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53.瀬名恭吾Ⅱ
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あれだけ食わせてもらっておいて一銭も払わないのはさすがに。そう思って口にも出したけど二条さんは受け取らなかった。
「今度はあいつも連れてきてよ。恭吾にたくさん奢ってもらいな」
にこやかに言われたのはそんなこと。店の前でヒラヒラ手を振りながら、陽子さんと隣同士並んで二条さんは俺を見送った。
ラヴィの新メニューはと言うとエビカニの贅沢フライプレートと、ソースの完成に二百時間費やしたチキングリルで決定するそうだ。
「次は一緒においでって」
「断る。俺は行かない」
「いつでも待ってるって陽子さんからも伝言預かってきたんですけど」
「それは罠だ」
「そうやって警戒ばっかりしてないで少しは素直に受け取りましょうよ。陽子さん優しい人じゃないですか」
「お前はあの人の元部下じゃねえからそんな呑気なことが言えるんだ」
本当に何があったんだろう新人時代に。
帰ってきた瀬名さんの周りをチョロチョロしながら誘いをかけるもあっけなく失敗に終わった。瀬名さんはラヴィに寄り付かない。頭が上がらない元上司もいるし、二条さんを喜ばせるような感想を抱いてしまうのも癪なのだろう。瀬名さんはなんだかんだ言いつつ二条さんのご飯が大好きだ。
「まったく。まんまとあの夫婦に洗脳されやがって」
「されてません」
「何がチキングリルだよ」
すげえ嫌そう。
スーツ用のラックにジャケットをかけた瀬名さんの手は、ネクタイをシュルっと解くとそのまま続けてシャツのボタンをプチプチと外しにかかる。見え隠れするのは割れた腹筋。気になる。見事なシックスパックだ。気になってもう仕方がないから好奇心に負けてヒタッと触れた。
すべすべした手触り。温かい。カチカチではなく、しなやかな弾力。とても綺麗な筋肉のつき方。昔からこんなボディに憧れていた。
「……何してんだ」
「腹筋すげえなと思って」
「誘ってるとみなして襲うぞ」
「ははは」
「つまらなそうに聞き流すな」
知らん顔でごまかしながら手のひらでペタペタ触る。なんて羨ましい体だろう。
「いいなあ……。ベッドの下のダンベルだけでどうやって全身の筋肉維持するんですか?」
「ダンベルだけじゃねえ。ジムにも行ってる」
「適当な嘘つかないでくださいよ。土日はいつも俺といるじゃないですか」
「いや、平日だ」
瀬名さんは平日ジムに行く。本人の口から出た新事実。
時々急に動作が固まる小動物と同じ気持ちになった。
「……え?」
「会社終わったあと」
キョトンとする俺に向けて、財布の中から取り出した何かを瀬名さんが差し出してきた。渡されるまま受け取って見下ろす。黒いプラスチックのメンバーズカードだ。思いっきりジムって英語で書いてある。
「…………」
ベッドの下のダンベルだけじゃない。瀬名さんはジムの会員だった。
「……超初耳なんですけど」
「すまん。聞かれなかったから」
「…………」
この人結構こういうところある。
「平日はいつも行ってるんですか……?」
「都合がつく限りはほとんど。会議が入ったときやなんかは寄らずに帰ってきてるけどな」
「へえ……」
オフィス内での会議であれば朝でも昼でもできるだろうが、ヨーロッパにいる人達とやりとりする必要があるときは開始も夕方以降くらいだろう。向こうとこっちとの時差的に。
瀬名さんの仕事用スマホは時たま夜遅くに鳴る事もある。立場が上になればそれだけ業務の幅も広がってくるから忙しくないはずはないと陽子さんも今日言っていた。
ウソかホントか知らないけれど外資系は残業がないとのウワサくらいは聞いたことがある。しかし瀬名さんを見ている限り、少なくとも当てはまらない企業の一つや二つはそりゃあるよなと。勝手に思っていたのだが。
「いつも八時近くまで仕事してるんだとばかり……」
「ウチの会社の定時は六時だ。繁忙期はまあともかく、会議の予定でもなければ残業してくる事はほとんどない。仕事が終わんねえようなら一旦切り上げてうちに持って帰る」
瀬名さんが仕事を持って帰ってきているところはしばしば見かける。平日は朝から晩まで仕事。寝る前は俺のために時間を費やし、休日は起きてから寝るまでひたすら一日俺に尽くして。
それでいいのかと疑問ではあった。この人はそれがいいって言うけど、自分の時間と言えるような気分転換のための何かはないのかと。
そんな心配をする必要はなかった。瀬名さんにもそういう時間はちゃんとあった。それなのにこの男は何を思ったか、メンバーズカードを財布に戻すと急に神妙な顔になった。
「……悪かった。考えてみりゃ毎日メシ作ってもらっといて自分は寄り道して帰ってくるってのは甘えすぎだったな」
「え、いえ。それは全然構わないんですが」
「ここはもう退会する」
「はっ? なんでそうなるの、ダメですよやめちゃ」
どうすりゃその結論に至るのか。どこまでズレときゃ気が済むんだ。
ジムなんか行ってねえでさっさと帰って来てメシ作るの手伝えみたいな鬼的思考は持っていないから心配しなくても大丈夫だ。
「楽しくて行ってるんでしょう?」
「楽しいと言うか……習慣?」
コテッと首を傾げながら疑問形で返してきたこの人。自分のことなのになんでそんなに興味がなさそうなんだろう。
「……いつから行ってるんです?」
「ここの会員になったのは引っ越してきてから」
「ジム通い歴は?」
「十年以上。社会人一年目の頃からだ」
「ああ……自由になるお金が増えたってやつですか」
「いや、どっちかって言うと逆だな。会費というサンクコストでもなければ仕事を言い訳に運動不足が定着するのが目に見えてた」
「なるほど」
社会人になって急に運動しなくなって心身ともに一気に老け込むサラリーマンは少なくない。
「これは保険みてえなもんだ。住む場所も金も仕事も仮にすべて失ったとしてもとりあえず健康でさえあれば大体の事はなんとかなる」
「……なるほど」
ジムに通う理由まで合理的。一年前まで不健康な食生活送ってた人がどの口でって感じではあるけれど。
「保険も兼ねた習慣とは言えよく十年も続いてますね」
「ガキの頃から運動は嫌いじゃない。没入感がクセになる」
「それは楽しいってことですよ。あなたは筋トレが趣味なんですよ」
「そうか。そんなのは考えた事もなかった」
「…………」
ことごとく自分に関心がない。カモ科の鳥類に寄せる関心の十分の一も興味を持ってない。大丈夫なのかこの人は。こんなんだからかつての上司に高性能マシン呼ばわりされるんだ。
はじめてこの部屋に入った時も殺風景な室内には驚かされた。必要最低限の物だけ。それだけしか置いていない部屋に帰ってきた後は何をするのかとなんの気なしに問いかけた俺に、この男はさも当たり前のように仕事と単語で言ってのけた。
そういう人の、おそらくは唯一の趣味だ。しかもその継続期間は十年以上。没入感を味わえるほどの大切な時間は奪えない。
「……とにかく、ジムはやめちゃだめですよ」
「いいのか?」
「いいに決まってます。むしろ続けてください。その体は末永く維持してほしい」
「それは抱かれたいって意味でいいか」
「全然よくない。一言もそんなこと言ってませんよ」
行動のあれこれは理にかなっているのに解釈の仕方は異常だ。かなり都合のいい方向に行った。さり気なく腰に回された腕はそれとなく叩き落とした。
「ずっと気づかずにいた俺も俺なんですけどいつもウェアとかどうしてるんです? 洗濯物に交ざってんのも見た事ない」
「レンタルのオプション付けてる」
「レンタル?」
「ああ」
「……意外ですね。他人の汗にまみれた服なんか着たくねえとか言いそうなのに」
「実際ずっとそう思ってた」
懲りずにまた腰に腕を伸ばしてくる。一歩下がってその手から逃れた。
「心変わりのきっかけは?」
「一度タオル忘れたことがあってその時試しに借りてみたら極めて衛生的なことに気づいた」
「不衛生なもん提供してたら会員いなくなるでしょうからね。もしかしてシューズも借りられたりします?」
「今行ってるとこは借りられるがそれは自分の使ってる。すぐ近くのコインランドリーで洗ってるからここに持ち帰ることはないけどな」
「だからか。この部屋でそれっぽいシューズも見た事ねえもん」
「ウチに持って帰る物は基本的に何もない。ジムのロッカーはデカいの借りてるしシャワールームにはアメニティもあるし毎回ほぼ手ぶらで済んでる。お前が気づかねえのも無理はねえよ」
言いつつジリッと追い詰めるようにどんどんにじり寄ってくる。俺の真後ろにはクローゼットがあるためもう半歩下がったら行き止まった。
「つーかそこめちゃくちゃ設備良くないですか?」
「最近はこういう所も多い。これくらいはしねえと人が入らねえんだろ」
「ジムやってくのも大変なんですね」
「競合はそこら中にいるからな」
トンっと、顔の左側につかれた瀬名さんの手。右側にふいっと視線を逃すと同じようにして両サイドを囲われた。
ちょっと腹筋触っただけでこんな迫ってくるなんて聞いてない。
「……晩飯の準備ができてます。あとは皿に乗せるだけなんです」
「キスの一回くらいいいだろ」
「あんたはその一回がしつこいんだよ」
二条さんの新メニューに触発されて今日は結構頑張った。普段はやっちゃう手抜きもしていない。正統派な調理工程で下処理からちゃんとやった。
さきほど瀬名さんが帰ってきたのとほとんど同時のタイミングで調理を終えて火を消したから今がベストな状態だ。いま食うくらいが一番ウマい。でも瀬名さんはグイグイ来る。
クローゼットの扉に押し付けられた、その瞬間にはキスされている。ついばんで舐めて、甘噛みもされて、スリッとゆっくり唇が擦れた。
案の定この一回が長い。その右腕はいつの間にか俺の腰を抱いている。下唇を舌先でなぞり、そこにチュッと吸いつくのを何度か繰り返してようやく離れた。すごくしつこい。
「……もう。健康が大事だってんならこんなことしてねえでメシ食いましょうよ」
「恋人に誘われたら応えんのが礼儀だろ」
「俺がいつ誘いましたか」
黙らせるみたいにムグッともう一回塞がれてしまってやむを得ず黙る。
一回と言っておきながら結局は二回だしその二回目はよりしつこい。そうかと言って弾き飛ばすのは惜しいような気もしてしまうから抵抗の意思はなく受け入れる。
キスが上手い男は卑怯だと思う。抵抗される前に抵抗を封じる。封じられている俺はまんまと自ら舌を絡めて、エロいキスにのめり込む。俺を洗脳しているのはあのご夫婦ではなくてこの野郎だ。
焦らすようにして唇を撫でられるくすぐったいこの感覚は何度経験してもぞわぞわする。わずかに隙間を作られたところでふっと呼吸が漏れ出たその時、しかしなんとなく、覚えた違和感。下の方だ。尻の辺り。
サワッと。ていうか。モゾッと。
「…………」
やんわり包み込むように揉まれている。間違いなく故意に尻を触っていた。
なんという思い切りのいい現行犯。俺の眉間がクッと寄っても瀬名さんは全然動じない。
「今夜は?」
「は……?」
「晩メシ」
「…………」
男の尻を撫で繰り回しながら聞くような内容では絶対にない。
とりあえずは睨みつけておく。そうやって威嚇しつつも自信満々に答えられる晩飯を用意しておいて良かった。
「今夜は和食です」
恋人の健康を想ってとかじゃなく自分の昼メシが洋食だったから。いつまでもセクハラ現行犯な右手はいささか強めにぶっ叩いた。
「揉むな」
「そんな事より」
何がそんな事よりだ。
「部屋入った時からずっといい匂いしてる」
「でしょう? 頑張って作ったのに冷めちゃうじゃないですか」
「何作ったんだ?」
「カレイの煮付けと肉じゃがです」
「俺達はいつの間に結婚したんだ」
「してないから大丈夫ですよ」
瀬名さんはセクハラ魔のうえに重度の妄想癖まである。妄想ついでにさらなるしつこい三回目が来てしまう前にぐいっと胸板を押し返した。
ダイニングに行ってまず手に取るのはテーブルの上の小ぶりな紙袋。白い紙袋の右下には小さく店の名前が入っている。肉じゃがを皿に盛る前に恒例のお土産チェックだ。
「晩メシがカレイと肉じゃがなら和菓子屋に入って正解だったな」
横から言ってくる瀬名さんの言葉通り、紙袋の中身は見た瞬間に和だなって分かるうぐいす色の箱。
普段は洋菓子を中心に買ってきてくれることが多いが時たま和スイーツでも攻めてくる。水ようかんとか最中とか。夏にはあんみつとか葛切りとか。
数日前に食った桜饅頭も上品なお味だった。三月に入ってからは桜パウンドケーキや桜フィナンシェや桜杏仁豆腐や桜餅などなど、桜攻めにあうこともしばしば。
クリームも好きだけどあんこも好き。ふわふわのスポンジケーキも好きだけど饅頭の素朴な皮も好き。
今日は何かな。ハズさない男にもらった綺麗な箱をパカッと開ける。見下ろした直後、ハッとした。
「アヒル!」
「かわいいだろ」
「職人さんすっげえッ」
「そこかよ」
中身はちょこんとした練り切りだった。桜型のが三個。そしてアヒルが三羽。可愛い色形をした六個の練り切りは和菓子職人さんの技術の結晶だ。
アヒルと桜の組み合わせはなかなか見かけないので謎めいているが、小さな目でこっちを見ている三匹のアヒルがとても可愛い。何気にみんなポーズが違う。ノーマルな正面向きのアヒルと、くちばしをクワッと開いているアヒルと、あろう事かひっくり返ってジタバタしている様子のアヒル。再現度までハイクオリティー。
「春限定のセットだそうだ」
「春限定でなんでアヒル?」
「他にもネコ桜セットとかタヌキ桜セットとか色々あった」
「タヌキ……」
「和菓子専門店も最近は結構攻めてる」
伝統的なお菓子のお店も前衛的に頑張る時代だ。ジムと言い和菓子屋と言い淘汰を防ぐためには努力を惜しまない。
見れば見るほど可愛いアヒルだ。十人に聞けば十人が必ずアヒルと答えるだろうこの技巧。
職人さんの手先がとても器用だから食後のデザートはアヒルに決まった。食べるのは少々もったいないけどどんなに可愛いアヒルだとしてもこれなら罪悪感は抱かない。
「メシ食ったら今日はお茶淹れますね。この前の玉露のやつ」
桜スイーツ攻めが始まって少しした頃に瀬名さんは玉露を買ってきてくれた。パッケージからして高級そうな茶葉の。五百円前後の表示価格とともにスーパーの棚にズラッと並べられている普通の煎茶とは違うのだろうと思わざるを得ないそれ。
「美味いお茶の淹れ方きわめるまであれは開けねえって言ってなかったか」
「動画見まくって勉強したから任せて。俺はやれますよ。ばっちりです」
「頼もしいな」
「なに笑ってんですか」
斜め下にやや顔俯かせるも笑いを堪えているのはバレバレ。
バカにしやがって。見てろよ、美味いの淹れてやるからな。お茶淹れんのもちゃんとやろうとすると結構奥が深いんだぞ。
厳重に保管しておいた玉露を今とうとう戸棚から出した。高級そうなその缶を手にしてちらりと瀬名さんを振り返る。まだ若干目を逸らしていた。
「……笑いすぎです」
「十九の男がこんなに可愛くて大丈夫なのか」
「バカにしすぎだよ」
ムッキムキのバッキバキに鍛えて瀬名恭吾を見返してやりたい。
「今度はあいつも連れてきてよ。恭吾にたくさん奢ってもらいな」
にこやかに言われたのはそんなこと。店の前でヒラヒラ手を振りながら、陽子さんと隣同士並んで二条さんは俺を見送った。
ラヴィの新メニューはと言うとエビカニの贅沢フライプレートと、ソースの完成に二百時間費やしたチキングリルで決定するそうだ。
「次は一緒においでって」
「断る。俺は行かない」
「いつでも待ってるって陽子さんからも伝言預かってきたんですけど」
「それは罠だ」
「そうやって警戒ばっかりしてないで少しは素直に受け取りましょうよ。陽子さん優しい人じゃないですか」
「お前はあの人の元部下じゃねえからそんな呑気なことが言えるんだ」
本当に何があったんだろう新人時代に。
帰ってきた瀬名さんの周りをチョロチョロしながら誘いをかけるもあっけなく失敗に終わった。瀬名さんはラヴィに寄り付かない。頭が上がらない元上司もいるし、二条さんを喜ばせるような感想を抱いてしまうのも癪なのだろう。瀬名さんはなんだかんだ言いつつ二条さんのご飯が大好きだ。
「まったく。まんまとあの夫婦に洗脳されやがって」
「されてません」
「何がチキングリルだよ」
すげえ嫌そう。
スーツ用のラックにジャケットをかけた瀬名さんの手は、ネクタイをシュルっと解くとそのまま続けてシャツのボタンをプチプチと外しにかかる。見え隠れするのは割れた腹筋。気になる。見事なシックスパックだ。気になってもう仕方がないから好奇心に負けてヒタッと触れた。
すべすべした手触り。温かい。カチカチではなく、しなやかな弾力。とても綺麗な筋肉のつき方。昔からこんなボディに憧れていた。
「……何してんだ」
「腹筋すげえなと思って」
「誘ってるとみなして襲うぞ」
「ははは」
「つまらなそうに聞き流すな」
知らん顔でごまかしながら手のひらでペタペタ触る。なんて羨ましい体だろう。
「いいなあ……。ベッドの下のダンベルだけでどうやって全身の筋肉維持するんですか?」
「ダンベルだけじゃねえ。ジムにも行ってる」
「適当な嘘つかないでくださいよ。土日はいつも俺といるじゃないですか」
「いや、平日だ」
瀬名さんは平日ジムに行く。本人の口から出た新事実。
時々急に動作が固まる小動物と同じ気持ちになった。
「……え?」
「会社終わったあと」
キョトンとする俺に向けて、財布の中から取り出した何かを瀬名さんが差し出してきた。渡されるまま受け取って見下ろす。黒いプラスチックのメンバーズカードだ。思いっきりジムって英語で書いてある。
「…………」
ベッドの下のダンベルだけじゃない。瀬名さんはジムの会員だった。
「……超初耳なんですけど」
「すまん。聞かれなかったから」
「…………」
この人結構こういうところある。
「平日はいつも行ってるんですか……?」
「都合がつく限りはほとんど。会議が入ったときやなんかは寄らずに帰ってきてるけどな」
「へえ……」
オフィス内での会議であれば朝でも昼でもできるだろうが、ヨーロッパにいる人達とやりとりする必要があるときは開始も夕方以降くらいだろう。向こうとこっちとの時差的に。
瀬名さんの仕事用スマホは時たま夜遅くに鳴る事もある。立場が上になればそれだけ業務の幅も広がってくるから忙しくないはずはないと陽子さんも今日言っていた。
ウソかホントか知らないけれど外資系は残業がないとのウワサくらいは聞いたことがある。しかし瀬名さんを見ている限り、少なくとも当てはまらない企業の一つや二つはそりゃあるよなと。勝手に思っていたのだが。
「いつも八時近くまで仕事してるんだとばかり……」
「ウチの会社の定時は六時だ。繁忙期はまあともかく、会議の予定でもなければ残業してくる事はほとんどない。仕事が終わんねえようなら一旦切り上げてうちに持って帰る」
瀬名さんが仕事を持って帰ってきているところはしばしば見かける。平日は朝から晩まで仕事。寝る前は俺のために時間を費やし、休日は起きてから寝るまでひたすら一日俺に尽くして。
それでいいのかと疑問ではあった。この人はそれがいいって言うけど、自分の時間と言えるような気分転換のための何かはないのかと。
そんな心配をする必要はなかった。瀬名さんにもそういう時間はちゃんとあった。それなのにこの男は何を思ったか、メンバーズカードを財布に戻すと急に神妙な顔になった。
「……悪かった。考えてみりゃ毎日メシ作ってもらっといて自分は寄り道して帰ってくるってのは甘えすぎだったな」
「え、いえ。それは全然構わないんですが」
「ここはもう退会する」
「はっ? なんでそうなるの、ダメですよやめちゃ」
どうすりゃその結論に至るのか。どこまでズレときゃ気が済むんだ。
ジムなんか行ってねえでさっさと帰って来てメシ作るの手伝えみたいな鬼的思考は持っていないから心配しなくても大丈夫だ。
「楽しくて行ってるんでしょう?」
「楽しいと言うか……習慣?」
コテッと首を傾げながら疑問形で返してきたこの人。自分のことなのになんでそんなに興味がなさそうなんだろう。
「……いつから行ってるんです?」
「ここの会員になったのは引っ越してきてから」
「ジム通い歴は?」
「十年以上。社会人一年目の頃からだ」
「ああ……自由になるお金が増えたってやつですか」
「いや、どっちかって言うと逆だな。会費というサンクコストでもなければ仕事を言い訳に運動不足が定着するのが目に見えてた」
「なるほど」
社会人になって急に運動しなくなって心身ともに一気に老け込むサラリーマンは少なくない。
「これは保険みてえなもんだ。住む場所も金も仕事も仮にすべて失ったとしてもとりあえず健康でさえあれば大体の事はなんとかなる」
「……なるほど」
ジムに通う理由まで合理的。一年前まで不健康な食生活送ってた人がどの口でって感じではあるけれど。
「保険も兼ねた習慣とは言えよく十年も続いてますね」
「ガキの頃から運動は嫌いじゃない。没入感がクセになる」
「それは楽しいってことですよ。あなたは筋トレが趣味なんですよ」
「そうか。そんなのは考えた事もなかった」
「…………」
ことごとく自分に関心がない。カモ科の鳥類に寄せる関心の十分の一も興味を持ってない。大丈夫なのかこの人は。こんなんだからかつての上司に高性能マシン呼ばわりされるんだ。
はじめてこの部屋に入った時も殺風景な室内には驚かされた。必要最低限の物だけ。それだけしか置いていない部屋に帰ってきた後は何をするのかとなんの気なしに問いかけた俺に、この男はさも当たり前のように仕事と単語で言ってのけた。
そういう人の、おそらくは唯一の趣味だ。しかもその継続期間は十年以上。没入感を味わえるほどの大切な時間は奪えない。
「……とにかく、ジムはやめちゃだめですよ」
「いいのか?」
「いいに決まってます。むしろ続けてください。その体は末永く維持してほしい」
「それは抱かれたいって意味でいいか」
「全然よくない。一言もそんなこと言ってませんよ」
行動のあれこれは理にかなっているのに解釈の仕方は異常だ。かなり都合のいい方向に行った。さり気なく腰に回された腕はそれとなく叩き落とした。
「ずっと気づかずにいた俺も俺なんですけどいつもウェアとかどうしてるんです? 洗濯物に交ざってんのも見た事ない」
「レンタルのオプション付けてる」
「レンタル?」
「ああ」
「……意外ですね。他人の汗にまみれた服なんか着たくねえとか言いそうなのに」
「実際ずっとそう思ってた」
懲りずにまた腰に腕を伸ばしてくる。一歩下がってその手から逃れた。
「心変わりのきっかけは?」
「一度タオル忘れたことがあってその時試しに借りてみたら極めて衛生的なことに気づいた」
「不衛生なもん提供してたら会員いなくなるでしょうからね。もしかしてシューズも借りられたりします?」
「今行ってるとこは借りられるがそれは自分の使ってる。すぐ近くのコインランドリーで洗ってるからここに持ち帰ることはないけどな」
「だからか。この部屋でそれっぽいシューズも見た事ねえもん」
「ウチに持って帰る物は基本的に何もない。ジムのロッカーはデカいの借りてるしシャワールームにはアメニティもあるし毎回ほぼ手ぶらで済んでる。お前が気づかねえのも無理はねえよ」
言いつつジリッと追い詰めるようにどんどんにじり寄ってくる。俺の真後ろにはクローゼットがあるためもう半歩下がったら行き止まった。
「つーかそこめちゃくちゃ設備良くないですか?」
「最近はこういう所も多い。これくらいはしねえと人が入らねえんだろ」
「ジムやってくのも大変なんですね」
「競合はそこら中にいるからな」
トンっと、顔の左側につかれた瀬名さんの手。右側にふいっと視線を逃すと同じようにして両サイドを囲われた。
ちょっと腹筋触っただけでこんな迫ってくるなんて聞いてない。
「……晩飯の準備ができてます。あとは皿に乗せるだけなんです」
「キスの一回くらいいいだろ」
「あんたはその一回がしつこいんだよ」
二条さんの新メニューに触発されて今日は結構頑張った。普段はやっちゃう手抜きもしていない。正統派な調理工程で下処理からちゃんとやった。
さきほど瀬名さんが帰ってきたのとほとんど同時のタイミングで調理を終えて火を消したから今がベストな状態だ。いま食うくらいが一番ウマい。でも瀬名さんはグイグイ来る。
クローゼットの扉に押し付けられた、その瞬間にはキスされている。ついばんで舐めて、甘噛みもされて、スリッとゆっくり唇が擦れた。
案の定この一回が長い。その右腕はいつの間にか俺の腰を抱いている。下唇を舌先でなぞり、そこにチュッと吸いつくのを何度か繰り返してようやく離れた。すごくしつこい。
「……もう。健康が大事だってんならこんなことしてねえでメシ食いましょうよ」
「恋人に誘われたら応えんのが礼儀だろ」
「俺がいつ誘いましたか」
黙らせるみたいにムグッともう一回塞がれてしまってやむを得ず黙る。
一回と言っておきながら結局は二回だしその二回目はよりしつこい。そうかと言って弾き飛ばすのは惜しいような気もしてしまうから抵抗の意思はなく受け入れる。
キスが上手い男は卑怯だと思う。抵抗される前に抵抗を封じる。封じられている俺はまんまと自ら舌を絡めて、エロいキスにのめり込む。俺を洗脳しているのはあのご夫婦ではなくてこの野郎だ。
焦らすようにして唇を撫でられるくすぐったいこの感覚は何度経験してもぞわぞわする。わずかに隙間を作られたところでふっと呼吸が漏れ出たその時、しかしなんとなく、覚えた違和感。下の方だ。尻の辺り。
サワッと。ていうか。モゾッと。
「…………」
やんわり包み込むように揉まれている。間違いなく故意に尻を触っていた。
なんという思い切りのいい現行犯。俺の眉間がクッと寄っても瀬名さんは全然動じない。
「今夜は?」
「は……?」
「晩メシ」
「…………」
男の尻を撫で繰り回しながら聞くような内容では絶対にない。
とりあえずは睨みつけておく。そうやって威嚇しつつも自信満々に答えられる晩飯を用意しておいて良かった。
「今夜は和食です」
恋人の健康を想ってとかじゃなく自分の昼メシが洋食だったから。いつまでもセクハラ現行犯な右手はいささか強めにぶっ叩いた。
「揉むな」
「そんな事より」
何がそんな事よりだ。
「部屋入った時からずっといい匂いしてる」
「でしょう? 頑張って作ったのに冷めちゃうじゃないですか」
「何作ったんだ?」
「カレイの煮付けと肉じゃがです」
「俺達はいつの間に結婚したんだ」
「してないから大丈夫ですよ」
瀬名さんはセクハラ魔のうえに重度の妄想癖まである。妄想ついでにさらなるしつこい三回目が来てしまう前にぐいっと胸板を押し返した。
ダイニングに行ってまず手に取るのはテーブルの上の小ぶりな紙袋。白い紙袋の右下には小さく店の名前が入っている。肉じゃがを皿に盛る前に恒例のお土産チェックだ。
「晩メシがカレイと肉じゃがなら和菓子屋に入って正解だったな」
横から言ってくる瀬名さんの言葉通り、紙袋の中身は見た瞬間に和だなって分かるうぐいす色の箱。
普段は洋菓子を中心に買ってきてくれることが多いが時たま和スイーツでも攻めてくる。水ようかんとか最中とか。夏にはあんみつとか葛切りとか。
数日前に食った桜饅頭も上品なお味だった。三月に入ってからは桜パウンドケーキや桜フィナンシェや桜杏仁豆腐や桜餅などなど、桜攻めにあうこともしばしば。
クリームも好きだけどあんこも好き。ふわふわのスポンジケーキも好きだけど饅頭の素朴な皮も好き。
今日は何かな。ハズさない男にもらった綺麗な箱をパカッと開ける。見下ろした直後、ハッとした。
「アヒル!」
「かわいいだろ」
「職人さんすっげえッ」
「そこかよ」
中身はちょこんとした練り切りだった。桜型のが三個。そしてアヒルが三羽。可愛い色形をした六個の練り切りは和菓子職人さんの技術の結晶だ。
アヒルと桜の組み合わせはなかなか見かけないので謎めいているが、小さな目でこっちを見ている三匹のアヒルがとても可愛い。何気にみんなポーズが違う。ノーマルな正面向きのアヒルと、くちばしをクワッと開いているアヒルと、あろう事かひっくり返ってジタバタしている様子のアヒル。再現度までハイクオリティー。
「春限定のセットだそうだ」
「春限定でなんでアヒル?」
「他にもネコ桜セットとかタヌキ桜セットとか色々あった」
「タヌキ……」
「和菓子専門店も最近は結構攻めてる」
伝統的なお菓子のお店も前衛的に頑張る時代だ。ジムと言い和菓子屋と言い淘汰を防ぐためには努力を惜しまない。
見れば見るほど可愛いアヒルだ。十人に聞けば十人が必ずアヒルと答えるだろうこの技巧。
職人さんの手先がとても器用だから食後のデザートはアヒルに決まった。食べるのは少々もったいないけどどんなに可愛いアヒルだとしてもこれなら罪悪感は抱かない。
「メシ食ったら今日はお茶淹れますね。この前の玉露のやつ」
桜スイーツ攻めが始まって少しした頃に瀬名さんは玉露を買ってきてくれた。パッケージからして高級そうな茶葉の。五百円前後の表示価格とともにスーパーの棚にズラッと並べられている普通の煎茶とは違うのだろうと思わざるを得ないそれ。
「美味いお茶の淹れ方きわめるまであれは開けねえって言ってなかったか」
「動画見まくって勉強したから任せて。俺はやれますよ。ばっちりです」
「頼もしいな」
「なに笑ってんですか」
斜め下にやや顔俯かせるも笑いを堪えているのはバレバレ。
バカにしやがって。見てろよ、美味いの淹れてやるからな。お茶淹れんのもちゃんとやろうとすると結構奥が深いんだぞ。
厳重に保管しておいた玉露を今とうとう戸棚から出した。高級そうなその缶を手にしてちらりと瀬名さんを振り返る。まだ若干目を逸らしていた。
「……笑いすぎです」
「十九の男がこんなに可愛くて大丈夫なのか」
「バカにしすぎだよ」
ムッキムキのバッキバキに鍛えて瀬名恭吾を見返してやりたい。
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茉莉花 香乃
BL
小学生の時、意地悪されて転校した。高校一年生の途中までは穏やかな生活だったのに、全寮制の学校に転入しなければならなくなった。そこで、出会ったのは…
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