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第一話 

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◆◆◆


 いま、何時だろう…… 会社に行く準備をしないと。

 蘭はベッドからゆっくりと起き上がると、静かに障子に手を掛ける。
 昨晩は狐太郎と何もしなかった。ただぴったりとくっ付いて、寝てしまっただけ。そんな些細なことなのに、まだ身体は少し火照っていて、鼓動も早かった。

「あれ……? 」

 少しだけいつもより布団の熱がぬるい気がして、蘭は布団を捲り上げる。朝が弱い狐太郎が蘭よりも早く起きていたことなど皆無なのだが、今日に限っては狐太郎の姿が見当たらなかった。
 何でだろう。妙な胸騒ぎがする。
 蘭は何かを惜しむように布団の残り香を吸うと、その場で崩れるように蹲ってしまった。

「蘭さま 」

「えっ? 」

 急に名前を呼ばれて、蘭は襖の向こうを確認する。
 そこには狐太郎の部下、お手伝い、遊び相手を兼務するスーパー妖狐ウーマンの玉藻の姿があった。

「玉藻さん…… 何で朝からこんな場所に? 」

「今朝方 若旦那さまから、蘭さまを頼むと言付かりまして。急遽、私がこちらに参った次第です 」

「あの、狐太郎さんは、今は一体どこに? 」

「若旦那さまは『全てに蹴りをつける』と仰って、お出掛けになりました 」

「蹴りを付ける? 」

「ええ。ですから、若旦那さまのお留守の間は、蘭さまのお世話は、玉藻が仰せつかっています 」

「はあ 」

 事情の読めない蘭は、つい間の抜けた返事をすると、ハッと口を塞ぐ。『全てに蹴りをつける』とは、一体何のことなのか、蘭にはさっぱり見当が付かなかった。
 
「若旦那さまがいらっしゃらなくても、お部屋は自由にお使いください。もしも寂しいときは、この玉藻で役不足でなければお慰め致します故 」

「いや、そこまでは平気ですから 」

 蘭は冗談なのか本気なのか分からない申し出をやんわりと断ると、状況の把握に勤める。
 確かに昨日の晩に『言いたくないことは無理に言わなくてもいいよ』とは伝えたけれど、あれはそういうつもりで口にした言葉ではなかった。

 狐太郎さんは、もしかしたらかなり思い詰めていたのかな。そうだとしたら、私は全然 狐太郎さんのことを分かってあげてなかったよね……
 蘭はグッと奥歯を噛み締めるが、時は既に遅かった。いつの間にか肩は震えてしまっているし、我慢しようとすればするほど、身体の中心から嗚咽が止まらない。そして自分が涙を流しているのを自覚したときには、玉藻が隣で抱き締めてくれていた。

「玉藻さん、ごめんなさい。私…… 」

「蘭さま、大丈夫ですよ 」

「でも、駄目なんです。私が狐太郎さんに、こんな気持ちを抱いたら。だって私が狐太郎さんのことを好きになったら、玉藻さんにも他の妖狐の皆さんにも、迷惑をかけることになっちゃうから 」

「蘭さま。私はいつでも必ず若旦那さまと蘭さまの味方ですよ。それだけは天地天明に誓いましょうね 」

「…… 」

「だから、それ以上は泣かないで。折角の別嬪さんが台無しですよ。ほら、これから蘭さまはお仕事に行かなきゃならないのだから  」

 玉藻は懐から取り出した手拭いで、蘭の顔を雑多に拭うと、自分の指先で蘭の頬を冷やし始める。そしていつも通りの蘭の姿に仕立てると、会社の近所まで牛車で送り届けたのだった。



◆◆◆


 あっ、ヤバっッ……
 美波を押し潰しちまったかもっッ。

 正臣は柔らかな肌の感触に違和感を覚えると、ハッと目を覚ます。この数ヵ月で他人と一緒に寝ることには慣れてきた。でも、未だにその現実を忘れてしまい、美波をベッドの端っこに追いやったり、追いやられたりするものだから、習慣とは恐ろしいものだ。
 正臣は慌てるように横を振り向くと、美波はいつも通りの寝顔で、規則正しい呼吸をしていた。

 何だ…… 気のせいか……
 何かに触れた気はしたんだけどな。
 正臣はホッと息をつくと、また美波の肩まで布団をかけ直す。そろそろ起きなくてはならない時間だけど、出来ることなら 美波をギリギリまで寝かせてやりたい。
 それにしても…… 今日は何故だか部屋の中がきな臭い。噎せ返るような白檀の香の中に、微かに狐みたいな匂いがする。
 狐……?
 何で我が家で狐の匂いがするんだ? 

「まさかな 」

 正臣は盛大な独り言を呟くと、身体を起こして、床に転がったままになっていた浴衣を羽織る。そして、ついでに美波のパジャマを拾ったとき、正臣の目の前には、ここには絶対いるはずかない人物の姿が堂々と写り込んでいた。

「正臣、グッドモーニング 」
 
「はっ? 」

 正臣は一瞬息を飲み込むと、二度三度と目を擦る。悪い夢なら醒めてくれと願ってみるも、そんなわけがあるはずない。
 正臣は一瞬のうちに固まると、あまりの驚きに思わず声を失っていた。

「どうしたの、正臣…… 朝から急に変な声を出して 」

「えっ? あっっ 」

 正臣の独り言が聴こえたのだろう。美波はゆっくりと瞳を開けると、長い睫をパチクリさせている。そして徐に正臣の二の腕を掴み、身体を起こそうとした その時だった。

「ちょっーーー、美波。ストップ! ちょっと、待て。今は絶対に起き上がるなッッ 」

 正臣は物凄い形相で布団や毛布をかき集めると、二重三重と美波の周囲をガードする。正臣のあまりに必死な行動に、美波も思わず目を丸くしていた。

「えっ? 何? 正臣ったら朝っぱらから、そんな剣幕でどうしたの? って、キャーっっッッ!! 」

 美波は目の前の自体を理解すると、反射で悲鳴を上げていた。
 朝起きたら、目の前に知人男性(妖狐)がいるって、一体 何のドッキリ番組だ!? 
 美波は顔を真っ赤に沸騰させると、逃げるように布団のなかに身を隠した。

「ああ、ごめんごめん。お二人は昨晩は寝不足だったかな? 貴重な朝チュンタイムの邪魔をして、申し訳ない 」

「な゛っッ、何で狐太郎がうちにいるんだよっっッ。マジでどこから中に入ったんだ!? 非合法な手段を使ったなら、不法侵入で訴えるからなっっッ 」

「悪い悪い。その辺りは、キチンと謝るよ。狐妖術は万能だから、鍵の一つや二つ、開けるのは簡単だから ついついね 」

「はあ? その辺りは理性で堪えろよ。っていうか、普通に呼び鈴を鳴らして入ってこい 」

「いやー、正面突破は無理だろうと思ってさ。正臣が朝から俺の訪問を歓迎してくれる訳がないと思ったからさ。それならこちらも多少は作戦を考えなくちゃならないだろ? 」

「はあ……? お前が言っていることの意味が、さっぱり俺には理解できないんだけどっッ。つーか、何で朝っぱらから狩衣なんて着てるんだよ 」

 正臣はハアと大きな溜め息をつくと、浴衣を羽織り 頭をガシャガシャッと掻き回す。いくら妖術に長けた妖狐とはいえ、他人の侵入を許してしまうくらいに爆睡していたなんて大失態だ。その上、素っ裸を見られるなんて、もうこれはただただ最悪としか言えない状況だった。

「で、ここからが本題だ。美波ちゃん 」

「は、はいっ? 」

 美波は急に話を振られて、致し方なく布団から顔を出す。多少は紅潮していたが、美波の肌は朝から艶とハリに満ち溢れていた。

「悪いけど、君の正臣旦那さんを三日ばかり貸してくれないか? 」

「えっ? 」

「いやー、僕の個人的な都合ではあるんだけど、どうしても退っ引きならない事情が出来てしまってね。正臣の助けが必要なんだ 」

「はあ? 」

 そんなことを言われても、美波としては事情も良く分からないのに片手間な返事をするわけにはいかない。でも無下に断ることも出来ないので、美波は黙りを決め込めこんだ。

「狐太郎に何があったかは知らないけど、そんなの自業自得だろ? 自分で何とかしたらどうだ? 」

「ははーん。正臣は大事な大事な恩人に向かって、そんな口を聞いていいのかな? 美波ちゃんとギクシャクしたとき、手を差しのべたのは、何処の狐様だったかなー? 」

「なっっっっ 」

「その恩人がいなければ、正臣と美波ちゃんは、今も ただの主人と従者のままだったよね。もしかしたら、結婚する未来なんて微塵も一欠片も 可能性すらなかったと思うけど 」

「「…… 」」

 狐太郎の厭らしい物言いに、正臣と美波は反射でギョッとする。そして二人で目を合わせると、観念したように正臣が口を開いた。

「分かったよ。でも今すぐは駄目だ。美波を一人にするわけにはいかないから  」

  正臣は頭をガクリと下げると「一体、朝から何なんだ」と呟く。一方の美波は未だに布団から抜け出せず、恥ずかしそうに二人の様子を眺めていた。

「その辺りは心配しなくていい。美波ちゃんはうちの屋敷で責任を持って預かるから。玉藻に任せる分には、正臣も文句はないだろ? 」

「ああ。まあ、玉藻さんなら…… 」

「……? 」

 狐太郎と正臣のやり取りを聞きながら、美波は頭上に はてなマークを浮かべる。正臣が美波に関してのやりとりで首を縦に振るのは珍しく、それだけ玉藻さんは、信頼に足る人物なのだろうと思えた。

「で、お前は俺を何処に連れていこうとしているんだ? 」

「長崎と京都 」

「長崎と京都? 何でまた突然、その二ヶ所が出てくるんだ? 」

「まあ、細かい事情は後で話す。そうと決まれば、先ずはさっさと現場に向かおう 」

「えっ? ちょっ、オイっっ 」

 狐太郎は正臣の返事もそこそこに、正臣を尻尾で丸め掴むと、変な煙幕を焚き始めていた。

「待て待て、俺を変な術で弄ぶなっっ 」

「まあ、細かいことは気にするな。河童が本気でキレたら俺ら妖狐勝ち目がないのは分かってるから、まあ、怒らないでくれよ。それに今日から三日間は俺らは授業はないし、色々と都合もいい。善は急げだ 」

「はあ? 」

「ってなことで、美波ちゃんは暫くうちに泊まってよ。おもてなしはするからさ 」

「えっ? 」

 狐太郎は障子にも窓にも触れずに、怪しげな煙幕だけで扉の開閉を行うと、庭に横付けされた牛車に正臣を連行する。
 そのかなり強引な狐太郎のやり取りを、美波は呆気に取られながら送り出す他なかったのだった。







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