貢がせて、ハニー!

わこ

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50.結婚式Ⅱ

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 主不在となる人様のお部屋で一晩自由に過ごしていてもいいのだろうか。

 行列店を巡ること六軒。最後にお蕎麦屋さんに入ってそこで浩太たちと別れた俺が当然のように戻ってきたのは瀬名さんの部屋だった。自分ちじゃなくて瀬名さんち。瀬名さんの部屋でシャワーも浴びた。
 棚にきちっと置いてある本は全部瀬名さんのだけど普通に借りる。ここにある中では薄めの一冊を暇つぶしに手に取ってから、背中をベッドにぐだっと預けて文字をタラタラ目で追っている途中、現在の自分のこの状況に不意に気づいて顔を上げた。

 勝手知ったるひとの家と言うか。合鍵で入ってシャワーを浴びて本を読んでのほほんと過ごして。
 静かで綺麗なこの部屋に、瀬名さんは今夜帰ってこない。つまりこのままここにいると、瀬名さんのベッドを俺一人でぬいぐるみと同居しながら使うことになる。
 瀬名さんなら好きに使えとほぼ確実に言うだろうけどなんだかそれもちょっと微妙。いくらなんでも図々しいのでは。恋人とは言え線引きは必要だ。
 つまらない事で悩みはじめて朝までそわそわするのも嫌だし、考えた末に、戻る事にした。クマ雄を連れて自分の部屋に。

 事故物件疑惑が晴れたわけではないから夜はまだ少し怖い。いいや、本当はかなり怖い。明るいうちだって気味悪いのに夜なんかはもうただただ恐怖。
 唯一の安心材料のクマ雄を膝の上にぽふっと座らせ、用もないのにパソコンを立ち上げてブルーライトを積極的に浴びる。不気味なように感じてならないこの心境をやり過ごしたい。そのためには平和でのほほんなにゃんこの動画とか見るのがいい。
 おバカでマヌケな猫だとなお良し。池の魚を狙っていた黒猫が派手にドボンと落っこちるのとか。

「…………」

 かわいい。びしょ濡れになった黒猫にとっては不幸な災難でしかないだろうが笑えるうえに死ぬほど可愛い。トボトボと池から立ち去っていくその姿がまたなんとも。
 夕べ瀬名さんに見せてもらった白黒のキキと茶トラのココのお食事中動画も可愛かった。自分のご飯をペロッと平らげ、先輩キキのご飯を無謀にも横から盗み食いしようとしたココ。早食いで大食いでなおかつ教育未完了な後輩の所業に、頭をバシッとぶっ叩いて強めの制裁を加えたキキ。体格はほとんど同じだとしても猫の上下関係はなかなか厳しい。

 世界のモフモフは心の癒しだ。楽しそうだと直感できるサムネが一瞬でも目に入ってしまうと何も考えることなくクリック。ウサギやモルモットや鳥類とかにも時たま浮気を繰り返しながら、頭をほぼ使わない動作でただ延々と時間を潰す。
 寂しいおひとり様みたいな再生履歴をそうやって作り上げていった。時計の短針が十から十一に指し示す数字を変えるくらいまで。しかしながら動画を長時間ぼんやりあてもなく見続けていると、次第に虚しくなってくる。
 俺は何をやってるのだろう。次から次へとオススメされるまま目的もなく動画ばかり見て。世の中が狂うのも無理はないな。これじゃそのうち廃人になりそう。
 それにさすがにちょっと飽きてきた。近くの棚に飛び移ろうとしてジャンプ力が足りずに落っこちる子猫はどこの国にも満遍なくいる。ドジな猫もそろそろ飽和状態だ。

 飼い主の手にニギニギされて恍惚の表情で喜ぶ文鳥を最後にすると決意して、三分弱のそれが終わると動画サイトから即離脱した。固まった体を伸ばしてほぐす。鈍く低くバギボギ言った。
 動画ばっか見てるからこうなる。時計回りと反時計回りにそれぞれ首を大きく回し、少々ギシギシする安物のベッドにクマを一緒に連れて上がった。
 こいつは優秀な見張り役だ。壁際にちょこんとお座りさせて、その隣で仰向けにドサッと。
 自分のベッドで寝るのは久々。ぼんやりと見上げた天井は高くもないが低くもない。瀬名さんの部屋と天井も同じはずだが真っ白いそこは殺風景だった。
 瀬名さんがいる時はこうじゃないのに。トランプで惨敗して悔しさに頭を抱えながら天井を見上げたところで物寂しさは感じない。

 とどのつまりは、ヒマ。退屈。つまんなすぎてトロッと溶けそう。小中高の校長先生の長話ですら恋しくなってくる。
 一人じゃやる事がなんにもない。大学生には長期休み中の課題もレポートも出されない。マコトくんの授業の準備はすでにもう済ませてしまったし。神経衰弱は一人でもできるけど一人で神経を衰弱させても面白くないし楽しくもないし。

 一人の夜がまさかここまで退屈なものになろうとは。俺もミキちゃんを真似して大学で本の一冊でも借りてきておけばよかった。
 瀬名さんの部屋にあるやつ持ってこようかな。あの大人はよく本を読むけど読書中の瀬名さんもかっこいい。黙ってるから。そのうえ伏し目がちだと色気も倍増してしまうから。課題やレポートをやっつけている最中にそばで本を読んでいるあの男の顔を何度盗み見たかは分からない。

 どうしようか。まだ眠くない。ならばたまには夜の散歩にでも。でももう風呂入っちゃったしな。三月とは言え暗くなると外の空気はひんやりしている。
 起き上がって上着を取ってくるささやかなシミュレーションはすぐに砕け散っていた。最終的には現代的で無駄な時間の使い方を選び、布団の中でスマホをいじる。クマ雄側にごそっと体を向けると背後がどことなく寒く感じるのはきっと気のせいだ。考えすぎだ。
 しかしそんなさなかミシッと、微かな室内の軋みが耳に入った。野生のウサギや小さいネズミばりにキョロキョロしながら辺りを見回し、部屋の隅という隅を確認する神経過敏な作業が始まる。見張り役のクマ雄の手をなんとなくもふっと握った。

 気味悪い。怖いな。腹立つ。なんだこの部屋。軋むなよ。
 もしも成仏する必要のある奴がいるならさっさと未練は捨てちまえ。ここはもう俺の部屋なんだからいつまでも居座ろうとするな。俺のこと呪い殺したところでいい事なんかなんもねえぞこの幽霊野郎。
 地味な恐怖も慢性的に続くとだんだん怒りになってくる。怖さと苛立ち半々くらいでクマ雄の手を握りしめた。天井をイライラ睨みつけつつ、感じるのは全身の疲労。決して霊的な話ではなく。

 長ったらしい行列に並んで店に入って食って帰ってくるという単純な遊びだったとしても、体力の消耗は意外にも激しい。並ぶだけの事はあって確かにめちゃくちゃ美味かったからそれはそれでいいとも思うが食ってる時間と並んでる時間の比率は明らかにおかしかった。並ぶの一時間、食うの十分。豚骨ラーメンが人気の店では大げさではなくこんな感じだった。
 瀬名さんとも休日はよくゴハンに行く。この前は醤油ラーメンが最高の個人店に連れて行ってくれた。無言で完食してしまうほど感動的に美味いラーメンだった。しかしそこは穴場なのか狭い店内にも関わらず外で待つような客はゼロ。すんなり入れてすんなり食えてただただ満足して帰ってきた。
 あの人と一緒にいると疲れない。別の意味で疲弊する事はあるが。百パーセントの満足感を、あの人は俺のために用意する。

「……せなさん……」

 いま、どうしているだろう。二次会はまだ続いているだろうか。さすがにもう終わったか。三次会には進んだのかな。
 新郎側の招待客には瀬名さんの友人もいるみたいだから積もる話はお互いにあるだろう。十年以上ぶりの人だっているかも。早々に切り上げてホテルに行くよりみんなで楽しみたいに決まってる。

 スマホの画面をのろくいじって意味もなく知った番号を表示する。瀬名さんの番号だ。酒の席の邪魔になる訳にはいかないからもちろん通話を押すつもりはない。
 そのまま閉じて、今度はメッセージアプリを開いた。瀬名さんとの最後のやり取りは昨日の夜。十九時を少し過ぎた頃。
 レモンとオレンジならどっちがいい。詳細はザックリ省いて一行でそれだけ聞いてきた。そのため俺も一単語のみでレモンって簡潔に返したら、帰ってきた瀬名さんからはレモンマドレーヌを渡された。甘さ控えめでウマいやつ。

「…………」

 口は悪い。でもとにかく優しい。時々意地悪な事もするけど、いつも俺のために何かしてくれる。
 結婚式には女性ゲストも大勢いる。綺麗に着飾った女の人達が。そりゃそうだ。結婚式なんだから。瀬名さんと同じくらいの年代の人達だって。同級生と久々に会って、盛り上がる事だってきっと、当然。
 あれ以上誠実な男は他にはいない。それくらいよく分かっているから疑っている訳ではない。心配しているのとも違う。なのに一人でいるとモヤモヤしてくる。瀬名さんを送り出した時には、こんなこと考えもしなかったのに。

 今朝も瀬名さんはかっこよかった。参列する友人という立場に相応しいその装いは、目立ち過ぎることなく、マナーに則って、誰の目から見ても理想的。
 ビジネススーツは見慣れているけど、礼服もスマートに着こなすあの人はどうしたって完璧な大人だ。瀬名さんのネクタイを毎朝結ぶようになっていなければ俺は今でも、ディンプルなんて言葉さえ知らずにスーツめんどくせえとか思っていただろう。

 ごくごく小さく溜め息をついてから溜め息の事実に気が付いた。スーツの似合う男とこんなガキとじゃどう考えたって釣り合わない。
 あと五年早く。四年だっていい。せめて学生でなかったら。すでに社会人だったとしたら、今よりはもう少しくらい、マシな自信が持てただろうか。

 瀬名さんとのトーク画面はなかなか閉じるに閉じられない。溜め息と共にまぶたを下ろす。持っているスマホは音を立てなかった。電話するって言ってたの誰だよ。しなくていいと言ったのは俺だけど。
 スマホを持ちながら体を丸めてアンモナイトみたいに縮こまる。片手ではクマ雄と手を繋いだまま。布団の中はあったかい。
 閉じたまぶたが功を奏したか徐々に思考はぼやけていく。疲れている日に眠り落ちる間際の、あの、深く沈んでいくような感覚。心地いいとは言い難いもののこのままいけば自然と寝られる。経験的に知っていた。そんな時に。ピンポンと。

 半分寝ていて半分起きていた気だるい頭は即時起動する。布団の中でビクッと震えた。心臓がバクバクするのを感じつつ、暗くなったスマホの画面を慌ててパッと明るくさせる。
 最初に認識したのは時計の表示。意識が薄らいでいた時間はそんなに長くはなかったようだ。目を閉じてから十分も経っていない。でも目覚めた。なぜか。インターフォンがピンポンと無粋な音を立てたからだ。

 そこでもう一度ピンポンと鳴らされて今度こそ確信に変わる。人間だ。犯人は俺を呪い殺したい奴じゃない。お化けがピンポンを押すはずがない。
 ふざけんなよ。誰だこんな時間に。どこのアホが訪ねてきやがった。
 非常識な時間にピンポンしてくる知り合いなんて俺にはいないからひとまずはシカトを決め込む。酔っ払いだかなんだか知らないがさっさと帰れ。せっかくあともう少しで眠れそうだったのに。
 しかしまたしてもインターフォンは無礼にも四度続けてピンポンピンポンピンポンピンポン。そしてオマケのもう一回。ピンポン。ついでにもう一回。ピンポン。

「…………」

 うるせえ。
 思った直後にもう一度鳴る。布団を蹴り飛ばしてベッドから下りた。脅かされた恨みもあるためイライラしつつ玄関に向かう。
 酔っ払いなら怒鳴りつけてやる。宗教の勧誘でも怒鳴りつけてから話は聞かずに追っ払う。変質者なら正当防衛を盾にして一発か二発ぶん殴る。

 玄関に辿り着くまでの間にもピンポンピンポンと。近所迷惑だ。
 いら立ちは募るばかりだが覗き穴だけは理性で確認。どんなツラの奴がそこにいるのかバッチリ見てやろうと意気込んだ。
 ところが、そこでハッとする。見開いた。思わず、目を。

「え……」

 右目で捉えたその姿。慌ててガチャリとドアを開けた。

「……なんで……」
「ただいま」

 瀬名さんだった。ただいまと一言。
 無表情でぼそっと呟いたのち、その体がこっちにグラッと傾く。

「ちょ、っと……」

 倒れ込むようにして抱きしめられた。いや実際ほとんど倒れこんできた。長身が重くのしかかってくる。

「会いたかった」

 溜め込んだものを吐き出すみたいに、か細い声で囁くこの人。

「あの……」
「ようやく会えた」
「ようやくって……半日前に会ったばっかですよ」
「ずっと前だ」

 ずっと、と。言うには。半日じゃさっぱり程遠い。

「どうしたんですか……」
「……部屋に……」
「はい?」
「はるきがいなかった……」
「は……?」
「いなかった……いるとおもった……」

 ゆっくりした口調は所々おぼつかない。舌ったらずにそれだけ言って、その後は急に黙り込んだ。
 俺の肩に顔をうずめ、その手からボテっと落っこちた物体。さっきからチラチラ目に入ってはいたが、焦げ茶のそいつ。カワウソだ。ウソ子だ。

「ウソ子連れて来たの……?」

 くったり床にへばりついているウソ子に手を伸ばして拾い上げた。ウソ子を左腕に抱えた俺に、瀬名さんはぎゅうっと抱きついてくる。

「……瀬名さん?」
「…………」
「瀬名さんってば」
「……ん」
「…………」

 ん、って。なんだよ、んって。
 放っておいたらこのまま寝そうだ。

「……そんなに飲んだんですか?」
「んん……」
「泊まってくるんじゃなかったんですか?」
「……ん」
「三次会は? やらなかったの?」
「…………んん……」
「……もしかして、抜けてきた……?」
「ん……」

 さっきからコクッと頷くだけのこの人は、なんで自分が頷いたのかも分かっていないような状態だ。
 日付はまだ今日のまま。あともう少しで明日になるが、本当だったら今ごろは予約したホテルの客室にいるか、もしくはまだ友達といたはず。なのにこの人はここにいる。

「はるき……」
「おっ、と……ちょっと瀬名さん……」

 ズルズル遠慮なく圧し掛かられてとうとう支えきれなくなってきた。やむを得ず抱きとめたまま一度二人で座り込む。玄関の上り口に尻をついてこの人の体重を支えた。

「だめですよ。ここで寝ないで」
「んー……」
「…………」

 だめだ。寝そうだ。

「……かなり酔ってますね」
「よってない」
「酔ってる人はみんなそう言うんですよ」

 だいたいのあれこれは完璧にできる大人でも酒でこんな事態になるのか。
 滅多に飲まないようなことを、前に本人が言っていた。酒を飲んでいる瀬名さんの姿を俺は一度も見たことがない。

「なんでそんなになるまで飲んだんですか」
「のんでない」
「だからぁ……ああもう」

 一人でただひたすらアルコールばかりを仰ぐような人ではないだろう。久々に会った友達との席でついつい酒も進んでしまったか。それとも二次会三次会で隣に美女でも座ったか。後者は俺の単なる妄想だけれど単なる妄想で妙にイラッときた。
 勝手な妄想で勝手にむかっ腹を立て、しかし苛立ちはすぐにしぼんだ。むぎゅっと両腕でしがみついてくるだらしないこの大人を抱えていると、しょうもない妄想でいちいち腹を立てる事の虚しさに嫌でも気づかされる。呆れの溜め息を小さくこぼしたら瀬名さんがむにゃってなんか言った。

「なに。どうしたの」
「ん……」
「疲れた?」
「んん……」

 頭をコクッと。それは応えたのか。違うな。応えてねえな。首がただガクッてなっただけだ。大丈夫か。
 三十二歳の首は気がかりだが以降はとうとう無言となり、覚束ない動作のままノロノロとまた抱きついてきた。抱っこをせがむ四歳児のようだ。

「……ベッド行こう。横になって寝てください」

 このままここにぶん投げておくわけにもいかない。こんな酔っ払いを放置しておいたら朝には灰になっていそうだ。なので俺に残された道は一つ。介抱。なんてめんどくさい。
 靴を脱がせるのにまずは苦労し、それから立たせるのにも苦労して、左腕を俺の肩に回させてなんとか部屋まで担ぎ込む。
 その間の瀬名さんはほぼほぼ自分で歩けていなかった。見た目よりも重い体を背負いながら一歩一歩必死に進む。ベッドの前に来た時の俺はすでに若干息が切れていた。
 何が詰まってんだよこの体。どうしてこんなに重いんだ。この男に余分な脂肪はない。ということはつまり筋肉か。泥酔してほとんど意識がない時まで人の劣等感をつついてくんなよ。

「はっ、も……クソッ……」

 口悪く吐き出したくなる程度にはクソ重い。本気でぶん投げてやりたいのを堪えてどうにかベッドに座らせた。
 支えていた体重から解放されると次にやってくるのは急激な脱力感。今にもへたり込みたいところだがもうちょっと頑張る事にして、瀬名さんが連れて来たウソ子はクマ雄の隣にポフッと寝かせた。
 それをぼんやり見ているこの人。表情はない。何を考えているのかも分からない。たぶんなんも考えてないんだと思う。まさかこんなポケポケした瀬名さんの姿を見ることになるとは。

「……スーツ脱いで」

 このまま寝かせると仕立ての良さそうなこのジャケットがシワになる。それにこんな格好じゃ寝づらい。
 そう思ってこっちは親切心で脱いでって言ってやってんのに、この野郎は全然動きもしねえで今にも寝そうな顔をしている。腕を揺すってもポヤッとしたまま。

「もう……ちゃんとしろって、大人なんだから」

 縁側でお茶飲んでるおじいちゃんか。もしくは黄色い帽子かぶった園児か。
 どっちだろうと構わないけど仕方がないから脱がしてやる。元々緩んでいた白いネクタイもシュルッと解いて襟から引き抜き、真っ白いシャツのボタンも上から三つ目までプチプチ外した。これで多少はゆったりするだろう。
 で、下はどうすべきか。少々迷う。なんとなく、なんか。
 さすがに脱がすのは憚られたためベルトだけを引っ張って外した。何も言わずにされるがままだからここまではさほど手間ではない。それなりに寝やすい格好になったらあとはおとなしく寝てもらうだけだが、その前に水は飲ませておこう。お湯が出てくるウォーターサーバーなんて気の利いたものはどこにもないけど、幸いにも冷蔵庫に入れていないミネラルウォーターならばある。
 ところが瀬名さんに背を向けた直後、右腕がパシッと捕まった。

「……瀬名さん?」
「…………」

 反射で振り返るも瀬名さんは無言。けれど腕は放してくれない。弱々しい握力で、俺の手首を掴んでいる。

「水持ってくるだけですから。楽にしてて」

 体ごと向き直ってやんわりその手を離させる。すんなり外せたこの人の手には、やはりほとんど力なんて入ってないようだった。
 ただ何かを言いたげに、じっとこっちを見上げてくる。捨てられた仔犬みたいな顔をして。なんだよその目は。捨てねえよ。

「……大丈夫。ちゃんと戻ってきますよ」

 無言だし無表情だし、でもどことなく心細そう。どうしたらいいのか正解は見えそうにないまま自然と手は瀬名さんの頭へ。ポンポンとあやすようにそっと撫でると、落ち着いたのか少し俯いた。
 そろっと一歩離れてみても今度は引き止めようとしてこない。おとなしくしているうちに注意深く距離を取った。皺にならないよう伸ばしたスーツを百均のハンガーにかけてから、瀬名さんの様子をチラチラ窺いつつキッチンへ取りに行った水。
 コップに注いで戻ってきた時、ベッドに腰掛けたままの瀬名さんはやっぱり無表情にぼんやりしていた。

「水です。飲めますか?」

 呼びかけたらその視線がゆっくりこっちへ向けられる。もはや焦点も微妙にあってない。
 貢ぎ癖と食生活以外はちゃんとしているこの人が、全然ちゃんとしていない姿を俺の目にさらしている。手元にコップを差し出してやると辛うじて受け取った。

「飲んで」

 力ない腕を支えながらいちいち指示してなんとか飲ませる。ほんのちょっとコップに口をつけ、しかしそんなに美味しくなかったのか大して飲みもせずにすぐに離した。

「飲んで。もっと」

 瀬名さんの手ごとコップを支えて再び口元へ寄せやる。こくっとゆっくり喉が動くのを間近から確かめていると、またほんのちょっと減ったくらいで瀬名さんの手がピタッと止まった。
 喉仏だけが最後にもう一度上下に動いたのを目にする。水は特に欲しくないみたいだ。この人の手から滑り落ちそうなコップは代わりに俺が下から持った。

「どうしたの……?」
「…………」
「瀬名さ、」

 グイッと引っ張られた左腕。ガクンと揺れる。さっきまでの弱々しさはどこに。
 突如強引に引き寄せられた弾みで俺の右手から飛んでいったのはコップ。ラグの上にゴトッと落下し、毛足の短いそれの上には中から飛び出した透明の水が一瞬にして沁み出していく。

「…………」

 薄いグレーだったラグの色が濃いねずみ色に変化するのを視界の端にしっかりと捉えた。結構な量が残っていたためジワジワと濃い色が広がっていく。

「……誰が片すと思ってんですか」
「さむい」
「寒い?」
「さむい……」

 部屋の中は十分暖かい。瀬名さんも寒がっているようには見えない。濡れたラグの悲劇については悪びれもしないどころか認識さえしていない様子でただぎゅっと抱きついてくる。
 俺の服を握り締めるその手が離れそうな気配はなかった。零れた水の元凶を責め立てたところで、今のこの人じゃ反省もできない。

「あいたかった」
「あーはいはい。それはさっきも聞きました」
「……あいたくてな……かえってきた……」

 幼い子のように舌っ足らず。でもハッキリと聞き取れたそれ。おかげでさまで俺はキョトンだ。
 大人の男が、縋るみたいな。そんな様子で。

「あえた」

 ぎゅうっと、しがみついてくる。
 この人は、会いたかったそうだ。それでちゃんと、会えたそうだ。

「はるき……」
「…………」

 甘えた口調に、俺には聞こえた。勘違いじゃない。甘えられている。
 こんなガキに会うためだけに、この人はうちに帰って来た。

「…………だからアンタはズルいんだ」

 ため息と悔しさとその他もろもろをごちゃ交ぜにして吐き捨てるように呟く。
 瀬名さんは紛れもなく上質な男ってやつで、そのくせひけらかすような鼻にかかった振る舞いはあり得ない。男が惚れるような男だ。この人に憧れている男はきっと俺だけじゃないはずだ。そういう人がいま俺の前で、こういうことになっている。
 自分でまともに服も脱げず、眠たいヒヨコみたいな顔をして、適当にコクコク頷いて返すだけの。応答している意識がそこにあるのかどうかさえ怪しいとしか思えないのに、肝心なところだけはしっかり言いやがる。この人は俺に会いたかった。

 これが抱きしめずにいられるか。優しくせずにいられるものか。
 恋と愛の違いは何かとそんなバカげた問いと答えがこの世の中には溢れているけど、たぶん、俺には分かったと思う。その境界をたった今またいだ。
 ずくっと胸の奥の方でやわらかく握りつぶされる。めまいを起こしそうなこの感覚は、苦しいけど決して嫌なものじゃない。今にも押し潰されそうになるから、この人をただ抱きしめた。




 水を飲ませるのは諦めた。そのあとは一緒に布団にもぐった。俺の背後にはクマ雄とウソ子。瀬名さんがウソ子を連れて来たから今夜もこいつらは仲良しだ。
 いつもの夜ならどちらかと言うと瀬名さんが俺を抱きしめているけど、今夜は俺がこの人を抱っこする。隣同士横になった瞬間にはもうギュウギュウに引っ付かれていた。その手はほとんど縋り付くようで、背中をポンポンして宥め続けた。
 必死になってしがみついてくる。時折確認でもするかのように、この人は俺の名前を呼んだ。

「……はるき」
「いますよ」
「…………はるき」
「大丈夫。ずっと一緒です」
「……ん」

 こくっと、ほんの小さく頷いた。なんで自分が頷いたのか、分かっているのだかどうなのだか。
 これでこの人が安心できるなら何度でも応えるしいくらでも抱きしめる。この人が呼ぶのは俺の名前だ。他の誰でもない。俺だけだ。
 何度だって呼べばいい。気が済むまでとことん付き合う。大事な人がこんなにしょうもなかったら、抱きしめずにはいられない。
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