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第四話 天麩羅とがめ煮の複雑な胸中

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◆◆◆

 
 

「美波さま、朝ですよ。おはようございます 」

「んっ……? まさおみ? おはよう。もう朝なの? 」

「そうですよ。朝ごはんは いちごのジャムのトーストで良いですか? 」

「……うん 」

「かしこまりました。準備をしますので、少しだけお待ちくださいね 」

「ねえ、まさおみ 」

「どうかしましたか? 」

「あのね、みなみのことを、みなみさまって 呼ぶのはやめて欲しいの 」

「えっ? 」

「だってパパもママもお友だちも、みなみのことはみなみ って呼ぶもん。まさおみだけ みなみさまって呼ぶのは変だもん 」

「いや、だけど俺は美波さまの従者だから…… 」

「いやよ。今すぐ止めて。いい、まさおみ? これはめいれいよ 」

「命令? 」

「みなみとまさおみは、家族だもん。だから みなみは まさおみのなんかじゃないもん 」

「家族……? 」

 誰がこんなことを美波に教えたのだろうか……
 自分もまだまだ子どもではあるけど、小さい子というのは時に面白いことに気が付くものだ。
 正臣は少しだけ困ったような表情を見せると、ふっと息を吐く。そして深く腰を落とすと、美波の目線の高さになった。

「分かった。今日からは美波のことは美波って呼ぶよ 」

「本当に? 」

「ああ。美波が俺から巣立つまではずっとそう呼ぶ。約束する 」

「……ぜったいに約束をやぶったらだめだからね 」

「はいはい。分かったよ、美波 」

 正臣はそう言って自分の小指を差し出すと、美波の華奢な小指にゆっくりと絡めた。
 
 結んだ美波の小さな指は、温かくて優しい。
 心がむず痒くて、照れそうになる。
 このとき抱いた感情は、未だに言葉では表すことなど出来ない。

 でも…… 一つだけ、間違いなく言えることがある。
 あの出来事が、彼女への絶対的な服従を決意した瞬間だったのだ。
  


◆◆◆



「美波、起きろ 」

「…… 」

「美波、いい加減にしろ。朝だぞ 」

「…… 」

「ったく、お前は いま何歳いくつだよ? 」

 正臣はプンスカ怒りを振り撒くと、床に転がっていたクッションやらぬいぐるみに手を掛ける。そして思い切り勢いを付けると、躊躇することなく美波のベッドに投げつけた。

「んっ? って、痛いっッーー 何するのっっッ? 」

「……お前さんが いつまでも起きないからだろ 」

「だからって、物を投げつけて起こすなんて 雑すぎるでしょ? 肩を優しくトントンするとかして、普通に起こしてよ。普通にっ!! 」

「この野郎…… 起こしてもらえるだけ有り難いと思えよ。この我が儘娘 」

「むっかーーっッッ! 私を我が儘娘に育てたのは 正臣でしょ? 私への暴言は全部ブーメランで跳ね返ってくるんだから、肝に銘じときなさいっ 」

「なっ…… 」

 美波は枕元に散乱したクッションを片付けながら 一通りの文句を並べると、正臣に向かってベーっと舌を出す。
 正臣は そんな美波の失礼千万な態度に 一瞬 拳を鳴らしかけたが、飲み込むように一息つくと 端的に要点を続けた。 
 
「で、朝飯は何にするんだ? おにぎり、コーンフレーク、あと一応 おきゅうともあるけど? 」

「……それは、他のものを注文するのもありなの? 」

「えっ? まあ…… 家に食材があるものなら準備は出来るけど 」

「……イチゴジャムのトースト 」

「トースト? 珍しいな。選択肢にないものをリクエストするなんて。お前さんは最近は 糖質制限とか言って、甘いものは食わないじゃないか 」

「……ちょっと思い出して、急に食べたくなったの。別に、ないなら何でもいいけど 」

「あるよ 」

「えっ? 」

「ある。食パンは冷凍してるのがあるし、ジャムは頂き物の博多あまおうの瓶詰めがある 」

「あの…… 」

「何だよ? 」

「っていうか、朝ごはんの準備が凄すぎ。正臣の本業って大学の先生でしょ? 実は本当の職業は、料理人とかだったりして 」

「……俺の本業は、お前の従者だよ 」

「えっ? 」

「つーか、いつまでもグダグダしてないで、さっさとベッドから出ろ。マジで会社に遅れても、そこまでは面倒は見きれないからな 」

「あっ、うん…… 」

 正臣は一方的に 美波に教育的な指導を行うと、頭を抱えながらドアに手を掛ける。その様子はいつもと同じなはずだけど、後ろ姿は 疲れているようにも見えた。

「そうだ、美波 」

「何? 」

「俺さ、今日は急遽 東京に行くことになったんだ 」

「東京? 仕事か何かで? 」

「いや、ちょっと大事な用事があるんだ。最終便でこっち福岡に戻ってくるけど、晩飯には間に合わない。夕飯は何か用意しておくか? 」

「ううん、大丈夫。外で食べて帰るから 」

「悪いな。何かしら 土産は買って帰るよ 」

「うん」

 ……一瞬、ドキッとした。
 「俺の本業はお前の従者だ 」なんてことを面と向かって言われたことは殆どない。そして唐突に、自分達の本来の関係性を突き付けられたような気がする。
 形式上も実際も、正臣は従者であって 自分は主人だ。
 いつも意識したことなんてないし、美波としては正臣のことは 同居人で家族みたいな存在だと思っている。それなのに従者という単語を改めて聞いてしまうと、グサリと胸を抉られるような気がした。

 正臣は、自分に自立を促している。
 もうこれ以上、自分が年を重ねるところを見せてはいけない。
 
 美波は今一度 布団のなかに潜り込むと、ぎゅっと瞳を瞑るしかなった。



◆◆◆ 
 

 仕事に集中が出来ないし、頭のなかで正臣のことばかり考えてしまう……

 美波は【美味しい辛子明太子の作り方】と銘打った資料とにらめっこしながら、頭では全く別のことを考えていた。
 明太子とは、スケトウダラというタラ科の魚の卵が原料で、唐辛子を使用した調味液で味付けをする。福岡の子どもたちは、その製造方法を小学生の頃から学び、工場見学に行くのが定番だ。
 美波は会社の営業として、来月 一人で初めて小学校に講習会をしに行くことになっていた。外回りの空いた時間を見つけて、その資料作りを進めなくてはならないのに、どうしても頭が別のことを思い浮かべてしまう。

 先日 何故か 正臣に手首を掴まれた。
 その逞しさや力強さが、ふとした瞬間に生々しくフラッシュバックして、ついつい顔が赤くなってしまう。正臣は体調不良から回復してからは、いつも通りな感じではあるけど、こちらとしてはいつも通りを演じているような感覚だ。

 意識してしまう。それも強烈に。
 今までそんなことを考えたことは、一度もなかったはずなのに……

 ああ、駄目だ。
 一度、頭を切り替えよう。そうしなければ、いつまでたっても資料は表紙の先に進まない。
 美波は致し方なく領収書の束を抱えると、経理部へと向かうのだった。



◆◆◆



「美波から 私を夕飯に誘うなんて 珍しいね 」

「ごめんね、蘭。狐太郎さんは大丈夫だった? 」

「別に平気平気。さっき電話をしておいたから。二時間くらいなら 許容範囲だよ。それに後で美波を狐雁庵に連れてこいって。昨日、大量にがめ煮筑前煮を炊き過ぎたみたいで。お裾分けを持って待ってるってさ。で、夕飯は何を食べる? さくっと長浜ラーメンでもいいかな? 」

「うん 」

 蘭は あれから光の速さで狐太郎との仲を深め、週の半分は狐雁庵に入り浸っている。何だかんだで楽しそうな蘭の様子は、正直 今だけは羨ましくも感じてしまう。
 今宵の福岡は 上空には雲一つない、すっきりとした夜空が広がっていた。この時間はギリギリ飛行機が飛んでいるから、時折 上空をジェット音が掠めていくのが耳に響く。

 蘭と美波は 適当に清流公園沿いの屋台に入ると、取り敢えず一口餃子と冷やをオーダーする。箱入り娘な美波は 屋台では数回ほどしか飲んだことはない。だから屋台の作法やらの勝手がいまいち分からなかったが、蘭がしっかりリードしてくれるのは助かる部分があった。


「で、今日の晩御飯は 家に用意はないの? 」

「うん。正臣はいないから 」

「えっ? あっ、そうなんだ。珍しいね。出張か何か? 」

「東京に用事だって。……詳しい内容は聞いてないけど 」

「ふーん 」

 蘭は、珍しいこともあるものだ と思ったが、それは胸のうちに秘めておく。いつも美波を優先している正臣が 一人で九州の外に出掛けていくなんて、にわかに信じられない話だった。
 
「……美波さ、もしかして正臣さんのことが気になってるんでしょ? 」

「えっ? 」

「顔にバッチリ書いてあるよ。何かあったんじゃないの? 」

「それは…… 」

 美波は言葉に詰まると、喉元にグッと冷やを押し込む。悩んでいるから蘭に相談したいのに、いざ喋ろうとすると恥ずかしさが込み上げるのだ。

「……私ね、正臣に嫌われるのが急に怖くなったの 」

「正臣さんに嫌われる? 」

「うん。この前、ちょっと色々あって。正臣に言われたの 『もう、俺の前で大人にならないでくれ 』って 」

「え゛ええっっッーーー 」

 蘭は美波の衝撃発言に思わず声を張り上げると、勢いのまま立ち上がる。しかし直ぐ様、周りの視線に気付くと、慌てて自らの口をハンカチで押さえた。

「で、美波は 何て答えたの? 」

「……返事はしてない。正臣はその時は体調不良だったから。もしかしたら言うつもりがない本音が出てしまったのかもしれないし、翌日には正臣もケロっとしてたし 」

「そう 」

 美波は相変わらず表情を固くしたまま、パクパクと餃子を啄んでいる。
 もはや それは 「大人になるな」「嫁に行くな」「ずっと俺の側にいろ」と言われているようなものだろう…… と、蘭は言ってやりたかった。けれども、美波のあまりにも難しい表情を見ていると、自分が正臣の気持ちを代弁してやる訳にもいかない。蘭はウーンと唸ると、冷やのお代わりを注文した。

「体調不良を起こしてから、正臣は私に近づかないの。食事のときは、正臣は後から胡瓜を齧るだけだし、用事が終われば 直ぐに部屋に戻っちゃう。前は朝に起きられないことがあっても普通に起こしてくれたのに、今は部屋のドアの前からクッションを投げてくる。私は正臣に  今もの凄く距離を置かれている。それが辛い 」

「それは…… 」

 朝くらい自分で目覚ましで起きろよ、とツッコミをいれてやりたいところだけど、残念ながら今日の本題はそこではない。
 話を聞く限り、正臣と美波は 互いに とんでもない拗らせ方をしている。そして本人同士がそれに気付いていないというのが、一番の最悪だった。

「きっと、正臣は私に早くお嫁に行って欲しいんだと思う。もうこれ以上、大人に成長するところを見たくないって、言われちゃった。
意識しないように、いつも通りにしようって、頑張ってみてるけど、胸が苦しい。私は、正臣に嫌われたくない。どうしよう、私…… もしかしたら正臣のことを…… 」

「美波 」

 蘭は美波の肩を抱くと、自分の方に身体を寄せる。
 美波の背中は震えていて、小刻みに揺れている。今にも泣き出しそうな美波を前にすると、こちらまで居た堪れない気持ちでいっぱいになるのだった。



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