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なのかスターティングオーバー

Starting Over

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 ――ひぐらしが鳴いた。

「……すき、あおいちゃん。わたしも……すき!」

「仲直り、うまくいったみたいね」
 あおいや菜花の所属するクラスである年長組を受け持つ担任の中溝は、二人の幼女が抱き合う様を教室のドアの窓から覗いていた。
「こっちも準備しました、中溝先生」
「ありがとう、茂武先生。……あんなこと聞かされたら、放ってはおけないもの」
 ふたりの教員は、そうため息を吐き。
「菜花ちゃんが虐待を受けている、だなんて」
 呟く中溝。
 ――数時間前。二人の園児――柴咲 あかねと日向 あおいが、伝えてきたのだ。

『なのちゃんがママからいじめられてるかもしれないの!』
『……たすけてほしい、です。わたしの、だいじなともだちだから』

「あんなことを言われちゃったら、どうにかしないわけにはいかないじゃないの」
 意気込む中溝に、副担任の後輩教員である茂武は問いかける。
「その、どうにかするあてなんてあるんですか?」
「いまできることはやったわ。事実を確認すれば、明日から動き出せる準備はしてある。けど……」
 もう一度、窓を覗く二人の教員。
「いま、どうにかしたほうがいいっすよね」
「そうね。様子見しかできないのが歯がゆいわね……」
 額を抑える中溝。眉間にしわを寄せた茂武。
 ――インターホンが鳴る。
「お迎え、ね。はーい」
 中溝は仕事を口実に、いったん思考をやめた。

「――なにをしてるの? 私の菜花に……」
「なのちゃんはわたさない。おばさんのものじゃない」

 教室。二人と一人が対峙する。
 菜花を守るように抱き寄せたあおい。そして、それに驚愕するように立ち尽くす、菜花の母――田幡 萌という、一見年端もいかない少女のような姿をした、二十一歳の若い母。
「早く、渡しなさい。その子は私の――」
「ならなんでたたいたの!? なのちゃん、痛がって怖がってた!」
「それはこの子が悪いことをしたからよ!」
「なのちゃんがなにをしたの!」
「それは――」
 言い争う二人。
 菜花をかばうように叫ぶあおいの言葉に、萌はヒステリックな様相で叫んで否定する。
 背後、立ち尽くす中溝。
(どうすればいいの……?)
 ――どうしていいのかわからない。そんな様子で、ただこの地獄を見ていた。
 教員すら放置して、この口喧嘩は加速していく。
「そんな理由で! 人を叩いていいわけあるか!」
「口答えしないで! 人を育てたことなんてないくせに!!」
「でも間違ってることくらいはわかる! やり方がひどすぎる!!」
「うるさい!!」
 いよいよ手が出そうになった。萌は二人の幼女のほうへと向かい、大きく腕を振りかぶって――

「もうやめてよッッ!!」

 悲鳴のような、甲高い声が響き渡った。
 腕の中から発せられた声に、あおいは目を見開き、母は硬直する。
「やだよ……あおいちゃん、ママも――みんな、なかよく――」
 ――菜花は、涙を流して言葉を紡ぎ。

 ぱしん、と響いた音によって、言葉は遮られた。

「――し、て……?」
「くだらない。そんな絵空事、できるわけないでしょ」
 死んだ目をした萌。
「もしできてたなら――私は」
 息を荒げて、自分の産んだ子を見下しながら。
「私は……あのひとに捨てられなかった」
 か細く呟いた。
 十六歳で子供を産み、しかし男には捨てられ、結果として若すぎるシングルマザーとなった。そんな彼女にその幼すぎる願いはあまりにもくだらなく感じて。
「――だから、誰にも騙されないように、完璧に育てなきゃいけない! 私みたいな思いをしなくていいように!」
 腹の底から湧き出るような声で。
「だから――邪魔、しないでよ!!」
 絵空事を抱えながら――幼すぎる母は泣き叫んだ。
 錯乱したその若い女は、もう一度あおいを叩こうと迫り――別の若い女に、腕をつかまれた。

「そこまでです、田幡さん」

 止める中溝。
 屹然とした言葉――その手は、言葉は震えていて、ひゅうひゅうと細く息をしていた。
「邪魔、しないで。私はこの子の教育を――」
 しかし、歯を食いしばって、恐怖心を噛み殺し――屹然と言い放つ。
「そんなに娘さんが大事なら、その娘さんの顔をちゃんと見てあげてください」
「見て……何になるの」
「だから……しっかり、見てくださいよ! いまの菜花ちゃんの顔を!」
 渋々、言われた通りに、萌はその幼女の顔を一瞥して。
「見たわよ。それが?」
 何もわからなかった、というように、平然と言い放つ。
「本当に見たんですか」
「だから、本当に――」
 なおも弁解する菜花の母に、中溝は。

「向き合いましたか。いままで、一度でも、この子に……向き合ったことがありますか」

 心の底からの怒りを込めて、低い声で問いかけた。
「この子の気持ちに寄り添ったことはありますか。自分のためじゃなくて、彼女のために何かしたことはありますか」
「だから、聞いていなかったの!? 私はこの子のためを思って……」
「押し付けてるだけでしょう。自分の後悔を、普通の生活をしたい、普通の青春が送りたいとかいうという願望を、この子を使って間接的に叶えたいだけでしょう」
「……っ、それが……」
「それを嫌がっていないか、一度でもこの子に聞いたことはあったんですか?」
 図星、と言わんばかりに、顔を歪ませる萌。それを追い詰めるように、あるいは幼子を諭すかのように、中溝は問いただすのである。

「……この子の心を、彼女の気持ちを……あなたは、なんだと思っていたんですか」

 彼女は絶句した。
 ――今まで考えたこともなかった。本来なら、一番に考えるべきことだったはずなのに。
「……」
 言葉も出さずに涙を流しだす彼女。そして、やがて「母親失格ね」と一言だけ呟いて。
「菜花。もうさよならしましょ」
「え……」
 娘からこぼれた声にも気付かずに、その母親はうつむいて話す。
「……これから、ばぁばのおうちに行くわよ。そこで、ママとはお別れ。……あなたの人生に、あたしはもう――」
 必要ない。そう言い切ろうとする母。
 ――言い切れずに、ズボンのすそをつかまれる。

「やだ……」

 蚊の鳴くような細い声で、しかし確かに菜花は告げた。母のパンツスーツのズボンのすそを握りしめながら。
「いっちゃやだ……ママといっしょがいい……!」
「だから――」
 振りほどこうとして――ようやく、目が合った。

 その顔は涙にまみれていて、ぐしゃぐしゃで。
 その目はうるんでいて、とても前も見えなさそうで。
 怒りや悲しみの入り混じった、複雑な表情を浮かべていて。

 しかし、親に向き合おうと、前を向いていた。

「わたしはどんなママでも、ママがすき、だから」

 あおいの肩も借りず、自分の足で立って、目の前の母親を――たった一人の親を見据え。
「おしっこもがんばるから……おはしもちゃんともつからぁ……!」
 泣きそうになりながら、叫ぶように懇願する。

「ママ、ずっといっしょにいてよぉっ!」

「……私、また痛いことしちゃうかもだよ?」
「そのときはあおいちゃんがまもってくれるもん……」
「そっか」
 この時はじめて、二人の親子は、拙く会話した。
 そして、ぽつりと水滴が落ちた。

「ごめん……ごめんね、菜花……」

 ボロボロと涙を流しながら、親子は抱き合うのだった。
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