貢がせて、ハニー!

わこ

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54.夜桜の誘惑

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 気が向いた時には軽めに走って気分転換と運動不足の解消を行っている。使っているコースはいつも一定でだいたいは決まっているが、通り沿いに桜が植えられている道を走ることも少なくない。前年の夏にできた蕾が開き始める手前の頃から、一つ二つと咲き始める様子を肌で感じ取りながら観察できた。
 一方で自宅マンション前の小さな公園の中に植えてある桜の様子は気にかけていなかった。 部屋の空気を入れ替えがてら掃き出し窓を開けたついでに何気なくベランダへ出てみたその時、眼下にはぶわっと夕方の桜色が広がっていることを意識した。
 公園の桜が満開だ。しかしピークはすぐに過ぎていく。今夜もし大粒の雨が降ったり強めの風が吹いたりしたら、あの花は一気に散ってしまうだろう。地面に落ちた小さな花びらは無情に踏みつけられ土色になる。




「毎日見てる公園だけど中まで入った事はそういやねえなって」
「分かる。俺もだ」
「目の前にあるのに行かないんですよね」
「そういうもんだろ。近すぎると逆に」

 完璧な温度にした湯冷ましの湯を急須に注いでお茶っ葉を蒸らす。今日のは普通の煎茶だけれどちゃんと淹れた方が美味いと最近知った。
 食後のお茶を適当に淹れるかちゃんと淹れるかは気分次第だ。ちゃんとやりすぎるとどこかで挫けるが時々ちゃんとやると満足を得られる。それくらいが俺にはちょうど良くて瀬名さんもそんな俺に付き合った。ベランダから見た桜の話も聞き流さずに付き合ってくれる。
 このお茶っぱの浸出には今くらいのタイミングがベスト。テーブルの上に出してあるのはおそろいの湯飲みが二つ。おそろいのマグボトル二つを今すぐ用意することもできる。

「……行きます?」

 急須を持ちながらそれとなく問いかける。時刻は二十一時。を、少々過ぎた。
 瀬名さんも俺と顔を見合わせた。満更でもない。そんな顔。

「行くか」

 夜のピクニック決行だ。






***






 つい先日の日曜日には散歩がてら二人で花見をしてきた。たぶん一番いい頃合いだった。青空の下の満開の桜は薄ピンクも映えて文句なしに可愛い。
 公園にやってきた今は先日とは違って暗い夜。敷地の周りには等間隔にポツポツ一般的な街灯がたっているだけ。敷地内にも照明はあるものの昼間に比べれば視界は良くない。
 それでも一周ぐるりと植えてある桜をひとつひとつ照らすかのように至る所から絶妙な角度で橙色の明かりが当たっている。夏秋冬はパッとしないしこんなちっちゃな公園なんかと心なしか馬鹿にしていたがなかなか風流。悪くなかった。来年の春もまたここに来よう。

「穴場が家の前にありましたね」
「夜桜見物にはもってこいだったな」

 気づきもしないで生活していた。何も見ていないことを思い知る。気づいていない事に気づくことは簡単そうでいて難しい。
 人のいない夜の公園でベンチに並んで腰かけながら、点在しているライトに照らされた桜の木々をゆったり見上げる。手元にはお茶屋さんがお茶を持ち運ぶためだけに作ったお茶専用の最強マグボトル。保温性はもちろんのこと、せっかく淹れたお茶の酸化も防ぐので風味を損ねることなく飲める。
 膝の上のお花見のお供は瀬名さんが買ってきた串団子だ。パックの中から一本を取り出し、両目は桜の方に向けつつ四つボンボン刺さっている中の一番食いやすい先頭をパクっと。

「みたらしウマ」
「お前は文字通り花より団子だな」
「桜もちゃんと見てますよ」
「もうそろそろ見納めになる」

 最上の頃はやや過ぎた。満開が終われば花びらが散り始め、すでに青葉が微かにぴょこぴょこ生えてきているのが遠目にも分かる。桜が最も輝ける時間は一年の中で一番短い。
 気づけば長い春休みも終わり俺は学生二年目になっていた。大学はいま履修登録期間中。必修科目がいくつかあって受講したい科目はだいたい決まっていて残り数科目は抽選の結果待ちだがハズレた場合に受けようと思っている講義も予備で決めてある。

 一年が終わるとまた一年が始まる。いくつかのものは新しくなりいくつかのものは継続していく。俺達の関係は新しくなったのか、それとも一年前からの継続か。
 チラリと左側に視線を下げて瀬名さんの手の中のマグボトルを見る。俺の右手側にも全く同じタイプのマグボトル。瀬名さんはグリーン系。俺のはブルー系。おそろいを確認してからもう一度顔を上げ、桜を眺めながら二個目の団子にモチッと容赦なく食らいついた。

「……なんか……」
「うん?」
「桜って誰の目から見ても必ず綺麗じゃないですか。咲き始めれば喜ばれるし満開になればみんな見に来るし」
「そうだな」
「どうしてそうなるんでしょうね」

 問いかけとも言えない俺の言葉に瀬名さんからの返答はしばしない。いくらかばかり間を置いたのち、怪訝な目を向けられた。

「……それは桜を見た時に綺麗だと思う人間の感情はなんなのかという哲学か? それとも詩人にでもなったつもりか?」
「うーん……どっちも?」
「お前のせいで明日の天気は暴風雨になると決まった」

 失礼な。団子持って花見してる奴にミジンコサイズの風情さえも備わっていないとは思うなよ。
 花が咲いているときの桜はどこから見ても綺麗にうつる。桜そのものが嫌いだと言う人はもしかするといるかもしれないが、あの繊細な花を見て、汚いと思う人はきっといない。

「心配しなくても花が全部散って夏になれば毛虫どもの巣になる。そうすりゃ人間は誰も近付かねえ。業者以外は」
「人が風情を感じてる時になんなの」

 あの繊細な花の木を見てこんな事を思う男ならいた。
 人間が三人も寄り集まればそれなりに良い考えが浮かぶらしいが俺達は今二人きりだから哲学者にも詩人にもなれない。仕方がないから三個目の団子に横からあぐっと食いつく。串に刺さっているお団子はこの辺から食いづらくなってくる。
 俺がもしも哲学者ならどうして串に団子が刺さっているのか真剣に考え始めたかもしれない。もしも詩人だったとしたら楽しい歌詞ができていたかも。
 どっちでもないのでただ団子を頬張り桜を見上げてお茶を飲む。瀬名さんも同じように桜を見上げてお揃いのマグボトルに口を付けた。

「実家の裏庭にな」
「うん」
「梅の木ならある」
「なんて贅沢な庭」
「じいさんの趣味が庭いじりだったらしい。風呂入りながら浴室の窓開けるとそこから見えた。今もある」
「最高じゃないですか」

 梅の木も桜に劣らず春を思わせる風物の一つだ。全体的に丸みを帯びた花びらが桜とはまた一味違う。

「春になると梅の花狙ってヒヨドリが飛んでくる」
「鳴き声けたたましい奴ですよね。他には?」
「たまにメジロも」
「かわいい奴だ」

 よくウグイスと間違えられる小鳥。目の周りが白くておしゃれな。

「野鳥来るのいいな」
「遥希にはガーくんがいるだろ」
「いるけど」
「池まである」
「池ったってガーくん専用の水浴び場みたいなもんですよ。ウチの庭には他にちっちゃい畑とどんぐりの木くらいしかありません」
「どんぐり?」
「たくさん植わってるんです。ガキの頃はよく拾い集めて遊びました」
「お前んち楽しそうだよな」
「米袋の口いっぱいまでパンパンにドングリ詰めて家の裏に放置しといたらキモい虫が大量にわいちゃって母さんにめちゃくちゃ怒られたっていうとても悲しい思い出もあります」
「最低じゃねえか」

 ガーくんがそのキモい虫をくちばしでつつくから更にキモかった。

「ド田舎だし暇でしたけどなんだかんだ退屈ではなかったです」
「ガーくんがいてドングリまでありゃそりゃそうだろ」
「瀬名さんちはにゃんこと梅でしょう?」
「退屈した記憶がない」

 目の色はイエローだけれどロシアンブルー似の美猫がいたうえに鳥も遊びに来る梅の木があればそんなの退屈のしようがない。
 退屈は人を殺すのに効果的だが何が退屈かは人による。同じだけの時間の中で同じ物や事を持っていたとしても満足いくか退屈するかはおそらくその人の考え方次第だ。
 俺はアヒルとどんぐりで楽しめて瀬名さんは猫と梅で楽しめる。入れ替えても満足できるだろう。煎茶のマグボトルと団子を持って夜の公園に桜を見に来るのはそれが退屈じゃないからで、一人だったら来ないだろうが、俺の隣には瀬名さんがいる。
 退屈だなんて思う余地がない。程よい距離から桜を見上げた。

「……きれい」
「ああ」

 公園内に植えてあるほとんどの桜はソメイヨシノだ。花屋でバイトをしていながら桜の種類も知らない俺にどうしてそれが分かるのかというと、ご丁寧にも整った筆文字でソメイヨシノと記してある木札が桜のそばに埋めてあるから。俺みたいな人のためへの大変なお気遣いに違いない。

 公園の土の占有率はソメイヨシノが見るからに一等。そうやって園内をぐるりと一周見栄えよく囲んでいる中、少しだけ離れた場所にはポツンと一本枝垂桜が植えてある。
 ポツンと、と表現するにはあまりにも荘厳で圧巻される。まるでその一本のためだけかのように近くには橙の照明もある。他の桜の木々に比べて明らかに大きく、幹は古く、かなりの樹齢を思わせる桜。もしかするとあえてこの配置でソメイヨシノと分けているのかもしれない。

 瀬名さんもその立派な大木を見ていた。その間にも咲き終えた花びらがヒラヒラと舞い落ちていく。大きな木につく壮麗な花でも一枚一枚はとても小さく、光に照らし出される裏では暗く影を作りながら音もなくひそやかに散っていく。
 地面に落ちるその瞬間まで優雅な姿を見せつけてくるのは桜として生まれた誇りだろうか。弱い花に見えて実はそうじゃない。あれを美しいと思わずにいるのは、人間にはだいぶ困難だ。

「毎年思うんだが、しだれ桜ってやつは……」
「……はい」
「エロいよな」
「台無しだよ」

 いい年した大人なんだからもう少しくらいマシなこと言えよ。

「情緒がねえとか人に散々言っておきながら自分はなんですか」
「俺は下心に満ち溢れていると常日頃から言ってんだろ」
「時と場合を選んでください。今は開き直るタイミングじゃないです」
「みたらし団子持って花見してるガキに説教されるとは俺もヤキが回った」
「みたらし団子持って花見してるガキで悪かったなこの、」

 エロジジイ。って言おうとしたけどキスされちゃったから続かない。
 甘い餡でちょっとベタついている唇を丁寧に舐められた。濡れたそこが空気に当たると、感じるのはひんやりとした冷たさ。

「…………」
「あまいな」
「……みたらし……食ったから」

 三個目は特に食いづらかったから。
 微妙に閉じ切らない半端な口元に瀬名さんの唇が再び近付く。まだ濡れているそこに軽く重なり、口の端にちゅっと吸いついていった。

「口にみたらし付けてるようなガキは俺が食っちまうぞ」
「…………」

 食っちまおうなんて思っている大人はそんな親切な予告をしない。思った通りこの人の目はそのまま枝垂桜へと向けられた。
 最後の一個がまだ刺さっているみたらし団子の串を置く。この近辺は相変わらず閑静。夜ともなれば物音すらない。
 花びらを散らす夜風が一度だけザッと少々大きく吹いて、ぶわりと薄ピンク色を舞わせたあとにはまた静寂が訪れた。

「……瀬名さん」
「ああ」
「桜はもうすぐ散っちゃいますよ……」
「そうだな」

 咲き始めの頃は待ち遠しいのに。終わる頃にはどうにも寂しい。

「桜が全部散っちゃったら春もすぐに終わります。梅雨が来て、そしたら今度は夏が来るんです。それで秋が来たなとか思ってるうちに気づいた時には真冬になってる」
「四季のある国だからなここは」
「……あっという間です」
「あっという間だ」
「…………」

 そんな返答が欲しいのではないし瀬名さんもそれくらい分かっている。この人は桜くらい繊細な人だ。こういうのには、すぐ気づく。

「あなたはいつまで待ってる気ですか」

 春は一年の始まりの季節。この国にいる多くの人にとってそれは当たり前の感覚だ。哲学を知らなくても情緒がなくてもここでは桜を起点として見る。
 その桜がもうすぐ散ってしまう。一年なんてまたすぐに過ぎるのに瀬名さんはまだ俺を待つ。いつまでとこちらから明確に聞いて、それでこの人はようやく答える。

「どうした。エロい桜見て混乱したのか」
「……そうかもしれません」

 俺はきっと混乱してる。桜がこんなに綺麗なのが悪い。

「団子よりも花のがいいなって思うことくらい、俺にもあります。今がそうです」

 瀬名さんがいないと思うだけで夜は退屈で仕方がなかった。瀬名さんと一緒にいる時には何もなくても退屈しない。
 全部この人の予言通りになった。どうしたってこの男は一流だった。横からほんの控えめな程度に瀬名さんの右腕を掴んで、指先に触れる服を握った。

「……帰ろう」

 一本目のみたらし団子はまだ一個残っている。団子よりも花を選んで、瀬名さんの落ち着いた声を聞く。

「いま帰ったらスマホの電源は切っちまうがそれでもいいのか」
「……はい」
「今度こそ邪魔は入らねえ。入ったとしても止める気はない」
「……うん」

 小さく頷いた俺を掠めてさらさらと穏やかに風が吹き、ヒラヒラと花びらは舞い散った。
 桜の前から二人で消える。俺も瀬名さんもそれ以上は何も喋る必要がない。手を繋いで少し足早に、邪魔の入らない部屋を目指した。
 俺達の姿を見ていたのはまだまだ若気なソメイヨシノと、人を惑わす枝垂桜。口の堅そうなそいつらだけだ。
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