っている。
「これは……花か?」
「バラのつもりです」
「だよな、絶対そうだと思った。バラにしか見えねえ」
「どうせヘタクソですよ」
事前にもう少し練習しておくんだった。次こそは感嘆させてやる。
人のお祝いの日に自分の頑張りと努力の成果をただアピールし、瀬名さんの腕を再びグイグイ引っ張り今度は隣の寝室に。
「着替えててください。スープの用意しておくんで」
「ああ」
「それとこれあげます」
棚の中に忍ばせておいたのはそこまで厚みのないギフトボックス。ぐいっと瀬名さんの胸に箱ごと押し付け、逃げるようにして一人キッチンに戻った。
悩みに悩んで結局ネクタイにした。濃紺の。ストライプの。無難すぎて逆にチャレンジャーだけれど、渡すのを一度でもためらってしまったら渡せずじまいになりそうだった。
きのこのスープの鍋が乗っているコンロの火を最弱でつけた。温め直しの地味な作業をしているとこっちにやって来た瀬名さん。元々していたネクタイだけ外し、その代わりに右手には短く折った紺色ストライプのネクタイ。それを首元に合わせながら静かな声で聞いてきた。
「似合うか?」
無難で定番な路線に行ったが、それを選ぶまでには時間を要した。ディスプレイ用の男性マネキンと棚の間とを何度も行き来する俺を店員さんは怪しがっただろう。
ネクタイを合わせる瀬名さんの首元と、その顔を交互に見比べる。優しそうな表情は反則だ。深めにこくっと、うなずいた。
「うん。かっこいい」
「だろうな。なんせ俺だ」
「そこはもっと謙虚に来てくださいよ」
イケメンにしか許されない発言でもこの人はイケメンだから許される。隣からこの腰に片腕を回して抱きしめてくるのだって、男前がやると様にしかならない。
「いい匂い」
「……うん。ちゃんと本格的なやつ作ってみました」
きのこのクリームスープを見下ろす俺の頬に、この人は掠めるようなキスをしてくる。
「ありがとう。嬉しい」
「……ゴハンが?」
「全部が」
「……これくらいいつでも作ってあげますよ」
僅かに顔を背けて言ったら瀬名さんは小さく笑った。誕生日なのはこの人なのに、結局嬉しくさせられるのは俺だ。
***
お子様仕様の見栄えはともかく、ちらし寿司ケーキは好評だった。瀬名さん曰く五桁で売れるらしい。確実に言い過ぎだ。
来年はもっとでっかいのを作ろう。材料をサンドイッチにしてもいい。テーブルに乗せた料理はまあまあ結構な量だったけれど、皿の上をすっかり綺麗にしてもらえると工程に一切の手抜きを許さず作り上げた甲斐がある。
誕生日だから一緒に風呂入ろうとのふしだらな誘いは全力で拒否した。ネクタイの似合うイイ男が台無しになる発言をなぜわざわざするのか。
瀬名さんの感覚はいつまでも謎だからさっさと風呂場に追いやった。そこから三十分少々がたち、ホカホカになって戻ってきた瀬名さんは髪をタオルでバフバフやりながら不満タラタラモードで言った。
「誕生日なのに風呂場では孤独だった」
「風呂場では大体みんな孤独ですよ」
「寂しくて死ぬかと思った」
「人もウサギも寂しさが原因で死ぬことはないから大丈夫です」
「なんで風呂は一緒に入りたがらないんだ」
「聞かないとそれ分かりませんか」
たいして広い訳でもない風呂に男二人で敷き詰まるなんて不気味でしかない。死んでも嫌だ。明るいし。逃げ場もないし。この人絶対に変なことしてくるし。
一緒に風呂に入るかどうかについて地味な言い合いを続けていると、わざっとらしい溜め息とともに瀬名さんが肩をすくめて見せた。それと同時に視線もそれる。その視線は机の上へ。
不意に目に入ったのだろうその箇所を、この人は数秒じっと見つめた。
「……チョビの隣になんかいる」
「仲間増やしてやったんですよ。一人じゃ可哀想だから」
クマ雄にだって友達ができたんだからチョビにもいないと不公平だ。
瀬名さんが風呂に行った隙に、ネクタイとは別に隠しておいた瓶詰めのバラを机に置いた。本当は薄黄色の不織布で可愛くラッピングまでしてあった物をいざとなると出すことができず、最終的に不織布を取っ払ってそれとなくシレッと置いておくというセコい手に打って出た。
机の前に立った瀬名さんはその瓶を手に取った。瓶の首部分にはピンクのリボンを蝶々結びに巻き付けてある。それを目の高さに持ち上げて、いろんな角度から観察している。中身はどこからどう見たって赤いバラのドライフラワーだ。
「……もしかして作ったのか?」
「ええ」
「こういうの自分で作れるんだな」
「ダテに花屋でバイトしてません」
本当は俺もちゃんとできるのかタッパーを開けるまでは自信がなかった。そんな不安をよそにバラは生き延びたから、少々洒落た感じの小さな瓶に入れて繊細な姿を固く守った。
プレゼント第二弾だ。この人も俺に第二弾の誕プレをくれたから仕返しだ。
チョビの隣にシレッと瓶を置いて何食わぬ顔を貫きながら、全然文章が頭に入って来ない文庫本を読んでいるふりをしていたものの、バラを見つめる瀬名さんの一言でいよいよ何も装えなくなる。耳に届いたのは簡潔な問いかけ。
「どうしてバラを選んだ」
「…………」
どうして。なんて的確な質問だろうか。それを聞くということは、聞かなくてもどうせ分かっているくせに。
バラを選んだ。その通りだ。厳密には、そうじゃない。
「……赤いバラを一本、選んだんです」
バラであること。バラは赤いこと。赤いバラを一輪贈ること。全てを揃える必要があった。揃えたのに渡さなかったから、二週間たってからようやく瓶の中にちょこんとおさめてハートの植物の友達にさせた。
瀬名さんはバラの意味を知っている。ミキちゃんが浩太に三本のバラを贈った理由もすぐに悟った。ならば知っているだろう。一輪の赤いバラの意味も。
その証拠に瀬名さんはバラを持ったままこっちに来た。俺のすぐそばで両膝をつき、次にはぎゅっと抱きしめられている。元々読んでいなかった文庫本のページがパラパラと何枚かめくれた。
無駄口を叩くのが上手いこの人が、今は珍しくおとなしい。無言のまま腕に力を込められた。
「……なんです」
「感動してる」
「似合いませんね」
「ガラじゃねえな」
似合わないことを認めておきながらこの人はそれ以上何も言わない。優しく、でも強く抱きしめてくるから、俺も素直に抱きしめ返した。お互いガラじゃなくたって、こういうのもたまには悪くない。
サーモンで作った出来損ないのバラは食っちゃったらそれで終わってしまうが、本物の赤いバラで作ったこれは長い間このまま残しておける。
一本の赤いバラを選んだ。美しさを残してこの人に贈った。こんな物を贈りつけたくなるのは、世界中でこの人しかいない。
ミキちゃんに触発されたのかなんなのか、あの一件から数日して俺もバラを一輪買ってきた。バイト先ではない。別の花屋でだ。その一本だけ、赤いやつを。小さな花屋でわざわざ綺麗にラッピングまでしてもらい、それをマンションに持ち帰り、三階に上ってきたところではたと、急激に我に返った。
友達の女の子の真似をして買ったバラの花を見下ろした。その日は瀬名さんの部屋ではなくて、慌てて自分の部屋に入った。
やっている事が人のパクリなうえにバラの件を瀬名さんは知っている。本数の意味だって知っている人に、一輪の赤いバラなんて渡せない。
ラッピングまでしてもらったバラはゴミ箱にそのまま投げ捨てた。そう出来たらよかったのだろうが、捨ててしまうにはあまりにも綺麗で、とてもか弱い花だということも知っていたからビンを用意した。主帰宅前の隣の部屋にコソコソと忍び込み、取ってきた空きビンに挿したそのバラ。適量の水を入れて繊細な命を守った。その翌日はタッパーを買った。
若干大きめで少々深型。バラの茎は切り落とし、瑞々しさをまだ保っている花をタッパーの中へ丁重に寝かせた。一緒に買ってきたシリカゲルをサラサラと注意深く被せ、このまま二週間程度放置しておけば花びらからは水分が抜けるはず。ドライフラワー用の乾燥材があるという知識はバイト先で得た。
花をただ単に空気に晒して乾かすと色も見栄えもしなびる。けれどもこうして処置を施せば、生花とほとんど同じような色で長い間保存できる。
いま、その結果が分かる。脆いはずの花に手を加えてから今日で約二週間。
大きめのタッパーにたっぷり満たした細かいシリカゲルを両手でかき分けた。中から出てきたバラの真紅。確かに、綺麗な色のまま。
自力で生きている柔らかい花とはもう違う。乾燥させて水分を抜いてしまったから、ほんの少しでも乱暴に触れればすぐにでもバラバラと壊れてしまいそう。
繊細な花びらを一枚一枚、女の子が化粧で使うような小さいブラシで綺麗にしてやる。シリカゲルの粒を慎重に払いのけ、手のひらにバラをちょこんと乗せた。
見つめているのは小さなスズメでもなければ可愛いハムスターでもない。それでもなんだか、愛着がわく。枯れずにこうして生かされてくれた。
身を守るためのトゲがついた茎からは切り離してしまったけれど、綺麗な赤は失われていない。誰の目から見ても立派なバラだ。
せっかく生き長らえた花を一瞬で壊してしまわないように、買ってきたばかりの四角い瓶の底にうやうやしくそっとおさめた。
「遥希?」
「ぁっ……」
それがついさっきまでの出来事。自宅のドアを中からガチャリと開けたところで瀬名さんと出くわした。
ちょうど帰宅してきたところのようだ。隣の部屋の玄関前からこっちを不思議そうに見ている。
「どうした」
「あ……いえ、ちょっと……掃除を」
「そうか。ヤモリは」
「いえ、はい。遭遇してません」
身に覚えのない長い黒髪が床に落ちている怪奇現象も今のところ一度も起きていない。
瀬名さんが帰ってくる頃までにはまだもう少し余裕があると思ってラッピングやら何やら作業を進めて今に至るが油断していた。ここで鉢合わせるのは予定外。自宅のドアをガチャガチャ施錠しながら平静を装って喋る。
「夕飯はロールキャベツですよ」
「一瞬で腹減ってきた。デザートはサクランボな」
「やった」
右手の紙袋をガサっと軽く持ち上げながら瀬名さんが言った。二人でこの人の部屋に入れば、ロールキャベツのいい匂いが廊下まで漂っている。
「今日のはちゃんと味染みてると思います」
「前のもなかなか美味かった。健康的で」
「薄かったって言っていいですよ。あれはただのキャベツでした」
失敗したロールキャベツでも瀬名さんは俺をフォローする。
味音痴疑惑さえ出てきそうな男へのプレゼントは用意できた。本人はすっかり忘れていそうだが、恋人が明日、誕生日を迎える。
***
「できた……」
甘くないケーキを見下ろしながら緊張感とともに呟く。調理用の使い捨て手袋を晴れ晴れした気分で両手から外した。
レアチーズケーキレベルが甘味の限界な人に対して砂糖の塊たるホールケーキをドンと寄越すのは嫌がらせだから、ケーキみたいなちらし寿司を作った。上に乗っけた色のいいサーモンは花っぽい形にしたくてつまみ食いしながら頑張った。我ながらなかなかいい出来だと思う。はじめてにしてはまあまあ悪くない。サーモンはもう少し薄めに切った方がよかったかもしれないが食っちゃえば一緒だ。
十二センチの型で作ったケーキもどきはちょうどいいサイズ感。二人で食べきれる分量だろう。そこまで豪勢な見栄えではないものの、四角い形の白い大皿にはお行儀よくおさまった。
冷蔵庫の中でスタンバっているサラダには生ハムなんてものを入れてみた。滅多に買わないクルトンも買った。瀬名さんが気に入っているドレッシングもその横でばっちり待機している。
コンロの上の鍋の中身は沢山のきのこのクリームスープ。その隣では一から作ったハンバーグもコトコト煮込んだ。なんとチーズ入りだ。絶対に美味い。
フライパンでいい感じに香ばしく焼き上げたスパニッシュオムレツもあとは皿にひっくり返すだけ。前に瀬名さんが買ってきてくれた時からそのうち作ろうとずっと思っていて、せっかくだからやってみたけどこれはどちらかというと俺が食いたかった。間違いなく美味い。すごくいい匂い。
ちらし寿司にハンバーグにでっかいオムレツ。大人の男の誕生日どころか子供の日のお祝いみたいになってしまった。まあいいか。
時計をチラチラ確認しながら、大皿にそれぞれを盛りつけていく。いい頃合いだ。酢飯の上に飾り付ける前につまみ食い用のサーモンで花の形の練習をしていたら案外時間を食ってしまって若干焦ったけど間に合った。
玄関でガチャリと音がしてぴょこっと顔を上げたのは、瀬名さんの席の前と自分の席の前に皿とカトラリーを用意していた時。近くに置いておいた小さなブツをバッと左手に掴みとり、忠犬バリに玄関目指してタタッとその場から駆け出した。
ダイニングの扉を乱雑に開けると瀬名さんが顔を上げた。お疲れ気味だ。最近また忙しそうだ。そんな大人の頭上めがけて勢いよく引いた紐。小さな円錐のクラッカーが、パンッ、と小気味良く音を立てた。
「おめでとうございまぁーすッ!」
「…………あ?」
安っぽいクラッカーから飛び出していったモシャモシャしたゴミみたいなやつがヒラヒラ床へと落ちていく。思ったより派手に散らかった。瀬名さんは目をぱちぱちさせていた。廊下がテープでカラフルになってもきょとんとして俺を見ている。
何が起こったか分からないような顔。明らかに状況を飲み込めていない。自分のことに無頓着な大人には、ちゃんと説明してやらないと。
「瀬名さん今日誕生日ですよ」
「…………」
「おめでとう。あとお帰りなさい」
「…………ああ……ありがとう。ただいま」
辛うじて発したような言葉からはまだいくらか動揺が窺える。
「……忘れてた」
「そうだろうなとは思ってましたけどあなたはすでに三十三歳です。また一歩ジジイに近付きましたね」
「人の誕生日に言うことがそれかよ」
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「豪華だな」
「誕生日ですもん」
「これは?」
「ケーキ。酢飯でできてるけど」
テーブルの中央に置いてある皿を指さしながら聞かれて答えた。桜でんぶと錦糸卵と黄緑色のさやえんどうと、小さな星の型抜きでくり抜いたニンジンで飾り付けたてしまったせいで子供の日感に拍車がかかっている。
ちょっとしたパーティー仕様のテーブルの上を一通り眺め、瀬名さんの視線はちらしケーキの真ん中へ。そこにサーモンが乗っている。
「これは……花か?」
「バラのつもりです」
「だよな、絶対そうだと思った。バラにしか見えねえ」
「どうせヘタクソですよ」
事前にもう少し練習しておくんだった。次こそは感嘆させてやる。
人のお祝いの日に自分の頑張りと努力の成果をただアピールし、瀬名さんの腕を再びグイグイ引っ張り今度は隣の寝室に。
「着替えててください。スープの用意しておくんで」
「ああ」
「それとこれあげます」
棚の中に忍ばせておいたのはそこまで厚みのないギフトボックス。ぐいっと瀬名さんの胸に箱ごと押し付け、逃げるようにして一人キッチンに戻った。
悩みに悩んで結局ネクタイにした。濃紺の。ストライプの。無難すぎて逆にチャレンジャーだけれど、渡すのを一度でもためらってしまったら渡せずじまいになりそうだった。
きのこのスープの鍋が乗っているコンロの火を最弱でつけた。温め直しの地味な作業をしているとこっちにやって来た瀬名さん。元々していたネクタイだけ外し、その代わりに右手には短く折った紺色ストライプのネクタイ。それを首元に合わせながら静かな声で聞いてきた。
「似合うか?」
無難で定番な路線に行ったが、それを選ぶまでには時間を要した。ディスプレイ用の男性マネキンと棚の間とを何度も行き来する俺を店員さんは怪しがっただろう。
ネクタイを合わせる瀬名さんの首元と、その顔を交互に見比べる。優しそうな表情は反則だ。深めにこくっと、うなずいた。
「うん。かっこいい」
「だろうな。なんせ俺だ」
「そこはもっと謙虚に来てくださいよ」
イケメンにしか許されない発言でもこの人はイケメンだから許される。隣からこの腰に片腕を回して抱きしめてくるのだって、男前がやると様にしかならない。
「いい匂い」
「……うん。ちゃんと本格的なやつ作ってみました」
きのこのクリームスープを見下ろす俺の頬に、この人は掠めるようなキスをしてくる。
「ありがとう。嬉しい」
「……ゴハンが?」
「全部が」
「……これくらいいつでも作ってあげますよ」
僅かに顔を背けて言ったら瀬名さんは小さく笑った。誕生日なのはこの人なのに、結局嬉しくさせられるのは俺だ。
***
お子様仕様の見栄えはともかく、ちらし寿司ケーキは好評だった。瀬名さん曰く五桁で売れるらしい。確実に言い過ぎだ。
来年はもっとでっかいのを作ろう。材料をサンドイッチにしてもいい。テーブルに乗せた料理はまあまあ結構な量だったけれど、皿の上をすっかり綺麗にしてもらえると工程に一切の手抜きを許さず作り上げた甲斐がある。
誕生日だから一緒に風呂入ろうとのふしだらな誘いは全力で拒否した。ネクタイの似合うイイ男が台無しになる発言をなぜわざわざするのか。
瀬名さんの感覚はいつまでも謎だからさっさと風呂場に追いやった。そこから三十分少々がたち、ホカホカになって戻ってきた瀬名さんは髪をタオルでバフバフやりながら不満タラタラモードで言った。
「誕生日なのに風呂場では孤独だった」
「風呂場では大体みんな孤独ですよ」
「寂しくて死ぬかと思った」
「人もウサギも寂しさが原因で死ぬことはないから大丈夫です」
「なんで風呂は一緒に入りたがらないんだ」
「聞かないとそれ分かりませんか」
たいして広い訳でもない風呂に男二人で敷き詰まるなんて不気味でしかない。死んでも嫌だ。明るいし。逃げ場もないし。この人絶対に変なことしてくるし。
一緒に風呂に入るかどうかについて地味な言い合いを続けていると、わざっとらしい溜め息とともに瀬名さんが肩をすくめて見せた。それと同時に視線もそれる。その視線は机の上へ。
不意に目に入ったのだろうその箇所を、この人は数秒じっと見つめた。
「……チョビの隣になんかいる」
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クマ雄にだって友達ができたんだからチョビにもいないと不公平だ。
瀬名さんが風呂に行った隙に、ネクタイとは別に隠しておいた瓶詰めのバラを机に置いた。本当は薄黄色の不織布で可愛くラッピングまでしてあった物をいざとなると出すことができず、最終的に不織布を取っ払ってそれとなくシレッと置いておくというセコい手に打って出た。
机の前に立った瀬名さんはその瓶を手に取った。瓶の首部分にはピンクのリボンを蝶々結びに巻き付けてある。それを目の高さに持ち上げて、いろんな角度から観察している。中身はどこからどう見たって赤いバラのドライフラワーだ。
「……もしかして作ったのか?」
「ええ」
「こういうの自分で作れるんだな」
「ダテに花屋でバイトしてません」
本当は俺もちゃんとできるのかタッパーを開けるまでは自信がなかった。そんな不安をよそにバラは生き延びたから、少々洒落た感じの小さな瓶に入れて繊細な姿を固く守った。
プレゼント第二弾だ。この人も俺に第二弾の誕プレをくれたから仕返しだ。
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「どうしてバラを選んだ」
「…………」
どうして。なんて的確な質問だろうか。それを聞くということは、聞かなくてもどうせ分かっているくせに。
バラを選んだ。その通りだ。厳密には、そうじゃない。
「……赤いバラを一本、選んだんです」
バラであること。バラは赤いこと。赤いバラを一輪贈ること。全てを揃える必要があった。揃えたのに渡さなかったから、二週間たってからようやく瓶の中にちょこんとおさめてハートの植物の友達にさせた。
瀬名さんはバラの意味を知っている。ミキちゃんが浩太に三本のバラを贈った理由もすぐに悟った。ならば知っているだろう。一輪の赤いバラの意味も。
その証拠に瀬名さんはバラを持ったままこっちに来た。俺のすぐそばで両膝をつき、次にはぎゅっと抱きしめられている。元々読んでいなかった文庫本のページがパラパラと何枚かめくれた。
無駄口を叩くのが上手いこの人が、今は珍しくおとなしい。無言のまま腕に力を込められた。
「……なんです」
「感動してる」
「似合いませんね」
「ガラじゃねえな」
似合わないことを認めておきながらこの人はそれ以上何も言わない。優しく、でも強く抱きしめてくるから、俺も素直に抱きしめ返した。お互いガラじゃなくたって、こういうのもたまには悪くない。
サーモンで作った出来損ないのバラは食っちゃったらそれで終わってしまうが、本物の赤いバラで作ったこれは長い間このまま残しておける。
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