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2022年

孤独少女と雨降らしのアヤカシ

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 私には、昔から変なものが見えた。
 住んでいるクソ田舎の町はいつも妙に賑やかで、どこかぴりぴりしていた。
 人間じゃないものが、視界によく入ってきて。
 喧嘩してる黒い影が見えて大泣きしたこともあったっけ。
 でも、慣れた。慣れきってしまった。
 十年間の人生で、人外が見えなかった日は一度もない。話しかけてくる怪物に辟易し続けていた。
 いつしか、世渡りの方法を身に着けていた。
 ……誰とも話さない。心を開かない。
 そうすれば、怖い目に合わなくて済むから。
 だから、友達なんていらない。

 ――くすくす、笑われた。小学校。
「ねぇ、あの子。話せないのかな」
「そもそも名前、なんていうんだっけ」
「名前なんてないんじゃねーの?」
 遠目に聞こえる陰口。なんてしょうもない。
 愚鈍で馬鹿なクラスメイトたちを内心鼻で笑った。
 私を天才だと思うなら、それは間違いかもしれない。けど、だいたいの人間は私にかなうことはなかった。
 もちろん天才はいる。私以外にごまんといる。でも、彼ら彼女らはそうではない。なのに誰もがみんな「自分が一番偉いもの」と思い込んでいる。それが滑稽に見えて。
 こうやって鼻についた態度が気に食わないんだろう。あいにくそれを隠す気はない。
 嫌われていた方が、痛い目に合わずに済む。

 その日の夕方は雨だった。
 さーさー、あるいはしとしと、と表せるだろうか。そんな雨だった。
 雨はそこまで好きじゃない。憂鬱なのはいいが、濡れてしまうのが気に食わない。カンカン照りの快晴よりかはまだましだけど。
 ふっと短いため息をついて、私は帰路を歩いていた。
 そんな時だった。
「――助けて!」
 叫び声が聞こえた。
 緊張感に満ちた声に、ひゅっと息をひそめる。
 私はそこまで性格はよくないらしいが、だからと言って助けを求めている人に手を差し伸べないほど、非情というわけじゃない。
 故に――いや、実際はほとんど反射のようなものだったけど――とっさに振り向いた。振り向いてしまった。

 浴衣を着た少女がいた。追われていた。
 黒い影に。大きな大きな黒い影に。
 目を見開いた。
 ぞわり、表皮の毛が逆立つ。
 一瞬で分かった。

「それら」は人間ではない。ヒトでは手も足も出ない、異形の存在。

 体がこわばって、息が詰まって――「見えてるのなら逃げろ、人間っ!!」
 少女の叫びにハッとなって、私は走り出す。
 ランドセルが邪魔だ。帽子すら煩わしい。
 背負ったものをがしゃがしゃとかき回しながら、私はどうにか自宅の門に滑り込む。
 いつもは少しうっとうしく感じた巨大な玄関が、今は頼もしく見えた。
 がらがらとドアを開けて――さっともぐりこんだ影に気付かぬままに――ぴしゃりと閉めた。
 ぜえ、はあ。息を荒げる私。しかし、一瞬視線を感じる。
 ――気のせい、いや気のせいじゃないかも。常に「ナニカ」が私を見てるのは知ってるし。
 でも、その視線は少しだけ、いつも感じる無数の視線とは違う気がして。
 その正体は数秒後に明らかとなった。

 廊下に立っていた少女。
 花柄の可愛らしい高そうな紅い――しかし濡れているうえにボロボロになった浴衣を着た、赤茶色の髪の小さな女の子。
 小学五年生、十歳の私と同じかそれより少し小さいくらいの彼女は、かつては整えられていたのであろう長髪をかき乱し、前髪で隠れた目をこちらに向けていた。
「……お前、アタシが見えるのか?」
 少し幼げな、しかし芯の通った声。その声で、ちいさな口で告げられた言葉。それで確信した。
「見える。ふふ、でも」
 私はシニカルに笑って答えた。
 限りなく人間に「近い」目の前の少女は。

「アヤカシ同士で喧嘩したりするのね。初めて知った」

 ヒトならざる者。幽霊、妖怪、魑魅魍魎チミモウリョウ。それを私は「アヤカシ」と総称するようにしている。
 通りすがりのアヤカシから盗み聞きしてから使いだしたその言葉に、少女はびくりと反応した。
「アヤカシ、か。……アタシも落ちたもんだな」
 周囲がざわついた。私の周りでいつもついて回っている小さなアヤカシたちの反応だ。
「昔は神と崇められたアタシさえ、いまや塵芥の小妖怪アヤカシどもとひとくくり。歳は取りたくないものだ」
「アヤカシに歳も何もないはずだけど」
「お前が知らないだけさ」
 そんなことを言ったとき、やかんが飛んできた。……この家に住み着いたアヤカシのひとり、やかんの付喪神だ。……アヤカシの数え方ってひとりふたりでいいんだっけ、とはよく疑問に思うけど。
 それはともかく、私はそんなやかんの行動に、一瞬驚く。どういう意図だろう。訝しげに様子を見ると。
「おお、ここの付喪神はイキがいいな。じゃれつくなじゃれつくな。痛い、痛いから! お手!」
 犬か。
 しかし、やかんの付喪神はまるで犬のように従順に、床に座……るかのように着地し、尻尾を振るかのように口から湯気を吐き出していた。
 ……こんなの初めて見たかもしれない。いや、おじいちゃんが生きてた頃にちょっと見たかも……。
 そのうち、尻尾が二本ある猫……猫又のおかゆが近寄ってきて、少女にほおずりした。
「おお、おかゆか。昔はあんなに小さかったのになぁ……。よくもこんなに立派になって。よしよし」
 百年前から姿が変わってないという噂さえあるこの猫の小さい頃を知ってるということは……確かにただのアヤカシではなさそうだ。
「……あなた、何者?」
「ひとに名前を聞くときはまず自分から名乗るものだよ」
 どこか優しげに諭す少女に妙な胸のざわめきと違和感を覚えながら、そして警戒心に目つきを鋭くしながら、私は答える。
結目ゆいめ ひとみ。小学五年生。あなたは」
「アタシはアメフラシ。ここらの天候を操る大妖怪さ」
 私の言葉を遮って大手を広げて彼女――アメフラシは告げ。
「……ごめん。大妖怪は言いすぎた。ほんとは中妖怪だ」
 そんなふうに、ひょうきんに、可愛らしく笑った。
 いつの間にか雨は上がっていた。風が吹いて、アメフラシと名乗った少女の少しあどけない顔が露になる。
 廊下の横が縁側。廊下に射した夕日の光が、彼女の透き通った赤茶の髪を照らした。

    *

 ――どうやらアメフラシはその名の通り「雨を降らせる」ことができるらしい。
「なにやってんの瞳!?」
 朝起きると、布団が濡れていた。
「この歳になってもおねしょなんて……なにかあったの? 大丈夫?」
 顔面蒼白にして心配するお母さん。半ギレで「なんでもない……」と言って。
「アメフラシ」
「……バレた?」
 誰もいなくなった部屋。私はその妖怪を呼びつける。
「なんであんなイタズラするの」
「かわいい子を見るとついやりたくなっちゃうんだ」
 そんなことを言うバカアヤカシの頭頂にチョップした。
 ……涙目で私を見上げるな。なんか無性に腹が立つ。
 ため息を吐く私。傍らで、おかゆが呆れたかのようにあくびをしていた。

 私がアメフラシを家に上げてから一晩が経過した。
 この一晩で家中のアヤカシと仲良くなったらしい。居候になる気満々である。
「出てってよ」
 そんな風に言ってみると。
「いまけっこう強い妖怪に追われてて。見たでしょ、アレ」
 アレ、と言われて一瞬で思い浮かぶのは、昨日見た巨大な黒い影。人間じゃ手も足も出ないような大きな異形のアヤカシ。
「だからさ、かくまって。お願い!」
 手を合わせて頼み込む彼女に、私はため息を吐いて。
「……だめって言っても居座るでしょ」
「ばれたかー」
 にひひ、と笑う彼女。私は額を抑えて。
「あんまり変なことはしないでよ」
「わーった!」
 アホそうな返事を聞いて、私はパジャマから私服に着替えて、スカートを翻しランドセルを背負った。
 ……髪を梳いて、ヘアピンもよし。見た目を整えるのは正直趣味みたいなものだけど。
 玄関の鏡で髪型の最終チェックをして。
「いってき――」
「うわぁ!!」
 台所で洗い物をしているはずのお父さんの悲鳴が聞こえた。
「どうしたのお父さ……」
 玄関からすぐの台所に駆け付けると。
「さ、皿が浮いて……うわっ、なんか空中から水がっ……!? 瞳、なにか見えて……」
「アーメーフーラーシーっ!!」
「え、なになに!? 皿洗い手伝ったのえらいかごふっ」
 アメフラシに二度目の頭頂チョップをかまして、目を回したそのアホアヤカシを引っ張り自室に放り込んで、さっさと玄関へと走った。急がないと小学校に遅刻する。

 憂鬱で単調なカリキュラムをこなし、家に帰ってくる。
 ……家にいるはずのあのバカの顔が頭にちらついてしょうがなかった。馬鹿で愚鈍で阿呆なクラスメイトのことは何も思いやしないのに。
 おかげでずいぶんと早く家に帰ることができた。
 いつも通りアヤカシたちが理由もなく常に私を見張るのを横目に、私は玄関を開ける。
「アメフラシ!」
 真っ先に彼女の名を呼んだ。アイツのことは常に見張らないと、何をしでかすかわかんない。というか何をしでかしてるか気になってしょうがない!
「なーんだい」
 と返事した彼女に問い詰める。
「なにしてたの」
「庭の花の水やり」
「……見に行く」
 嫌な予感がして縁側に向かって庭を見ると、なんということでしょう。
「水浸し……」
 私は頭を抱えた。
「大丈夫大丈夫。水は土が吸ってくれるからさ。ちょっとくらい水が多めでも問題は……」
「ふざけないでよ!」
 叫ぶ私に、面食らうアメフラシ。私は告げる。
「これ、私が昔から育ててきたの。おじいちゃんの形見の種を、ずっとずっと育てて、枯れて実になったら種を取ってまた育てて……それを台無しにしようと」
「してない。してないから」
「したでしょ!」
「してないって言ってるだろう」
 お互いにヒートアップする論争。二人とも荒く息を吐いて。
「……ごめん、熱くなりすぎた」
 アメフラシは、今まで見せなかった、愁いを帯びた顔で謝る。
「これ、ミツオ君の形見だったんだな」
「ミツオ君って」
「たぶんきみのおじいちゃんなのかな。そしてアタシの幼馴染でもある」
「へぇ……」
 はじめて知った。そんなつながりがあったなんて。
「ミツオ君もきみと同じ体質でさ。……最後の人柱になって死んだアタシを、ずっと見ててくれたんだ」
 ――人柱。何十年も前の伝説。聞いたことがある。
 雨乞いのために若い少女を生贄に捧げるという、このクソ田舎の古い風習。最後に行われたのはたしか八十年くらい前だっけ。それ以来、雨の降りにくいこの地方では珍しく、度々通り雨が降って作物がよく育ったんだとか。
 ……なるほど、その人柱がこのアメフラシだとすれば辻褄が合う。
「ま、今ではほとんど信者はいなくなって力も弱くなり泡沫妖怪呼ばわりされ、結果このざまだ。じきにアタシ自身も消えちまうだろうな」
「……」
「おっと、話が逸れちまった」
 笑う彼女は、どこか寂しげに見えた。
「まあ、なにが言いたかったかって―と……役に、立ちたかったんだよ。ちょっとでも、できることをしてやりたかったの」
 だんだん照れくさそうにする彼女。それを見て私はふっと息を吐いて。
「……勝手にすれば」
 言い放った。
「えーと、それって」
「これ以上聞かないで! あと程度はわきまえて!」
 一瞬戸惑うアメフラシ。しかし、はっとして彼女はまるで太陽のように笑った。
「……これからも手伝っていいってことだな! ありがとう!」
 言語化するな。恥ずかしい。

    *

 それからせわしく日々は過ぎて行った。
 季節が巡るほどじゃないが、小学生には少し長いくらい。……おおよそ一か月弱、三週間を過ぎたあたりだろうか。
「ひーとみちゃん」
「なに、アメフラシ」
「もうすぐ冬だね」
「それが?」
「なんでもない」
「へんなの」
 こんな他愛もない会話が、少し楽しい。そう思っている自分を見つけて、私は思わず首を横に振る。
 私は孤独でいたいの! 本当はこんな奴いても邪魔なだけだし……。
 でも、なんだか彼女の隣だと、自然に笑えている気がする。お母さんにも、最近よく笑うようになったって言われた。
 変になっちゃったかな、私。
 ため息を吐いて、枯葉が舞いだした庭先を見た。

 そんなときだった。
 ピンポーン、とインターホンが鳴る。
「はーい」
 宅配便か何かかな。もしかしたら、お父さんがピザを頼んでくれたのかな。
 昼下がり、「誰もいない」静寂の中で鳴り響くそのチャイムに、私は何の疑いもなく出ようとして――。
「だめだ!」
 アメフラシに肩を叩かれ、はっとする。
 ……あれ、なんで専業主夫で家にいるはずのお父さんの声が聞こえないんだろう。
 お母さんは仕事に行ったからまだわかる。でも、お父さんはどこかに行くとも言ってなかったし、ましてこの時間はドラマの再放送を見ていて暇なはず。なのに、テレビの音すら聞こえない。
 ピンポーン、ともう一度鳴るチャイム。
 ドンドン。宅配便でーす。外からそんな声が聞こえだした。
「ほ、ら。やっぱ宅配便じゃん。問題ないって――」
「いや、アレは擬態しているだけだよ。扉を開けたら」
「そんな、ばかな。あるわけないじゃない」
 心の底で、なにかが警鐘を鳴らしている。心臓がバクバクと音を立てて。
 家の中のアヤカシがざわついているのを肌で感じる。おかゆはふしゃーと毛を逆立てて、やかんや包丁が私を守るように宙を舞う。
 ただ事じゃない。
 ピンポン、ピンポン。ドンドン、ドンドン。
 開けてください。開けてください。
 ――開けろ。
 命令系に変わる。本性を現しだす。
 そのドアを開けてくれ。そのドアを開けてくれ。
 狂気が宿ったかのように繰り返される言葉。
 息が詰まる。鳥肌が立つ。
 ヤバいアヤカシだ。
 私はアメフラシをかばうように抱いて。
 ――冷たい、氷のような体温。そして、その白磁のような肌の向こう側が透けて見えて。
「……どう、いう」
「言ったろう。信者がいなくなったって」
 ――信者のいなくなった、忘れられた神は、いずれ消えゆく定めにあるという。
「もう潮時だ」
 大人しく告げた彼女。同時に、お父さんが玄関に向かう。
「宅配便か――」
「やめてっ!」
「……もう、開けたけど」
 お父さんのその目はうつろだった。

[アケテクレテ、アリガトウ]
[コレデ、コロセル。ウラギリモノ]

 突風が吹いた。瞬間の出来事だった。
 胸に抱いた氷のような体温は、一瞬にして消え失せて。
 黒い黒い大きな影が、巨大なアヤカシが、私を通り抜けた。
 怒り憎しみ悲しみ苦しみ――負の感情が脳内を、体全体を、芯から、内部から、支配し。
 一瞬の発狂状態から目を覚ますと――そこは元の木阿弥。

 私を守ろうとしていた小さなアヤカシたちが、その畳敷きの部屋に散乱していた。
 満身創痍の状態で転がるアヤカシたち。茫然自失で息を切らす私。荒らされた庭。そして――。

 ――そこに、アメフラシはいなかった。

 はじめからいなかったかのように、きれいさっぱり消えうせたそのアヤカシ。
 私は呻き声を上げて、手を伸ばす。
 あの子がさらわれたのだと理解したのは、数秒後のことだった。

「俺はなんでこんなところに……」
 お父さんがテレビ鑑賞に戻る中、私はしばらく茫然と目の前を見て。
 ……邪魔、だったし。ちょうどいいや。もともといなくなってほしいっておもってたし。
 手を下ろして、呟いた。
「忘れよう」

「あの子、いつもよりキレてない?」
「うーわ全方向睨んでるよ」
「怖っ。そしてキッショ」
 小学校、教室。わたしの陰口がいつにもまして大きく聞こえて、思わずそちらを睨む。
「ひっ」
 流石に怖がらせすぎたかもしれない。謝る気なんてさらさらないけど。
 ……あの子だったらなんていうかな。
 ぶんぶんと頭を振って。
 忘れようって言った矢先から……アメフラシのことばっか考えてるなよ、私!
 あの子はきっともういないんだから。
「うっわ……自分のほっぺ殴ってる……」
「流石に陰口言い過ぎたかな……」
「自重しようぜ、な?」
 陰口が心配する声になりだしたのを聞いて、私はふと冷静になる。落ち着け私。
 けれども、彼女のことを想ってしまって、ため息を吐いた。
「今度は恋する乙女の顔してる……」
「変顔のオンパレードだな」
「なんかもう一周回っておもしれー女になってね?」

 そうして一日が過ぎ、二日過ぎ、三日目。
 おかゆがにゃーと鳴いて、私にすり寄る。それを撫でながら、私はうつむいていた。
 心にぽっかり穴が開いて、そこから感情とか色々なものがこぼれいて言っているような。
 気がつけば彼女のことしか考えられない。もういないはずの彼女のこと。
 ――アメフラシ、もういないんだ。
 一か月弱だけの短い同居人。それ以上でもそれ以下でもないはずだった彼女。それなのに、なんで心から離れないんだろう。
 自問自答して――その果てに、涙が一筋流れた。
 そんな時だった。
 バサバサと何かが飛んできて、縁側に止まる。
 ……カラスだった。
「お嬢さん、ええっと……結目 瞳さんでよろしかったでしょうか」
 無駄にダンディなイケボでしゃべりだしたそのカラス……のアヤカシの言葉に、私はこくりと首を縦に振って。
「わかりました。……あなたへ、我が主のアメフラシ様より伝言を預かっております」
 目を見開いた。

『ごめんね、ひとみちゃん。もう今日くらいでアタシ消えちゃうみたい』

『ありがとう。いままで、お世話になりました』

 そんな短い伝言。私は……私は。
「律儀、なんだから」
 柔和に微笑んでいて……涙が、あふれ出して。
 枯れるまで、泣いた。
「ばか……ばかぁ! あほ! なんで、なんで……!」
 こんなのってないよ。
 もっと話したかった。
 本当は、本当はもっともっと、楽しく暮らしたかった。
 なのに、なんで。
 終わりはどんなものにも平等に訪れる。知ってるよ。あなたの幼馴染も、最後は安らかに死んでいった。
 でも。もうちょっとだけでも――。

 ひとしきり泣いて、泣きつくして。
 涙が枯れた頃、私はひくひくと鼻を鳴らしながら、カラスのアヤカシに告げた。

「案内してよ。……あのバカのところへ」

    *

 アタシは人間が嫌いだ。
 エゴで簡単に人を殺す。侮蔑しあい喧嘩して、いさかいは絶えない。
 ……人柱になったあの時は、そう思ってた。

「何故、人間に与する」
「きまぐれだ」
「気紛れにしては多すぎる気がするぞ」
 アタシは地面に這いつくばっていた。巨大な怪異、この地域の元締めのような存在の大妖怪に、金縛りをかけられて。
「そうかもな。でも、知ってるか? 人間って――」
「まさか、絆されたわけではあるまいな」
 へらへらとした態度を崩さないアタシを、大妖怪は睨みつける。
「私は人間が嫌いだ。環境を壊して我が物にする人間が大嫌いなのだ。そのために今日まで準備をしてきた」
「そうかい。……なにをする気だ?」
 声を低くして問う。大妖怪は、口角を上げた。
「人間を滅ぼすのだ。まずはこの地域を取り戻す。この一帯をかつての姿にもどし、我ら妖怪のものとする。ゆくゆくは日本全国妖怪の天下じゃ!」
 その妖怪は高らかに笑った。
 ――いまのアタシはしがない妖怪「アメフラシ」でしかない。ヒトだったころの名前は忘れた。
「悪くないかもしれないな」
 アタシは微笑し――しかし、唾を吐いた。
「でも、ここにはアタシの大事なものがたくさんあるんだ。滅ぼさせやしない」
 名前すら忘れるほどの時が、いつしか人間への愛をはぐくんでいた。
 ――瞳ちゃんの笑った顔、一度は見てみたかったな。
「クソガキ、俺に逆らう気か」
「なめてもらっちゃあ困るね。……これでも昔は神様と呼ばれてた時期もあったんだ」
 山奥、小さな祠。アタシたちはその前にいる。その祠はアタシ、ひいては過去の人柱たちを祀るためのものだった。
 さびれちまって力も消えかけだけど……目的を果たすには十分だ。
 そしてぽつぽつと雨が降りだした。
「雨よ降れ、風よ吹け。吹き荒れ吹き荒れ、我が仇敵を葬り去らん」
 ごうごう。吹き荒れる。雨が、風が、渦巻いていく。
 雨は強く。風は強く。吹き荒れ、吹き荒れ。
 やがて嵐となって。
「こんな雨風でどうにかなる我だと思ったか!」
「いいや、なるさ。お前は……っ、負ける!」
「……お前まさか、命を削って――」
 そのときだった。
 雨で緩くなった地盤が、風で削られた。
「土砂崩れ、知ってるよね」
 こんな災害に巻き込まれたら、アヤカシとて無事では済まないだろう。
 無論、アタシも例外ではないが――知ったことか。
 どうせ残り短かった命だ。みんなを――瞳ちゃんを助けるために、使い果たしてやろうじゃないか。
 土砂が迫る。どどどどど、と地響きが鳴って、逃げようとする大妖怪を、祠もろとも巻き込んで――。

「アメフラシっ!」

 アタシを呼ぶ声が聞こえた。世界の音が一瞬、何もなくなった。
 目の前に、彼女がいた。
「瞳ちゃんっ! 来るな!」
「ばか! ばかばかばか!! なんで急にいなくなっちゃうの!」
 叫ぶ瞳ちゃんに、アタシは面食らって。
「バカはそっちだ! なんで、なんだってこんな時に、こんな場所で!」
 アタシも叫んだ。絶叫した。
 ああ、運命の神様がいるんなら一発ぶん殴ってやりたい。
 でも――今を逃せば、もう二度と会えない。理解していた。
 カラスの背に乗ってやってきた彼女を、アタシは抱きしめる。
「会いたかった! ……寂しかったよ、アメフラシ」
「……アタシもさ。ずいぶん素直になったな、瞳ちゃん」
「んっ……ぐすっ」
 鼻を鳴らして涙を流す彼女の頭を撫でる。その手は、もはや半透明で。
「一緒に逃げよう? また家で一緒に、にぎやかに暮らそうよ。そうすれば――」
 ごう、と彼女のスカートを揺らす風。アタシは唇をかみしめた。
「できない」
「なんで!」
「……言ったろ、潮時だって」
 さっき彼女の頭を撫でた右手は、形を失い始めていた。
「形あるものはいつか終わりが来るんだよ。それがたとえ妖怪でも」
 自分に言い聞かせるように口にした言葉に、少女は。
「でも、それでも! なにか、なにかあるはず……!」
「もういいよ。もう、十分さ」
 どどどどど、と地響きが聞こえる。アタシは最期に告げた。
「本当は……本当は、アタシも一緒にいたかったよ。さいごに、楽しい時間をありがとな」

 ――大好きだ。

 衝撃が全身を襲う。アタシは最期の力を振り絞って――。

    *

 雨が降った。さーさー、しとしとと、冷たくて暖かい雨が降った。

 某月某日、冬の近づくある日、突如村の裏山で起きた大規模な土砂崩れ。それは幸いにも一人の死者も出すことはなく、ただ奥の祠が一つ壊れただけで済んだのだという。そのたたりかどうかは知らないが、三日三晩に渡って雨が降り続いた。
 あの日どこかへ駆け出した私は、夕方いつの間にか泥だらけになって、家で寝ていたのだという。
 三日三晩降り続いた雨は四日目には上がっていて、冬なのに五月晴れだなんて冗談が妙に耳に残った。

 ――アメフラシは消えた。カラスのアヤカシから聞いた。
 地域の総大将のような妖怪も消息不明、ここら辺はしばらく騒がしくなるかもしれないと聞いたが、正直よくはわからない。
 でも、アヤカシたちに蔓延していたピリピリした空気がどこか緩和されたように感じた。

 あれから何年経っただろう。私も大きくなり、物の分別がつくようになってきた。
 クソ田舎はクソ田舎のまま。アヤカシたちも成長に伴って見えなくなるなんてことはなく、いまだによく見える。
 何も変わらない。変わることのない景色や時間。
 でも、あの日。無二の親友が消えたあの日、少しは変われたのかもしれない。
 あんなに嫌だった友達を作ったり――あの陰口言ってた子たちがまさか話しかけてくるだなんて思いもしなかった――それが、少し楽しいって感じたり。
 別れの傷は癒えないけど。心にぽっかりと空いた穴がふさがることは、きっとないのだろうけど。
 でも、大丈夫だって言える。
 心に止まない雨が、冷たくて暖かい雨があるから。

「行ってきます」
 家を出て、学校に向かう。
 急がないと遅刻する。走って駅に向かう。

 ――なにかとぶつかった。
 尻もちをつく私と相手。その目を見た時、息が止まった。世界の時間が止まったような感覚さえ覚えた。
「……なんだい、お姉さん」
 相手は小学生の女の子。赤茶色の髪を軽く整え不敵に笑った彼女。
 ――気がつけば、無意識に、その名前を口ずさんでいた。
「なにそれ。海洋生物?」
 冗談めかして、まるで太陽のように微笑んだその少女。見れば見るほど「あのバカ」に似てるような気がして。
 嬉しくて、涙がこぼれて。
「わわ、どうしたの!?」
 心配する彼女に、私はつぶやくように答える。
「なんでもない……なんでもないよ。ただ――」

 Fin.
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