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第四章:消えぬ想い

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「それで? 何かあったのか?」

 するとさっきまで賑々しい雰囲気とは打って変わり源さんは落ち着いた調子でそんな事を訊いてきた。

「えっ、別に何もないけど。どうして?」
「儂はお前をこんな小さい時から見てるんだぞ?」

 源さんは机より低い位置に伸ばした手で当時の僕の身長を再現した。

「気付いとらんかもしれんがお前は昔から不安な事があると耳を触る癖がある。しかも反対の手でな」

 指を差された僕は今まさに右耳たぶを弄っていた左手を止めるとゆっくりと机へ下げた。本当に今は何も考えてなかったが僕も知らない自分の癖が現れた原因は容易に想像がつく。

「どうしたんだ?」
「――実は夕顔さんに身請けの話が来たって聞いて。まだ決まった訳じゃないけど……」
「そうか。それでお前さんは?」
「僕? 僕は…….何も出来ないよ。出来る事なら最後にもう一度だけ会ってちゃんと別れが言いたいなって思うけど。でもそんな事は出来ない。だからどうする事も出来いよ」
「本当にそれでいいのか? お前さんが心の整理をつけてここを出るのとまだ出来ないまま相手がここを去るのとじゃ大きく違うぞ。今後のお前にとってな」
「ほんとは僕だってあと一回ぐらいこっそり会いに行ってちょっとぐらい話したいけど、でもそんなことしてもし見つかりでもしたら……」

 頭の中ではその続きを代わるようにあの時の秋生さんの言葉を思い出していた。

「この場所に居られなくさせるとでも言われたのか?」
「そう。でも僕じゃない。このお店だよ」
「なるほどな」

 源さんはそう言いながら顔を俯かせた。

「このお店は源さんにとって大切なものでしょ? なのに僕の我が儘でなくしちゃうなんてそんな恩を仇で返すような真似できないよ。今は色々と思うとこはあるけどそれも時間が経てば忘れられると思うし、今を耐えればいいだけ。でもこのお店はもし失ったらもう二度と戻らない」

 言葉の後、源さんの顔はゆっくりと上がり僕を見た。

「確かにこの店は儂の全てだ。儂にはここ以外何もない。女房も居なければ実の子もいない。この店だけが儂にある唯一のものだ。先代の下で修業し受け継いだこの店がな。だがそれもお前さんが来るまでの話だ。――それまではこの店で働くこと以外何もなかったが、お前さんが来てからはそれも変わった。正直に言うと最初は罪滅ぼしのような気持ちだった。あの日、江戸で会おうと言ったのは儂の方だ。それであんなことに。だからせめてあの二人の宝だったお前さんだけは儂が代わりにと。でもお前さんと一緒に居るうちに段々と成長を見るのが、過ごす日々が楽しくて仕方なくなっていった。お前さんは儂に家族を持つという事がこんなにもいいものなんだと教えてくれたんだ。いつしかお前さんを本当の息子のように思っていたよ」
「でも父さんって呼ばせなかったのはどうして?」
「それは簡単な事だ。お前さんの父親はあいつだけだ。どれだけ儂との時間が長かろうとそれは変わらない。儂は父親気分を味わえただけで満足だからな」
「でも僕は源さんの事を父親だと思ってるよ。本当の父さんを忘れた訳じゃないけど僕にとっては源さんも父さんだ」

 源さんは何も言わなかったがその緩んだ口元がその気持ちを代弁していた。そして気恥ずかしさでもあったのか彼は話を戻すように話し始めた。

「――先代はこの店を儂に譲る際こう言ってた。これからこの店はお前のモノだ。どうするかは全部お前次第。お前がそうすると望むのなら捨てようと売ろうとどうしようが構わない。俺がどう思うかなんて事は考えるな。それに俺はもう死ぬ。分かる訳ないさ。俺の意思よりお前の気持ちを優先しろ。とな」

 一度、空の猪口に視線が落ち一瞬の間を生むがすぐにその視線は僕の方へ帰ってきた。

「今の儂にとってお前さんに勝るものなど存在しない。だからこの店など気にするな。儂の為に気持ちを抑え込み後悔するような事はするな。ここ最近のお前さんはずっと心が欠けてた。笑っててもどこか無理してるようだった。だからもしお前さんの気分が晴れるなら行け。それでここから追い出されたとしても儂は構わん。――いいか八助。自分が望む事をしろ。儂の所為でお前さんが悲しむような事があったらあいつに顔向け出来んからな。それに儂の事を想うのなら尚更、自分の為に行動しろ。お前さんが幸せなら儂もそうだ」

 その言葉は僕の心を優しく包み込んだ。ゆっくりと浸透していく温かさのようにその優しさが沁みるのを感じる。

「――ありがとう。考えてみるよ」
「ならもう今日は寝ろ。儂はこれを片付けてから寝る」
「分かった。おやすみ。源さん」
「あぁ。また明日も頼むぞ」
「うん」

 そして僕は先に立ち上がると部屋へ行き、酒気によってすぐに眠りへと落とされた。
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