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第三章 混沌

忍び寄る影(2)

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「あ、あり……が、とう……」


 そう息も絶え絶えに礼を述べたのは、粗末な寝台ベッドに横たわった少女だった。
 シグルンは桶に入った濁り水で手拭いを絞ると、頬の痩けた弱々しい少女に、微笑む代わりに気しないでと首を振る。黒いヴェールがゆらゆらと揺れた。


「どう? 汗や汚れは拭いたから、少しはすっきりしたでしょう?」
「う、ん……」
「お腹の調子もどう? まだ痛む?」
「だ……だ、い、じょぶ。お、く……すり、飲めた…から」


 少女はシグルンの問いにたどたどしく、けれども一生懸命に答えた。
 栄養失調で髪が大分抜け落ちてしまったのだろう。少女の薄く艶を失った茶色の髪を撫でながら、シグルンはもう眠ってと、優しく言い聞かせた。
 後ろには心配そうな顔をした少女の母親と、フロスティー夫婦がいた。母親は涙ぐんで何度も感謝の言葉を口にし、フロスティー夫婦も顔を見合わせて安堵の息を漏らす。


「奥様、無理言ってすみませんでした」
「ええ、私からもすみませんでした」


 おずおずと話しかけてきたのはフロスティーだった。次に隣の夫人が頭を下げる。
 シグルンの大きなかぎ鼻を、カビの生えた臭いと吐き気を催す腐臭がつんと刺した。


 ここは王宮ではない。


 ここは王宮から程なく離れた、王都アークレイリの街にある、木造のボロ屋の中だった。
 王都にはブリョン宮殿に次ぐ、アークレイリの二大象徴シンボル、ファスマ大聖堂という白を基調とし、彫像や絵画、ステンドグラスなど、これでもかと贅の限りを詰め込んだ立派な建造物がある。色鮮やかな家々が大聖堂を引き立てるオブジェように並んでいるが、ここはのボロ屋だった。
 ここは表とは真反対な雰囲気で、薄暗くじめじめし、豊かな街に似つかわしくない小さな木造家屋が密集した場所だ。この地域はいわゆる貧民街スラムと呼ばれる場所で、教会の保護区にあるらしい。


「いいえ、あともう半刻遅ければ、すでに手遅れになっていたかと思うわ」


 シグルンはフロスティー夫婦に頷いて見せた。傍の少女の母親にも言う。


「手拭いで毎日身体を清潔に保って。それから家の中もできるだけ掃除するように。不衛生は病の原因につながるわよ。今はお嬢さん一人病に倒れている状況だけど、このままでは周りに伝染する危険性もあるの」
「奥様には感謝しても感謝し足りません。しかし、この区画の井戸は、数日前から泥水のような茶色の水が出るのです。司教様は調べてくださると言いながら、こちらに来てくれません! 食事の配給も一日一度……このままでは病の前に飢え死にするやもしれません!」


 母親はシグルンのドレスの裾に縋り付いて、さめざめと泣いた。
 シグルンは困って息を吐く。
 病気の対処法は知っているが、飲み水や食糧などライフラインの確保は、一民いちたみに過ぎないシグルンにとって、一朝一夕でどうにかできる問題ではなかった。
 何とかしてやりたいという気持ちと、無理だろうという気持ちがせめぎ合う。シグルンは茶色く濁った桶の水を見つめた。


 どうしてこのような事態に陥ったのか。
 それは時を遡ること、今日の午前中のことだった。




****
「奥様、すみません。うちの女房の話を聞いてやってください!」


 シグルンはもあり、意気揚々とフロスティーの庭仕事を手伝っていた。
 踏まれた足はまだ痛んだが、フロスティーのくれたメドウスイートのお陰で大分良くなったと思う。
 シグルンは丁度小さな植木鉢から大きなものへ、株を移動させている最中だった。
 シグルンの元へ、丸みのある中年の女性がドレスの裾を掴んで勢い良く走ってきた。
 シグルンは手に付いた土を払いながら、目を丸くする。


「お、奥、っさ…ま! 主人がい、いつも
、お世話になっております」
「え! いえ、私の方こそ。それより落ち着いて? 呼吸を整えて」

 
 フロスティーの妻は目を伏せ、すーはーと大きく深呼吸した。
 呼吸も落ち着いた頃、夫人は目を見開いて言う。


「奥様、突然申し訳ありません。昨日王宮に薬師様がいると主人から聞いたものでして……」
「どなたか怪我か病気で?」
「はい。会って早々にお願いすることをお許しください。実は、私の妹が貧民街で暮らしております。その娘、私の姪っ子ですが、何やら腹を壊したようで水も食事も受け付けず、日に日に弱っていっているのです……!」
「それは……!」


 フロスティも妻に呼応して、シグルンに助けを言い募ると土下座しようとした。
 シグルンは慌てて首を振って制止する。


「行きましょう! そのお嬢さんのところへ!」




****
「ごめんなさい。もし私に魔法が使えたら、今すぐにでも綺麗なお水くらい用意できたのに……」


 シグルンは悔しくて震えながら、縋り付いた少女の母親の手を取った。
 母親ははっと顔を上げて頭を振る。


「……申し訳ございません! 奥様は娘を助けてくださったというのに、私ときたら、あれもこれもとお願いし過ぎましたね!」
「謝らないで、お母さん。誰でもこの状況なら何とかしたいと思うはず……辛いわよね」


 シグルンは俯きがちに言った後、否定するように手を振った。
 シグルンは明日の食べ物にも困るような生活をしたことがない。裕福ではなかったが、ゾーイの家にはいつもおいしい食べ物と清潔な寝床があったからだ。ましてや王宮では使用人を与えられ、シグルンはそれこそ毎日贅沢な日々を送っていた。
 シグルンはこの国の貧富の差を見せつけられて、自分が悪いわけではないのになぜか罪悪感に駆られる。


「だけど、少し……一人で考えたいわ。何もできないかもしれないけど、考える時間がほしい。それに疲れたし、外の空気を吸いたいわ」
「どうぞ! どうぞ!」


 シグルンは居たたまれなくなった。
 部屋に充満した臭いのせいで、余計に逃げ出したいと思ったが、一番はどうすることもできないこの状況から逃げたかったのだ。
 思い切って外の空気でも吸えば、頭も冷えて何か名案でも浮かぶかもしれない。もちろん、ダメかもしれない気持ちの方が大きいが。


 そして、外へ出てみると、外の光景は家の中も外も存外代わり映えしなかった。風でも吹いたら飛ばされそうな粗末な隣家。道端で寝そべってボロ布にくるまった老人。うずくまって座る痩せ細った小さな子ども。さらに不潔な臭い。
 ここが王都の裏の顔、この国の底辺社会なのか。
 シグルンは目眩を覚えてふらついた。



 ————そのとき、



 大きな何かが、ヴェール越しからシグルンの口を覆った。
 それが何者かの手だと分かると同時に、シグルンはジタバタと暴れる。
 暴れていると帽子もヴェールも転がり落ちた。
 次に大きな手が口から離れたかと思うと、筋肉の引き締まった腕がシグルンの首をキリキリと締め上げた。
 シグルンは呻き声しか出せない。
 目の前にいる老人と子どもが顔を上げてこちらを見たが、どちらも無感情にぼうっとした瞳をしていた。


 人は呼吸ができず酸欠状態になると、意識を失う。もしくは死ぬ。
 シグルンは焦りの中でも、なぜか状況を理解しようと思考が働いていた。
 だが、身体が思うように動かない。顔は老女のようだったが、これでも体力には自信があったのに……力が敵わないということは、相手は男かもしれない。
 シグルンは抵抗できないと悟ると、怖い、怖い、怖いとただ恐怖に駆られた。



(助けて……)



(————アレク!!!!)



 シグルンは心の中で、名前を交わしたあの男に助けを求めた。
 視界がぐにゃりと歪む。


「シグルン様!!??」


 突然、シグルンは名前を呼びかけれた。
 野太く低い声が絶叫する。
 途端に締め付けらていた腕からシグルンは解放された。
 シグルンの身体は無抵抗なまま地面に倒れ込んでしまう。


「シグルン様!!!!」


 もう一度声がかけられる。
 シグルンは身体を抱きかかえられると、声の主を理解した。


「ゲ、ゲオ……ルグさ」
「しっ! 喋らないで! 今はそのまま。良かった、意識はあるようですね。襲った男には逃げられましたが、私が追跡の魔法をかけました」


 心配そうな顔で覗き込んだのはゲオルグだった。
 何だ、アレクではなかったのか。シグルンはがっかりした気持ちと助かった安堵の気持ちで、引き攣った笑みを浮かべた。
 ゲオルグが言うには、教会へシグルンの保護を申し出に行った日に、見知らぬ男に襲われていたシグルンにたまたま出くわしたようだ。
 何という偶然だろうか。


「枢密院がシグルン様を邪魔者に思っている時点で、いつかこうなるのでは……と懸念しておりました。私がついていながら申し訳ありません。教皇様にはお話が済みました。王宮は危険ですので、今は教会へ避難しましょう」


 ゲオルグは頭を下げたが、シグルンは慌てて首を横に振った。


「こ、今夜……ひ、人に会うや、約束をし、しています……こ、今夜だけは……お願い」


 ゲオルグの提案は尤もなことだった。
 シグルン自身もそうすべきだとも感じる。
 しかし、もしここで教会へ行くことを決めてしまったら、シグルンは二度とアレクに会えなくなるだろう。シグルンはそんな不安な気持ちになった。
 これが最後だとしても、シグルンはアレクに会いたかったのだ。


「し、しかし! 今の王宮は危険過ぎます!」
「……お、お願い、ゲオルグさ……一緒で良いから」


 ならばゲオルグも同行させよう。シグルンは肩で息をしながら尚も言った。
 ゲオルグは反対の気持ちは変わらないのか、険しい表情のままだ。


「……分かりました。今夜だけです。しかし、シグルン様のお側に控えさせていただきますからね」
「ええ……人に…会うから、こっそ、りで、お願い……」


 シグルンは希望が叶い穏やかに笑った。


 そして、騒ぎを聞きつけたのか、シグルンとゲオルグの周りに次第に人が集まってきた。
 シグルンの後ろの扉から、フロスティー夫婦と少女の母親も顔を出してくる。


「……お、奥様……?」


 三人だけではない。周りに集まった人々も驚いた顔で息を呑んでいた。
 それもそのはずだろう。
 シグルンは顔から下は若い娘のように細くしっかりした体躯だが、顔だけが異様に老いているのだから。
 この驚きの顔が、いつ嫌悪に変わり、憎しみに変わるのか、シグルンは知っていた。


 そこでシグルンの意識は途切れた。
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