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  第24章 【魏の帝都・洛陽】に【遣魏使】を遣わし、【魏帝】から【銅鏡】を賜る!

 〔322〕3世紀前半の【中華大陸】は激動の【三国時代】であり、中でも、【蜀】の衰亡は急激であった!

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  3世紀前半の【日御子】統治下の【倭国全盛期】は良きにつけ、悪しきにつけ、【中華大陸】の激動の【三国時代】の影響を諸に、受けている!


【三国時代】の【魏】【呉】【蜀】の人口比は7:2:1である。

動員兵力も、人口比に準じており、【蜀】は最も劣勢であったが、【諸葛亮孔明】のずば抜けた【才知】により、かろうじて、三国の均衡が保たれていたのである。



  歴史に、【IF戦記】なるものは【禁じ手】だが、仮に【たら・れば】を用いて【孔明】が、234年の【五丈原】で、【仲達】は【五丈原】に、足止めされてしまう!

その結果として、【公孫淵】は【燕】の勢力を拡大させ、南方からの【呉】と、【五丈原】での長期戦で【仲達】を撃破した【孔明軍】との三方から、挟撃された【魏】は滅亡してしまう!

【燕】を裏切り、【魏】についた【倭国】も【燕】と【呉】と【クヌ国】に挟撃され、滅亡(!?)と、なりかねない!



  【正史・三国史】の著者である【晋】の【陳寿】は【中華本土】の【地勢図】や【記録書】は正確に書写しているが、【辺境蛮族国】については、かなり大雑把で、いい加減な【資料】を手許に置き、書写している。

当時の【地勢図】の【倭国】については、九州を北端とした、南北に連なる【弧状列島】として描かれていたのは、ほぼ、間違いない。

故に、『濃尾平野の【クヌ国】は、【倭国】よりも【南】にあり、なおかつ【呉国】から真東に、海を渡ってすぐ近くで、両国には頻繁な交流があった』と、【陳寿】は誤解したのであろう!?
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