貢がせて、ハニー!

わこ

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39.恋の悩みⅢ

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 晩メシの用意をしている間、瀬名さんが俺の後ろをちょろちょろくっついてくるのはいつもの事だ。
 そのまま手伝ってくれるにはくれるが本音を言うならすごく邪魔。直接その不満をぶつけたところで瀬名さんは気にせず引っ付き虫に徹する。しかし今日は仕事があったのだろう。隣の寝室で何かやっていた。

 大学から真っすぐ戻ってきたら、すでに部屋の中に瀬名さんがいた。ネクタイを解いただけで格好は朝と同じワイシャツのまま、ローテーブルの上でノートパソコンを開いて黙々と手を動かしていた。
 おかえり、ただいまを言い合ったくらいで今日はやたらと構ってこない。面倒臭くない瀬名さんには時々出会えることもあるが出現率はかなり低めだ。

 邪魔にならないよう極力静かに夕食の準備を終えた。
 仕事をしている時のこの人は、無駄口を叩かない大人になるからびっくりする程カッコイイ。



「瀬名さん、メシできましたけど……」

 控えめに声を掛けつつ隣の部屋に顔を出した。さっきまでパソコンの画面を睨みつけていたはずの瀬名さんは、後ろのベッドに凭れかかって、静かに目を閉じている。

「…………」

 うたた寝とは、珍しい。
 疲れてんのかな。どうしよう。このまま起こさない方がいいのか。

 音を立てないようにそろっと近付いた。どの時点で寝落ちたのだか、パソコンもすでにスリープ状態。頭と背中をベッドに預けているこの人の、顔を凝視した。すっげえイケメン。
 遠目で見てもいい男なのは盗撮の経験があるから知っている。こんなに近くから見下ろしたって、溜め息が出そうなくらい、綺麗な人だ。

「瀬名さん……」

 ごくごく小さく呼びかけた。起きないかどうか、確認するために。
 それで目を開ける様子がなかったから、顔を近付けた。まつ毛、長ぇ。

 俺だって男の子だし。こんな時に数時間前の浩太の言葉がよみがえってくる。
 好きな人が、目の前で寝ている。こんなにまじまじと瀬名さんの寝顔を見たことは今まで一度もなかった。
 心臓がさっきからうるさい。その音にそそのかされるように、ベッドのふちに手をついた。
 唇に目がいく。薄くて、綺麗な形のそこ。触るとやわらかいのも知っている。重ねたら、気持ちいいことも。

「…………」

 ギリギリまで近づいた。寸前で、キスを堪えた。代わりに小さな溜め息が出てくる。
 寝ている恋人に何をしようとしているんだ。罪悪感にかられながらベッドの上の毛布に腕を伸ばし、静かにそっと手繰り寄せた。
 疲れているなら寝かせておこう。食事はあっため直せばいい。そう思って毛布を掛けようとしたところ、パシッと、突如掴まれた右腕。

「っ……」

 ハッと瀬名さんの顔を見たのと、その両目がパチッと開いたのは完全に同時だった。

「今のは俺を襲うチャンスだったろ」
「起きてっ……」
「途中で気づいた」

 この、クソ狸が。

「路上教習中のお前がどこまで成長したか見守ろうかと思ってな。悪いが今のじゃハンコはやれない」

 いらねえし。
 ベッドに凭れていた姿勢を正し、機嫌よさげに座り直したこの人。薄くて軽いけどあったかい毛布を俺の手から掠め取ると、ベッドの上にモフっと戻した。

「こういうときは襲えよ」
「襲いませんよ」
「こっちは白雪姫モードで待ってた」
「なんですかそのモード」

 本物の姫は自分を襲えなんて間違っても言い出さない。

「……起きたんならさっさと立ってください。メシできてます」

 熱い顔面を俯かせながら瀬名さんをグイッと押しのけ、隣のキッチンに逃げつつ吐き捨てる。寝かせておく必要がないならこっちとしてはちょうどいい。ご飯にラップをかける手間が減った。
 ほっぺたはまだじんわり熱い。本当にもう、この人は。いちいち俺で遊ぶなよ。寸前で理性が勝ったのが救いだ。
 一足先に席に着いた俺の前で、瀬名さんもゆったり腰を下ろした。

「賞味期限が今日までの豆腐は始末できたか」
「味噌汁にぶち込んであるんで今からあなたが始末するんですよ」
「グッときた」
「会話して」

 なんだったらグッと来ないんだ。






 手抜き料理を二人で平らげ、豆腐もしっかり始末できた。俺は明日から春休みだから心なしか気分も軽い。やる事なんてバイトしかないけど。今度の夏には教習所行こう。
 ダイニングテーブルの上にコトッと置いたのはお揃いで買ったマグカップ二つ。お茶の入ったそれの片方を手元に引いた瀬名さんは、腰を下ろす俺をガン見しながら大きめの独り言を呟いた。

「あー……抱きたい」

 目の前にいる人から脈絡もなくそんなことを言われる恐怖。

「最近ちょっと露骨すぎますよ」
「毎晩お預け食らってりゃこうなるもの仕方ねえ。こんなに待てのできる恋人を褒めてやろうって気にならねえのか」

 なんで俺はこんな男が好きなんだろう。シカトしてズズッとお茶をすすった。

 自分の恋人の感情表現が必要以上に熱烈だから、基本的には鬱陶しいけどある意味でこれは幸福かもしれない。
 気持ちを長年押し込めたまま、好きな相手のそばにいる事を選ぶ奴も世の中にはいる。そのうちの一人が浩太だったのは予想外としか言えないが、女の子が大好きなあいつにとって、ミキちゃんは唯一の特別だ。

「瀬名さんは悩みとかなさそうでいいですね」
「ここんとこ毎日ムラムラしてて困ってる」
「ばか」

 なんの悩み抱えてんだよ。それを俺に言ってくんなよ。

「……世間の大多数にとっては恋ってもっと難しいんですよ」
「急にどうした。シェイクスピアでも読んだのか?」
「読んでません」
「じゃあどっかで拾い食いでもしたのか」
「あんたは俺をなんだと思ってるんですか」

 シェイクスピアはよく知らないし拾い食いして脳の一部がおかしくなったわけでもない。
 失礼な男に一連のかくかくしかじかを話してやった。浩太のことはたまに話題に出すから瀬名さんも名前だけなら知っている。ミキちゃんに関しては言うまでもない。その姿も覚えているだろう。

 意外性の宝庫たる女の子に意外な気持ちを抱いていたダチについて話し終えると、そこまで黙って聞いていた瀬名さんはコトッと静かにカップを置いた。

「ああいう状況を生み出した女の話をお前はよく平気で俺にできるな」
「ミキちゃんって喋ってみると結構面白いんです」
「……ほう」

 一言だけ呟き、そのあとはピタリと無言。その間にも視線だけは感じる。
 なんて言うかこう、ドロドロしたタイプの視線だ。

「……え、ちょっと。今になって怒るのやめてくださいよ。あれいつの事だと思ってるんですか」
「あの手の事件に時効はない」
「うわ……ねちっこい」
「ねちっこいとはなんだ。言い訳させろと泣きついてきたのは誰だよ」
「はあ? 誰も泣きついてねえし」
「いいや、あの時のお前は完全に泣きそうだった。間仕切り越しにはっきり感じた」
「記憶の捏造しないでください」

 泣きそうになった覚えはない。あの現場をスルーした瀬名さんこそ急によそよそしい態度になった。

「つーか自分こそイジけてたじゃん。俺の作った晩メシまで拒否しようとしましたし。食ったらさっさと帰ったし」
「なんてねちっこい奴だ」
「あんただろそれ。細かいことでネチネチネチネチネチネチネチネチ」
「俺はそこまでネチネチしてない」
「してるから言ってるんです。心が狭いって言うか、器が小さいって言うか。割と前から思ってましたけど見掛け倒しにも程がありますよ。いい年してクソ情けねえ」

 うっぷんを晴らすように畳みかけると、さすがのこの人も眉をひそめた。

「……言いすぎだろ」
「十分オブラートに包みましたが」
「それのどこがだ。最近の大学生はまともな口の利き方も知らねえのか」
「最近の若者はとか言いだす大人にロクなのいませんよね。無駄に年だけ食ったジジイは年下に説教しかできないんですか」
「ああ言えばこう言ってくんじゃねえよ。こましゃくれたガキがつけ上がりやがって」
「うっせえな、メンタル脆弱リーマンがごちゃごちゃと偉そうに」
「偉そうなのはお前だろうが。少しくらいは目上を敬え」
「年下に敬われるような行動たまには取ってみろクソジジイ」
「生意気ばっか言ってんじゃねえぞペラペラと口だけは達者なクソガキが」
「そのクソガキと付き合ってんのは誰だよこの変態ジジイが」
「なんだとガキこら」
「なんだよジジイ」

 睨み合う。お互いにジリッと。テーブルと言う距離があるから辛うじて掴みかからずに済んでいる。
 部屋の中は無音だから、俺達が黙るとシンと静まる。カチカチと鳴る時計の秒針に空間が支配されていた。中途半端にヒートアップしたせいで、すぐにはなかなか引っ込みがつかない。

「…………」
「…………」

 無言の睨み合いはしばし続いた。その状態を悪化させる前に、慎重に口を開いたのは瀬名さん。

「……やめねえか」
「ええ……。不毛な気がします」
「俺もそう思う。酷いこと言ってすまなかった」
「こちらこそ。クソジジイとか思ってません」

 すぐ終戦した。
 だいたいなんで俺達がこんな事でケンカしなきゃならないんだ。危うく掴み合いになるところだ。
 お互いに自分を落ち着け、変なところで大人げない大人は再びカップに手を伸ばした。戦意喪失を表すように、熱いお茶に口を付けて一息。

「……だがまあ正直、もしもあの女がいなかったら現時点でお前と付き合えてた自信はねえな」
「なんでしたっけ俺。難攻不落の山?」
「あの頃はエベレストって感じだった。今はK2って感じだ」
「分かりにくいんですよ、あなたの例え方」

 ケーツーってどこの山だろう。

「いっそのことお前がその二人をくっ付けてやればいい。そうすりゃ不安要素も一つ減る」
「俺ってもしかして信用ないですか?」
「信用してないとは言ってない。お前を押し倒すのは呆れるほど簡単だってことを知ってるだけだ」
「あんたは力が強いからだよッ」

 せっかく無血で終戦したのに余計な一言でまたカチンとくる。
 俺だって何も好き好んで押し倒されている訳じゃない。俺の方がデカくて俺の方が腕力があって俺の方が有利ならば、こんな男なぎ払っている。

「あなたみたいな馬鹿力じゃなければ抵抗も防御も余裕でできます」
「か弱い女子に抱きつかれておいてどの口がほざいてんだ」

 こんなに無礼でネチネチした大人はこの男の他に見たことがない。
 顔面にお茶ぶっかけてやろうかなってちょっとだけ思った。けれどその前に瀬名さんが動いている。思い立ったように腰を上げ、俺を立たせて隣の寝室へ。

「……なんですか」
「まあまあまあ」

 何がまあまあまあだ。
 腕を引かれるままついて行ったらベッドの前で立たされた。そこで唐突にされたのは、キス。ビックリさせられたその直後。

「わっ……」

 バフッと真後ろに押し倒された。

「ッ……んだよ!」
「ほら見ろ、簡単に押し倒せる」

 布団がクッションになったとはいえ、背中に柔らかい衝撃は受けた。これが恋人にする仕打ちか。堂々と乗っかってくる男を憎たらしく睨み上げた。
 この顔のまたイラつくこと。勝ち誇った様子で見下ろしてくる。
 大人げない。やり方もセコい。だから言っただろって眼差しを人に向けてくるのはやめろ。

「……俺じゃなくたって不意打ちされたら身構えてる暇ないじゃないですか」
「はっ。何が不意打ちだ。俺らさっきまで隣にいたんだぞ。それをホイホイとここまで連れてこられた挙げ句に現状はこのザマだ。こんなんじゃ食ってくださいと言ってるようなもんだろ」

 腹立つ。なんだこの男。腹っ立つ。
 ぐいっと押しのけながら上体を起こした。防御できないのは俺のせいじゃない。この人の行動がいつも突然だからだ。
 分からせてやる。それがいい。
 決意してその両肩をガシッと掴んだ。押し倒してザマア見ろと上から目線で言ってやるために。
 が、なぜか全然倒れない。倒れないどころか、動かせもしない。

「…………」
「どうした?」

 バカにしたような薄笑い。こんな間近で向かい合っているうえ結構強めに押したつもりなのに、全くピクリともしなかった。
 もう一回ぐっと力をこめる。今度はかなり本気で押してる。なのにこの人、体幹の良さが尋常じゃない。

「…………倒れろよッ」
「なに威張ってんだ」
「ちょっと傾いてみるとかくらいしてくれてもいいじゃないですかっ」
「言ってて虚しくなんねえか」

 クレーマー発言も鼻で笑われただけで終わる。
 惨敗だ。なんという屈辱。このままじゃ瀬名恭吾を見下せる日が俺には一生やって来ない。

「なんでだ……」
「これは素質の問題だと思う」
「……あ、そっか。寝技の習得すればいいんだ」
「脳ミソ筋肉なのかお前。それよりもまずは色気を覚えろ」

 そんなもん誰が覚えるか。
 全く倒せない原因の一つは瀬名さんの驚異的な体幹に違いない。いつもめちゃくちゃ姿勢がいいが、ちょっと軽く押してみるくらいじゃこの人のバランスは崩せないようだ。ベッドの下には重めのダンベルが隠されている事も知っている。

 俺は一体どうすれば。何をどうやって戦えば、この大人を上から嘲笑えるのか。
 瀬名恭吾攻略のための策を無言であれこれ練っていると、ターゲットの方から腕を伸ばしてきて俺の手をやんわり引いた。

 視線で示される。この人の膝の上。そこに乗れという意味だ。
 さらにクイッと手を引っぱられ、渋々ながら従った。瀬名さんの膝の上に跨って距離感を物理的にゼロにすると、目の位置がいつもとは逆転する。俺をいくらか見上げながら、体幹モンスターは怪しく笑った。

「いいか遥希こういうのはな、タイミングと相手の隙とスマートな動作が何より欠かせない」

 そんなこと考えながらいつも俺のこと押し倒してたのか。
 促されるままこの人の両肩にそっと置いた左右の手。そうすると腰にゆるく腕を回された。

「キスしろ」
「は?」
「それで俺の隙をつけ」
「…………」

 こんなに明け透けな企みも珍しい。策略だって分かっているのに、乗せられる俺も俺だけど。
 若干投げやりな気分も混ざりつつ、押し付けるようにして唇を重ねた。俺が気持ちいいと思うことは普段この人がしてくることだから、そっくりそのまま真似して返す。

 隙なんて、全然ついてない。それでも体勢は徐々に傾く。瀬名さんが俺を抱きしめたまま、後ろにぽすっと倒れこんだ。

 自分の隙をつけと言ってくる相手の隙をつけるはずはそもそもない。これを押し倒せたとは言えないだろう。瀬名さんに押し倒されてもらった。
 この人の両腕に下から抱かれ、形だけ目的は達成できたけど、キスはやめずにしばらく続けた。くしゃりと髪に指を差し込まれ、撫でられる感触にぞわぞわしてくる。

「ん……」
「まだだ」
「……うん」

 これじゃ普通に、ただのキスだ。いつもとは上下が違うだけで、いつもの気持ちいいだけのキス。
 長ったらしく重なってから、ちゅっと音を立てて唇を離した。濡れた唇をこの人の指先がしっとりと撫でてくる。
 上から見下ろすのは新鮮だ。瀬名さんの上に乗っかっているのは、誘導してもらった結果でしかないが。

「それで。俺を押し倒してみた感想は?」
「……スカしたその顔ぶん殴りたくなってきました」
「決まりだ。お前は色気を鍛えろ」

 手首と肩を掴まれた。一秒後には簡単にトサッと、上下が入れ替わっている。
 見上げるのは瀬名さんの顔。そしてその向こうにある天井。

「……どーせこうなるんですよ。知ってますよ、分かってますよ」
「そうイジけるな」
「人を負かしてばっかのやつにこの気持ちは分かりません」

 今のでよく分かった。原因は背の高さじゃない。腕力の差でも体幹でもない。俺の身長が二メートルあってゴリゴリのマッチョだったとしても、この男にだけは一生かかっても勝てないようにできている。
 無言になってむくれていたらほっぺたにキスされた。ふいっと顔を背けて拒否したら、追いかけてきて口にもされた。

「気づいてねえのか?」
「……なにが」
「先に惚れた時点で俺は負けてる。どう頑張ってもお前には敵わない」
「…………」

 これこそが大人の余裕というやつだ。頬を撫でながら上に向かされ、今度は丁寧なキスが降ってきた。

「敗者は勝者に従わなきゃならねえ」

 ゆっくりと啄みながら、そんな事を言ってくる。

「命令してみろ。俺にどうしてほしい」

 どの角度から目を凝らしてもこの男は敗者に見えない。命令されるべきは俺の方だけど、この人は俺に命じろと言う。
 自称敗者がそう言うのなら、一個くらい命令しても、バチは当たらないような気もする。

「……今の……もう一回」

 スカした顔面がちょっと緩んだ。やわらかくなったその表情で、命令通りにキスされる。
 こんなに堂々としている敗者は世界中探しても瀬名さんくらいだ。敗者に操られて喜んじゃうのは、どこを探してもたぶん俺だけ。

 腕を伸ばして抱き寄せた。勝ってもいないのに命令権を勝ち取ってさせたキスは、すごく長い。
 恋人が熱烈で困っているのは、俺の贅沢すぎる悩みだ。
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