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第一話 夜更けに沁みる博多うどん

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◆◆◆



 高取家には、河童の一族と代々続く不思議な縁がある。
 
 遥か昔、この地域がまだ干潟で 海岸線が今よりもずっと近くにあった頃、ご先祖さまは目の前に広がる博多湾に漁に出て生計を立てていた。
 そんな とある時化しけの日に 事件は起きた。細かな経緯は省略するが、ご先祖さまは大海原のド真ん中で 河童と酒にまつわる契約を交わしたのだそうだ。

 その約束の中身は 非常に単純だ。
 高取家は 定期的に河童の里に酒を提供する。その返礼に、河童は高取家が未来永劫繁栄するようにと、子宝に恵まれる度に 里から従者を送り出すという内容だった。従者の任期は 子どもが成人し婚姻をするまで。その間は寝食を共にし、必要があれば用心棒としてお守りする。
 そして何故かその不要不急な慣習は数百年に渡り、脈々かつ淡々と受け継がれていて、今日においても途絶えることなく続いている。という顛末が、現状の美波と正臣の関係性だった。


「おはよう 」

「おはよう。珍しいな、一人で起きてくるなんて 」

「……正臣って、いつも一言余計だよね 」

「事実を述べたまでだけどな 」

 美波はボサボサに乱れた髪に手櫛を通すと、ギロリと正臣を一瞥いちべつする。でも一方の正臣は、そんなことには一切お構いはないようで、朝刊を眺めながらコーヒーと胡瓜を嗜んでいた。

「っていうかさ 」

「……何だよ 」

「正臣は毎日毎日、胡瓜ばっかり食べてて飽きないの? 」

「はあ? 」

「だって、胡瓜とコーヒーって、組み合わせが滅茶苦茶じゃない 」

「……美波はさ、ご飯と味噌汁に飽きたことはあるか? 」

「そんな経験は…… ないけど 」

「俺にとっては 胡瓜は主食だからな。お前さんらにとっての米と同じだよ。それに朝はコーヒーを飲まないと、身体がシャキッとしないんだよ 」

 正臣は面倒臭そうな表情を浮かべながらも 律儀な回答を並べると、シャリシャリと大きな音を立てながら胡瓜を咀嚼する。高取家の食卓には、昔から胡瓜が籠いっぱいに盛られていて、それが途切れたことは一度もない。正臣の生まれ故郷から毎週直送されてくるこの時期の夏物は、特に瑞々しさと甘さが増した天下一品の上物だった。

「で、美波は朝飯はどうする? 」

「胡瓜以外 」

「そんなことは分かってるよ。卵は何がいいんだ? 」

「……目玉焼き。半熟がいい 」

「はいはい。じゃあ、先に顔でも洗っとけ 」

「ありがとう 」

「どういたしまして 」

 正臣は食べかけの胡瓜を無理やり口に捩じ込むと、直ぐに台所へと向かう。既に雪平鍋にはあご飛魚出汁の効いた麦味噌仕立ての御御御付おみおつけが用意されていて、炊飯器からは炊き立てご飯のいい香りが漂っていた。

 上げ膳据え膳状態で、毎日のように温かい朝食が頂けるのが贅沢だとは思う。美波はフカフカのタオルで顔を拭いながら食卓につくと、手を合わせてテーブルに広がる朝御飯に箸を付けた。

「んっ。この卵、黄身の味が濃くて美味しいね 」

「そうか。それは良かったな。昨日、隣の研究室の後輩からお裾分けしてもらってな。飼料に拘った卵らしいよ 」

「そうなんだ 」

 美波は少しばかり行儀が悪いことは自覚しつつも、目玉焼きをお茶碗の上に乗せると 茶さじ半分の柚子胡椒を添える。ピリッと辛い中にある 程よい塩味と、鼻に抜けていく柚子の香りが、卵のクリーミーさと良く合うのだ。

「ところで美波。今日は何時に帰ってくる? 」

「えっ? もしかして正臣は、夜はいないの? 」

「ああ…… っていうか、妙に嬉しそうだな 」

「いやっ、そんなことはないけど。もしかして正臣はデートとかでしょ? 」

「それなら、いいんだけどな。生憎、俺は毎日毎日手の掛かる美波お姫様の面倒で手一杯だよ。今日は午後から調査で若松北九州に行くんだ。帰りは明日の昼過ぎになる 」

「なーんだ。でも、それなら丁度良かった 」

「えっ?  」

「私も今日は、夜まで会議があるから 」

「会議? 」

「うん。私も事情はよくわからないんだけど、ロシア支社とリモート会議をするんだって。原料の高騰が続いてるから、その対策会議でね。その代わりに明日は午後からの出社だけど 」

「そうか。新入社員にも容赦のない会社だな 」

「まあね。でも将来的なことを考えると、社内に顔を売っとくのも悪くはないかなと思って 」

「今からそんなに根詰めて働いてたら、婚期は遠退く一方だな 」

「んっ? 今、何て言った? 」

「美波は仕事熱心だなって、呟いただけだよ。つーか、今日はヒールは低い靴にしとけ。あと、傷には忘れずに薬を塗っておけよ 」

「そのくらい、わかってるってば。いつまでも子ども扱いしないでよね 」

 美波はムスっと口を尖らせると、逃げるように席を立つ。頻繁に言われる「嫁に行け」の台詞には飽き飽きしているけど、正臣の立場を考えると無下にも出来なかった。



 正臣は美波の従者で、彼女の物心が付く前から一緒に暮らしている。
 といっても、実態としては血の繋がらない家族みたいなもので、主従関係は形骸化しているといっても過言ではない。現に美波の両親は、正臣を実子同然に扱っていて、彼がとうで高取家に来てからは生活の面倒はもちろん、修士課程までの学費は全て負担していたし、扱いとしても親戚の子どもを預かるような状態だった。
 そんな事情もあり、数年前に美波の両親が東京に転居してからは この福岡の地で二人で暮らしている。掃除洗濯、食事やゴミ出し、光熱費の管理などの一般的な家事は正臣が担当しているが、それも主従というよりは、あくまでも日常生活の範疇だった。

 妙齢の男女が変な気を起こすこともなく、同居生活を成立させるには、それなりの経緯はある。
 でも……
 伝承だか習わしだか知らないけど、こちらは物心が付いてから、ずっとビジネス過保護みたいな扱いを受け続けているのだ。美波としては正直ウンザリな部分もあるのだけど、正臣はそれが使命なのだから仕方がない。
 河童が従者とて使える任期は、高取家の子どもが【婚姻をするまで】と決められている。その証として、美波と正臣の首筋には、彼女のへその緒を切ったときの臍帯血で刻まれた 契約の印が彫られているのだ。美波がお嫁に行くまでは、この印はまるで刺青のように 鮮血の如く発色し続ける。何ともお伽噺のような現実だ。 

 正臣は二十年以上 美波のお世話係みたいな役回りだけど、とうに三十路を越えた年頃だし、じゃじゃ馬の面倒事から解放されたいのが本音だろう。だけど特にここ数年「嫁に行け」の殺し文句を毎日のように食らっている、こちらの身にもなって欲しいものだ。
 
 美波はモヤモヤした気持ちを押し込むように 引戸をピシャリと閉めると、西新駅へと急ぐ。地下鉄に揺られてからは十分ほど。博多の駅前の再開発で建てられた高層ビル軍の一角が 美波の勤め先だった。


 まるでお日様と雲の隙間に 吸い込まれていくようだ……
 エレベーターで眼下に望む福岡の街は、商業地と住宅街が入り交じり複雑な風景が広がっている。
 博多港の西側には、美波が暮らす西新の街をはっきりと拝むことができて、庶民の台所でもある長い商店街は隣駅の藤崎地区まで続いている。そして百道ももち地区に広がる学園都市の向こうには、四半世紀前以上に埋め立てで造られた、シーサイドももちウォーターフロント開発地区が広がるのだ。この地域には新たなシンボルになった福岡タワーを筆頭に、福岡市総合図書館、福岡市博物館などのほか、報道や情報関連企業、高層オフィスやマンションが立ち並ぶ。シーサイドももちの海浜公園には、レストランや結婚式場、マリンスポーツのショップなどがあり、都会的な賑わいのあるビーチスポットになっている。その米粒のような風景の中から、毎日のように自宅を探してしまう癖は、社会人三ヶ月目に入った今でも抜けきれてはいなかった。

 美波は一番乗りでオフィスに到着すると、蛍光灯のスイッチを押して、コーヒーポットを洗浄する。コピー用紙の補充が完了する頃には、続々と先輩社員が出社してくるのだった。
 
「高取さん、おはよう。今日も早いね 」

「あっ、福重ふくしげさん。おはようございます 」

 頭上から声を掛けられ、美波は思わず立ち上がる。声を掛けてきたのは、先輩社員の福重で 今日も相変わらず爽やかさを振り撒いていた。朝からスーツをピシッと着こなす彼は、社歴としては新卒の五年目で 部の中では美波に次ぐ若手社員でもある。

「……高取さん、歩き方がぎこちないけど大丈夫? 」

「えっ? あはは。実は昨日、ちょっと足を痛めまして 」

「そうなんだ。それは大変だったね。って、んっ? 何だかこの辺り一帯が、薬草みたいな匂いがするような? 」

「あっ、そうですかね? えっとぉ…… さっき皆さんが来る前に、私がデトックスに効くハーブティーを飲んだんですよね。きっとそれのせいかもしれません 」

「……? 」

 美波は自分でも理解し難い嘘八百を並べると、苦笑いを浮かべる。まさか河童の里の秘薬良く分からない薬草を傷に塗りたくっているなどとは言えないし、そもそもそんな江戸時代みたいな話が通じるわけもなかった。

「あっ、そうだ! 福重さん、実は向こうの複合機なんですけど、トナー交換のサインが出てしまいまして。お時間があるときで構わないので、替え方を教えて頂いてもいいですか? 」

「ああ。それは構わないけど。打刻をしてくるから、少しだけ待ってて貰ってもいい? ジャケットも脱ぎたいし」

「ええ、それはもちろんです。はい…… 」

 美波は作りか笑顔を浮かべて福重を見送ると、一目散にトイレへと駆け込む。個室に籠るなり秘薬の上から絆創膏を貼ると、常備している制汗剤を吹き付けた。
 河童(の末裔)と同居していることなど、バレるなんてあり得ない。妖怪など この現代にいるなんて誰も思っていないのだから、感づかれることなどないはずなのに、怪しい芽は直ぐにでも摘み取ってしまいたくなる。でも何よりも一番バレたくないのは、という事実なのだ。

 美波は呼吸を整えると、首筋を押さえる。
 この良くわからない因果から解放されるには、お嫁に行けばいいだけなのに、今まで好きになった人など一人もいない。それにせっかく第一志望の会社に就職したのだから、もう少し社会人を頑張りたいのだ。

 身バレだけは、絶対に避けなくては……
 美波はそう決意を新たにすると、再びオフィスへと戻るのだった。
 




 
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