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長い長い夜明け

運命のお誘い

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◼◼◼


「お疲れ様ですー」

 息吹は首筋の汗をタオルで拭きながら、事務所フロアーにある女子ロッカーに向かっていた。夜間の事務所は省エネのためにエアコンや照明を落としているから、とにかく蒸し暑くて仕方がない。しかも作業着は危険防止のために 夏場でも長袖だから、いくら夜間の立ち会いと言えども この時期になると暑さとの戦いだ。
 息吹はロッカールームに入るなり スマホを取り出すと、電話を掛け始める。三時頃に 朱美から仕事が終わったら電話が欲しいと連絡が入っていたからだ。

「もしもし? 」

「あっ、もしもし、息吹? 」

 三コールくらいしたところで、朱美の声が聞こえる。その声色は明らかに弾んでいて、早朝とは思えないくらいに軽やかなものだった。

「……朝っぱらから、何の用? 今日は私は飲みには行けないよ。現場を三件ハシゴして、もう汗ダクダクっ 」

 息吹は 誰もいない女子更衣室で 薄緑の作業着を脱ぎながら スマホに応答していた。首筋からは まだ汗がドッと流れている。

「ごめん。残念ながら、用事は今日ではないんだー。私も もう寝るし…… 」

「そう、それなら何の用? あたし今着替え中なんだけど 」

 息吹は面倒臭そうな表情を浮かべると、徐に制汗スプレーを手に取った。下着一枚を身につけただけの姿だったが、どうせ他の女子はここには来ないから、気を遣う必要などは皆無だった。

「まあ、そんなに説明に時間は取らないから。息吹ってさ、来週の土曜日の夜は暇? 」

「来週の……土曜日? 」

 息吹はスプレーする手を一瞬とめて、記憶を辿り始めた。さて土日の予定は、どうだっただろうか?

「確か夕方に、足ツボの予約入れてた気がするけど 」

「それって、キャンセルできる? 」

「えっ? 優待券の期限来月までだった気がするから、それは出来なくはないけど…… 」

「じゃあさ、悪いけど足ツボはまた今度にして。私と合コン行かない? 」

「……えっ? 合コンっッ? 」

 息吹は思わず大きな声を上げてしまい、慌てて身を丸くした。いま女子ロッカーにいるのは自分一人だが、隣の男子ロッカーは薄い壁一枚で隣だし、ピンポイントで合コンという単語が 叫び声に近い状態で聞かれたら…… なかなか恥ずかしいものがある。

「わかった。で、相手どんな人たちなの? 」
 
 息吹は急に声を潜め出して、朱美に質問した。

「まだ、私も詳細はわかんないんだけど。うちの担当の知り合い 」

「ちょっ、それって噂の吉岡って人のこと? 確か彼はK大だよねっッ? 」

 息吹は下着姿のまま椅子に腰掛けて、長電話モードに入っていた。朱美が持ってきた話にしては、何か裏があるのではないかと思うくらい奇跡に近いレベルの美味しい話だ。これを逃しちゃいけない気がするのは女の勘の領域だった 。

「もちろんっ、参加させてもらう! 来るものを拒まないのが、B型女子の長所だからね 」

「じゃあ、息吹は来てくれる? あー、寝ないで電話待ってた甲斐があったー 」

 電話越しに朱美が布団をガサガサし始め、就寝モードに入っている音が聞こえた。大方、昼間から夜通しで仕事をしていたのだろう。しかもこの甘ったるい話し方は、いくらか酒が入っている。そんな口調だった。

「朱美も、どうせまた完徹したんでしょ。あんまり無理をしちゃだめだよ 」

「なんだか 息吹ってば、急に優しくなってない? さすが息吹は私の一番の友達だね。ありがと 」

「……それは。いい話振ってもらって、ど突く必要はないからね。ありがとう、はこっちのセリフだよ。楽しみにしてる 」

 息吹はそう言うと、話を短くまとめて電話を切った。合コンならば、髪も染め直してエステにも行ってしまおうか。
 息吹はウキウキしながら、スマホでスケジュールを確認した。合コンなんて久しぶりだ。何だか青春っぽいではないか。息吹は着てきた私服に素早く身に付けると、残務処理のためにオフィスに向かった。 


 このときには……
 まだ息吹も朱美も予測すらしていなかった。
 色々な意味でこの合コンが、自分たちの人生にとって大きな出来事になることに。



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