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44.にゃーにゃーにゃーⅡ
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いくらテストが近いからとは言え、日曜日の夕方にまで意欲的に勉強するマコトくんは本当に真面目ないい子だ。
俺が中学の時はもっとぼんやりしていたと思う。家庭教師なんて考えもしなかった。都会みたいに派手なイベントや楽しい遊び場はこれと言ってないから、いつも同じようなメンツで集まって隣町までチャリンコ漕いでた。
瀬名さんはどうだったんだろう。地方出身者とは言っても、あの所作や振る舞いを見る限り育ちは結構良さそうだ。
小学生の時も中学生の時も俺は地方のクソガキだった。小学生の頃や中学生の頃の若かりし瀬名さんは、どんな男子生徒だったのか。バカな事とか、したのかな。
思い出と空想に半分浸りながら暗くなった道を歩いていたら、マンション前の通りに差し掛かったところで向こうから歩いてくる人影に気づいた。
瀬名さんだ。その影が街灯のすぐ下に来たところで確信できた。
歩いてくる瀬名さんの方にこっちから駆け寄ると、そこで立ち止まったこの人の、やわらかい表情に迎えられる。
「お帰り」
「うん……ただいま」
淋しいと死んじゃうウサギがわざわざ迎えに来てくれた。そこからは並んで歩きだす。右側に瀬名さん。左側に俺。俺達の周りには誰もいない。
ここの通りの街灯は、駅前のようには明るくない。住宅街にふさわしい程度のライトかりがちらほらとついている。
暗くて寒い夜の道で、右側だけ手袋を外した。それをバッグに放り込み、自ら外気に晒した右手。直後に冷たさを感じたが、その手を俺がそれとなく隣に伸ばそうとするその前に、行動を先読みしたかのように瀬名さんの手に握られている。
腰よりも少し下の位置で、きゅっと、やわらかくつながった。
「……昼にあれだけ食ったのにもう腹減っちゃった」
「そう言うと思って用意してある」
「オムレツになり損なったスクランブルエッグですか?」
「見栄えと味の良さに定評のあるデパ地下のお惣菜だ。昔から盛り付けだけは上手い」
今日はやたらと笑わせにくる。任せろと言っていたから何かと思えば金に物を言わせてきたようだ。
元から手袋をしていなかった瀬名さんの手は少し冷たい。これで温まりはしないだろうけど、あっためたくて強く握り返した。
寒いのになるべくゆっくり歩く。でもマンションにはすぐに着いた。
中に一歩足を踏み入れればそこでは視界も明るくなるが、人もいないし足音もしないから、くっついたままエレベーターに乗った。
鉄の箱が狭いのをいいことに繋いだ手も離さない。瀬名さんの指が右側にあるボタンの三階を押すのを眺めた。続けて閉じるのマークのボタンも。それに従ってドアがガゴッと閉じた瞬間、不意打ちのようにキスされていた。
「……ダメですよ」
「誰もいない」
「ここじゃダメ」
誰もいなくても自分の住処だ。万が一他の住人に見られたらそのあとの生活がちょっと気まずい。
などと思いつつも距離感はそのまま。ようやく手を放したのは瀬名さんの部屋の前に来た時。
この人がカギを開けるのを待って、二人で一緒に中に入り、背後で扉が閉まると同時に、肩に触れられた。隣を見上げる。そこでまたちゅっと、キスされた。
ぎゅうっと抱きしめられたのはそのすぐあと。寸前に見た瀬名さんの顔は、どうしたってやわらかかった。
「……朝から思ってたんですけど、なんかいい事ありました?」
「うん?」
「今日ずっと嬉しそうな顔してる」
「ああ、そりゃ……」
ぴとっと、両手で包まれた頬。そこだけ少しひんやりとする。
「当然だろ。恋人が十九歳になった」
「……それだけ?」
「特別な日だ。だからこそ本当は旅先で祝いたかったんだけどな」
「またそこに話戻るんですか?」
ふっとおかしげに瀬名さんが笑った。それに俺もつられている。
全部やわらかくて全部楽しくて、笑っているうちに唇が重なる。朝から一日小さく触れるだけだったキスが、今日はじめて深くなった。
指先もほっぺたも冷たいけれど、口の中だけは温かい。あつい。靴も脱いでいない状態でそのまま壁際に追い込まれ、背中はトンっと行き止まる。
押さえつけるほどではないが、格好だけはそれに近い。俺の顔の横で壁に手をついたこの人に、食むように唇を撫でられた。
ドアの鍵は、閉めたっけ。この人のことだから、ちゃんと閉めたか。
舌同士で舐め合いながらどうでもいいような事を考える。余計なことでも考えていないと、すぐに持っていかれそうになる。
瀬名さんのコートを控えめに掴んだら、ちゅくっと軽く舌先を吸われた。
「ん……」
くすぐるように唇を掠めつつ、ちょっとだけ離れる。はふっと小さく呼吸が漏れた。
玄関の明かりはついている。お互いの表情がしっかり分かるから、いくらか視線は逸らし気味に。
「待って…」
言い終わるかどうか、そんな辺りでまたキスされる。右頬には瀬名さんの手のひらが触れた。
ゆっくり重なる。時間をかけて。その度に舌も重なった。
空気は冷たいのに口の中は熱い。唇だけ微かに触れさせながら、この人の低い声を聞いた。
「もう一回」
「……だめ」
「だめ?」
「うん……」
だめって言っても、言い方がゆるいせいか、瀬名さんはもう一度してくる。それをすんなり受け入れた。
キスが、甘ったるい。いつもだけど、いつも以上に。壁に追い込まれていた体を、今度はぎゅっと抱き寄せられた。
その背にそっと腕を回した。抱きしめ返して唇を押し付けて、考える。関係ない事を。持っていかれてしまわないように。
こんなに優しくされるキスに百パーセント集中したら、まずいことになると思う。みっともなくて恥ずかしいことを口走る自信しかない。
だから思考の三分の一は別のところに飛ばしておく。外とドア一枚分隔てられているだけの玄関は寒いなとか。そういえば俺は腹が減っていたんだよなとか。瀬名さんが予約しておいてくれたケーキの種類は何かな、とか。
思っているうちにちゅっと、また一瞬だけ唇が離れた。
「せなさん……」
「ん?」
「ケーキ食いたい」
そして言った。頭に浮かんだ雑念を。
そこで見た瀬名さんの顔は、半ば混乱したようにキョトンとしている。
「…………あ?」
「ケーキ」
「……冗談だろ」
「いえ、本当に」
「このムードでもお前は俺よりケーキを選ぶのか」
「誕生日なので。ケーキあるので。……あるんですよね?」
「ある。冷蔵庫に入ってる。数分遅くなったくらいでケーキは腐らねえからあと一回だけ」
「そんなことよりどんなケーキなのか気になって仕方ないんです」
「そんなことより……?」
呆然というか唖然というか、一瞬で脱力した瀬名さん。その腕からするりと抜け出て我が家のように部屋に上がった。
荷物を置いてコートを脱いで一直線に目指した冷蔵庫。扉を開けると何やらギッシリしている。出掛ける時にはなかったはずだから全部デパ地下のお惣菜だろう。
ダイニングに足を踏み入れた瞬間から、調理台にドンと置いてある袋の山にも気づいていた。この人は俺を大食いファイターか何かだとでも思っているのかもしれない。出されたら出されただけ全部食うけど。
冷蔵庫の中のご飯も気になるが、それらをかき分けて一番奥で守られている白い箱を手にした。
明らかにこれが目当てのケーキだ。大きめのその箱だけ取り出して、わくわくとテーブルの真ん中に置いたら瀬名さんが呆れたように言った。
「お前の色気をあと三十パーセントアップさせるにはどうすればいいんだ」
「俺に聞かれても知りません」
「さっきのはケーキよりも俺を選ぶべき場面だったろ」
「知らないです」
不満そうな顔で不満そうな事を言うけど瀬名さんは俺の期待に応える。
ケーキの箱を開けてくれるのを俺も横から覗き込んだ。目にしたのは、大きな純白。
「わっ、すげえ。なんかスゲエ」
「そんな雑な感想久々に聞いた」
色んな種類のベリーが乗っているデカくて白くて綺麗なケーキだ。上と側面でモフモフしているのは薄く削ったホワイトチョコだと思う。真ん中にはこれまた白いチョコプレートがメッセージ入りで飾ってあった。ハピバって英語で書いてある。
ゴテゴテしすぎず、かと言ってシンプルすぎず。そして何よりめちゃくちゃ美味そう。
「ケーキ屋でロウソクもらったんだが立てるか?」
「え、いいです。どうせ食う時引っこ抜くし」
「恋人に情緒が備わってない」
アヒルと一緒に育った人間に情緒を求められても困る。
「さすがに自分が可哀想になってきた。マコトくんに負けてケーキにまで負けて」
「張り合う対象がおかしいんですよ」
「今後お前を釣りたいときには余計なことは何も考えずに甘いもん買ってくることにする」
口ではブチブチ不満を言うくせに、お客様待遇で椅子を引いて座るように促してくる。それに甘えて腰を下ろした。
ナイフとフォークと皿を持ってきた瀬名さんは給仕係に徹するようだ。俺の前には皿とフォークだけが置かれた。
「俺がこの日をどんなに待ち望んだことかお前にはきっと想像もつかない」
「そんな大げさな」
「大げさなもんか」
ナイフを持ったこの人の手はまっすぐ白いケーキに向かう。それを俺は目で追った。
至れり尽くせりでただ座って待っているだけの俺の目の前で、大きなケーキがワンピース分になるように丁寧にカットされていく。
「昨日まではずっと微妙なラインだった」
「微妙なラインって?」
「手出しする相手が十八歳となるとさすがに犯罪くさく聞こえるだろ」
じーっとケーキだけ見つめていた目が、自動的にパチッと一度まばたき。
コンマ数秒くらいは確実に思考が停止していたと思う。完全復活していない頭で、瀬名さんの言葉の意味を考えた。
「…………は?」
俺の前の小皿の上には、カットしたてのケーキが一つ乗った。乗せた瀬名さんは何食わぬ顔のまま。
「違法じゃないけど不当ってやつだ。お前が十九歳になってくれたおかげでその辺の罪悪感が若干薄まった」
「え……嬉しいって、そういう意味?」
「九割三分くらいは」
「ほとんど邪な気持ちじゃないですか」
「純粋に祝ってる気持ちも多少はある」
多少って。純粋な気持ちの部分はわずか七分しか残されていない。
ほぼほぼ邪悪に満ちている大人は、小皿に乗っけたケーキの上にチョコプレートをちょこんと飾った。
「こんなにめでてえ事はねえよ」
「…………」
てっぺんに立ったチョコプレートを半ば呆然としながら見つめた。ハッピーバースデー、ハルキ。書いてある内容はとてもシンプル。一般的な祝いの言葉だ。一番わかりやすいお祝いの仕方だろう。三十秒までは確かに、祝ってもらっている気分だった。
この男のヨコシマな内心を思いっきり聞かされてしまった今は、十九歳を祝う一言が呪いのメッセージにしか見えてこない。
「いくら同じ十代とは言っても十八歳か十九歳かでその印象はだいぶ異なる。十八だとまだ高校生寄りの少年的イメージの方が強い。これが十九になると途端にハタチ一歩手前の青年って感じになってくるからギリセーフだ」
「アウトだろ」
「十九歳おめでとう」
謎理論をペラペラと喋った末に俺の一言は無視された。結論もおかしい。一つもめでたくない。
大学生の俺が今日までずっと十八歳という年齢だったのは、単純に俺が早生まれだからだ。四月一日までに生まれたか四月二日以降の生まれかで学年を分けるこの国の制度と文化的背景によるものだ。
生まれるのがあと一ヵ月ちょっと遅かったとしたら俺はまだ地元で高校生をやっていた。もしも十ヵ月とか十一ヵ月とか生まれるのが早ければ、瀬名さんと知り合って間もない頃すでに十九歳になっていた。それはつまりこの人の言うところの、ギリセーフに該当する。
「あの……いま一瞬気になっちゃったんですけど、もしも付き合い始めた時点で俺が十九歳になってたらどうしてましたか」
「水族館に行くと見せかけてホテルに連れ込んでたと思う」
それはもうほとんど犯罪者の手口だ。あの日俺がもし十九歳だったら、カワウソは見られなかったかもしれない。
クズだクズだと思ってはいたけどまさかここまでのクズだったとは。
「……二月生まれで良かったなって生まれて初めて思いました」
「お前はすでに十九だけどな。十八歳と言う社会倫理的なガードは昨日までで消滅した」
犯罪者予備軍に脅迫された。誕生日に恋人から脅された。
瀬名さんの価値観からすると今の俺は青年寄りのセーフゾーンになるらしい。手出ししてもいい年齢らしい。十八だろうと十九だろうとちょっとアレなことに変わりはないよなと、正常な俺は思うけど。
「……一流の男は無理に迫って来ないんじゃなかったんですか」
「ああ、それはもういい。忘れろ。だんだんどうでもよくなってきた」
マジかよ。どうでもいいんだ。カッコイイこと言ってたのついこの前だぞ。
あれだけ熱心に語り尽くして包容力を見せつけてきたあの夜はなんだったんだ。
「今後十九だと思って油断した結果間違って寝込み襲っちまったらごめんな。先に謝っておく」
「犯罪って言うより病気ですね」
「恋の病だ」
「うるせえよ」
ハピバのメッセージが書いてあるチョコプレートを手で引っ掴んで噛みついた。パキッと半分にぶち割って食いつく。
「十九歳のくせに行儀悪いぞ」
「三十二歳の恋人に裏切られた腹いせです」
「俺がいつお前を裏切った」
「たった今裏切りましたよ。なんなら今朝からずっと裏切ってましたよ。誕生日ってだけでこんなに喜んでもらえるの嬉しいなとかちょっと思っちゃった俺の感動を返してください」
「嬉しかったのか。可愛いやつだな」
「気にしてほしいポイントが違う」
ハピバプレートの残り半分も口に放り込んでバリボリ噛み砕く。悔しいことにとても美味しい。しつこくはないけど程良くこってりとした濃厚な甘さはホワイトチョコならではだ。
チョコレートは文句なしに美味いが、もやもやした感情は複雑。怒りとも悲しみとも簡単には言い表せない微妙すぎるこの気持ちを俺はどうやって昇華すればいい。
一日かけて詐欺られた。優しい顔にコロッと騙された。釈然としない気持ちを抱えつつケーキを見下ろし、真上からもふっとフォークでぶっ刺す。勢いよくいったつもりだったけどケーキが極上にふんわりしていて怒りはほぼ表現できなかった。
ヤケクソでモグモグしてやる。クリームの滑らかさ。スポンジの食感。ホワイトチョコのフカフカした甘さ。どれもこれも最高だ。
「…………」
「どうだ?」
「……美味しいです」
「釣れた」
「うるせえ」
この詐欺野郎どうしてやろうか。
ふわっふわのスポンジとなめらかなクリームをガサツにフォークで掬い上げてはパクパクと口に運んだ。俺が食うのを満足そうに観察していた瀬名さんは、少しすると皿に盛りつけたデパ地下グルメでテーブルの上をわんさかさせた。
オムレツを炒り卵に変身させるような人ではあるが、本人がアピールした通り確かに盛り付けはとても上手。どれに手を付けても美味いのばっかだし、俺の好みを完全に把握しているこの男が外すはずもなく。
結果、モリモリ頬張った。昼のエビチリは俺の胃袋の記憶の中ではもうなかった事になっている。
重い物やこってりした物やしょっぱい物など次々に手を付けていくうち、さっぱりした物も何か欲しいなと思ったタイミングでヨーグルトサラダが出てきた。
「うま……」
コトッと小皿を置かれた瞬間にフォークにがっつり乗せて食った。メインにしてもいいくらいだ。
「一番人気のサラダらしい。アボカドのサラダもあるけど食うか?」
「食います」
即答したらすぐに用意してくれた。アボカドがゴロッと入ったサラダも贅沢すぎるほど美味かった。
テーブルの上の料理を俺がパクパクしている間に瀬名さんはまた何か温めていた。数分して大皿に乗って出てきたのは、丸くて黄色くてデカい食い物。
「何これ。たまご?」
「スペイン風オムレツ」
朝オムレツ作ろうとして失敗したからこれ買ったのかな。
瀬名さんの真意は分からないが、あんまりつついて落ち込んじゃったら面倒臭そうだから黙っておく。ケーキみたいな厚焼き卵も遠慮なくごそっと頬張った。ただデカいだけの卵かと思いきやホクッとした食感。じゃがいもだ。
「気に入ったか」
「すっげえ美味いです」
しっかり火は通っているけど卵はふわふわしていて柔らかい。厚みがあるから食感と弾力もちょうど良くて塩気も絶妙。
「スペインだと良くある家庭料理の一つらしい」
「普通にこれ食えるとかいいなスペインの人」
「なら来年の誕生日はスペインで過ごそう」
「いいえ、日本で過ごしますよ」
恋人の発想が極端で怖い。あんまり迂闊な事を言うと航空チケットをプレゼントされそうだ。
あったかくしたウーロン茶もついでに出され、そこでようやく瀬名さんも席に着いた。初体験のオムレツが美味くてずっとモリモリ食っていたら、飲み込んだちょうどいいタイミングでケーキをあーんしてくるこの男。
パクっとフォークの先に食いついた。塩気が勝っていた口の中に一気に広がるクリームの甘み。何度食っても、
「んまい」
「機嫌が直ってよかった」
「誕生日に騙された恨みは一生忘れませんけどね」
怨念を呟きながらフォークの上にひとくち分乗せたケーキ。それをそのまま自分ではなく瀬名さんの口元に持っていく。
「このケーキ見た目ほど甘くないですよ」
「そう言って口を開けた瞬間にフォークの先で喉をぶっ刺して俺の息の根を止める気だろ」
「そこまで恨んでませんよ今のとこは」
失礼な男の甘味許容範囲は俺もそれなりに把握している。
ホワイトチョコが濃厚な分、クリームとスポンジはシンプルな甘さだ。チョコレートもしつこく残るような甘ったるさとは違う。レアチーズケーキが大丈夫な人だからこれなら満足して食えるだろう。
さっきの俺と同じように、フォークの先に警戒する様子もなくこの人もパクっと食いついた。
「……うまいな」
「美味いんですよ。これなんて種類のケーキですか?」
「種類は知らない。ここのケーキ屋ではホワイトエンジェルって名前で売ってた」
正気かこの男。
「良くそんな名前のケーキを男一人で買いに行けましたね。店頭予約したんでしょう?」
「ああ。その時は俺以外全員女性客だったうえに店員もみんな女だった。ホワイトエンジェルって堂々と言ってやった」
「何勝ち誇った顔してんですか」
女性客と女性店員に紛れてホワイトエンジェルと言い放つ社会人男性を想像した。確実に浮いていただろうけどイケメンなら許されるのが世の中の常というものだ。
再び席を立った瀬名さんは、冷蔵庫の中からまた何か持ってきた。手渡されたのは長細い箱。万年筆が入っていたのと同じくらいのサイズだった。これもにリボンが付いている。
「なんです?」
「プレゼント第二弾」
「第二弾?」
プレゼントに第二弾なんてあるのか。包みを解いて箱を開けるとカラフルな丸っこいお菓子と、五色あるそれらの説明を記した小さなリーフレットが目に入る。
「生マカロン……?」
「色気より食い気の十九歳にはこれだろ」
さり気なく貶された。でも頭に生って付いているお菓子はだいたい美味いと決まっている。
五個あるうちから薄黄色の一個を取り出し、一口で食うのはもったいないからカプッと半分にかぶりついた。
「……わ、うま……うっま……!」
「大げさな」
「大げさじゃねえもん。なんか食った事ない感じのお菓子ですよ。めちゃくちゃ美味い」
「また釣れた」
「うるさいってば」
人を魚みたいに言いやがって。
「けどほんと生マカロンなんて初めて見ました」
「ケーキ買ったのと同じ店のだ」
「どこにあるんですか?」
「会社の近く。今度一緒に行こう。ショーケースの中に入ってる商品は大体みんな恥ずかしい名前だからお前が自分で注文しろ」
「鬼かよ」
この白いケーキがホワイトエンジェルならチョコたっぷりのザッハトルテなんかはブラックダークネスとかで売っていそうだ。
ホワイトエンジェルはたぶん五号か六号くらいのサイズだろう。好みど真ん中のスイーツをその後もパクパクと欲張って食べ進めていたら、デカかったはずのケーキがすでに残り三分の一くらいになっている。
「今日はもうその辺にしておけ」
「まだ食えますよ」
「食えてもやめとけ。野菜食え野菜。砂糖の塊が一時間もしねえでこんなに減るとは思ってなかった」
「だって美味いから」
「何よりだ」
そう言いつつ残ったケーキは無情にも没収された。箱の中に戻された挙句に冷蔵庫へ強制送還。
「あーあ……。俺のケーキ」
「取らねえよ。明日また食え」
没収したケーキに代わり、ウサギにエサでもやるかのようにニンジンスティックを差し出してくる。口元に来たそれにポキッと噛みついた。やや酸味の効いたソースがこれまた、
「んまい」
「良かったな。キュウリとアスパラどっちがいい」
「アスパラ」
ニンジンをポリポリする俺のために次のスティックを瀬名さんが持った。淋しいと死んじゃうウサギのくせして人をウサギみたいに扱いやがる。いいタイミングで差し出してきた綺麗な黄緑の太いアスパラにも、すかさずポリッと噛みついた。
「瀬名さんは? パプリカ美味いですよ」
「じゃあそれ」
「赤と黄色どっちがいい?」
「黄色」
俺が黄色いパプリカを差し出したら瀬名さんもサクッとそれを食った。ウサギのエサやりゴッコをしながら俺の誕生日は終わりそう。一日かけて詐欺られたけど、美味いし楽しいし、まあいいか。
好きな人の隣で十九歳になった。ひとつ分だけ大人になった。
はじめて恋人と過ごした誕生日は、いろんな意味で忘れられない思い出になったと思う。
俺が中学の時はもっとぼんやりしていたと思う。家庭教師なんて考えもしなかった。都会みたいに派手なイベントや楽しい遊び場はこれと言ってないから、いつも同じようなメンツで集まって隣町までチャリンコ漕いでた。
瀬名さんはどうだったんだろう。地方出身者とは言っても、あの所作や振る舞いを見る限り育ちは結構良さそうだ。
小学生の時も中学生の時も俺は地方のクソガキだった。小学生の頃や中学生の頃の若かりし瀬名さんは、どんな男子生徒だったのか。バカな事とか、したのかな。
思い出と空想に半分浸りながら暗くなった道を歩いていたら、マンション前の通りに差し掛かったところで向こうから歩いてくる人影に気づいた。
瀬名さんだ。その影が街灯のすぐ下に来たところで確信できた。
歩いてくる瀬名さんの方にこっちから駆け寄ると、そこで立ち止まったこの人の、やわらかい表情に迎えられる。
「お帰り」
「うん……ただいま」
淋しいと死んじゃうウサギがわざわざ迎えに来てくれた。そこからは並んで歩きだす。右側に瀬名さん。左側に俺。俺達の周りには誰もいない。
ここの通りの街灯は、駅前のようには明るくない。住宅街にふさわしい程度のライトかりがちらほらとついている。
暗くて寒い夜の道で、右側だけ手袋を外した。それをバッグに放り込み、自ら外気に晒した右手。直後に冷たさを感じたが、その手を俺がそれとなく隣に伸ばそうとするその前に、行動を先読みしたかのように瀬名さんの手に握られている。
腰よりも少し下の位置で、きゅっと、やわらかくつながった。
「……昼にあれだけ食ったのにもう腹減っちゃった」
「そう言うと思って用意してある」
「オムレツになり損なったスクランブルエッグですか?」
「見栄えと味の良さに定評のあるデパ地下のお惣菜だ。昔から盛り付けだけは上手い」
今日はやたらと笑わせにくる。任せろと言っていたから何かと思えば金に物を言わせてきたようだ。
元から手袋をしていなかった瀬名さんの手は少し冷たい。これで温まりはしないだろうけど、あっためたくて強く握り返した。
寒いのになるべくゆっくり歩く。でもマンションにはすぐに着いた。
中に一歩足を踏み入れればそこでは視界も明るくなるが、人もいないし足音もしないから、くっついたままエレベーターに乗った。
鉄の箱が狭いのをいいことに繋いだ手も離さない。瀬名さんの指が右側にあるボタンの三階を押すのを眺めた。続けて閉じるのマークのボタンも。それに従ってドアがガゴッと閉じた瞬間、不意打ちのようにキスされていた。
「……ダメですよ」
「誰もいない」
「ここじゃダメ」
誰もいなくても自分の住処だ。万が一他の住人に見られたらそのあとの生活がちょっと気まずい。
などと思いつつも距離感はそのまま。ようやく手を放したのは瀬名さんの部屋の前に来た時。
この人がカギを開けるのを待って、二人で一緒に中に入り、背後で扉が閉まると同時に、肩に触れられた。隣を見上げる。そこでまたちゅっと、キスされた。
ぎゅうっと抱きしめられたのはそのすぐあと。寸前に見た瀬名さんの顔は、どうしたってやわらかかった。
「……朝から思ってたんですけど、なんかいい事ありました?」
「うん?」
「今日ずっと嬉しそうな顔してる」
「ああ、そりゃ……」
ぴとっと、両手で包まれた頬。そこだけ少しひんやりとする。
「当然だろ。恋人が十九歳になった」
「……それだけ?」
「特別な日だ。だからこそ本当は旅先で祝いたかったんだけどな」
「またそこに話戻るんですか?」
ふっとおかしげに瀬名さんが笑った。それに俺もつられている。
全部やわらかくて全部楽しくて、笑っているうちに唇が重なる。朝から一日小さく触れるだけだったキスが、今日はじめて深くなった。
指先もほっぺたも冷たいけれど、口の中だけは温かい。あつい。靴も脱いでいない状態でそのまま壁際に追い込まれ、背中はトンっと行き止まる。
押さえつけるほどではないが、格好だけはそれに近い。俺の顔の横で壁に手をついたこの人に、食むように唇を撫でられた。
ドアの鍵は、閉めたっけ。この人のことだから、ちゃんと閉めたか。
舌同士で舐め合いながらどうでもいいような事を考える。余計なことでも考えていないと、すぐに持っていかれそうになる。
瀬名さんのコートを控えめに掴んだら、ちゅくっと軽く舌先を吸われた。
「ん……」
くすぐるように唇を掠めつつ、ちょっとだけ離れる。はふっと小さく呼吸が漏れた。
玄関の明かりはついている。お互いの表情がしっかり分かるから、いくらか視線は逸らし気味に。
「待って…」
言い終わるかどうか、そんな辺りでまたキスされる。右頬には瀬名さんの手のひらが触れた。
ゆっくり重なる。時間をかけて。その度に舌も重なった。
空気は冷たいのに口の中は熱い。唇だけ微かに触れさせながら、この人の低い声を聞いた。
「もう一回」
「……だめ」
「だめ?」
「うん……」
だめって言っても、言い方がゆるいせいか、瀬名さんはもう一度してくる。それをすんなり受け入れた。
キスが、甘ったるい。いつもだけど、いつも以上に。壁に追い込まれていた体を、今度はぎゅっと抱き寄せられた。
その背にそっと腕を回した。抱きしめ返して唇を押し付けて、考える。関係ない事を。持っていかれてしまわないように。
こんなに優しくされるキスに百パーセント集中したら、まずいことになると思う。みっともなくて恥ずかしいことを口走る自信しかない。
だから思考の三分の一は別のところに飛ばしておく。外とドア一枚分隔てられているだけの玄関は寒いなとか。そういえば俺は腹が減っていたんだよなとか。瀬名さんが予約しておいてくれたケーキの種類は何かな、とか。
思っているうちにちゅっと、また一瞬だけ唇が離れた。
「せなさん……」
「ん?」
「ケーキ食いたい」
そして言った。頭に浮かんだ雑念を。
そこで見た瀬名さんの顔は、半ば混乱したようにキョトンとしている。
「…………あ?」
「ケーキ」
「……冗談だろ」
「いえ、本当に」
「このムードでもお前は俺よりケーキを選ぶのか」
「誕生日なので。ケーキあるので。……あるんですよね?」
「ある。冷蔵庫に入ってる。数分遅くなったくらいでケーキは腐らねえからあと一回だけ」
「そんなことよりどんなケーキなのか気になって仕方ないんです」
「そんなことより……?」
呆然というか唖然というか、一瞬で脱力した瀬名さん。その腕からするりと抜け出て我が家のように部屋に上がった。
荷物を置いてコートを脱いで一直線に目指した冷蔵庫。扉を開けると何やらギッシリしている。出掛ける時にはなかったはずだから全部デパ地下のお惣菜だろう。
ダイニングに足を踏み入れた瞬間から、調理台にドンと置いてある袋の山にも気づいていた。この人は俺を大食いファイターか何かだとでも思っているのかもしれない。出されたら出されただけ全部食うけど。
冷蔵庫の中のご飯も気になるが、それらをかき分けて一番奥で守られている白い箱を手にした。
明らかにこれが目当てのケーキだ。大きめのその箱だけ取り出して、わくわくとテーブルの真ん中に置いたら瀬名さんが呆れたように言った。
「お前の色気をあと三十パーセントアップさせるにはどうすればいいんだ」
「俺に聞かれても知りません」
「さっきのはケーキよりも俺を選ぶべき場面だったろ」
「知らないです」
不満そうな顔で不満そうな事を言うけど瀬名さんは俺の期待に応える。
ケーキの箱を開けてくれるのを俺も横から覗き込んだ。目にしたのは、大きな純白。
「わっ、すげえ。なんかスゲエ」
「そんな雑な感想久々に聞いた」
色んな種類のベリーが乗っているデカくて白くて綺麗なケーキだ。上と側面でモフモフしているのは薄く削ったホワイトチョコだと思う。真ん中にはこれまた白いチョコプレートがメッセージ入りで飾ってあった。ハピバって英語で書いてある。
ゴテゴテしすぎず、かと言ってシンプルすぎず。そして何よりめちゃくちゃ美味そう。
「ケーキ屋でロウソクもらったんだが立てるか?」
「え、いいです。どうせ食う時引っこ抜くし」
「恋人に情緒が備わってない」
アヒルと一緒に育った人間に情緒を求められても困る。
「さすがに自分が可哀想になってきた。マコトくんに負けてケーキにまで負けて」
「張り合う対象がおかしいんですよ」
「今後お前を釣りたいときには余計なことは何も考えずに甘いもん買ってくることにする」
口ではブチブチ不満を言うくせに、お客様待遇で椅子を引いて座るように促してくる。それに甘えて腰を下ろした。
ナイフとフォークと皿を持ってきた瀬名さんは給仕係に徹するようだ。俺の前には皿とフォークだけが置かれた。
「俺がこの日をどんなに待ち望んだことかお前にはきっと想像もつかない」
「そんな大げさな」
「大げさなもんか」
ナイフを持ったこの人の手はまっすぐ白いケーキに向かう。それを俺は目で追った。
至れり尽くせりでただ座って待っているだけの俺の目の前で、大きなケーキがワンピース分になるように丁寧にカットされていく。
「昨日まではずっと微妙なラインだった」
「微妙なラインって?」
「手出しする相手が十八歳となるとさすがに犯罪くさく聞こえるだろ」
じーっとケーキだけ見つめていた目が、自動的にパチッと一度まばたき。
コンマ数秒くらいは確実に思考が停止していたと思う。完全復活していない頭で、瀬名さんの言葉の意味を考えた。
「…………は?」
俺の前の小皿の上には、カットしたてのケーキが一つ乗った。乗せた瀬名さんは何食わぬ顔のまま。
「違法じゃないけど不当ってやつだ。お前が十九歳になってくれたおかげでその辺の罪悪感が若干薄まった」
「え……嬉しいって、そういう意味?」
「九割三分くらいは」
「ほとんど邪な気持ちじゃないですか」
「純粋に祝ってる気持ちも多少はある」
多少って。純粋な気持ちの部分はわずか七分しか残されていない。
ほぼほぼ邪悪に満ちている大人は、小皿に乗っけたケーキの上にチョコプレートをちょこんと飾った。
「こんなにめでてえ事はねえよ」
「…………」
てっぺんに立ったチョコプレートを半ば呆然としながら見つめた。ハッピーバースデー、ハルキ。書いてある内容はとてもシンプル。一般的な祝いの言葉だ。一番わかりやすいお祝いの仕方だろう。三十秒までは確かに、祝ってもらっている気分だった。
この男のヨコシマな内心を思いっきり聞かされてしまった今は、十九歳を祝う一言が呪いのメッセージにしか見えてこない。
「いくら同じ十代とは言っても十八歳か十九歳かでその印象はだいぶ異なる。十八だとまだ高校生寄りの少年的イメージの方が強い。これが十九になると途端にハタチ一歩手前の青年って感じになってくるからギリセーフだ」
「アウトだろ」
「十九歳おめでとう」
謎理論をペラペラと喋った末に俺の一言は無視された。結論もおかしい。一つもめでたくない。
大学生の俺が今日までずっと十八歳という年齢だったのは、単純に俺が早生まれだからだ。四月一日までに生まれたか四月二日以降の生まれかで学年を分けるこの国の制度と文化的背景によるものだ。
生まれるのがあと一ヵ月ちょっと遅かったとしたら俺はまだ地元で高校生をやっていた。もしも十ヵ月とか十一ヵ月とか生まれるのが早ければ、瀬名さんと知り合って間もない頃すでに十九歳になっていた。それはつまりこの人の言うところの、ギリセーフに該当する。
「あの……いま一瞬気になっちゃったんですけど、もしも付き合い始めた時点で俺が十九歳になってたらどうしてましたか」
「水族館に行くと見せかけてホテルに連れ込んでたと思う」
それはもうほとんど犯罪者の手口だ。あの日俺がもし十九歳だったら、カワウソは見られなかったかもしれない。
クズだクズだと思ってはいたけどまさかここまでのクズだったとは。
「……二月生まれで良かったなって生まれて初めて思いました」
「お前はすでに十九だけどな。十八歳と言う社会倫理的なガードは昨日までで消滅した」
犯罪者予備軍に脅迫された。誕生日に恋人から脅された。
瀬名さんの価値観からすると今の俺は青年寄りのセーフゾーンになるらしい。手出ししてもいい年齢らしい。十八だろうと十九だろうとちょっとアレなことに変わりはないよなと、正常な俺は思うけど。
「……一流の男は無理に迫って来ないんじゃなかったんですか」
「ああ、それはもういい。忘れろ。だんだんどうでもよくなってきた」
マジかよ。どうでもいいんだ。カッコイイこと言ってたのついこの前だぞ。
あれだけ熱心に語り尽くして包容力を見せつけてきたあの夜はなんだったんだ。
「今後十九だと思って油断した結果間違って寝込み襲っちまったらごめんな。先に謝っておく」
「犯罪って言うより病気ですね」
「恋の病だ」
「うるせえよ」
ハピバのメッセージが書いてあるチョコプレートを手で引っ掴んで噛みついた。パキッと半分にぶち割って食いつく。
「十九歳のくせに行儀悪いぞ」
「三十二歳の恋人に裏切られた腹いせです」
「俺がいつお前を裏切った」
「たった今裏切りましたよ。なんなら今朝からずっと裏切ってましたよ。誕生日ってだけでこんなに喜んでもらえるの嬉しいなとかちょっと思っちゃった俺の感動を返してください」
「嬉しかったのか。可愛いやつだな」
「気にしてほしいポイントが違う」
ハピバプレートの残り半分も口に放り込んでバリボリ噛み砕く。悔しいことにとても美味しい。しつこくはないけど程良くこってりとした濃厚な甘さはホワイトチョコならではだ。
チョコレートは文句なしに美味いが、もやもやした感情は複雑。怒りとも悲しみとも簡単には言い表せない微妙すぎるこの気持ちを俺はどうやって昇華すればいい。
一日かけて詐欺られた。優しい顔にコロッと騙された。釈然としない気持ちを抱えつつケーキを見下ろし、真上からもふっとフォークでぶっ刺す。勢いよくいったつもりだったけどケーキが極上にふんわりしていて怒りはほぼ表現できなかった。
ヤケクソでモグモグしてやる。クリームの滑らかさ。スポンジの食感。ホワイトチョコのフカフカした甘さ。どれもこれも最高だ。
「…………」
「どうだ?」
「……美味しいです」
「釣れた」
「うるせえ」
この詐欺野郎どうしてやろうか。
ふわっふわのスポンジとなめらかなクリームをガサツにフォークで掬い上げてはパクパクと口に運んだ。俺が食うのを満足そうに観察していた瀬名さんは、少しすると皿に盛りつけたデパ地下グルメでテーブルの上をわんさかさせた。
オムレツを炒り卵に変身させるような人ではあるが、本人がアピールした通り確かに盛り付けはとても上手。どれに手を付けても美味いのばっかだし、俺の好みを完全に把握しているこの男が外すはずもなく。
結果、モリモリ頬張った。昼のエビチリは俺の胃袋の記憶の中ではもうなかった事になっている。
重い物やこってりした物やしょっぱい物など次々に手を付けていくうち、さっぱりした物も何か欲しいなと思ったタイミングでヨーグルトサラダが出てきた。
「うま……」
コトッと小皿を置かれた瞬間にフォークにがっつり乗せて食った。メインにしてもいいくらいだ。
「一番人気のサラダらしい。アボカドのサラダもあるけど食うか?」
「食います」
即答したらすぐに用意してくれた。アボカドがゴロッと入ったサラダも贅沢すぎるほど美味かった。
テーブルの上の料理を俺がパクパクしている間に瀬名さんはまた何か温めていた。数分して大皿に乗って出てきたのは、丸くて黄色くてデカい食い物。
「何これ。たまご?」
「スペイン風オムレツ」
朝オムレツ作ろうとして失敗したからこれ買ったのかな。
瀬名さんの真意は分からないが、あんまりつついて落ち込んじゃったら面倒臭そうだから黙っておく。ケーキみたいな厚焼き卵も遠慮なくごそっと頬張った。ただデカいだけの卵かと思いきやホクッとした食感。じゃがいもだ。
「気に入ったか」
「すっげえ美味いです」
しっかり火は通っているけど卵はふわふわしていて柔らかい。厚みがあるから食感と弾力もちょうど良くて塩気も絶妙。
「スペインだと良くある家庭料理の一つらしい」
「普通にこれ食えるとかいいなスペインの人」
「なら来年の誕生日はスペインで過ごそう」
「いいえ、日本で過ごしますよ」
恋人の発想が極端で怖い。あんまり迂闊な事を言うと航空チケットをプレゼントされそうだ。
あったかくしたウーロン茶もついでに出され、そこでようやく瀬名さんも席に着いた。初体験のオムレツが美味くてずっとモリモリ食っていたら、飲み込んだちょうどいいタイミングでケーキをあーんしてくるこの男。
パクっとフォークの先に食いついた。塩気が勝っていた口の中に一気に広がるクリームの甘み。何度食っても、
「んまい」
「機嫌が直ってよかった」
「誕生日に騙された恨みは一生忘れませんけどね」
怨念を呟きながらフォークの上にひとくち分乗せたケーキ。それをそのまま自分ではなく瀬名さんの口元に持っていく。
「このケーキ見た目ほど甘くないですよ」
「そう言って口を開けた瞬間にフォークの先で喉をぶっ刺して俺の息の根を止める気だろ」
「そこまで恨んでませんよ今のとこは」
失礼な男の甘味許容範囲は俺もそれなりに把握している。
ホワイトチョコが濃厚な分、クリームとスポンジはシンプルな甘さだ。チョコレートもしつこく残るような甘ったるさとは違う。レアチーズケーキが大丈夫な人だからこれなら満足して食えるだろう。
さっきの俺と同じように、フォークの先に警戒する様子もなくこの人もパクっと食いついた。
「……うまいな」
「美味いんですよ。これなんて種類のケーキですか?」
「種類は知らない。ここのケーキ屋ではホワイトエンジェルって名前で売ってた」
正気かこの男。
「良くそんな名前のケーキを男一人で買いに行けましたね。店頭予約したんでしょう?」
「ああ。その時は俺以外全員女性客だったうえに店員もみんな女だった。ホワイトエンジェルって堂々と言ってやった」
「何勝ち誇った顔してんですか」
女性客と女性店員に紛れてホワイトエンジェルと言い放つ社会人男性を想像した。確実に浮いていただろうけどイケメンなら許されるのが世の中の常というものだ。
再び席を立った瀬名さんは、冷蔵庫の中からまた何か持ってきた。手渡されたのは長細い箱。万年筆が入っていたのと同じくらいのサイズだった。これもにリボンが付いている。
「なんです?」
「プレゼント第二弾」
「第二弾?」
プレゼントに第二弾なんてあるのか。包みを解いて箱を開けるとカラフルな丸っこいお菓子と、五色あるそれらの説明を記した小さなリーフレットが目に入る。
「生マカロン……?」
「色気より食い気の十九歳にはこれだろ」
さり気なく貶された。でも頭に生って付いているお菓子はだいたい美味いと決まっている。
五個あるうちから薄黄色の一個を取り出し、一口で食うのはもったいないからカプッと半分にかぶりついた。
「……わ、うま……うっま……!」
「大げさな」
「大げさじゃねえもん。なんか食った事ない感じのお菓子ですよ。めちゃくちゃ美味い」
「また釣れた」
「うるさいってば」
人を魚みたいに言いやがって。
「けどほんと生マカロンなんて初めて見ました」
「ケーキ買ったのと同じ店のだ」
「どこにあるんですか?」
「会社の近く。今度一緒に行こう。ショーケースの中に入ってる商品は大体みんな恥ずかしい名前だからお前が自分で注文しろ」
「鬼かよ」
この白いケーキがホワイトエンジェルならチョコたっぷりのザッハトルテなんかはブラックダークネスとかで売っていそうだ。
ホワイトエンジェルはたぶん五号か六号くらいのサイズだろう。好みど真ん中のスイーツをその後もパクパクと欲張って食べ進めていたら、デカかったはずのケーキがすでに残り三分の一くらいになっている。
「今日はもうその辺にしておけ」
「まだ食えますよ」
「食えてもやめとけ。野菜食え野菜。砂糖の塊が一時間もしねえでこんなに減るとは思ってなかった」
「だって美味いから」
「何よりだ」
そう言いつつ残ったケーキは無情にも没収された。箱の中に戻された挙句に冷蔵庫へ強制送還。
「あーあ……。俺のケーキ」
「取らねえよ。明日また食え」
没収したケーキに代わり、ウサギにエサでもやるかのようにニンジンスティックを差し出してくる。口元に来たそれにポキッと噛みついた。やや酸味の効いたソースがこれまた、
「んまい」
「良かったな。キュウリとアスパラどっちがいい」
「アスパラ」
ニンジンをポリポリする俺のために次のスティックを瀬名さんが持った。淋しいと死んじゃうウサギのくせして人をウサギみたいに扱いやがる。いいタイミングで差し出してきた綺麗な黄緑の太いアスパラにも、すかさずポリッと噛みついた。
「瀬名さんは? パプリカ美味いですよ」
「じゃあそれ」
「赤と黄色どっちがいい?」
「黄色」
俺が黄色いパプリカを差し出したら瀬名さんもサクッとそれを食った。ウサギのエサやりゴッコをしながら俺の誕生日は終わりそう。一日かけて詐欺られたけど、美味いし楽しいし、まあいいか。
好きな人の隣で十九歳になった。ひとつ分だけ大人になった。
はじめて恋人と過ごした誕生日は、いろんな意味で忘れられない思い出になったと思う。
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