31 / 233
31.事故かもしれない物件Ⅲ
しおりを挟む
リクエストされたチーズドリアを瀬名さんの部屋で作って待った。
八時前後には帰れる。瀬名さんからそんなメッセージが入っていたのは夕方ごろだ。あの人が朝に予告していった通り今夜は一緒に晩飯を食えそう。
大学からの帰り道で必要な食材を調達したあと、もらった鍵をさっそく使った。だがこの部屋の主は不在。瀬名さんの家に一人で入るのはさすがに少し緊張した。玄関の前で数分の間挙動不審にキョロキョロしていて、はたから見れば空き巣か何かに間違われてもおかしくなかっただろう。うっかり通報されてしまう前に意を決して踏み込んだ部屋は、当然ながら今朝俺がここを出ていった時のままだった。
とっくに見慣れてしまった部屋なのに一人でいるのはそわそわする。そわそわしながらキッチンに立った。何をやっているんだか俺は。
瀬名さんは会社から帰ってくるとまずは自宅のドアを開ける。荷物を置いてコートを脱いでから俺の部屋のインターフォンを押す。
今夜帰ってきたあの人は、ドアを開けて俺がいるのに気づいたらどんな顔をするだろう。驚くか。笑われるか。想像すればする程そわそわした。
落ち着かない時はじっとしているより体を動かした方がいい。夕食のリクエストは久々だからちゃんとしたものをテーブルに並べたい。
瀬名さんが食いたがったチーズドリアと、この前実家から送られてきた人参と玉ねぎを入れたスープと。安売りしていた濃い色のサーモンはマリネにして冷蔵庫にぶち込んである。ドリアが焼き上がりそうな頃にサラダの上に乗せれば完成だ。
雑念を払うために手を動かすけど、結局頭の中を占めるのは帰ってきた瀬名さんの反応だった。
「お帰りなさい」
「……ただいま」
その答えを知ることになったのは八時を少々過ぎた頃。帰ってきた瀬名さんはいつも通り自宅のドアの鍵を開けた。ガチャリと音がした数秒後、向こうから開かれたダイニングのドア。
瀬名さんの最初の反応はプチびっくりってところだった。しかしドアノブに手をかけたまま突っ立っていたのはほんの僅か。こっちへやって来るのを見て体の向きを鍋の方に戻した。
「カギ使ったのか」
背後に立つと同時に言って、両腕を俺の腹の前に回した。この人はすぐにこういう事をする。
手慣れた様子がちょっとムカつく。だから俺も余裕ですけどって風を装って言い返す。
「これからはあんたの財産盗み出し放題です」
「わざわざ盗み出すまでもない。お前になら全部くれてやる」
ああもう。
「ちなみに通帳と銀行印は向こうの棚の二段目の引き出しだ」
「やめて生々しい」
「クレジットカードは財布に入ってる。暗証番号知りたいか」
「間違っても言わないでくださいよ」
怖ぇよこの人。いいよ、負けたよ。俺を惨敗させた瀬名さんはぎゅうっと後ろから抱きついてくる。
首の後ろに感じたのはやわらかい唇の感触。最近よくここを狙われる。撫でるように口付けてきたかと思えば、チュッと軽く吸い付かれた。
「いいにおい」
「……うん」
ホワイトソースの濃厚なミルクと、チーズが焼ける香ばしい匂い。それが部屋の中を満たしている。可愛い子ぶったリクエストだろうとこの人にお願いされてしまったら作らない訳にはいかない。
「ちょっと、いいチーズ買ってきました」
ドリアではなくチーズドリアと言われたからにはチーズに主眼を置くべきだ。実際にこの人がそこまでチーズにこだわっているかは分からないけどとりあえずちゃんとしたチーズを選んだ。それをオーブンに入れたのはついさっき。耐熱皿の中に収まって香ばしくあっためられている。
首の後ろに執拗にキスされ、時折思い出したような甘噛みも。唇の位置はどんどん下がって、肩の辺りまでおりてくる。
「一気に腹が減ってきた」
「……あともう少しでできあがります」
「新妻かよ」
「なんでだよ」
グイッと後ろに肘を引いた。背後の体を押しのける。調子に乗るな。誰が新妻だ。腹に回された腕も引き剥がして冷蔵庫の前に避難した。
冷やしてあったサーモンと野菜を取り出して再び調理台の前へ。玉ねぎとパプリカを薄切りにして、レタスをちぎって豆苗をぶった切って、あとはサーモンを野菜の上に適当にばんばん散らしていればオーブンの中のドリアも焼き上がる。
「なあ。どうしてこっちで待ってた」
急に聞かれて手が止まる。妥当な言い訳は浮かばないから、可愛くない答えを言うことにした。
「俺にカギ渡したのあなたじゃないですか」
「そうだな」
「……ヤモリが出そうな予感がしたんです」
「そうか。なら仕方ない」
「…………」
仕方ないともなんとも思ってない。俺の頭の中なんてどうせこの人には筒抜けだ。瀬名さんが俺に見せるのはいつも余裕の表情だ。
一日中、ほんとアホみたいに丸一日、もらった銀色が気になって気になってそわそわしっぱなしでどうしようもなかった。壁一枚挟んだ真隣でもドアの存在はずっとデカかくて、だけど俺は鍵をもらった。それは好きな時ここに来ていいと許しをもらった事の証拠だ。実際にこの人はそう言った。いつでも来い。その言葉に甘えた。
お化けはいい口実だった。薄気味悪いのは本当だけど。もらった合鍵が嬉しくて、朝に閉めてきたここのドアをまた開けずにはいられなかった。
二つの皿それぞれに盛りつけたサラダにサーモンの赤が鮮やかに乗っかる。完成したタイミングを待ちかねていたかのように、そっと後ろから肩を引かれた。
床に置かれていたカバンの中から取り出された小ぶりな何か。クリーム色の包装紙にはさらにピンクのリボンが巻いてある。長方形のそれをこっちに差し出され、咄嗟に両手で受け取った。
「マカロン」
小さくて可愛いお菓子の名前だ。マカロンをもらうのは確か、ミキちゃん事件の時以来。
「……好きです」
「知ってる」
腹立つなチクショウ。今に見てろよ。必ずぎゃふんと言わせてやるからな。
ドリアをこんがりさせていたオーブンは、ちょうどよく焼き上がりの音を鳴らせた。
八時前後には帰れる。瀬名さんからそんなメッセージが入っていたのは夕方ごろだ。あの人が朝に予告していった通り今夜は一緒に晩飯を食えそう。
大学からの帰り道で必要な食材を調達したあと、もらった鍵をさっそく使った。だがこの部屋の主は不在。瀬名さんの家に一人で入るのはさすがに少し緊張した。玄関の前で数分の間挙動不審にキョロキョロしていて、はたから見れば空き巣か何かに間違われてもおかしくなかっただろう。うっかり通報されてしまう前に意を決して踏み込んだ部屋は、当然ながら今朝俺がここを出ていった時のままだった。
とっくに見慣れてしまった部屋なのに一人でいるのはそわそわする。そわそわしながらキッチンに立った。何をやっているんだか俺は。
瀬名さんは会社から帰ってくるとまずは自宅のドアを開ける。荷物を置いてコートを脱いでから俺の部屋のインターフォンを押す。
今夜帰ってきたあの人は、ドアを開けて俺がいるのに気づいたらどんな顔をするだろう。驚くか。笑われるか。想像すればする程そわそわした。
落ち着かない時はじっとしているより体を動かした方がいい。夕食のリクエストは久々だからちゃんとしたものをテーブルに並べたい。
瀬名さんが食いたがったチーズドリアと、この前実家から送られてきた人参と玉ねぎを入れたスープと。安売りしていた濃い色のサーモンはマリネにして冷蔵庫にぶち込んである。ドリアが焼き上がりそうな頃にサラダの上に乗せれば完成だ。
雑念を払うために手を動かすけど、結局頭の中を占めるのは帰ってきた瀬名さんの反応だった。
「お帰りなさい」
「……ただいま」
その答えを知ることになったのは八時を少々過ぎた頃。帰ってきた瀬名さんはいつも通り自宅のドアの鍵を開けた。ガチャリと音がした数秒後、向こうから開かれたダイニングのドア。
瀬名さんの最初の反応はプチびっくりってところだった。しかしドアノブに手をかけたまま突っ立っていたのはほんの僅か。こっちへやって来るのを見て体の向きを鍋の方に戻した。
「カギ使ったのか」
背後に立つと同時に言って、両腕を俺の腹の前に回した。この人はすぐにこういう事をする。
手慣れた様子がちょっとムカつく。だから俺も余裕ですけどって風を装って言い返す。
「これからはあんたの財産盗み出し放題です」
「わざわざ盗み出すまでもない。お前になら全部くれてやる」
ああもう。
「ちなみに通帳と銀行印は向こうの棚の二段目の引き出しだ」
「やめて生々しい」
「クレジットカードは財布に入ってる。暗証番号知りたいか」
「間違っても言わないでくださいよ」
怖ぇよこの人。いいよ、負けたよ。俺を惨敗させた瀬名さんはぎゅうっと後ろから抱きついてくる。
首の後ろに感じたのはやわらかい唇の感触。最近よくここを狙われる。撫でるように口付けてきたかと思えば、チュッと軽く吸い付かれた。
「いいにおい」
「……うん」
ホワイトソースの濃厚なミルクと、チーズが焼ける香ばしい匂い。それが部屋の中を満たしている。可愛い子ぶったリクエストだろうとこの人にお願いされてしまったら作らない訳にはいかない。
「ちょっと、いいチーズ買ってきました」
ドリアではなくチーズドリアと言われたからにはチーズに主眼を置くべきだ。実際にこの人がそこまでチーズにこだわっているかは分からないけどとりあえずちゃんとしたチーズを選んだ。それをオーブンに入れたのはついさっき。耐熱皿の中に収まって香ばしくあっためられている。
首の後ろに執拗にキスされ、時折思い出したような甘噛みも。唇の位置はどんどん下がって、肩の辺りまでおりてくる。
「一気に腹が減ってきた」
「……あともう少しでできあがります」
「新妻かよ」
「なんでだよ」
グイッと後ろに肘を引いた。背後の体を押しのける。調子に乗るな。誰が新妻だ。腹に回された腕も引き剥がして冷蔵庫の前に避難した。
冷やしてあったサーモンと野菜を取り出して再び調理台の前へ。玉ねぎとパプリカを薄切りにして、レタスをちぎって豆苗をぶった切って、あとはサーモンを野菜の上に適当にばんばん散らしていればオーブンの中のドリアも焼き上がる。
「なあ。どうしてこっちで待ってた」
急に聞かれて手が止まる。妥当な言い訳は浮かばないから、可愛くない答えを言うことにした。
「俺にカギ渡したのあなたじゃないですか」
「そうだな」
「……ヤモリが出そうな予感がしたんです」
「そうか。なら仕方ない」
「…………」
仕方ないともなんとも思ってない。俺の頭の中なんてどうせこの人には筒抜けだ。瀬名さんが俺に見せるのはいつも余裕の表情だ。
一日中、ほんとアホみたいに丸一日、もらった銀色が気になって気になってそわそわしっぱなしでどうしようもなかった。壁一枚挟んだ真隣でもドアの存在はずっとデカかくて、だけど俺は鍵をもらった。それは好きな時ここに来ていいと許しをもらった事の証拠だ。実際にこの人はそう言った。いつでも来い。その言葉に甘えた。
お化けはいい口実だった。薄気味悪いのは本当だけど。もらった合鍵が嬉しくて、朝に閉めてきたここのドアをまた開けずにはいられなかった。
二つの皿それぞれに盛りつけたサラダにサーモンの赤が鮮やかに乗っかる。完成したタイミングを待ちかねていたかのように、そっと後ろから肩を引かれた。
床に置かれていたカバンの中から取り出された小ぶりな何か。クリーム色の包装紙にはさらにピンクのリボンが巻いてある。長方形のそれをこっちに差し出され、咄嗟に両手で受け取った。
「マカロン」
小さくて可愛いお菓子の名前だ。マカロンをもらうのは確か、ミキちゃん事件の時以来。
「……好きです」
「知ってる」
腹立つなチクショウ。今に見てろよ。必ずぎゃふんと言わせてやるからな。
ドリアをこんがりさせていたオーブンは、ちょうどよく焼き上がりの音を鳴らせた。
32
お気に入りに追加
881
あなたにおすすめの小説
スキル「糸」を手に入れた転生者。糸をバカにする奴は全員ぶっ飛ばす
Gai
ファンタジー
人を助けた代わりにバイクに轢かれた男、工藤 英二
その魂は異世界へと送られ、第二の人生を送ることになった。
侯爵家の三男として生まれ、順風満帆な人生を過ごせる……とは限らない。
裕福な家庭に生まれたとしても、生きていいく中で面倒な壁とぶつかることはある。
そこで先天性スキル、糸を手に入れた。
だが、その糸はただの糸ではなく、英二が生きていく上で大いに役立つスキルとなる。
「おいおい、あんまり糸を嘗めるんじゃねぇぞ」
少々強気な性格を崩さず、英二は己が生きたい道を行く。
茶番には付き合っていられません
わらびもち
恋愛
私の婚約者の隣には何故かいつも同じ女性がいる。
婚約者の交流茶会にも彼女を同席させ仲睦まじく過ごす。
これではまるで私の方が邪魔者だ。
苦言を呈しようものなら彼は目を吊り上げて罵倒する。
どうして婚約者同士の交流にわざわざ部外者を連れてくるのか。
彼が何をしたいのかさっぱり分からない。
もうこんな茶番に付き合っていられない。
そんなにその女性を傍に置きたいのなら好きにすればいいわ。
よくある婚約破棄なので
おのまとぺ
恋愛
ディアモンテ公爵家の令嬢ララが婚約を破棄された。
その噂は風に乗ってすぐにルーベ王国中に広がった。なんといっても相手は美男子と名高いフィルガルド王子。若い二人の結婚の日を国民は今か今かと夢見ていたのだ。
言葉数の少ない公爵令嬢が友人からの慰めに対して放った一言は、社交界に小さな波紋を呼ぶ。「災難だったわね」と声を掛けたアネット嬢にララが返した言葉は短かった。
「よくある婚約破棄なので」
・すれ違う二人をめぐる短い話
・前編は各自の証言になります
・後編は◆→ララ、◇→フィルガルド
・全25話完結
前世で処刑された聖女、今は黒薬師と呼ばれています
矢野りと
恋愛
旧題:前世で処刑された聖女はひっそりと生きていくと決めました〜今世では黒き薬師と呼ばれています〜
――『偽聖女を処刑しろっ!』
民衆がそう叫ぶなか、私の目の前で大切な人達の命が奪われていく。必死で神に祈ったけれど奇跡は起きなかった。……聖女ではない私は無力だった。
何がいけなかったのだろうか。ただ困っている人達を救いたい一心だっただけなのに……。
人々の歓声に包まれながら私は処刑された。
そして、私は前世の記憶を持ったまま、親の顔も知らない孤児として生まれ変わった。周囲から見れば恵まれているとは言い難いその境遇に私はほっとした。大切なものを持つことがなによりも怖かったから。
――持たなければ、失うこともない。
だから森の奥深くでひっそりと暮らしていたのに、ある日二人の騎士が訪ねてきて……。
『黒き薬師と呼ばれている薬師はあなたでしょうか?』
基本はほのぼのですが、シリアスと切なさありのお話です。
※この作品の設定は架空のものです。
※一話目だけ残酷な描写がありますので苦手な方はご自衛くださいませ。
※感想欄のネタバレ配慮はありません(._.)
今さら、私に構わないでください
ましゅぺちーの
恋愛
愛する夫が恋をした。
彼を愛していたから、彼女を側妃に迎えるように進言した。
愛し合う二人の前では私は悪役。
幸せそうに微笑み合う二人を見て、私は彼への愛を捨てた。
しかし、夫からの愛を完全に諦めるようになると、彼の態度が少しずつ変化していって……?
タイトル変更しました。
いらないと言ったのはあなたの方なのに
水谷繭
恋愛
精霊師の名門に生まれたにも関わらず、精霊を操ることが出来ずに冷遇されていたセラフィーナ。
セラフィーナは、生家から救い出して王宮に連れてきてくれた婚約者のエリオット王子に深く感謝していた。
エリオットに尽くすセラフィーナだが、関係は歪つなままで、セラよりも能力の高いアメリアが現れると完全に捨て置かれるようになる。
ある日、エリオットにお前がいるせいでアメリアと婚約できないと言われたセラは、二人のために自分は死んだことにして隣国へ逃げようと思いつく。
しかし、セラがいなくなればいいと言っていたはずのエリオットは、実際にセラが消えると血相を変えて探しに来て……。
◆表紙画像はGirly drop様からお借りしました🍬
◇いいね、エールありがとうございます!
彼との距離は…
ぷぴれ
BL
駅の上下線それぞれのホームで向かい合うように電車を待つ2人。
約束をしたわけでもないのに、毎週同じ日に、同じ場所で見つめ合う。
言葉を交わしたことも無い、お互いの名前だって知らない。
離れたホーム間の距離、それに反して少しずつ縮まる心の距離。
どこまで、彼との距離は縮まっていくのだろうか。
※ノベラボ、小説家になろう、にて掲載中
噂好きのローレッタ
水谷繭
恋愛
公爵令嬢リディアの婚約者は、レフィオル王国の第一王子アデルバート殿下だ。しかし、彼はリディアに冷たく、最近は小動物のように愛らしい男爵令嬢フィオナのほうばかり気にかけている。
ついには殿下とフィオナがつき合っているのではないかという噂まで耳にしたリディアは、婚約解消を申し出ることに。しかし、アデルバートは全く納得していないようで……。
※二部以降雰囲気が変わるので、ご注意ください。少し後味悪いかもしれません(主人公はハピエンです)
※小説家になろうにも掲載しています
◆表紙画像はGirly Dropさんからお借りしました
(旧題:婚約者は愛らしい男爵令嬢さんのほうがお好きなようなので、婚約解消を申し出てみました)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる