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真夜中を駆け回れ!

生放送の裏の裏側

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 生放送のスタジオには独特の空気が流れている。
それはまるで 刻一刻と変化する生き物のようで、時間が形になって 手で掴めるような錯覚に陥る。自分はそのピースに過ぎなくて、目に見えないものを作り出す存在だ。
 スタジオに釣り下がる沢山の照明、何台ものカメラが自分を狙ってくる この感覚、直前までスタジオに響き渡る怒号の数々。
 その久し振りの環境を一つ一つを意識するたび、自分の身体の真ん中を一本の軸が突き刺さり、上へ上へと背筋が伸びていくようだ。
 心臓が耳元に移動してしまったかのように、身体全体が脈を打つ。ドクンドクンと血液が身体の隅々に駆け巡る。体温が少しずつ上昇して ゆっくりと汗が滲みだす。
 誰かさんは『いつも通り笑っとけ』とか無責任なことを言ったけど、そんなことはクソくらえ。この場にきたら、正直震えを堪えて立っているだけで精一杯だ。

 イレギュラーな場所に身を置いたら、いつも通りではいられない。一度走り出したら電車は二時間は駅には止まらない。
 だから出発前のこの瞬間だけは、こう思うことにした。

 自分の深いところに刻まれた潜在能力を 私は信じる。
 私は世界一のアナウンサー
 どの誰よりも 私は巧みにこの番組を回せる存在。
 だって一度出来るようになったことは、簡単には忘れないから……





 その頃、綾瀬はスタジオの隅に隠れて淡々と流れていく生放送を眺めていた。
 自社の出演者全員が食中毒という前代未聞の事態となり、一時はどうしようかとパニックになったが、戦力外のスーパーエースが 何事もなかったかのように番組を進行している。何年も表舞台からは遠ざかっていた、深夜を生きる元秘蔵っ子。そして今ここに彼女は 物怖じすることなく、水を得た魚のように輝いていた。

「画になるな 」 

「迫田部長…… 」

 綾瀬の隣に来たのは、事態を聞き付け急遽局に出社したアナウンス部長の迫田だった。余程慌てていたのか 髪型は無造作に乱れ、いつもは身に付けないスタッフジャンパーを羽織って腕を組んでいる。

「どうだい……? うちの御堂は……? 」

「正直に言って 想定以上です。何事もなく この場に溶け込んでいるし、隠居生活が長いはずなのに 華があります 」

「あれは持って生まれたもの…… なんだろうね 」

「柔軟な采配を、ありがとうございました 」

「あはは、とんでもない。こっちは西野がやってくれたからね…… 集団食中毒でキャスターが全員降板だなんて、前代未聞だろ? 君たちには迷惑を掛けて すまなかったよ 」

「いえ、こちらとしては台本を汲んで回してさえ貰えれば、究極 誰でも構わないんで 」

「数字は気にしないのかい? 」

「もちろん それは重要ですが、情報番組においてのメインMCに求められるのはタレント性ではなくて総合力ですから 」

 綾瀬はそう言うと、耳につけていたイヤホンを外した。アシスタントプロデューサーがスタッフのやり取りの生命線であるインカムを外すということは、番組が安定速度に乗ったことを意味していた。

「綾瀬…… 」

「はい 」

「うちの御堂を どう思う? 」

「それは どういうことでしょうか? 」

「そのままの意味、でとらえてくれて構わない 」

「実に……勿体ない、と思います 」

「そうか。君らしい感想だな。僕も似たようなことを考えていたよ。 君たちの代は やっぱり優秀だ 」

「あはは。うちの同期たちは 泥臭いだけです。才能のある人間は一人もいません 」

「否定はしないんだな…… 」

「私自身に対しては 適切な評価は出来かねますが、御堂は優秀と言って差し支えはないと思います。急に大役が回ってきても 彼女は至って普通に こなしますからね。あんな芸当は 簡単には出来ません。番組毎に カラーも進行スタイルも違いますから、適応力が高いんでしょう。御堂は変に視聴者にアピールするようなこともしませんし、進行がどんどん変わっても物怖じしない。実に貴重な存在です 」

「では地上波で使いずらいことが、勿体ないのかね? 」

「それもあります。自業自得とはいえ スキャンダルだけは致命的でした。そんなことしてショートカットをしなくても、着実にやれば良かったんですよ。でも一番勿体ないのは、御堂が自分の才能に気づいてないことですかね 」

「それは どういうことだい?  」

「御堂は周りからの評価を気にしすぎて、まるで自分が見えていない。自分をもっと冷静に分析してセルフマネージメントすればいいのに。台湾ロケのディレクターって里岡さんらしいですね。さっき御堂から聞きました。里岡さんから指名を受けるなんて、こっちとしては嫉妬の対象ですよ 」

「里岡くんからは ずっと強烈なラブコールがあってな。ただ謹慎もしてたから、ずっと断ってたんだ。本人は全く知らないんだけど。今回はいろいろといい機会になるなもな 」

「ええ。世間では 司会者全員降板の方が話題に上がりそうなのに、朝からSNSでバズってるのは 御堂が久し振りに地上波に出てる方なんですよね。これは現在の出演者には大いに反省してもらわないと 」

「君も 言うようになったね。ほかの演者とうまくいってないのかね? 」

「いえ、表面的にはキチンとやってます。まあ、アナウンス部長にこんな言い方をするのは、自分でもどうかと思いますが  」

「同期だとやりやすいか? 」

「まあ、それは多少はあるかもしれません。確かに いまも西野には遠慮しなくていいですし。ですがそれだけではありません 」

「ほう 」

「御堂は 制作の意図を形にしてくれるんです 」

「他の演者には出来てないと? 」

「全員が全員じゃないですけどね。自分が自分がで進行されても、こっちも責任取れないし、番組の軸がどんどんブレてくんですよ。皆が同じ方向を向かないですからね。チームで番組を作ってるんだから、ワンマンな演者には 誰もついてはいけないんです。御堂はスタッフの動きもしっかりと理解していているから、こちらを困らせるようなことはしません。それは一般企業で働いている場合でも同じことが言えるんでしょうけど 」

「君がそんなに評価してくれてたのは、意外……でもないな…… 」

「ご冗談を 」

 綾瀬はそう言うと、ちらり上目で迫田を横見する。その視線に気づいたのか迫田も綾瀬に目線を向けた。

「まあ、こちらとしては 御堂を制作にプレゼンする手間が省けたよ 」

「こちらもアナウンス部に提案する手間が省けました 」

 綾瀬は落ち着いた様子で 迫田に軽く頭を下げる。端から見ればその光景は いたって自然なやり取りに見えた。

「じゃあ、僕はそろそろお暇させてもらうよ 」

「はい 」 

「君と僕は、接点はないことになってるからね 」

「そうですね 」

「……君は ここではいつもそんな感じなのかい? 」

「まあ、ええ…… でも今は、いろいろ気が張っています。こんなシチュエーションはなかなかないので。なので、さっき御堂と久し振りにやりあってしまいました 」

「喧嘩したのか? 」

「私が大人気なかったです。焦っていたもので。あんなに声を荒げたのは 私自身初めてです。反省ですね。相手が御堂でなかったら、私は今頃 始末書ものでした 」

「御堂だから 言い合えたんだろ? 」

「確かに…… それはあるかもしれません…… 」

「……君は少し働きすぎだ。仕事が好きなのはわかるが たまには家に帰ったらどうだ? 同居人は寂しがってるぞ 」

「まあ、時間帯的に帰宅すれば どちらにせよ一人なんで…… 」

「それは君が素早く帰宅しないからだ 」

迫田は腕を組み、綾瀬から不自然に視線をそらす。綾瀬はその迫田の怪しい挙動に気付いたのか 無理やり正面に回り込むと、無表情でこう呟いた。

「それに…… 」

「それに? 何だ? 」

「ここにいてもは慌てて飛んできてくれるみたいなんで、満更でもありません 」

「……お前って奴は 」

 迫田はそう言うと、一瞬だけ頭を抱えて天を仰いだ。そしてギロリと綾瀬を睨み付ける。綾瀬は無表情で迫田を見つめていて、その態度も迫田の癪に障ったらしい。

「年の離れたおっさんを、そうやってからかうもんじゃない 」

 迫田はそう言うと綾瀬のおでこをツンと突っついた。それは周りの人間には気づかれないくらいのほんの一瞬の出来事だったが、綾瀬は大きく目を見開いた。

「私、本心ですけど…… 」

 綾瀬はおでこを押さえながら、淡々と迫田に言った。その綾瀬の表情を見た迫田はますます眉を潜める。
こうなったら、おっさんは何も言い返せない。
 つまり今日は綾瀬の一本勝ちだ。

「綾瀬…… 耳貸せ 」

「はい 」

 迫田はそう言うと、綾瀬の耳元に顔を近づけた。そして小さく
「今晩はたっぷりお仕置きだ。覚悟しとけ 」
と呟いた。

 それを聞いた綾瀬は一瞬だけ 他人には読み取れないくらい微かに頬を緩めた。だが再び何事もなかったような飄々とした表情を浮かべると
「わかりました 」
と一言返事をした。





 生放送の裏方で働く者にも得意技が幾つかあって、一番最初に会得しなくてはならないことがある。

 それは、ポーカーフェイスを常に絶やさないことだ。









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