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55.一夜明けⅠ
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首から下はあたたかくてぬくぬくしていた。布団の中だからごくごく当然。朝のひんやりした空気に触れている顔だけがいささか寒い。
すべすべしたリネンの柔らかさを首より下で直に感じ取る。素っ裸でシーツにくるまると気持ちいいなんて知らなかった。
ぼんやりとノロマに目を開けながら肌に触れる質感を認識していく。あったかいのは軽くて柔らかい布団をかぶっているためではあるが原因はそれに限られず、真隣にちょうどいい体温を保った人間の体があるせいだ。その人は俺の頬を撫でてから、しっとり触れるだけのキスを数秒かけて落としてきた。
「まだ早い」
唇で目元に触れてくる瀬名さんに囁くように教えられる。スマホに腕を伸ばすのが億劫で壁かけ時計に視線をやった。
室内はまだ薄暗い。文字盤も針の位置も暗がりに紛れてよく見えない。
「……なんじ?」
「四時ちょっと過ぎ」
思ったよりもだいぶ早かった。普段ならアラームが鳴るまで目覚めることなく爆睡なのに。
強めのだるさに覆われたこの体が疲れているのは明らかだ。しかしこうして目が覚めた。まぶたを閉じさえしてしまえばまた簡単に眠れそうだが、早朝の冷たい空気を顔面に受け止めながら、布団の下で肩を抱かれて一度ゆっくりまばたきをした。
俺の腕を撫でたこの人の手つきは純粋な労りだけが十割。これでは恨み言のひとつも言えない。倦怠感の原因はこの男なのに。
「赤飯でも炊くか」
「ばか……」
「小豆ともち米帰りに買ってくる」
「買ってくんなそんなもん」
たとえなんの罪はなくとも小豆ともち米をこの地球上から一粒残らず大宇宙に向かってカッ飛ばしてやりたくなった。
どうやらこの状況は瀬名さんにとっておめでたい事のようだ。俺はというと少なくとも赤飯食いたい気分ではない。いいとか悪いとかそういう事じゃなくて変な感じだった。やけにそわそわする。一方で妙に落ち着いてもいる。
男に抱かれた経験を持つ男は世の中の少数派なのだろうけど世の中のだいたいの女の人達はこういう心境を経験するのか。それでも隣にいる相手がどんな男であるかによって感情の機微は変わるかもしれない。俺の相手はこの人で良かった。
触れ方が優しい。いつもそうだけど。腕とか肩とかを撫でてくる。労わるような手つきはそのまま。夕べだってずっとそうだった。
そわそわしていても感覚はゆったりで、まぶたを閉じるまでもなくどんどん眠くなってくる。
瀬名さんに触られるのは気持ちいい。夕べみたいに優しくて、夕べみたいな欲情は感じさせない。頬にはもう一回キスされた。
「どうする」
「ん……?」
「この場合の選択肢は三つだ。起きるには少し早いが潔くベッドから出るのが一つ目。目が覚めたのをなかった事にして人間らしく二度寝するのが二つ目」
キリッと生きるか怠惰に行くか。あいにく今日はまだ金曜日。土曜なら二度寝と即決できるも今二度寝してしまうと後がつらい。
スマホを取るのも億劫なくらいだから床の上に散らばっているはずの服に手を伸ばすのも面倒臭かった。ならばいっそと怠惰な二つ目に向かってこの気持ちはそそっと揺らぐが、選択肢の数を最初に提示した寸前の瀬名さんの口振りも気になる。
「……みっつめは?」
よくぞ聞いたとでも言わんばかりの満足気な顔で笑ってキスされた。
どんなアホでもこれで気づける。俺もすぐに理解した。恋人が朝からすげえ元気だ。
「時間ならある」
「…………」
「余裕でシャワーも浴びられる」
何せまだ四時。活動を開始している人間の方がまだまだ少ない時間帯。しかしこの人はバッチリ活動モードでなんだかんだ俺も目が覚めてきた。
「俺は三つ目がいいと思うんだが」
「……うん」
「うん?」
「…………」
曖昧な二文字じゃ許してくれない。どう言ってほしいのかは知っている。
同じく素っ裸な瀬名さんに、寒いふりをしてスリッと擦り寄った。
「…………俺も三つ目がいいと思います」
餌付けされたノラ猫の気分だ。
***
シャワーを浴びる時間はあった。弁当の用意をする余裕まであった。
ベッドからおりて二人で家を出ていつもの曲がり角で別れるその時まで、瀬名さんの顔はほとんどと言っていい程まともに直視できなかった。
「小豆ともち米以外に何か必要なもんあるか」
「小豆ともち米が必要ないんですよ」
「軟膏いるか」
「いらねえよっ」
軟膏が必要な状態にならないようにいろいろやったのあんたじゃねえか。
微妙にぎこちない俺とは違ってあの野郎はいつもの三倍か四倍かもしかすると五倍くらいは爽やかだったのが腹立たしい。数時間たった今でもムカつく。
大学のカフェテリアの隅っこのテーブルについてルーズリーフとかファイルやなんかが入っているだけのバッグを投げ出した。履修科目の本登録を済ませるまでは教科書その他も未購入だから今は必修科目の本が二冊だけ入っているにすぎない。
午前中のカフェテリアは静か。昼までまだ一時間半もあるため人は少なくて一休みにちょうどいい。しかしこうした暇な時間が少しでもできてしまうと、じわじわ思い出すのは夕べの出来事。頭を抱えたい。もう今さらだ。
痛い辛い恥ずかしいの地獄の苦しみ三点セットを想像していたし覚悟もしていたが全然ハズレた。正解は最後のみ。それすら途中から分からなってしまうほどあの人は丁寧でひたすら優しくて、それに何よりすごかった。
本当のところは夕べの記憶の半分以上はトんでいるもののなんか凄かったのだけはよく覚えている。瀬名恭吾は化け物だ。
人口密度が高くないだけで人が全くいない訳じゃない。誰一人としていなかったとしたら椅子を二つか三つ一列に並べてドサッと横たわりたいところだ。
おかげさまでダルくて眠い。硬い椅子の寝心地は最悪だろうけど今だったらスヤッと寝られる気がする。
次に入る講義室はこの上の階。そこの階段を上ってすぐの部屋だ。けれども休み時間は十分間だからすぐにでも腰を上げなければならない。歩いている途中で椅子が目に入って誘われるように座ってしまったが真っ直ぐ階段に向かうんだった。テーブルに右肘を乗っけて一度頬杖をついてしまったら元より一桁台だったヤル気メーターが一気にガクッとゼロになる。
フランス人ならこういう状態をアンニュイと言って表現するのかも。違うかな。まあいいやなんでも。ため息をつきそうになっては止めることを繰り返す。夕べから今朝にかけての自分を思い出すとそれだけで死にたくなってくる。
冷静になってみるとあのオジサン、十代の学生に手を出したんだよな。瀬名さん理論だと十九歳はギリギリセーフで大丈夫みたいだが多分あんまり大丈夫じゃない。違法じゃないけど不当の範囲内だ。不当なことをさせたのは俺だ。
夕べ俺が桜の木の前で食いかけのみたらし団子をパックに戻すことがなければいつも通りの夜で終わっていただろう。あの人が待てをできすぎるせいでこっちの我慢が先にキレた。一流の男とは付き合うもんじゃない。いいようになんでも仕向けられている。
瀬名さんにもらった腕時計を見下ろして秒針が五秒か六秒進んだところでとうとう溜め息が音になった。のっそりと気だるく腰を上げる。雑に引いていた固い椅子を元の位置にガガッと戻した。
上階に移動すれば下の階よりも人の行き来は多くなる。階段すぐそばの講義室に入るとほとんどの人は場所を決めて一人なり複数なりでそれぞれすでに着席していた。そこまで大きくもない部屋だが空いている席はまばらにちらほら。履修登録前の期間の希望者が殺到するような講義だと時々立ち見になる学生まで出てくる。俺はこれくらいの方が落ち着く。
出席確認用のカードリーダーに学生証をピッとかざした。と同時に近くの席にいた浩太を発見。こいつも同じく気づいたようで、軽く上げた手をこっちに向けてヒラヒラと振って見せた。
「おー、ハル」
「おう」
右隣に置いていた荷物を浩太が退かしたのでそこに座る。適当に出したのはペンとルーズリーフ。
無駄に観察力のある浩太はカバンをガサゴソ言わせる俺に確かめるような目を向けてきた。
「大丈夫? なんか疲れてない?」
「……いいや?」
浩太がしょっちゅう女の子から相談事を持ちかけられるのはこういうところなんだろうな。
「難しい顔してどうしたよ」
「してねえよ」
「してるよ」
「……この国のグレーゾーンの定義についてちょっと考えてただけ」
「は? さっきなんの講義受けてきたの?」
「フランス文学」
「フランス文学っ!?」
「うん」
「ほんとに大丈夫かよハル。熱でもあんじゃねえのか」
誰もかれもが俺に失礼だ。
フランス文学は前期のコマが一個余りそうだったから気まぐれに突っ込んだ教養科目だが、それはひとまずどうでもいいとしてこんな事を誰に相談しろと。
こればかりは二条さんにも言えない。陽子さんにはさらに言えない。浩太にはより一層言えるはずがないから本登録をするつもりでいるフランス文学の講義で配られたレジュメを見ているふりをした。
「……やめてよもう。そんなもん見ないで」
「俺が文学やってちゃ悪いか」
「悪いよ。世紀末来ちゃいそうだよ」
なぜここまで貶されなきゃならない。俺にだって文学をたしなむ程度の情緒くらいは備わっている。たぶん。おそらく。ゾウリムシのモサモサしていそうな繊毛の先っちょくらいには。
フランス文学が似合わないらしい俺の前にはイメージカラーが桃色に違いない恋愛風景が広がっている。三列前の席に並んでいる男女一組。やけに顔の距離が近いその二人と俺達との間の席には座っている学生が誰もいないためトロトロと甘ったるい雰囲気が一切の隔てなくこっちにまで飛来して直接ぶっかかってくる。
男の方とはたまに喋る。都会生まれ都会育ちで田んぼと畑には無縁の佐宗だ。女の子の方はカナミちゃん。ミキちゃんと仲良しのメガネ女子だけど視力は左右ともめちゃくちゃいいそうだ。
横長のワークデスク二つ分を間に挟んでいるとは言っても遮るものが何もないから嫌でも視界に入ってきてしまう。若干イラッときている俺の横では浩太がコソコソ耳打ちしてくる。
「付き合い始めたんだって」
「あ?」
顎でクイッと二人の後ろ姿を指し示した。佐宗とカナミちゃんはおしゃべりに夢中。なるほどとしか言いようのない距離感を周囲にドーンと見せつけている。
「春休み中に告ってオッケーもらったって佐宗が言ってた」
「へえ」
「相変わらず他人に興味なさそうだねハルくん」
「朝から鬱陶しいなとは思うよ」
「容赦ねえな」
あの浩太でさえちょっとうんざり気味なイチャイチャ具合だ。カナミちゃんの長いブラウンの巻き髪をそれとなく触るデレデレな佐宗。もー、とか言いながら嬉しそうな顔にしか見えないカナミちゃん。
いかにも付き合いたてのカップルって感じのあの雰囲気はどうにも目障りだ。座る席失敗したな。ここがどこだか教えてやりたい。
「……あれを三分間直視してたら知能指数が九ポイントは下がる」
「感じ悪いから。そういう発言は女の子の前で絶対にしちゃだめだよ」
「しねえよ」
「いくらハルでも大バッシングは避けられない」
誰だろうと避けられそうにない。女子に敵認定された男はその後平和に生きるのが難しい。
カナミちゃんから恋人認定された佐宗はニコニコと平和で幸せそう。佐宗とは時々話すくらいだけどあんなに愛想がいいとは知らなかった。カナミちゃんと喋っているのが嬉しくて仕方ないんだろうなと一発で分かるような締まりのない表情だ。
「……佐宗ってああいう感じなんだな」
「またまた他人事みたいに言っちゃって。どうせハルだって自分の彼女の前ではあんな感じになってんだろ」
「やめろ気持ち悪い」
「気持ち悪いってお前……」
たまにうっかりほだされるけどあそこまでデレデレした覚えはない。
「彼女の前でもお前はそんなツンケンしてんの?」
「常識を捨ててないだけだ」
「つまんねえ常識に縛られてるより心底惚れてますって気持ちを過剰にアピールするくらいの方が女の子は喜ぶぞ」
「俺がどんなでも向こうは気にしねえもん」
「すっげえ自信。てかなに、彼女クール系?」
厳密には彼女ではないのだがあの男は一体何系にカテゴライズできるだろう。
クール系でないことは確実。見た目はそうと言えそうであるものの中身があれだと外見の効力は三日と経たずに木っ端みじんだ。深堀りすれば深堀りするだけどんどん残念な本性が見えてくる。そんな三十代前半社会人男性の適切なカテゴリーとは。
「……分からない」
「分かんないってことはないでしょ。年上ってのはミキから聞いてるけど」
「…………」
あの子はまた余計なことをペラペラと。
「何個上?」
「……さあな」
「美人?」
「お前には教えない」
「そうやって冷たいんだよねハルくんは。年上のお姉さんとはいつも何して遊んでるの?」
「何って……」
「デートは?」
「するけど……」
「どこで?」
「……普通にメシ屋とか」
「ふーん。家では?」
「…………」
「…………」
そんなつもりでは全然なかったのに畳みかけるように問われた結果ついつい押し黙る形となった。恋人と家で何をしているか即座に答えられなかったせいで浩太からかけられたのはあらぬ疑惑。
「……ヤラしい」
「違う。やめろ」
「ハルくんもちゃんと男の子じゃん」
「違うっつってんだろ、やめろ」
どちらかと言うなら男としての重大かつ重要な尊厳は夕べ根こそぎ奪われた。
すべすべしたリネンの柔らかさを首より下で直に感じ取る。素っ裸でシーツにくるまると気持ちいいなんて知らなかった。
ぼんやりとノロマに目を開けながら肌に触れる質感を認識していく。あったかいのは軽くて柔らかい布団をかぶっているためではあるが原因はそれに限られず、真隣にちょうどいい体温を保った人間の体があるせいだ。その人は俺の頬を撫でてから、しっとり触れるだけのキスを数秒かけて落としてきた。
「まだ早い」
唇で目元に触れてくる瀬名さんに囁くように教えられる。スマホに腕を伸ばすのが億劫で壁かけ時計に視線をやった。
室内はまだ薄暗い。文字盤も針の位置も暗がりに紛れてよく見えない。
「……なんじ?」
「四時ちょっと過ぎ」
思ったよりもだいぶ早かった。普段ならアラームが鳴るまで目覚めることなく爆睡なのに。
強めのだるさに覆われたこの体が疲れているのは明らかだ。しかしこうして目が覚めた。まぶたを閉じさえしてしまえばまた簡単に眠れそうだが、早朝の冷たい空気を顔面に受け止めながら、布団の下で肩を抱かれて一度ゆっくりまばたきをした。
俺の腕を撫でたこの人の手つきは純粋な労りだけが十割。これでは恨み言のひとつも言えない。倦怠感の原因はこの男なのに。
「赤飯でも炊くか」
「ばか……」
「小豆ともち米帰りに買ってくる」
「買ってくんなそんなもん」
たとえなんの罪はなくとも小豆ともち米をこの地球上から一粒残らず大宇宙に向かってカッ飛ばしてやりたくなった。
どうやらこの状況は瀬名さんにとっておめでたい事のようだ。俺はというと少なくとも赤飯食いたい気分ではない。いいとか悪いとかそういう事じゃなくて変な感じだった。やけにそわそわする。一方で妙に落ち着いてもいる。
男に抱かれた経験を持つ男は世の中の少数派なのだろうけど世の中のだいたいの女の人達はこういう心境を経験するのか。それでも隣にいる相手がどんな男であるかによって感情の機微は変わるかもしれない。俺の相手はこの人で良かった。
触れ方が優しい。いつもそうだけど。腕とか肩とかを撫でてくる。労わるような手つきはそのまま。夕べだってずっとそうだった。
そわそわしていても感覚はゆったりで、まぶたを閉じるまでもなくどんどん眠くなってくる。
瀬名さんに触られるのは気持ちいい。夕べみたいに優しくて、夕べみたいな欲情は感じさせない。頬にはもう一回キスされた。
「どうする」
「ん……?」
「この場合の選択肢は三つだ。起きるには少し早いが潔くベッドから出るのが一つ目。目が覚めたのをなかった事にして人間らしく二度寝するのが二つ目」
キリッと生きるか怠惰に行くか。あいにく今日はまだ金曜日。土曜なら二度寝と即決できるも今二度寝してしまうと後がつらい。
スマホを取るのも億劫なくらいだから床の上に散らばっているはずの服に手を伸ばすのも面倒臭かった。ならばいっそと怠惰な二つ目に向かってこの気持ちはそそっと揺らぐが、選択肢の数を最初に提示した寸前の瀬名さんの口振りも気になる。
「……みっつめは?」
よくぞ聞いたとでも言わんばかりの満足気な顔で笑ってキスされた。
どんなアホでもこれで気づける。俺もすぐに理解した。恋人が朝からすげえ元気だ。
「時間ならある」
「…………」
「余裕でシャワーも浴びられる」
何せまだ四時。活動を開始している人間の方がまだまだ少ない時間帯。しかしこの人はバッチリ活動モードでなんだかんだ俺も目が覚めてきた。
「俺は三つ目がいいと思うんだが」
「……うん」
「うん?」
「…………」
曖昧な二文字じゃ許してくれない。どう言ってほしいのかは知っている。
同じく素っ裸な瀬名さんに、寒いふりをしてスリッと擦り寄った。
「…………俺も三つ目がいいと思います」
餌付けされたノラ猫の気分だ。
***
シャワーを浴びる時間はあった。弁当の用意をする余裕まであった。
ベッドからおりて二人で家を出ていつもの曲がり角で別れるその時まで、瀬名さんの顔はほとんどと言っていい程まともに直視できなかった。
「小豆ともち米以外に何か必要なもんあるか」
「小豆ともち米が必要ないんですよ」
「軟膏いるか」
「いらねえよっ」
軟膏が必要な状態にならないようにいろいろやったのあんたじゃねえか。
微妙にぎこちない俺とは違ってあの野郎はいつもの三倍か四倍かもしかすると五倍くらいは爽やかだったのが腹立たしい。数時間たった今でもムカつく。
大学のカフェテリアの隅っこのテーブルについてルーズリーフとかファイルやなんかが入っているだけのバッグを投げ出した。履修科目の本登録を済ませるまでは教科書その他も未購入だから今は必修科目の本が二冊だけ入っているにすぎない。
午前中のカフェテリアは静か。昼までまだ一時間半もあるため人は少なくて一休みにちょうどいい。しかしこうした暇な時間が少しでもできてしまうと、じわじわ思い出すのは夕べの出来事。頭を抱えたい。もう今さらだ。
痛い辛い恥ずかしいの地獄の苦しみ三点セットを想像していたし覚悟もしていたが全然ハズレた。正解は最後のみ。それすら途中から分からなってしまうほどあの人は丁寧でひたすら優しくて、それに何よりすごかった。
本当のところは夕べの記憶の半分以上はトんでいるもののなんか凄かったのだけはよく覚えている。瀬名恭吾は化け物だ。
人口密度が高くないだけで人が全くいない訳じゃない。誰一人としていなかったとしたら椅子を二つか三つ一列に並べてドサッと横たわりたいところだ。
おかげさまでダルくて眠い。硬い椅子の寝心地は最悪だろうけど今だったらスヤッと寝られる気がする。
次に入る講義室はこの上の階。そこの階段を上ってすぐの部屋だ。けれども休み時間は十分間だからすぐにでも腰を上げなければならない。歩いている途中で椅子が目に入って誘われるように座ってしまったが真っ直ぐ階段に向かうんだった。テーブルに右肘を乗っけて一度頬杖をついてしまったら元より一桁台だったヤル気メーターが一気にガクッとゼロになる。
フランス人ならこういう状態をアンニュイと言って表現するのかも。違うかな。まあいいやなんでも。ため息をつきそうになっては止めることを繰り返す。夕べから今朝にかけての自分を思い出すとそれだけで死にたくなってくる。
冷静になってみるとあのオジサン、十代の学生に手を出したんだよな。瀬名さん理論だと十九歳はギリギリセーフで大丈夫みたいだが多分あんまり大丈夫じゃない。違法じゃないけど不当の範囲内だ。不当なことをさせたのは俺だ。
夕べ俺が桜の木の前で食いかけのみたらし団子をパックに戻すことがなければいつも通りの夜で終わっていただろう。あの人が待てをできすぎるせいでこっちの我慢が先にキレた。一流の男とは付き合うもんじゃない。いいようになんでも仕向けられている。
瀬名さんにもらった腕時計を見下ろして秒針が五秒か六秒進んだところでとうとう溜め息が音になった。のっそりと気だるく腰を上げる。雑に引いていた固い椅子を元の位置にガガッと戻した。
上階に移動すれば下の階よりも人の行き来は多くなる。階段すぐそばの講義室に入るとほとんどの人は場所を決めて一人なり複数なりでそれぞれすでに着席していた。そこまで大きくもない部屋だが空いている席はまばらにちらほら。履修登録前の期間の希望者が殺到するような講義だと時々立ち見になる学生まで出てくる。俺はこれくらいの方が落ち着く。
出席確認用のカードリーダーに学生証をピッとかざした。と同時に近くの席にいた浩太を発見。こいつも同じく気づいたようで、軽く上げた手をこっちに向けてヒラヒラと振って見せた。
「おー、ハル」
「おう」
右隣に置いていた荷物を浩太が退かしたのでそこに座る。適当に出したのはペンとルーズリーフ。
無駄に観察力のある浩太はカバンをガサゴソ言わせる俺に確かめるような目を向けてきた。
「大丈夫? なんか疲れてない?」
「……いいや?」
浩太がしょっちゅう女の子から相談事を持ちかけられるのはこういうところなんだろうな。
「難しい顔してどうしたよ」
「してねえよ」
「してるよ」
「……この国のグレーゾーンの定義についてちょっと考えてただけ」
「は? さっきなんの講義受けてきたの?」
「フランス文学」
「フランス文学っ!?」
「うん」
「ほんとに大丈夫かよハル。熱でもあんじゃねえのか」
誰もかれもが俺に失礼だ。
フランス文学は前期のコマが一個余りそうだったから気まぐれに突っ込んだ教養科目だが、それはひとまずどうでもいいとしてこんな事を誰に相談しろと。
こればかりは二条さんにも言えない。陽子さんにはさらに言えない。浩太にはより一層言えるはずがないから本登録をするつもりでいるフランス文学の講義で配られたレジュメを見ているふりをした。
「……やめてよもう。そんなもん見ないで」
「俺が文学やってちゃ悪いか」
「悪いよ。世紀末来ちゃいそうだよ」
なぜここまで貶されなきゃならない。俺にだって文学をたしなむ程度の情緒くらいは備わっている。たぶん。おそらく。ゾウリムシのモサモサしていそうな繊毛の先っちょくらいには。
フランス文学が似合わないらしい俺の前にはイメージカラーが桃色に違いない恋愛風景が広がっている。三列前の席に並んでいる男女一組。やけに顔の距離が近いその二人と俺達との間の席には座っている学生が誰もいないためトロトロと甘ったるい雰囲気が一切の隔てなくこっちにまで飛来して直接ぶっかかってくる。
男の方とはたまに喋る。都会生まれ都会育ちで田んぼと畑には無縁の佐宗だ。女の子の方はカナミちゃん。ミキちゃんと仲良しのメガネ女子だけど視力は左右ともめちゃくちゃいいそうだ。
横長のワークデスク二つ分を間に挟んでいるとは言っても遮るものが何もないから嫌でも視界に入ってきてしまう。若干イラッときている俺の横では浩太がコソコソ耳打ちしてくる。
「付き合い始めたんだって」
「あ?」
顎でクイッと二人の後ろ姿を指し示した。佐宗とカナミちゃんはおしゃべりに夢中。なるほどとしか言いようのない距離感を周囲にドーンと見せつけている。
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「へえ」
「相変わらず他人に興味なさそうだねハルくん」
「朝から鬱陶しいなとは思うよ」
「容赦ねえな」
あの浩太でさえちょっとうんざり気味なイチャイチャ具合だ。カナミちゃんの長いブラウンの巻き髪をそれとなく触るデレデレな佐宗。もー、とか言いながら嬉しそうな顔にしか見えないカナミちゃん。
いかにも付き合いたてのカップルって感じのあの雰囲気はどうにも目障りだ。座る席失敗したな。ここがどこだか教えてやりたい。
「……あれを三分間直視してたら知能指数が九ポイントは下がる」
「感じ悪いから。そういう発言は女の子の前で絶対にしちゃだめだよ」
「しねえよ」
「いくらハルでも大バッシングは避けられない」
誰だろうと避けられそうにない。女子に敵認定された男はその後平和に生きるのが難しい。
カナミちゃんから恋人認定された佐宗はニコニコと平和で幸せそう。佐宗とは時々話すくらいだけどあんなに愛想がいいとは知らなかった。カナミちゃんと喋っているのが嬉しくて仕方ないんだろうなと一発で分かるような締まりのない表情だ。
「……佐宗ってああいう感じなんだな」
「またまた他人事みたいに言っちゃって。どうせハルだって自分の彼女の前ではあんな感じになってんだろ」
「やめろ気持ち悪い」
「気持ち悪いってお前……」
たまにうっかりほだされるけどあそこまでデレデレした覚えはない。
「彼女の前でもお前はそんなツンケンしてんの?」
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「つまんねえ常識に縛られてるより心底惚れてますって気持ちを過剰にアピールするくらいの方が女の子は喜ぶぞ」
「俺がどんなでも向こうは気にしねえもん」
「すっげえ自信。てかなに、彼女クール系?」
厳密には彼女ではないのだがあの男は一体何系にカテゴライズできるだろう。
クール系でないことは確実。見た目はそうと言えそうであるものの中身があれだと外見の効力は三日と経たずに木っ端みじんだ。深堀りすれば深堀りするだけどんどん残念な本性が見えてくる。そんな三十代前半社会人男性の適切なカテゴリーとは。
「……分からない」
「分かんないってことはないでしょ。年上ってのはミキから聞いてるけど」
「…………」
あの子はまた余計なことをペラペラと。
「何個上?」
「……さあな」
「美人?」
「お前には教えない」
「そうやって冷たいんだよねハルくんは。年上のお姉さんとはいつも何して遊んでるの?」
「何って……」
「デートは?」
「するけど……」
「どこで?」
「……普通にメシ屋とか」
「ふーん。家では?」
「…………」
「…………」
そんなつもりでは全然なかったのに畳みかけるように問われた結果ついつい押し黙る形となった。恋人と家で何をしているか即座に答えられなかったせいで浩太からかけられたのはあらぬ疑惑。
「……ヤラしい」
「違う。やめろ」
「ハルくんもちゃんと男の子じゃん」
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公爵令嬢リディアの婚約者は、レフィオル王国の第一王子アデルバート殿下だ。しかし、彼はリディアに冷たく、最近は小動物のように愛らしい男爵令嬢フィオナのほうばかり気にかけている。
ついには殿下とフィオナがつき合っているのではないかという噂まで耳にしたリディアは、婚約解消を申し出ることに。しかし、アデルバートは全く納得していないようで……。
※二部以降雰囲気が変わるので、ご注意ください。少し後味悪いかもしれません(主人公はハピエンです)
※小説家になろうにも掲載しています
◆表紙画像はGirly Dropさんからお借りしました
(旧題:婚約者は愛らしい男爵令嬢さんのほうがお好きなようなので、婚約解消を申し出てみました)
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