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第三章 混沌

忍び寄る影(1)

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 白昼の王都の大聖堂にて、男二人が衆人環視の中で言い争っていた。天井を高く仰ぎ見る大広間で、二人の焦りや怒りの声が木霊する。


「お前がここへ直接出向き、上申しようなどとは……全くどういう風の吹き回しやら!」


 装飾はないが、青い絹サテンで作られた上等な魔法衣に身を包んだ年寄が、嫌味ったらしく言い放った。
 不快感をあからさまに、据わった目でゲオルグを見る。
 手に持った杖を今にも振り下ろしそうな、年寄はそんな怒りで満ちていた。


「私はこれまで教会と王の間に立つ者として、中立の立場を保ってきました。しかし、此度の婚約の儀で示された聖女につきまして、教会の助けが必要なのです」
「はん! 何を今更」
「そこを何とか枢機卿より教皇様へ御目通りの許可を……」
「ゲオルグ、第一お前は教会の人間でありながら、騎士団の方にばかり肩入れしているそうじゃないか。師匠のゾーイ殿ならいざ知らず、司祭以下のお前に教皇様が会うわけないだろう!」
「それは誤解です! 猊下……!」


 ゲオルグは枢機卿の年寄りに、掴みかからんばかりの勢いで食い下がった。
 杖を握りしめる掌から、脂汗がじっとりと滲む。


 ゲオルグは昨日の舞踏会に参加したことで、より一層シグルンの行く末を案じることになった。
 枢密院は聖女を病人扱いして、あわよくば死んでくれと考えていると分かったからだ。
 聖女が病気だなんてこちらは一言も言っていないのに。
 枢密院は自分たちの都合の良いように、娘たちを正妃や側室に宛てがおうと躍起になっていた。王太子は反抗的にも舞踏会を拒否ボイコットしていたが、王や枢密院の怒りは計り知れないだろう。
 その怒りの矛先がシグルンに向くのは、もはや時間の問題だと言えた。


 こんなことなら、シグルンの風貌について余計な報告をしなければ良かった。いや、魔法で容姿を変えておけば良かったのか。それとも、そもそもシグルンをあの丘の家から連れ出さなければ良かったのか。
 ゲオルグは思い付く限りの後悔の気持ちを抱きながら、枢機卿と呼んだ年寄りに縋り付いた。


 しかし、どうやら枢機卿は、ゲオルグが教会側の人間としてふさわしくないと思っているようだった。王宮魔法使いでありながら、近衛騎士団長を任ぜられてからは、これ幸いにと中立派になり、教会の意向を汲むことはなくなったのだから。
 だが、ゲオルグからすれば、単にどっちつかずなだけで、決して教会を裏切ったつもりはなかった。裏切られたと感じているのは教会だけだと。
 認識の違いが真っ向から対立していた。


「まぁまぁ、もうその辺にしておくのじゃ」


 突然、男二人の争いに制止が呼びかけられた。
 枢機卿とは違い、金色にキラキラと光る豪華な魔法衣を纏い、胸元まで届きそうな立派な口髭を撫でながら、別の年寄が登場する。
 ゲオルグも枢機卿も、居合わせた野次馬たちも驚きの声を上げ、すぐさま跪いた。


「教皇様、御目にかかり光栄です」


 枢機卿は歯を噛み、悔しそうにゲオルグを未だ睨んでいたが、反対にゲオルグは安心した笑みを浮かべていた。
 仲裁した人物——教皇を見上げると、教皇もフォッフォッと高らかに笑い声を上げる。


「聞いとるぞ、ゲオルグ。聖女の顔が何とも醜いそうじゃのぉ。ゾーイの娘だが、娘にしては異様な老け具合じゃと」
「はい。そのように報告しましたのは、私ですから……」


 教皇は掴み所のない笑みを浮かべながら、ゲオルグを静かに見下ろしている。
 ゲオルグは後悔の念から顔を逸らしてしまい、苦しそうに答えるしかなかった。
 途端に周囲が騒めき始める。


「聖女が醜いとは……!」
「聞いたか!? 若い娘なのに老け込んでいるとな!?」
「精霊の呪いだ!」
「聖女を王都から追い出せねば!」


 どよめきは口々に聖女を罵ったが、これもまたフォッフォッという教皇の高笑いが制した。
 すぐさま静まり返る大広間。
 教皇がいかに威厳があり、周囲から絶大な人気と信頼を持った人物か、まざまざと見せ付けられたようなものだった。


「皆の衆、聖女を追い出すなど、精霊の怒りを買いたいのか? そしてゲオルグよ、お前はもう一度ゾーイの元で修行し直した方が良いのではないか?」


 教皇の言葉に、周囲は気まずそうに顔を伏せ、またゲオルグは、顔を真っ赤にさせ首を振った。
 精霊の怒りを買うというのは尤もな話だが、修行し直せと言うのは、ゲオルグ自身気付かぬ何かを見落としたというべきだろうか。


「わしはかつて一度、聖女に会ったことがあるぞ。ゾーイの胸元ですやすや眠る赤子の頃じゃったか」
「さ、左様にございますか!?」


 ゲオルグは仰天して大声を上げた。
 淡々と語り始めた教皇に、ゲオルグはおろか周囲も驚愕して聞き入る。


「確かに、赤子なのに老人のように奇っ怪な姿をしておった。ゾーイが王都を去る際にわしに挨拶に来たときじゃ。ゾーイが王宮で拾った子だと言うものだから、わしも腰が抜けそうになったものじゃ」
「……え? 王宮?」
「詳しい話はわしも知らん。それはゾーイの口から聞くよりは仕方あるまい。それよりも感じなかったか? あの赤子……いや、聖女から湧き出る精霊の力を?」
「精霊の力?」


 ゲオルグは訳が分からず首を捻った。
 教皇はフォッフォッと笑い、やはり修行をやり直せとまた言う。


「皆の者が言うように……あれが呪いかどうかはわしには分からん。呪いかもしれないし、そうでないかもしれん。しかし、確かに言えることは、あの娘がだということじゃ。あれは決して傷付けてはならんのじゃよ」


 ゲオルグは心臓が止まったかと思った。呼吸も止まったかもしれない。
 教皇の告げた衝撃的な言葉に、一瞬時間が止まった。




****
 ヘンリクは机を思い切り叩いた。
 書類が雪崩れ落ち、花瓶が割れる。盛大な音を聞きつけた使用人が心配そうに声をかけたが、ヘンリクはそれさえも不機嫌にギロリと睨んだだけだった。



(あの糞王太子ガキめ!!)



 ヘンリクは昨夜の舞踏会での出来事を思い出し、腹の虫が収まらなかった。
 せっかくお膳立てした結婚話を王太子の我儘でふいにされ、腸が煮え繰り返りそうだったのだ。
 娘のアニタは部屋に閉じこもり、食事も摂らずに泣き腫らしてるらしいが、ヘンリクにとって傷心の我が子よりも、自尊心を傷付けられた我が身の方がいたわしい。娘なんぞまたどこかの家へ嫁がせれば良いのだから、何も心配することはない。
 問題なのはあの王太子だ。



(——おのれ……)



 ヘンリクは弟の現国王が憎かった。
 普通に考えれば、次期国王ともくされていたのは兄であるヘンリクだ。
 当然のことながら、かつては王太子だった時期もあり、未来の王として厳しい教育にも耐えてきた。
 しかしそんなヘンリクを差し置いて、何食わぬ顔で玉座を奪った弟。
 許せるはずもなかった。
 ヘンリクは今まで恨み辛みを表立って口にすることはなかった。
 自分の黒く渦巻く感情を抑えながら、弟を支える影の立役者に甘んじてきた。
 だが、いつか自分の立場を取り戻すためなら、きっと何でもするだろう。


「アニタは失敗だった……かくなる上は……」


 ヘンリクは肘掛椅子にどかりと腰を落とした。
 怒りに震えた肩を宥めるように抱きながら、小さく吐き捨てる。
 そして、指を鳴らして合図すると、恐怖なのか不安なのか顔を歪ませた使用人が、慌てて頭を下げて歩み寄ってきた。


「おい、支度を整えろ。私は領地へ戻る」


 小さく細長いが、アニタによく似たエメラルドの瞳が、狂気をはらんで不気味に光った。



****
 ブリョン宮殿、王の間に次ぐ広さと豪華さを備えた王太子の一室。
 金と赤を元に荘厳な装飾が施された部屋の中で、ソルヴィは窓辺と長椅子ソファーの間を、考え込むように行ったり来たりしていた。
 ソルヴィは謹慎を食らって自室に篭っていた。
 昨晩の舞踏会を抜け出したことを咎められ、王により謹慎を言い渡されたのだ。
 一国の王太子が、国事でもある舞踏会をぶち壊すような失態を犯したのだから仕方ない。むしろこれくらいで済んで良かったとさえ思った。


「何、久しぶりの休暇だと思えば何てことない。それよりも耳を貸せ」


 ソルヴィは、心配そうにこちらを見てくる執事に笑いかけた。


「殿下、えらくご機嫌ですな。昨日は大変でしたでしょうに……して、耳を貸せとは?」


 執事は怪訝そうにしつつも恭しく頭を下げると、ソルヴィの顔に耳を寄せた。


「頼む、裏で密偵を雇ってくれ。陛下のお耳に入れてはならん。長年この城に仕え、幼き頃より父代わりに育ててきてくれたお前なら、きっとやってくれるだろう?」


 ソルヴィは手で口元を隠し、声を潜めた。
 執事の眉が跳ねて、ぱちくりさせた目がソルヴィを見る。
 ソルヴィは今まで誰かを信用したことはなかった。
 それは今まで散々裏切り行為に遭ってきたのが大きな理由だ。暗殺未遂も一度や二度の話ではない。ソルヴィはいつも裏切りを恐れて、部下に頼み事をすることがなかった。
 だが、ソルヴィは勇気を振り絞って執事に命令——いや、頼み込んだ。ソルヴィには今回ばかりはどんな手を使ってでも、引くに引けない理由がある。



(聖女とは結婚できない)



 ソルヴィには他に好きな女がいた。
 聖女ではない。アニタでもない。他の貴族令嬢でもなく、たった二晩前に出会ったばかりの顔も知らぬ女だ。
 名前はシグルン。古代アルン語で『女神の秘密』の意味を持った女。
 ソルヴィは名前と声だけしか知らないが、心はすっかり女に夢中になっていた。
 今夜も会いたい。
 明日も会いたい。
 明後日も会いたい。
 女もいつか姿を見せてくれるだろう。
 ソルヴィは女をずっと側に置いておきたいと思った。


 そのためには婚約の儀をなかったことにしなければならない。
 それに正妃や側室の座を虎視眈々と狙う貴族連中の目も欺く必要がある。


「承知いたしました、殿下。私にお任せください」


 執事が驚いた顔をしたのは一瞬のことだった。
 頑なに閉ざしていた心を開いたからだろうか、執事はとても嬉しそうに破顔する。


「ああ、頼む。ゲオルグとベーヴェルシュタム公爵を探ってくれ」


 ソルヴィも笑顔で頷きながら、執事の肩に手を置いた。
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