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第四章 肖像に関して

第六条

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◆◆◆


 最初は ただの憧れだった。
 確か去年は桜の開花が例年より早くて、その日は風が強かった。残り僅かな桜の花びらたちはふわりふわりと宙を舞い、窓の隙間から教室の長机にヒラリと落ちる。自分はこの風景を あと四回は眺めるのかと思ったら、最後の学生生活は意外と長い時間に思えた。

 あの日、大森先生は新入生向けのオリエンテーションの司会をしていた。それはシラバスの見方や履修登録などの実務的な説明ばかりで、先生は淡々と説明をこなしていた。この先生は随分と若そうだ。下手したら自分と十も変わらないかも。大学の先生はしっかりと年齢を重ねた大人というイメージだったから、その見た目のスタイリッシュさには、衝撃を覚えた。 
 ガイダンスの内容は、はっきりとは覚えていない。正直なところ、別に先生自ら説明しなくてもいいのではないか、とか、学生課の職員が説明すればいいのにと感じていた。
 でも それは最後の最後に覆された。いま思えば、雑用その他は若手の講師に回す暗黙のルールの一環だったのかもしれない。だけど法律家が年齢を重ねているか否かは重要なことではない。その後の大森先生の言葉は、今でも鮮明に頭に焼き付いていた。

 大森先生は、オリエンテーションの終わり間際にこう言った。
「皆さんは正しく法律の知識を使える人間になってください」と。

 大森先生は大勢の学生たちを前にして、悲しそうな笑みを浮かべていた。
 自分には最初はこの言葉が意味するところが分からなかった。法律を正しく使うのは当たり前で、それを学ぶために自分は必死に受験をしてこの場にやってきたのだ。でもその後の説明を聞いて、何故 自分が理解が出来なかったのかが直ぐに合点がいった。自分はの人間だから、その発想すら浮かばなかったのだ。

「入学してこれから法学を修めようとする学生に、こんなことを言うのは酷かもしれない。でも大切なことだから、君たちには伝えなくてはなりません。
残念なことに、世の中には正義の反対に不義を働く者がいます。中でも規模が大きかったり 伝統のある大学であれば、卒業生の中には違法行為に走る人間が一定数存在して、知能犯罪に手を染める者たちは法律の知識を悪用する者がいる。法学部出身者はどちらにでもなれるのです 」

 ……衝撃的な現実だった。
 法律って弱者を守ったり、社会の秩序を守るために学ぶ学問だと思っていたのに、それを破るために学び、私利私欲に走る者がいる。何とも腹立たしい理不尽だった。

「犯罪行為が起きるたび、我々 教員たちは頭を抱えています。でも我々は君たちを信じているし、未来を見出だしたいと思っているのですよ。皆さんはどうか生涯に渡って、自分の意思でこちら側に留まってください 」

「…… 」

 しばらく息が出来なかった。
 真摯な言葉は、どんな剣よりも心に強く突き刺さる。あのときの大森先生の真っ直ぐとした視線は、本気だった。偽りのない瞳は人を動かす力がある。その迫力に自分は釘付けになったのだ。

 大学はただ知識を学ぶだけではない。人としての信念を学ばなければ、いつか綻びが生まれる可能性は否定出来ない。そこには法学部の教員が抱える、切なる願いとジレンマが共存している気がしていた。

 あの日から、先生のことが気になって仕方がなかった。あの視線の示す先が知りたくて、ずっとずっと追っかけていた。
 だから正直 先生がこちらを振り向くことなど想定外だったのだ。

 それなのにっッ!!
「奇遇ですね。僕も心の底から、君と同じことを考えていましたよ」って、一体どういう意味なんだっっッッ!

 ア゛ア゛ーーーーーー
 今すぐに大声を上げて、野原の上を駆け出したい。思い出すだけで、顔から火を吹きそうな交感神経の高ぶりだ。 

 どうしよう……
 何度 考えてみても、やっぱり訳が分からない。今は息をするだけで、心も身体もいっぱいいっぱいだった。
 

◆◆◆


「桃佳さん、桃佳さん? 」

「…… 」

「桃佳さん? あの、精算作業は終わりましたか? 」

「…… 」

「あのっー、ももかさんっッ!!! 」

「エっっ? あっっ 」

 桃佳は突然 我に返ると、慌てて自分の手元に目をやる。目の前にあるのは多量の札束で、桃佳はどこまで勘定を終えたかが分からなくなっていた。

「ごめんなさい。まだ終わってないです 」

「桃佳さん、もしかして体調が悪かったりしませんか? さっきから、ずっーと顔が真っ赤ですよ? そっちの小銭、貸してください。私の方で ストッカーに入れちゃいますから 」  

「あっ、うん。ごめん、ありがとう 」

 今日は月に一度の部内の定例会で、お昼時の部室は人でごった返していた。文化祭が終わってからは一週間が経過して、学内はすっかり日常に戻りつつある。でも桃佳の心は宙ぶらりんで、未だに あの日の出来事の現実味が分からないでいた。

 
「二人ともお疲れ様。会計作業は順調かな? 」

「はい。帳簿の計算は終わりまして、後は実際の金額と合えば無事に完了です 」

「そうか、忙しいのに二人とも ありがとう。帳簿上だと売上から経費を差し引いても、手元にはざっと七万円分が残るのか 」

「粗利としては、まあまあってところだな 」

 桃佳と有紗が売上を数えていると、頭上から高輪と田町のコンビが その様子を覗き込んでいる。二人とも珍しくスーツ姿で、徐々に就活戦線に染まっているようだった。

「大森先生が辞退してくれた分のギャラも合わせたら、今年の文化祭の売り上げは先ず先ずだな 」

「ああ。これなら全国大会の旅費の足しにもなりそうだ 」

「そういえば、今週末には一次予選の連絡が届きそうだよね。今年は何人が通過できるか楽しみだな 」

 文化祭で部員一同はバタバタしてはいたが、季節は秋口に差し掛かり、そろそろ全国大会の予選の結果が出る頃だ。上級生二人は帳簿の金額を見ながら「助かるわー」とニヤニヤと笑みを浮かべている。結果を見る前から本選に出場する気が満々なのはどうかと思うが、今までのS大放送研究会の実績を考えたら順当なところだった。

「つーか、お前も念のために旅費の宛は考えておけよ  」

「…… 」

「んっ? 何だ、こいつ? 華麗にスルーしやがって。もしかして魂が抜けてるのか? 」

「そうなんですよ、田町先輩。桃佳さんったら、文化祭の中日からずっとこんな調子で。一体、どうしちゃったんですかね 」

 桃佳の反応の薄さに一同は首を傾げると、思い当たる節を考えてみる。文化祭の中盤はトラブルもあってバタバタしていたが、特別に普段と違うことと言えば 大森と緊急で依頼業務に行ったことくらいだった。

「あの桃佳さん。もしかして、あのとき大森先生と何かありましたか? 」

「……えっ? 」

「ああ、やっぱり! 大森先生って聞いた瞬間に我に返るって、おかしいですもん 」

「いや、そんなことはないっ! 本当に何もないけど…… 」

「「けど? 」」

「えっ、あっ、いや、それは言葉のあやだからっッ! 」

 桃佳は両手を前にして様々な疑惑を断固否定すると、勢い良くパイプ椅子を引く。そしてテーブルに置いてあった鞄を手にすると、一息付いて こう言い放った。

「すみませんっ。私は三限は基礎ゼミがありますので、これで失礼しますっッ。残りは授業が終わったら、続きをしますので 」

「えっ、あっ、桃佳さん? 」
「ちょっ、お前、忘れ物してるぞ 」

 桃佳は部員たちの制止を振り切ると、逃げるように部室を後にする。いま誰かから何かを聴取されたら、黙秘しきれないっッ! 桃佳は階段を一段飛ばしで駆け抜けると、そそくさと教室に向かうのだった。





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